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アブ・アイワークスの(マルチ)プレーン・シネマ

アニメーションの先駆者アブ・アイワークスは、初期ディズニーの成功における裏側の推進力として頻繁に賞賛されてきたが、彼の自主作品はほとんど注目を浴びたことがない。彼のカートゥーン作品における以下の二つの主な特徴を考えると、アニメーション史からのそのちょっとした見落としは、興味深いことである――第一に、自由自在に変化する効果を含んだギャグの強調で、アヴァンギャルド映画制作に頻繁に結び付けられる特徴である。第二に、アメリカ・アニメーションにおけるリアリズム美学の中核をなすことになる装置、つまりマルチプレーン・カメラの先駆的な業績である。本稿は、1930年代に変わりつつあったアメリカ・アニメーションの美学という見地から彼の業績を位置づけるために、以上の特徴を調査する。そのことが示唆するのは、同時期において、実写映画の古典的なナラティブ様式と関わりながら生まれつつあった新たなリアリズムとアヴァンギャルドとのあいだの大きな葛藤の兆候としてアイワークスの作品を見ることができるということであり、彼の作品の「失敗」とでもいえるものにこそ、両者のあいだの交渉の不可能性が読み取れるのではないかということだ。

イメージ・フューチャー(映像未来)

今日、伝統的なアニメーションの諸手法、映画撮影技術、コンピュータグラフィックスは、新しいハイブリッドなムーヴィング・イメージの形式を創り出すため、組み合わせて用いられることが多い。本稿は、「マトリックス」三部作の第2作と第3作で使われた「ユニバーサル・キャプチャー(ユーキャップ)」という非常に複雑でハイブリッドな方法の実例を用いて、同プロセスを議論する。そうすることで、現在考えられているように「純粋」な諸形式の中の何かが視覚文化及びムーヴィング・イメージ文化を支配するであろうことを期待するよりも、むしろ未来はハイブリッドにこそあると提案する。

プラトニック・セックス――倒錯と少女アニメ(第1部)

日本のアニメには、「非人間型女性」、つまり、女神、女性型ロボット、ガイノイド、女性エイリアン、獣娘などが多く登場する。本稿は、非人間型女性と関わりあるジェンダーおよびジャンルの諸問題を紹介し、CLAMPという4人の女性チームによるマンガを原作としたテレビアニメシリーズ「ちょびっツ」に関する幅広い議論を展開する。「ちょびっツ」は、精神分析理論と不気味なほど一致しながら、人間の欲望の見地、つまり享楽という奇妙な実体の見地にもっぱら寄り添いつつ、メディアおよびテクノロジーの諸問題を読み取っている。だが、非人間型女性は非人間のままであるがゆえ、欲望の構造は偏屈な物質的歪みから逃れられず、「ちょびっツ」は非常に珍しい縫合の論理を提供することになる。非人間型女性は、大文字の他者たちとの関係性を迂回するかのような見方に帰するための触媒となり、結果、基本的な知覚のレベルで完全に新しい複数の世界を生み出すことを期待させる。

韓国アニメーションの新しい歴史風景に関する批評

本稿は、日本占領下の植民地時期から現在までの韓国の地政学的現実の中で作り出されたアニメーション映画、そしてこれがもたらしたアニメーション関連の現象への概観と批判的考察を行なう。これまで、韓国アニメーションに関する研究は、アニメーションの国際的なシーンを背景として、単に生産工場という見地から記述される傾向にあった。しかし、多くの部分が忘れ去られ記録されずにきた韓国のアニメーション史は、韓国自体の歴史と同じくらい広範囲なものである。韓国アニメーションの歴史的・政治的文脈を年代順に探究する本稿は、ナショナル・シネマのグランド・ナラティヴ(=国民映画の大きな物語)を提示することを目指してはいない。むしろ、アニメーション製作の複雑な絡み合い、審美的表現、韓国におけるイデオロギーと政治的状況に光を当てることを願うものである。

コミックスとクロノ・フォトグラフィ、もしくは「いつくるのか分からなかったんだ!」

マイブリッジとマレーによる運動の記録実験が行なわれるやいなや、コミックスはいち早く、連続運動の描写の強調を始めた。クロノ・フォトグラフィが行なったのは、動的な身体を産業文化における規制された空間上に配することであった。それは身体をあらわにする手段であると同時に、身体を収容・統制するための道具であった。一方、ヴィルヘルム・ブッシュ、スタンラン、ウィンザー・マッケイらによるコミックスは、クロノ・フォトグラフィの固定された視点および計られた移動を模倣しつつも、その行為の動機となった道具的理性を戯画化する。たとえば、ウィンザー・マッケイの『くしゃみのリトル・サミー』の各エピソードは、日常的な活動の「時間-動作」分割を、体系的かつ細かく提供しながらも、その能率的な動作のリズムは、あらゆるものを混沌へと一変させる強力なくしゃみによって覆される。本稿は、マッケイの先駆的なコミックスとアニメーション作品に重点を置きつつ、執拗な規制の時代における混沌のオアシスとして特徴づけられるパロディ的な独特の反論理を探究する。

大聖堂は生きている――生体模倣技術的な建機をアニメートするということ

本稿は(実験的な図と共に)、デザイン上の生体模倣技術における遺伝的建築および戦略のための様々な含意をもつアニメーションとしての『大聖堂』を分析する。この分析から、建築上の研究において、アニメーションは、デザイン思考プロセスに対して十分に貢献可能であり、なおかつソフトウェアを用いた視覚化と両立しうると主張する。著者は、アニメーションを建築上のプレゼンテーションのための単なる道具として利用することを拒否し、デザインにおける生体模倣技術とアニメーションとの組み合わせを肯定する。さらに、植物、貝殻、骨格から進化する自然的な諸要素をデジタルによって再視覚化することで、アニメーションが建築的なアイデア、形式、デザインをいかに刺激し展開しうるのかについて考察する。※意味が取れているのか自信がないので、要チェックをお願いします。

空間を再活性化(アニメート)するということ

アニメーションには映画的空間に対する我々の考え方を再活性化する力がある。映画的空間は、再現と表現を行い、映画の中核をなす物語上の意味を創出する。しかしこれは空間のもう一つの側面、つまり空間の強烈な経験と他の様々な変形に関連する側面を見逃している。実写映画において、変容中の空間を表現するイメージはほとんど存在しない。それゆえに、映画においてそのような側面はあまり言及されない。反面、多くのアニメーションにおいて、空間は変容中のものとして捉えられ、とりわけ空間的変形の経験に関する考察と関連づけられる。本稿の重点は、映画的な空間の再活性化としてアニメーションを探究することにある。筆者は、『カモにされたカモ』(チャック・ジョーンズ、1953)、『ストリート』(キャロライン・リーフ、1976)、『ザムザ氏の変身』(キャロライン・リーフ、1977)、『フラットワールド』(ダニエル・グリーブス、1997)、『人工の夜景』(ブラザーズ・クエイ、1979)、以上の作品の内容および形式の両方に括目することによって、アニメーションが空間をどのように再活性化(アニメート)するのかを証明する。このようなポジションを提供するため、筆者は、継続する「残響」の過程として、空間観を定式化する。単に出来事の起こる場所であることを越え、流動的であり、異質性によって特徴づけられ、親しみと不確かさとの間を行き来しつつ、結局のところ、混沌とした、潜在的に未知なるものとしての空間である。

ポーラー・エクスプレス全員乗車――CGブロックバスターにおける語りかけ方の「楽しい」変化

本稿は、映画史における変化は、観客への関与における変化を含意するというトム・ガニングの主張に従って、フルCGによるブロックバスター映画を観る今日の観客にとってどのような類の変化が懸案となっているのか問う。そのために、『ポーラー・エクスプレス』(ロバート・ゼメキス、2004)を詳細に分析する。また、同映画における、ビデオゲームのような没入型の視覚的美学と語りかけ方が、サイバースペースという「不可視」のヴァーチャル領域およびCG映画の両方に共通してみられるデジタル空間やキャラクターと観客との関係をどれ程度まで自然化しようとするのかについて考察する。最終的に本稿は、『ポーラー・エクスプレス』という映画が、美学、キャラクター構築、物語の見地から、映画とビデオゲームとが最も強い絡み合いをみせた時代の切実な歴史的記録として働くことを主張する。同時に、かつて映画がビデオゲームに与えた類の形成的影響を、現在、ビデオゲームが映画に与えはじめているのではないかという切迫した問いを提起する。

