コミックスとクロノ・フォトグラフィ、もしくは「いつくるのか分からなかったんだ!」
マイブリッジとマレーによる運動の記録実験が行なわれるやいなや、コミックスはいち早く、連続運動の描写の強調を始めた。クロノ・フォトグラフィが行なったのは、動的な身体を産業文化における規制された空間上に配することであった。それは身体をあらわにする手段であると同時に、身体を収容・統制するための道具であった。一方、ヴィルヘルム・ブッシュ、スタンラン、ウィンザー・マッケイらによるコミックスは、クロノ・フォトグラフィの固定された視点および計られた移動を模倣しつつも、その行為の動機となった道具的理性を戯画化する。たとえば、ウィンザー・マッケイの『くしゃみのリトル・サミー』の各エピソードは、日常的な活動の「時間-動作」分割を、体系的かつ細かく提供しながらも、その能率的な動作のリズムは、あらゆるものを混沌へと一変させる強力なくしゃみによって覆される。本稿は、マッケイの先駆的なコミックスとアニメーション作品に重点を置きつつ、執拗な規制の時代における混沌のオアシスとして特徴づけられるパロディ的な独特の反論理を探究する。