影の市民からテフロン・スターへ――新しいムーヴィング・イメージ技術の変容する効果の受容

本稿は、ムーヴィング・イメージ技術の文化的受容史に区切りをつける、奇妙な二つの儚い瞬間を調査、比較する。マクシム・ゴーリキーは、かつて「呪われた灰色の影」(1896年)という見地から初期の映画イメージを読み取ったことがある。一方、最近の評論家たちは、坂口博信の『ファイナルファンタジー』(2001)に関して、同映画のCGの役者たちを死体、ダミー、シリコン皮膚のマネキンと評してきた。本稿は、そういった不気味さを呼び起こすのは、そういった映像自体が馴染みのない新しい美学で作られたからというだけではないことを主張する。それらのイメージはむしろ、特定の文化的な枠組の内部で受け入れられるものなのであり、あるイメージが奇妙であるという知覚は、その時代において何が「人間」と見なされているのかを物語っているのだ。

不動の断片、そしてシリーズを超える運動――鉄腕アトムとアニメの出現

本稿は、最初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』に細心の注意を払いながら、映画とアニメーションにおける異なる運動の経済学を対比させ、日本のアニメに付随する運動とリビドー的な投資との特異な経済学を探究する。メッツとリオタールは、映画は映画独特の運動経済学を通してリアリティの印象を生み出すと主張するが、セル・アニメーションはそれとは別の運動経済学に依拠する。特に、日本のアニメに見られる特殊な種類のリミテッド・アニメーションの場合がそうである。本稿は、この種のアニメーションが(とりわけ静止を強調する際に)つくりだす運動の特徴と、没入を著しく促すイメージ環境(今日「アニメ」と知られているもののための舞台を設定した環境)を生み出すため、『鉄腕アトム』が商品のシリーズ化へと依拠していった方法に焦点を絞る。

「偽物でもかまわない」――サイバーシネマトグラフィと『シモーヌ』におけるヴァーチャル俳優の幽霊

本稿は、アンドリュー・ニコル監督のサイバーパンク・コメディ映画『シモーヌ』を考察する。この映画は、CGアニメーションで創られた俳優の開発に関するストーリーであり、往年のハリウッド監督が自らのキャリアの再出発のために、デジタル女優を本物の女優でるかのように公開すると、ファンたちは、「ものとしての少女(it girl)」が与えるその最新のトリックと快楽に取り憑かれてしまう。ヴァーチャル女優の名声はまもなく監督の名声を侵食しはじめる。しかし、監督は、当該プログラムを削除し、自分が世界に送り出した妖精ジニーを瓶の中に戻すのは不可能といえるくらい難しいことを知る。ニコルの映画は、映画的な寓話でもあり、また、ハリウッド映画におけるヴァーチャルなアクター(「ヴァクター」)の利用が映画製作者、俳優、観客にどのような影響をもたらすかという哲学的な問いでもある。

アニメーション研究における実技-理論の関係性に関する幾つかの考え

本論文は、三つの枠組みを通してアニメーション研究における理論と実技=実践(practice)との関係性を調べる。その三つとは、正統的周辺参加、批判的=臨界的(critical)実践、再文脈化である。本論文の包括的な主張は、アニメーション研究が「学際的」な方法で理解されるべきということであり、そしてそうした理解は、 類似した或いは関連した見地で実践(=実技)の異なる複数のコミュニティがどのように作用するのかを評価することを意味する。本論文は、アニメーション研究の分野で働く人々によって使われる言説のマッピングを始めるためにつくられた、電子メールによる討論グループのデータに拠っている。テクノロジーにおける認知された役割にとりわけ関心が払われたその議論は、実に批判的なアニメーション研究コミュニティ(つまり理論と実技に同じ程度の注意を払うコミュニティ)の発展を妨げると見られる複数の方法がその関心の的になっている。

プラトニック・セックス――倒錯と少女アニメ(第2部)

本誌『Animation: An Interdisciplinary Journal』の2006年7月号に掲載された第1部に引き続き、この第2部でも、アニメーションシリーズ「ちょびっツ」の考察を継続する。このシリーズは、精神分析理論がテクノロジーを享楽という奇妙な実体の見地から読み取るのと同じように、もっぱら人間の欲望という見地からメディアおよびテクノロジーの問題を読み取る。第2部は、その点を注視しつつ、メディアとしてのマンガとアニメの物質性が、完全に姿を消すことのないままに、いかに性的な享楽の動力学につきまとっているのかを明らかにするため、部分対象および倒錯の分析に着手する。マンガとアニメの物質性は、漫画の白い紙面や透明なセル紙によってい連想される「完全な空白状態」を喚起させるなかで再帰する。そしてそのことこそが、「ちょびっツ」における男性的な凝視の動力学と縫合論理との歪曲を可能にするのだ。非人間型女性は、大文字の他者たちとの関係性を迂回するかのような見方に帰するための触媒となり、結果、基本的な知覚のレベルで完全に新しい複数の世界を生み出すことを期待させる。

豚が空を飛ぶ時――アニメ、作家主義、そして宮崎の『紅の豚』

本稿は、もっとも重要なアニメ作家の一人である宮崎駿の作品の中で、比較的知られていないものを分析しつつ、「アニメ」として知られている日本アニメーションの形式に対する西洋の観点を扱う。トーマス・ラマールがアニメの「関係的」理解として言及しているものの構築を目指しつつ、映画学における作家理論上の諸概念のレンズを通して、なおかつ、アニメーションというメディアムとの関連の中で、宮崎の映画『紅の豚』を扱う。ビジュアル面へのアプローチからさらに深いテーマに至る側面において、宮崎の作品は、「創造的な伝統主義」と言いうるような一群の独特な戦略に依存していることが分かる。『紅の豚』をケース・スタディーとすることで、アニメはポストモダンのポピュラー・カルチャーの一形式として、西洋においてより適切に理解されるのは、形式、メディアム、文化的コンテクスト、個人クリエーターに関する諸問題のバランスを取る様々なアプローチの三角測量的な方法論を通してこそ可能だとことを幅広く議論したいものである。

日本におけるアニメーションとしての『白蛇伝』の復活

本稿は、1950年代日本における『白蛇伝』のアニメーションとしての再登場に関連した複数のファクターを分析し解明する。『白蛇伝』のアニメーション化は、戦後という新たな時代、新たなイメージ創出ビジネスがより至急なことになった東アジアおよび東南アジアにおける多数の要求によって押し進められ、微視的な目的と巨視的な目的を同時に果たした。白蛇伝の伝説は中華圏でよく知られており、当初は日本と香港の合作映画プロジェクトだった。したがってそのアニメーション化にあたっては、まず第一に中華圏の観客向けの作品として想定するということが、制作者(東映アニメーション)側へと期待されていただろう。しかし日本側の制作者は、この映画を作ることが、収益面および地政学的な利益をより多く見込めることを考え、他にも内密の計画を持っていた(もしくは後に発見した)。本稿は、「遂行性(performativity)」という概念を用いつつ、いくつかの次元においてアニメーション化の遂行上の過程に対する解釈を行う。そして、東映アニメーションスタジオとその夢を作り出す企業としての根本的役割の歴史を追っていく。

争いの種――アニメーション研究に関する考察

学界におけるアニメーションは、依然として、比較的研究の進んでいない分野でありつづけている(変化の兆しはあるが)。本論文はアニメーション研究という草創期の分野への論争的な反応である。本論文はアニメーションが周縁的なものとして捉えられていることが意味するものを探りつつ、正当な学術領域としてのアニメーション研究が進歩し強化していくことにおいて著しい障害(及び行き止まり)と看做されているものへと立ち向かう。本論文の中で提案される全般的なアプローチは、過去のアニメーション研究において取り上げられてきたもの、そして現在、正統かつ認識論的に生産的であるとされているものへの反目である。

「_grau」――有機的な実験映画

実験映画『_grau』(ロベルト・ザイデル、10:01 min、ドイツ 2004)は視覚的に抽象化されたレベルで個人的な問題を扱う作品だ。これは、記憶、科学的情報の可視化、実際のデータから生み出された、複雑に絡み合うシステムを確立し、近代化されたヴァージョンの活人画を創出するとともに、生き生きとした超現実的かつ抽象的なイメージを扱う。同映画は、自然、芸術、テクノロジーによって鼓舞される有機的なイメージを創り出すため、進行段階にある研究の一部である。同映画のアイデアと霊感は、その成果物が時には「アイ・キャンディ」(見ると楽しいが、頭脳のいらない視覚映像)もしくは一種のスクリーン・セーヴァ―として認知されるが故に、断片的に明らかにされる。これは、ある程度、近代芸術の古典的な問題に関連しており、その際、抽象絵画は子供たちによって簡単に描かれ得ることがよく主張される。重要なのは、如何なるテクノロジーもそれ自体としては感情的経験を捉えるものではないと認識することだ。むしろ、芸術家のビジョンこそが、単なる奇麗な絵以上のものにその経験をかたちづくっていく。

ロトスコープとのロマンス――ジェフ・シェアのアニメーションにおける自己再帰性とリアリティ効果

この論文において著者が行うのは、ジェフ・シェアの実験アニメーションを、近年のコンテンポラリーな商業的コンピュータアニメーションにおいて強迫的に見られる「リアリティ効果」の探求との関係で考察することである。シェアは作品制作にコンピュータを用いていない。しかし、ロトスコープ(アニメーションのイリュージョン的な効果を構築しようとする試みにおいて長年にわたる複雑な関係を持つ装置)を全面的に用いている。著者が議論するのは、彼の作品におけるあまり普通ではないロトスコープ技術の流用、アヴァンギャルド映画における歴史的傾向と彼の作品とのリンク、アニメーションにおける個々のフレームと運動の創造とのあいだの関係に対して彼が持つ関心、そして、認知的・視覚的知覚の根本原理に対する彼の反省的な関与といったものである。

ビデオ・アネクドート:ロシアのフラッシュ・アニメーションにおける作家と見者

この論文において、著者は、コンピュータを媒介とするコミュニケーションにおけるフラッシュ・アニメーションとユーモアという問題を扱う。著者は、ロシアのユーモアと出版におけるグラフィックアートの国民的伝統を辿り、そしてフラッシュ・アニメーションの美学に歴史的洞察を提供する。さらには、ビデオ・アネクドート(ソ連において国の検閲を克服するための試みとして活発化した、口述によるユーモアのパフォーマンス伝統に依拠するフラッシュ・アニメーションの形式)という概念を提案する。検閲の消滅に伴い、アネクドートは短編フラッシュ・アニメーションという形態でインターネット上に存在しつづけている。著者は、このアネクドートの新たな構造について、また、それ以前のユーモラスな諷刺芸術(ルボーク、ソ連のポスター、そして諷刺画)との関係について分析を行う。ビデオ・アネクドートの主要なテーマや物語構造について考察を行いつつ、口述によるパフォーマンスと視覚的表象の伝統という側面から、ロシア文化に起こった変容について、包括的な意見を述べることで締められる。

ディズニー製アニメーション・プロパガンダの消滅――グローバル化という観点から

この論文では、ディズニー製作の1940年代のプロパガンダ・アニメーションについて、グローバリゼーションに関する文献、メディア研究、社会学、コミュニケーション研究の観点から考察する。9.11やイラク戦争の例を用いつつ、著者は、第二次世界大戦以降の、メディア企業、テクノロジー、政治における変化が、アニメーションによるプロパガンダに対してどのように制約をもたらすようになったかを明らかにする。この変化に影響を与えている要因のひとつとして、映画、テレビ、インターネットへと至る断片化されたメディアの拡散に起因し、大衆としての観客が消滅したことが挙げられる。さらには、電子化されたコミュニケーションが情報の民主的交換をさらに促すことで、市民に対する国民国家の影響力を減少させていることも挙げられる。今日、アニメーションによるプロパガンダは、ニュース番組のシミュレーションやインターネット上のカリカチュアをはじめとした別の形式において存在する。それらは、大手のウェブサイトやケーブルテレビのチャンネル上において、「草の根」的なアプローチを行なう。

カートゥーンニストとしてのタランティーノ

映画の領域においてアニメーションと実写とが互いに関係しあう状況を見るのはそれほど珍しいことではないが、これまで、実写からアニメーションへの影響のみが主に注目されてきた。しかしながら、クエンティン・タランティーノは、カートゥーンの美学を実写へと適用する。この論文においては、それを「カートゥーンニズム」と名付け、タランティーノの作品における「カートゥーンニズム」とその発展に注目する。彼は継続的にこの美学の実現を試みるが、皮肉なことに、その完全なる達成は、自らの作品ではなく、他人の作品においてである。タランティーノの映画的政治学との関連性のもと出される結論は、啓発的なものとして、映画理論内部に潜在的に存在しうるひとつの研究方法を提供することになるだろう。

不可能なまでにリアル――想像的なものをグリーンベルト化するということ

CGI(コンピュータ・ジェネレーテッド・イメージ)のテクノロジーが真になしうるのは何か。こんな問いよりもむしろこちらの方が正しいように思われる――CGIテクノロジーの方こそ、われわれに対して何をなしうるのかを探求しているのではないか?企業広告の内部で用いられるアニメーションは、感情的・知的な面で有意義なメッセージの運び手として視覚メディアを、時代遅れのものにしつつある。

消失点――空間コンポジションとヴァーチャル・カメラ

この論文が考察するのは、映画的空間における新たな美的モードである。とりわけ、空間コンポジション、風景描写、そして、特殊かつユニークな関与を伴う見者の没頭のモードを構築するものとしての「ヴァーチャル・カメラ」(実践的・技術的見地からコンピュータ由来の3Dグラフィックス、レイヤーベースのモーショングラフィックス、そして何よりもコンピュータゲームやビデオゲームのアニメーションから派生したもの)に注目していく。ムーヴィングイメージを獲得するための方法としてハイブリッド化および再メディア化されたヴァーチャル・カメラの影響のもと、映画の美学は、フレーム内部におけるコンポジションとカメラのためのステージングという2者独占の状態から、空間コンポジションとカメラのステージングを伴う新たなモードへと移行しつつあることを著者は論ずる。さらには、ヴァーチャル・カメラについて、映画的アニメーションと物語的コンセプトにおける三つの敵対しあう枠組みからも精査する。その三つとは、物語内現実(diegetic)におけるポジショニング、媒介的および非=媒介的関与、物語的・遠近法的状況におけるディエジェーシスとミメーシスである。これらの調査は、映画的メディアの制作のプロセスおよびそれ自身の概念としての集合体においてヴァーチャル・カメラが持つ影響も考察することになる。

アニメーションの変容する空間――1940年代ディズニーのハイブリッド映画

1940年代初頭、ディズニーのアニメーションは決定的な再評価を蒙っていた。かつて、ディズニーの達成、とりわけリアリスティックな方向への前進を讃えていた人々が、ディズニーがまさにそのリアリズムを達成しようとする努力のなかで、アニメーションの前衛的な可能性から離れ、それどころか裏切りさえしていると強調しはじめたのである。しかしながら、アニメーションの不服従的な魂からの表面上の「決別」は、多くの批評家たちが言うほどには決定的でも計画的でもないものだった。この論文が探るのは、1940年代ディズニーにおけるハイブリッド・アニメーションへの試みである。とりわけ『三人の騎士』(1945)、『南部の歌』(1946)、『ファン・アンド・ファンシー・フリー』(1947)といった作品について、アニメーションのリアリスティックな可能性と不服従的な可能性のあいだの緊張関係という側面から考察する。それによって示唆しようとするのは、これらの作品において、ディズニー・スタジオは、かつて関連していたモダニスト的態度に対する埋め合わせを図ろうとしていたこと、つまり、少なくとも、かつてのディズニーと、その後アメリカのアニメーション産業を支配していくにあたり変化していったディズニーとのあいだに、何かしらの調整を行なう努力はしていたということである。

コンクレート・アニメーション

この論文は、2007年3月2日から4日にかけてロンドンのテート・モダンにて開催されたシンポジウム「Pervasive Animation」での講演に基づくものである。その場での私の目的は、今日新たに出現しつつあるアニメーション実践のカテゴリーを記述し、その種々の傾向を、私自身の映画・本・インスタレーション制作の経験と比較してみることにあった。私がここで試みるのは、自分自身の個人的な芸術史とアニメーションにおける大きな問題の分析とのあいだにバランスをとろうとすることだ。「コンクレート・アニメーション」は、物質性とプロセスとに格段のフォーカスをあてる作品に言及する。それは、コンテンポラリー・アートの実践に先駆者をもちながら、片方の足を映画以前の遠い過去に、もう片方をデジタルおよび手製のアニメーションの未来へと向かう道に踏み出すものである。

爆発、駆逐、異常――アニメーション化された身体の次元的過剰

不可能性への小旅行を行なうアニメーションは、噴火、爆発、飛行、咆哮する身体をもたらす。アニメーションと特殊効果映画の歴史はこの意味において深く結びついているが、一方、アニメーションにおける物理的に不可能なものを観るという感覚は独自の視覚的・文化的特性を持っている。スラッシュメタル音楽にあわせて走るガイコツを観る経験は、心理的効果の優勢を否定し、それ自身を一種の純粋な装飾へと変容させる。この論文は、アニメーションで描かれる暴力のテクストについての象徴的言説を、とりわけ、マンガ・エンターテイメント社を通じてヨーロッパ、オーストラレーシアにリリースされるアニメにおいて提案する。

キャラクター・アニメーションと身体化された精神=脳

3Dキャラクター・アニメーションに関する本稿の学際的研究は、神経科学、ナラトロジー、ロボット工学、人類学、認知心理学、精神についての哲学を含む多様な観点から調査を行なうことによる発見を綜合し、アニメーターおよびアニメーション研究のための理論としていかに統合しうるかを考察する。この論文が注目するのは、3Dアニメーション環境におけるキャラクターの構想とその創造における創造的性質であり、とりわけナラティブとスタイルといったキャラクターの諸側面である。そのことは、シミュレーション理論と精神化理論に関する神経科学を含む精神-脳の身体化についての学際的研究からの発見が、アニメーションの創造的プロセスに、さらにはアニメーション・スタディーズの文脈において教育学および創造的実践の両方にも、いかに情報や活気を与えいかに有益に綜合されうるかについて、考察するものである。

ヴェルナー・ネケス・コレクションから選ばれた「目、嘘、イリュージョン」展におけるアニメーションの歴史と利用についての考察

メルボルンのオーストラリアン・センター・フォー・ムービング・イメージ(ACMI)とロンドンのヘイワード・ギャラリーで開催された展覧会「目、嘘、イリュージョン」は、ドイツの実験映画作家ウェルナー・ネケスの二万点にも及ぶ視覚玩具、科学的装置、アンティークの本、視覚的エンターテイメントのコレクションから選ばれたものである。この論文は、死後の世界の信仰についての歴史的軌跡を、「アニメーション」――自律的に動いている対象であれば何でも魂を付与してしまうこと――に関連し考察することからスタートする。第二節では、アニメーション技術が近代における先祖返りの信仰の存続への証言となることが示唆されるだろう。第三節では、アニメーションにおける技術と魔術の近接性を提出しつつ、「アニメーション」という用語をより拡張して用いることを提案する。

チェコスロバキアのアニメーション黄金期から学ぶこと

チェコのアニメーターたちはチェコ・アニメーションの黄金期を復活させることができるのか? それとも、開かれた市場経済の変化に屈してしまうのか? 1989年以降、アニメーション・スタジオが私有化され、それに伴い政府からの財政的支援がなくなったことが、近年のチェコ・アニメーション衰退の主な要因のひとつとして共有されている。この論文が論じるのは、チェコのアニメーション製作にインパクトを与えた1989年以降の政治体制の変化と、それに結びつくその他の要因である。それらの要因には、(1)共通の敵と設定されていた共産主義体制の消滅に起因する主題の変化、(2)西側諸国からのアニメーション作品の輸入と新たな配給方法に伴うチェコ観客の断片化、(3)作家およびプロデューサーに対して金銭的成功の保証を求める経済的検閲がある。共産主義体制の時代およびそれ以降のチェコのアニメーション産業史を探るこの論文で、著者は、チェコのアニメーション作品が国際的評価を獲得し急激な成長を遂げることとなった1968年の「プラハの春」における状況を概観し、その状況と対をなすものとして、今日のチェコのアニメーション・スタジオに影響を与えている現代的問題も取り上げる。

「シネマ的」から「アニメ的」へ――アニメにおける運動の諸問題

本稿は、アニメにおける運動の形式的描写の方法を探る。トーマス・ラマールの「シネマ的」と「アニメ的」という概念に拠りつつ、本稿は、伝統的な映画形式とアニメとのあいだの運動およびアクションにおける違いを問う。しばしば「フラット」という見地から考察されるアニメだが、そのテクストで用いられる運動の形式自体を通してスペクタクル、キャラクターの展開、そして皮肉にも奥行きが提供されるのだ。本稿は、アニメーションのこの形式における語りかけのモードがアニメに固有のものなのかを問う。「シネマ的」と「アニメ的」という用語(そしてその延長としてシネマ的な装置とアニメ的な装置)がどのように理解され得るかを考慮しつつ、本稿は、観客がそのようなイメージと彼ら自身をどのように同一視するであろうかという問題をも探究しようとする。

星柄のジブリ――宮崎駿映画のアメリカ版におけるスターの声

本稿が提供するのは、一群の日本アニメーションのテクストにおいてアメリカのスターを起用し声の吹き替えを行ったことについての考察である。著者は、アニメーションにおいてスターの声に結びついている様々な意味の深いネットワークに浸透することによって、スターダムを産業、文脈、テクスト上で新たに理解できると主張する。さらに著者は、スタジオジブリのアメリカ版DVD発売におけるテクストおよびコンテクスト(文脈)の両方にアプローチすることで、アメリカにおける日本アニメの市場とその意味合いを検討する。そうすることで本稿が表明するのは、アメリカにおける日本アニメの重要性と今日のスターダムの本性をめぐるいくつかの学術的議論への仲裁である。

神経性の光の平面

電子的な流れは、それが消えたり破裂したりする際、もっとも光っているように見える。そのような瞬間、電子的な流れは、連続性を保ちたい、邪魔されずに物事を経験したい、という我々の欲望を明らかにするのだ。電子的パルスとライトスケープで特徴づけられる現代の芸術的環境において、明滅するスクリーンは、葛藤を伴うその関与の様々な方式と共に、限界および削除に関する思考を提供する。フィリップ・パレノのアナログなライン・アニメーション『あなたは何を信じる?あなたの目?私の言葉?語る絵:…』(2007)は、「連続する線が存在しない」腐敗性の場に存在する。そこでは、同作品に内在する多様な時間構造は、その作品の空間性の面から、そしてその作品と我々の時間感覚との関係性の面から、単一性の創造を拒否する。セミコンダクターのデジタル作品『聞こえない都市たち 第1部』(2002)で、明滅は、イメージから停電した電子の流れ、つまり推定上、イメージの本質的要素を奪う。アニメーション化されたその都市景観は、ある電気的激発の音圧に相互依存する別の種類の電子的な光の運動を我々に提示する。イメージ作りの過程そのもの、つまりイメージの自己変奏のための潜在力が表現される。それは想像力と、ブライアン・マスミの「ヴァーチャルなものの曖昧さ」に結び付けられる。ジル・ドゥルーズの「ポイント明滅」もしくはマスミの「想像的および非体系的」のような概念を参照しつつ、アニメーションに内在する間隔と破裂との経験として明滅の感覚を取り上げる。その感覚は、アニメーションを頻繁に逆説的な作業として提案するだけではなく、そのイメージが占め得る特殊な場所を提案しつつ、我々が、生成する芸術というその潜在力と共に削除そのものとして、アニメーション化されたイメージを考えることを可能にする。

日本アニメにおける国際化の諸側面

本稿は、日本のアニメ(アニメーション)の国際化を探究しつつ、このようなポピュラー文化の生産物の背後にある文化政治学の解明を促進しようと試みる。アニメの国際化は、作品の背景、コンテクスト、キャラクターデザイン、物語構成に対して、脱日本化された要素を組み込むことが含まれる。本稿では、アニメの国際化を理解するための理論的な枠組みを作り上げ、その国際的な成功の背後に少なくとも3種類の文化政治学が働いているという提案を行う。一つ目は、脱政治化された国際化で、主に国際的に観客を引きつける商業的な方策として機能するもの。二つ目は、オクシデンタライズされた(つまり欧米が他者化された)国際化で、ナショナリスティックな感情を十分に満足させるもの。三つ目は、自己オリエンタライズされた国際化で、日本をアジアにおけるニセの西洋国家として打ち立てようとする文化的欲望をあらわにするもの。

幻覚的映像とジェレミー・ブレークの「時間ベースの絵画」における主体の不鮮明化

ジェレミー・ブレークは、21世紀に入って以来2007年に死去するまで、映画的な諸戦略の利用を通してアニメーション、デジタル・テクノロジー、絵画を合成し、それらを収束させようと取り組んでいた。本稿は、ブレークの初期抽象作品が、ヴィジュアル・ミュージック芸術家たちと、戦後アメリカにおけるカラーフィールド派の画家たちによる実験的なアニメーション映画から受けた影響を議論する。同期間中、ブレークは新しいアニメーション・ソフトウエアを用いつつ、文学的なナラティブ構造に基づいた継時的形状/背景の抽象作品に自らの才能を注いだ。その後、ブレークは時間ベースの絵画から離れ、現代ポピュラー音楽における一匹狼的な主唱者たちとのコラボで創り出された、豊かな質感のノン・ナラティブ的な伝記的スケッチへ移動した。ブレークの幻覚的なムーヴィング・イメージの視覚性は、新しいデジタル・ソフトウエアが活用できることになったとき、感性的により激しくなった。彼の視覚的構成の奥深いハイブリッド性は、写真ベースのイメージ、抽象化されたカラーパッチ、落書き、アニメーションキャラクターなどの、絶えず続くフェードとオーバーレイとを通して伝えられ、主観的意識と見かけの世界との間に豊かな質感の架橋を創り出す。

「そうだね、確かにそんな風に見える……」――『モダン・トス』における「実写」の宇宙、単純化された具像デザイン、そしてコンピュータアニメーション

この論文が論じるのは、チャンネル4のテレビ番組『モダン・トス』の形式的側面である。ミニマルな映像とダイアローグを用いるこの番組は、ある範囲のキャラクターたちが社会的犯行の縮小模型となりうる過程を見せる。ここで興味を引くのは、事前に撮影された背景や俳優との共謀の中で、抽象された具像的なデザインを意図的に枠にはめて用いるアニメーション形式への高度に特徴的なアプローチである。あらかじめ了解済みの宇宙内にフラッシュを用いたコンピュータの形状を配置する特別なやり方は、第一に、この番組のユーモラスさの領域に関連する「距離」の感覚をもたらす。第二に、ナラティブそのものに内在する宿命を補い、第三に、この番組を、同様のコンセプトに特有の美的刻印がある原作のグラフィック/ウェブ・カートゥーンの系譜に並べるのである。

線とアニモルフ、もしくは「旅はAからBへと行くだけにあらず」

実写のフォトリアルな映画をアニメーションから分ける要素のひとつは線である。線とは、アイデアもしくはグラフィック的な表象として以外の実在を持たない、概念上のメタ対象である。線はフォトリアルな映画には必須ではない。ドイツのアニメーション作家ライムント・クルメが手がけたヒルトン・ホテルのためのテレビ広告5本を例として用いつつ、この論文は、アニメーション化された1本の二次元的な線に内在する逆説について問う。線はそのとき、抽象的・幾何学的構造物であり、同時に、エナジーとエントロピーのエキセントリックな視覚化でもあるのだ。クルメのアニメーションが強調するのは(たとえそれが広告キャンペーンであっても)、線が動くとき、それは決して「モノ」ではなく、差延を意図し表示するということ、そして線の幾何学が示唆する以上に常に偶然生を有し、生を生きるということである。

スタン・ヴァンダービークの『ポエム・フィールド』におけるメディアの政治学

この論文が提示するのは、ヴァンダービークがベル研究所において1966年から69年のあいだに制作したコンピュータアニメーション作品の連作『ポエム・フィールド』を理解するための文脈である。この連作は、ベル研究所のコンピュータ科学者ケン・ノールトンが発明した映像による初のプログラミング言語Bflixを用いている。 この連作の分析を通じて著者が示そうとするのは、ヴァンダービークのポリティクスが方向性として如何に深く意識的に社会主義的であったか、当時出現しつつあった情報・コミュニケーション技術のラディカルな構想を通じて如何に社会的意識を変容させようとしたか、そして、その目的のために、同時期に出現しはじめたコンピュータアニメーションがいかに中心的なものであったか、ということである。

外映画的アニメーション――グレゴリー・バーサミアンとスーザン・バカンの対話

グレゴリー・バーサミアンのストロボライトを用いたキネティック彫刻は、鑑賞者に知覚上の矛盾を経験させる。つまり、鑑賞者の時空間上の物理的現前を共有する実際の事物の現象的現前と、アニメーション映画のイリュージョンとのあいだを揺れ動く経験なのだ。この対話で明らかにされるのは、バーサミアンの制作の方法論、その美学的・哲学的影響および意図、そしてアニメーションによるイリュージョンに対し芸術家として持っている関係性である。

『ミッキーの大演奏会』における線と色彩

この論文が提出するのは、テクニカラーによる7分のミッキーマウス・カートゥーン『ミッキーの大演奏会』(1935)の制作で使われたテクニックと素材である。アニメーションの産業化とドローイングの技術の歴史の変遷において、ドローイングや線が平準化規格化されていくさまを調査したのち、色の利用、とりわけ、セルに用いられていたインクと当時のフィルム・プリントに用いられた染料とのあいだの関係について記述する。著者が問うことになるのは、あるテクニックがもつ美学的、倫理的、政治的意味についての唯物論的理論を、テクニックとテクノロジーそのものに対する眼差しを失わないままに明確化することが可能かどうかということである。

美術電影を偲びながらの記憶に――中国アニメーションの理論化における濫喩とメタファー

この論文が行うのは、中国の美術電影の制作・理論化における歴史上の濫喩と文化的メタファーを、民族的/国民的スタイルに関する社会主義的・芸術的言説との関連から考察することである。「中国派」が提起したいくつかの問題を精査することで著者が探求するのは、美術電影を、ナショナリズム的なアイデンティティを生み出すための強力なメタファーとして概念化および構成するということである。このアイデンティティは、視覚芸術と社会主義国家の言説を、アニメーション映画の制作における中国的な美学の再創出のための共有空間へと持ち込むものである。本稿において著者が議論するのは、中国の美術電影が、中国におけるビジュアルの歴史における国民化されたユニークな形式として同定され、それが国民的/民俗的スタイルを概念化・仲介すると同時に、社会主義的文化・政治内部において同スタイルが生き延びることを助けてきた言説ベースの美学的一派を構成したことである。

知覚の技術――宮崎駿、その理論と実践

近年の西洋において日本のアニメーションに対する熱狂があることは、文化生産におけるデジタルの経験が、自己を主題化することについて新たな理解の道筋を開くことと関連づけて考えることができる。インタラクティブでヴァーチャルな環境においてイメージへと関わっていくこと、その視覚化は、個というものが、人間および非人間両者のユニークな関係パターンを通じて現れてくるものであるという考えを放棄させる。この現実は、東洋の哲学的概念における相互関係性や前反省的思考、マーシャル・マクルーハンが言うところの「包括的意識」によって説明しうる。日本のアニメーション作家宮崎駿は、禅‐神道の宗教的想像によって、自己を放棄する能力を個に対して与える。ポストモダン時代の道徳的混乱に対するオルタナティブな政治学としての宮崎の実践は、ヴァルター・ベンヤミンが映画に対して賭けていたものが機能しているということの例証である。

精神的-機能的ループ――デジタル時代に再定義されたアニメーション

アニメーションはコンピュータに生命を吹き込みうるか? コンピュータは映画やビジュアルアートを拡張した新たな地平へとアニメーションを導きうるのか? この論文はアニメーションの伝統慣例的な定義とそれが生命感あるものの連続性へとつながっていく様子についての精査に始まり、有機的運動=精神性、そして、無機的運動=機能性といった二つの極点について考える。著者が示すのは、デジタル時代においては、生命感ある運動は、いくつかの度合いにまたがりつつ、運動感覚器官的な諸機能を通じて重要性と意味を持ちうるということである。このことは、物質性についての新しい考え方へとつながる。それはアニメーションの革新的な意義を構築する。その後著者が論じるのは、コンピュータのユニークな機能と結びつくことによって、アニメーションは生命感の二つの両極——精神性と機能性——のあいだにつながりを見出すということだ。アニメーションという分野がデジタル的属性の拡張から多くの利益を受け取りうるのはそのためである。最終的には、様々な時代・様々なメディアにおいて作られた芸術作品について論じることで、この精神性-機能性のループを例証する。

アニメーション化された表現——3Dコンピュータ・グラフィックによる物語アニメーションの表現的スタイル

3Dアニメーション・システムの発展は何よりもハイパーリアリスティックな風潮によって駆動されており、3Dコンピュータ・グラフィック(CG)はこの使命を広範にカバーしてきた。この傾向の対位点として、研究者、技術者、アニメーション作家たちは3Dアニメーション環境から表現豊かな物語的アウトプットを作り出す可能性を探究してきた。この論文が探るのは、こういった文脈における3Dアニメーションの美学、テクノロジー、文化である。CG、神経美学、美術史、記号学、心理学、さらには認知科学への実証的なアプローチまでも綜合しながら、表現性に対する自然主義的ビジュアル・スタイルの性質を分析する。とりわけ、表現豊かなコミュニケーションと感情的な関与に対する手がかりに注目しつつから分析を行う。一点遠近法とフォトリアリスティックなレンダリングという自然主義的3DCGの二つの原則を表現性への潜在的な力という観点から考察し、結論においては、3DCGアニメーションにおける表現美学の未来を考える。

9.11以降におけるソフトボディのダイナミクス

アニメーションにおいて、建築は運動性と変容性を授けられることにより、映画的・テレビ的な空間の枠から飛び出し、現実空間の環境へと拡張されていく。建築におけるアニメーションの中核的な例は、オーステルホイス.nlが新たなワールド・トレード・センターの案として提出したものである。同じくオランダの企業NOXの類似例の路線に沿って、オーステルホイス.nlのグラウンド・ゼロは、機動性、生命感、メタモルフォーゼに対する言及を通じて、アニメーションを包括する。それが指摘するのは、現代のデザイン実践においてアニメーションという形式が卓越していること、そして、建築デザインのプロセスにおいてアニメーション・ソフトウェアが遍在的に用いられているということである。グラウンド・ゼロが同時に明らかにするのは、物体の世界においてソフトで脆い生身をめぐる、9/11以降の不安である。グラウンド・ゼロによる生の言説的生産に関して著者が行う分析は、我々の空間的想像力やフォルムについての政治学における大きな変化をマッピングすることとなるだろう。

『ベオオルフ』——デジタルモンスター映画

モーションキャプチャの技術を用いた最新の映画『ベオウルフ』(ロバート・ゼメキス監督)は、モンスターたちを倒して行く英雄の旅についての物語である。この論文は、『ベオウルフ』においてモンスター性が果たす主題的役割だけでなく、モーションキャプチャやCGIを通じたこの映画の構築そのものがモンスター的なものとして理解できるのではないか、ということを語る。つまり、ドゥルーズの『シネマ2 時間イメージ』(1989[1985])に沿って言えば、『ベオウルフ』は、モンタージュからモントラージュへとシフトした映画、見せる映画の典型として理解できるということである。著者は、『ベオウルフ』におけるモンスター性の美学を分析しつつ、この映画におけるモーションキャプチャを用いたシンセスピアン、つまりヴァーチャル俳優のパフォーマンスが、アンリ・ベルクソンの笑いの理論(1912[1900])——人間が機械化された人間を笑う――におけるコミカルなものとしても如何に理解されうるかを考察する。

「あれはどの人種を表象しているのだろう、私とは何か関係があるだろうか?」アニメのキャラクターにおける人種カテゴリーの知覚

アニメのキャラクターがあえて用いる人種表象は、顔の特徴ゆえに識別可能なのか、それとも、あまりに「国際的」すぎて識別不可能なのだろうか? 本研究がこの問いを提出する際の方法論は、1958年から2005年まで制作されたアニメからランダムにセレクトされた341のアニメ・キャラクターの正面からの静止画のポートレイトを人種別にカテゴライズしたものと、それぞれの人種に対する1046人の評価者の知覚の結果を比較する、経験論的なものである。その結果が語るのは、作り手側の意図としてはアニメ・キャラクターの半分以上が人種的にはアジア人であり、白人はほんの少ししかいないのに、白人の評価者はキャラクターたちを白人であると知覚しているということだ。この反応パターンが示すのは「自身の人種の投影 (ORP)」、つまり、知覚者はアニメのキャラクターを自らの人種グループの一員として認知しがちだということである。アニメの国際的な普及における意味合いについても、議論が行われる。

ボーダーライン・アニメーション

概念としては「アニメーション」と呼ばれている分野でアーティスト・映像作家として活動しているトルステン・フライシュの作品は、芸術と科学とテクノロジーとが交錯するものである。ジャンルとしては構造的‐物質主義的映画に属する彼の作品は、自然現象の細やかな作用についての高度に自己再帰的な精査でもある。この論文においてフライシュが明らかにするのは、彼の作品に通底するアイデアやコンセプト、そして作品制作時に取り入れるテクニックである。フライシュの実験映画作家としてキャリアはすでに10年以上におよぶ。その多くは「アニメーション」というジャンルの一般的な慣例に収まりつつも、その制作のプロセスとテクニックは、ソースとなる素材、コンセプト、テクニックの普通でない複雑さに反する。これらのプロセスは結果となるイメージにとっても非常に重要である。なぜなら、フライシュはイメージを生み出すため、普通ではないやり方を見出そうと試みるからだ。フライシュの作品で特筆すべきは、有機的な事物(血、肌、灰)や科学的現象(フラクタル、クリスタル、電圧)を美学的にも技術的にも巧みに扱う点である。豊富に図版を用いたこの論文は、以下の作品についてのカラフルなディテールを多く含む:K.I.L.L. -- Kinetic Image Laboratory/Lobotomy (1998), Bloodlust (1998), Silver Screen (2000), Skinflick (2002), Gestalt (2003), Friendly Fire (2003), Kosmos (2004) and Energie! (2007).

コミック・ブックの世界における可視的なるものの発狂

本稿は、コミック・ブックという形式は決して静的なものではないと主張する。その紙面上に散らばっているコマは、時空間に対してコミック・ブック固有の分節を提示するダイナミズムと運動に満ちている。コミック・ブック内で再現される物語上のアクションの一部は時間を「凍結」することができるが、他のコマは(一紙面上の静止画として視覚的に静止状態にありながら)、コミックに特徴的な複数の知覚方式を創り出す複雑な時空間の描写を切り開く。コミックは、停止状態を通して、時空間のアニメーション的な流動を表象する。

地上最速の男――現代スーパーヒーロー・コミックスの停止状態と速度

スーパーヒーローの世界ではアクションが全てである。DCコミックスの「地上最速の男」であるザ・フラッシュにフォーカスを当てながら、本稿は、コミック・ブックのアーティストたちがスーパーヒーローの冒険ものにおいて一見停止したイメージをアニメートするために使う手法を調査する。近年、アクション映画のスターとして活躍するスーパーヒーローたちの成功にその糸口を捉えつつ、本稿は、アクションに関する映画理論を取り上げ、コミックの紙面に応用する。スーパーヒーローのスプラッシュ・ページの凍結されたポーズは、ナラティブとスペクタクルとの間で仮定される対立に異議を唱えつつ、読者側には知覚上の支配的立場を与えもする。スーパーヒーロー・ジャンルのコミックは、また、不可能なことを誇張して表象するため、自らの弾力的な時間性(継時的芸術ならではの時空間的な側面によって実現される)を利用する。ザ・フラッシュの英雄的な偉業は、コマの内部、そしてコマとコマとの間に存在する運動を表現するための概念的なメカニズムを通して描かれる。

運動内の運動――アニメーションとコミック・ブックにおいて線を追いかけるということ

アニメーションとコミック・ブックは、継時的なイメージで構成されるという側面において共通している。前者は映写中の機械的・電子的方法で動かされ、後者は読者の逍遥するような意志的活動によって動かされる。しかし、コミック・ブックの単一のコマは、物語の急場と、2次元の絵画的な平面のグラフィックな物性との両者によって調整される持続時間を有している。芸術家の身振りという動きはそれぞれの線に含有され、コミック・ブックと2次元の手描きアニメーションとの両方における動きを理解するための基礎として提示される。運動とは、アニメーション化された形状においては輪郭線の形態で保持される反面、運動および芸術家の身振りとの両方を読み取る分節化のおいては接線状に走ることもある。

デリダ、ドゥルーズ、そして一羽のアヒル――コミック・ブックの分析における循環的微分の運動

コミック・ブックという「不思議で珍しい」メディアにおける「コマとコマの間の秘密」に関する探索は、物語的な冒険へのアピールを呼び起こす(未知の領域の隠された宝物を探しにいくクエストである)。しかしコミック・ブックの分析が、同メディア内の隠ぺいされた存在の「正確な位置」を、宝地図で隠されたものを見つける「x」マークのように示してくれる印を見つける探索によって消尽される時、学術的な宝探しの言語中心的な形式は、その探索の過程が、隠ぺいされた存在に向かって進む線型的なクエスト以外の何ものかであることを許さないのか?本稿で筆者はドゥルーズの構造外的な対象=xをコミック・ブックにおける意味の構造化に適用する。筆者は、この第三のものを、デリダ的・ドゥルーズ的思考における「還元不可能な差異」へ寄託し、さらにコミック・ブックというメディアの異なる読み方を提案する。これは形式的構造をアポリア的に読み取ることを通して、閉塞を避けようとする試みである。

ドライデン・グッドウィンとの対話

フレームに基づいたドライデン・グッドウィンの映画は、アニメーションの原則と慣習に異議を唱えると同時に再肯定する。彼の幅広い芸術プロジェクトの基礎的な一要素として、そのような形の映画製作は、ドローイング、肖像画、‘シリーズ’の概念を含む彼の他の関心事に絡んでいる。本インタビューでバーナビ・ディッカーは、フレームに基づいた映画制作へのグッドウィンのアプローチと、これが一般的に彼の作品にはどのように関連するかに関する議論の場へグッドウィンを様々な観点から招待する。ディッカーにとって、このトピックは、アニメーション研究において、とても生産的で重要であるにもかかわらず、これまで無視されてきたものであり、本インタビューを通じて、その訂正を行おうとする。聞き手は、特にグッドウィンの作品と19世紀のクロノ・フォトグラフィとの関連に興味を持っており、聞き手の提案によると、後者はフォトクロノグラフィ(エティエンヌ=ジュール・マレーによる同プロセスのための元々の用語)としてより一層効果的な応用の可能性があると提案する。さらに、グッドウィンの芸術における「ドキュメンタリー」的な側面と、ジャン=ルイ・コモリのダイレクト映画論との間にリンクが設定される。両者は極点のように離れて見えるにもかかわらず、聞き手は、コモリの多くの説明がグッドウィンのアプローチを通して例示されうることを発見する。本インタビューを貫く他のテーマには、ギャラリーおよびインスタレーション文脈内における映画の役割、そして古典的および今日的芸術実践とテクノロジーとの間の関係性も含まれる。

パワーパフのポリティクス政治学 ——「ガール」を「ガールパワー」へと置き換える

この論文が考察するのは『パワーパフガールズ』の政治学である。このシリーズの三人のスーパーパワー・ヒロインを1990年代に人気のあった「ガールパワー」言説の内部に位置付けつつ、エンパワーされた若い女性性のイメージを提示する。子供が大人に勝利するという物語上の前提は、子供向けテレビにおける先例にも共通する世代論的な政治学とも関わっているが、一方で、このガールパワー・シリーズの政治学が持つ限界を考えると、番組の主役である白人中流階級のへテロセクシャルな少女表象の外部にある、ある種のアイデンティティの形成に対する周縁化と中傷をも明らかになっていく。

純粋感覚?抽象映画からデジタル・イメージへ

この論文は感覚sensationとしての映画についての研究である。それが提供するのは、抽象映画の実践に対する新たなアプローチであり、抽象映画は純粋感覚という概念を包括しうるということである。抽象映画は純粋に構造的かつコンセプチュアルなものとしては解釈すべきではない。著者が論じるのは、感覚としての映画は、そもそもの始まりから映画の本質の一部でありつづけていた。本稿の議論は、感覚としての映画が映画史の重要な瞬間に存在しつづけてきたという観点から抽象映画の歴史を書き直す。そのうえで、感覚としての映画という概念は、純粋なエンターテイメントとしての映画/視覚効果とは一致せず、批評的な断絶として理解されるべきだと論じる。この批評的な断絶は、ヴァルター・ベンヤミンが、新たに生まれたこの映画芸術が持ちうる美学的意図として正当化する際の根拠であった知覚上の衝撃・知覚上のトラウマという概念において理論的に正当化しうるものである。

アメリカとソヴィエトのアニメーション・シリーズにおける暴力、チェイス、身体の構築

この論文で考察するのは、アニメーション映画における暴力ものである。アニメーション映画製作(アメリカ合衆国とソヴィエト連邦における)の経済的・社会的な文脈は、キャラクターの身体の構築およびダイナミクスとつながっている。チェイスもののアニメーション・シリーズの分析によって著者が示唆するのは、アニメーション化された身体の流動性と可変性に帰着する暴力は、アニメーション映画に固有の特質が表明されたものであり、機能の側面からは、セルゲイ・エイゼンシュテインが言うところの原形質性と似通っているということだ。この特徴は、アニメーション・キャラクターが人間化されるとき、アニメーション映画から消失する。

羽のごとく重い――アグニェシカ・ウォズニカの『バーディー』、オブジェ・アニメーション、そして事物の道徳的な重力について

デジタル・テクノロジーは現在、私たちの表象の秩序を規定している。矛盾するようだが、デジタルの主導権は、写真的な指標性を喪失することを通じて、物質性の表象に新たな条件を生み出している。立体アニメーションはとりわけ、物質性についての現在出現しつつある概念のための舞台として適している。ウォズニカの立体アニメーション映画『バーディー』は、物質性を表象し、さらにそれについてのアレゴリーを生み出す。この映画は、メインキャラクターの計画、羽の構築、そして物質を単なる人間の使用のための材料としてしまうことについての倫理的含意を前景化する。物語構造とカメラの動きといった要素は、この映画においてキャラクターの計画に使われる物質に対し、道徳的な立脚点を与える。それは、キャラクターのみならず、観客や映画作家をも、このデジタル時代に我々が共有する時機にとって重要な倫理的状況へと引き込んでいくのである。

誰か自身の映画——現代の若手女性作家によるアニメーション自画像

この論文は、アニメーションの分野において目立つ活躍をするようになってきた現代の若い女性のアニメーションによる自画像を分析し、その新たな世代と先行する世代とのあいだの大きな違いを明確にする。過去の世代の女性作家たちは、アニメーションによる自画像を通じて、女性そして作家としての自らのアイデンティティを探りつつ、アニメーション映画の初期より存在してきたサブジャンルのための新たな言説とモデルを発展させてきた。しかし、新世代のアニメーションによる自画像はドキュメンタリーに接近し、より普遍的な関心事を扱うことで、これまで以上の広い観客にアピールし、劇場公開の機会を得ている。マルジャン・サトラピの長編アニメーション『ペルセポリス』(2007)はまさにこの例であり、この論文の中心となる。

「ライムント・クルメ 線と形で遊ぶ」——アニメーション映画の展覧会

独アニメーション映画研究所(DIAF)が主催し、ドレスデン技術博物館で2009年の4月から9月まで開催された「ライムント・クルメ 線と形で遊ぶ」展は、ドイツのアニメーション映画監督・作家ライムント・クルメによる作品を展示した。彼の映画作品の重要な出発地点は、落書き、運動のスケッチ、コラージュといった、グラフィックによるブレインストーミングのセッションである。クルメは、その作業を経て、言葉を用いることなくアイデアや感情を視覚化していく。この論文が提供するのは、展示のための準備で作られたものについての洞察であり、それがとりわけ最終的な作品へとたどり着くまでの創造的な芸術的プロセスにとりわけ焦点を当てることで、ライムント・クルメが空間をアニメートするそのユニークな方法を分析する。展示のコンセプトにおける中心的な側面、たとえばテーマを選ぶ際の基準、展示物の選択や配置、展示物や動画の見せ方についても詳細に説明される。それによって、著者は、アニメーション映画について展示を行うことのユニークさとそれが生み出す可能性について、いくつもの考察を行うことになる。

スタン・ヴァンダービークの『カルチャー:インターコム』における戦略的規範化とオーディオ-ビジョン-的な語用論

スタン・ヴァンダービークの重要性についての再考は、歴史を記述する際に直面する様々な問題を伴うことになる。テクノロジーの時代において、歴史を形成するとはどういうことかについて、多くのことを教えてくれるのだ。1960年代・70年代のアメリカのアヴァンギャルドにおいてテクノアート分野の革新者であり、アニメーションのすべてを覆した重要な実験映画作家が完全な忘却に陥ってしまっているという事態はなぜ起こるのか?さらに言えば、いかにして起こりうるのか?著者はここで、テクノカルチャー的制作と消費における変化があらゆる映画的意識をアニメーションとみなしてしまう現在において、とても似たプロセスが「デジタル・メディア」という還元的な用語の周辺で起こりつつあると論ずる。

「アニメーションの手なるものにおける興味深い章」——スタン・ヴァンダービークのアニメーション化された空間の政治学

この論文が肉付けしようと試みるのは、『タイム』誌が1964年にいかにももっともらしく「アニメーションの手なるものにおける興味深い章」と呼んだような達成を、スタン・ヴァンダービークがいかにしてなしえたのかということである。主に焦点をあてるのは、彼のコンピュータ時代以前に制作されたペインティング、人形、コラージュのアニメーション作品である。関連する用語法について考えたのち、著者が探ろうとするのは、スタン・ヴァンダービーク自身の著作を紐解きながら、彼の芸術的・文化的哲学が、いかに、そしてなぜアニメーション技術を通じて表現されえたのかということである。まずはコマ撮りの人形アニメーションとペインティング・アニメーションについて議論するが、その後には、コラージュとフォトモンタージュについてのモダニスト的な文脈を経由し、数多くあるヴァンダービークのコラージュおよび切り絵のアニメーション作品について、彼のビジュアル的な新造語がジェームス・ジョイスの混成語手法といかに比較しうるかという提案を行ないつつ考える。さらには、ファウンド・フッテージというジャンルおよびテクニック内部における彼の実践について美学的および社会政治的に分析しながら、彼が、自作を観る観客に対して立てた戦略を示唆する。結論となるのは、ヴァンダービークの多岐にわたる詩学と美学を、政治的フォトモンタージュおよびインディペンデント・アニメーションの連続体のうちに、「興味深い章」として記述することである。

ピクトリアル・コラージュからインターメディア・アッサンブラージュへ――『バリエーションズV』(1965)とヴァンダービークの拡張映画のケージ的起源

インディペンデント・アニメーションの制作者としてかなりの成功の経歴をおさめた6年間を経て、1964年以降、スタン・ヴァンダービークは、自身が拡張映画と呼んだパフォーマティブで学際的な実践へと足を踏み入れた。この論文が強く主張するのは、この移行に際して最も強力な動機となったのは『バリエーションズV』制作時におけるジョン・ケージおよびマース・カニングハムとの親密なコラボレーションであるということであり、ヴァンダービークの動く壁画をその文脈において精査することは、このようなビジョンを生み出す起源として、ブラック・マウンテン・カレッジ時代の教師たちが重要な役割を果たしたということを理解させてくれるということだ。この時期におけるアッサンブラージュの学際的なレトリックこそ、初期のコラージュ・アニメーションと後の拡張映画およびインターメディア的なパフォーマンスへの転向のあいだにある美学的・概念的なギャップに橋渡ししてくれるということを、著者は提示したい。

『POEMFIELDs』とコンピューテーショナル・スクリーンの物質性

この論文が探るのは、スタン・ヴァンダービークとケネス・ノールトンが1964年から1970年にかけて制作したコンピュータアニメーションのシリーズ「POEMFIELD」が、可視性と不可視性のあいだの領域をいかに意識的に掘りすすめつつ、絵画性、言語性、図式性を同時に持つ一連の表象へと数字と文字を引き入れたかということである。読みやすさと読みにくさの境界を滑りながら、このアニメーションのシリーズは、テクストとイメージ、コードと絵の二重のビジョンを提示しつつ、そうすることによって、機械時代の終息期におけるコンピューテーショナルな可視性について、広範かつ認識論的な問いを浮かび上がらせる。1968年のMOMAにおける展覧会の副題(「機械」)は、もはや人間の目には見ることのできない機械によるアニメーションのコンピューテーショナルなモデルが出現したことを鮮やかにしたものである。それに帰結して起こる可視性の危機は、当時探求されていたグラフィックなユーザー・インターフェース(GUI)のモデルという観点から眺められることで、特定の重要性を帯びることになる。「POEMFIELD」のシリーズにおいて、ヴァンダービークとノールトンは、その際に生起する絵画性、言語、コードのレイヤー化されたパラダイムがもつ複雑さと展望の両方を伝達し伝えようと試みているのである。

物語世界上の短絡――アニメーションにおけるメタレプシス(転喩)

この論文が論じるのは、メタプレシス(転喩)という非常に顕著な現象である。メタプレシスは我々が実際に生きる世界では超えることの叶わぬ相互的に排除しあう境界線を、フィクションとパラドックスによって超えていくことである。自分の創作物の物語世界に到達するアニメーターの手や、作り手の世界を逃れたり自らの世界を作り直したりしつつ観客とコミュニケーションをとるキャラクターは、それぞれ異なる種類のメタプレシス的超越である。この現象はアニメーション史を通じて広範囲に起こっているにもかかわらず、これまでアニメーション・スタディーズにおいては理論化されずにいた。この論文は、メタレプシスをトランスメディア的かつナラトロジー的に概念化し、アニメーションの分析的ツールとして持ち込む。そして広範な範囲の例について議論しながら、さまざまな形式のアニメーションに対する枠組みとして機能するか検討していく。

影響下でのスケッチ?マンガと映画のあいだの美学的収束についての問いとウィンザー・マッケイ

マンガと映画のあいだの形式的な類似性は、両者の美学的近接を巡る長きにわたる議論の火花をしばしば散らす。影響関係についての議論も同様だ。マンガ史家のデイヴィッド・クンズルは、フランシス・ラカサンを引きつつ、1800年代中盤から後期のマンガに映画形式の特徴を如何に辿ることができるかを語る一方、映画史家のドナルド・クラフトンは、マンガが映画言語の進化に及ぼした影響は、あったとしても稀少だろうと言っている。この論文は、ウィンザー・マッケイのマンガとそのアニメーション化の両方を分析することにより、歴史上の知識に基づいたテクスト分析を用いることで、美学的影響についての問いを、より複雑化しようと願うものである。

アーロン・マックグルーダーの『ブーンドックス』と、マンガからアニメーション・シリーズへのその移行

この論文が考察するのは、日刊新聞掲載のマンガ「ブーンドックス」のアニメーション・シリーズへの移行である。とりわけ、アニメーション版が、原作となる印刷物が生み出す予期を超え、細かな文化的言及を数多く行いながら、高度に間テクスト的な複雑な作品として出現するその過程に注目する。「ブーンドックス」におけるメディア間の移行を解説するため、アニメーション版は、流用と脚色の理論を通じて分析される。その際、このシリーズにおける巧みな文化的借用と、日本のアニメに典型的な形式的な約束事の利用にとりわけ注意を向ける。また、「ブーンドックス」と「ザ・シンプソンズ」との関係を探ることで、リアリズムと社会的言及という点において、『シンプソンズ』は「ブーンドックス」の先祖であると位置づける。

ディズニーのアリス・コメディ——イリュージョンの生命と生命のイリュージョン

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)と『鏡の国のアリス』(1871)は様々なディズニーのテクストに影響を与えている。そのなかには、同スタジオが1923年から27年に製作したアリス・コメディ(ディズニー・スタジオが世に出ることになった中核的な作品でもある)も含まれる。この初期シリーズは、ディズニーの映画様式の発展、つまりハイブリッド・アニメーションの様式を形成するのに大きく役立った。そのハイブリッド性の形成は、スタジオの全歴史を通じた大きな影響を及ぼすことになる。スタイル上は粗野なままでありつつも、リアルなものと幻想的なもののあいだの関係性の交渉を行なっていくスタジオの努力——後に「生命のイリュージョン」として知られることになったスタジオ独自のスタイル――を予見するものでもあった。この論文が探るのは、ハイブリッドなスタイル――たとえば、実写とアニメーションの組み合わせ――への強調という観点から、基礎的なテクストであるアリス・コメディの分析を行なう。それは、リアリスティックな空間を生み出すという問題へと目覚めることを必要としたと同時に、観客をファンタジーの空間に引き込むという点で、ルイス・キャロルが「アリス」シリーズで行った境界侵犯的な探求と同様のものであるともいえる。

ディズニー・フォルマリズム——「古典的ディズニー」を再考する

『プリンセスと魔法のキス』(ロン・クレメント、ジョン・マスカー監督、2009)の公開によって、「古典的ディズニー」というフレーズは再び議論の的となった。残念なことに、「古典的ディズニー」という概念は近年進化したものである。それは、ディズニーをめぐる無数の議論で用いられた一見率単純な用語から、ディズニーのアニメーション長編について「速記」的に批評を行うための特定性には欠けている用語へと進んでいる。。この論文では、「古典的ディズニー」を代替することが可能かもしれないものとして「ディズニー・フォルマリズム」という新たな用語を提唱する。そのため、『白雪姫』(デイヴィッド・ハンド監督、1937)、『ピノキオ』(ベン・シャープスティーンほか監督、1940)、『ダンボ』(ベン・シャープスティーン監督、1941)、『バンビ』(デイヴィッド・ハンド監督、1942)といった映画で追求された美学的スタイルの形成と継続に言及を行う。

ドローイング・アニメーション

ドローイングは古典的アニメーションの「伝統的」な実践において鍵となる構成要素であって、デジタル時代への関連性の乏しさから、時に流行遅れとみなされることがある。逆に、デジタル・ツールとヴァーチャルな素材の使用は、伝統的な方法論で教育をうけたアニメーターにとってはいまだに問題含みのものとして見られている。しかしながら、現代美術の領域においては、様々なツール、プロセス、パラダイムでの実験が爆発的に拡張しつつ、時間、パフォーマンス、物質性といった問題をめぐり、ドローイングに対する関心が復活している。この論文では、ドローイング・アニメーションのプロセスと理論化について、これらの異なる実践およびツールという観点から行なう。ドローイングは、物質的な基礎と概念化という側面から考察されていく。ドローイングは、時間の経過やキャラクターのパフォーマンスを表象しうるプロセスとして探究されるが、それ自身としても、持続をともなうパフォーマティブな活動なのだ。

押井守『攻殻機動隊』における声と視覚――デカルト的光学を超えて

この論文で考察するのは、押井守が『攻殻機動隊』(1995)において行った声と視覚の実験である。『攻殻機動隊』において身体を欠いた声が明確化する視聴覚的反転は、イメージと声の伝統的な一致を分解させる。押井が用いる非有機的な視線は、見ている人間の身体から脱却し空間へと拡張させる。それは、映画における人間中心的な視線という基準とはかけ離れている。この脱人格化された視覚は主体の散種を表現する。さらには、人類を存在論的に環境へと開いていくこの映画のモチーフとも反響しあう。押井の視聴覚的実験は、デカルト的光学への批判とみなすことができる。身体を欠いた声は他の感覚に対する視覚に優越するというデカルト的な見方の土台を崩し、非有機的な視線は非遠近法的な空間と非人間的な視覚を生み出しルネッサンス的な遠近法のシステムへの補足ともなる。結果的に、視覚を声から切り離す押井の傾向は、彼の作品において、アニメートされた身体を、主体‐客体の境界の古典的な構築を超えて複数の時空間的次元のいたるとこに配分される異質で離散的な担い手とするのだ。押井によるデカルト的光学への挑戦の結果は、アニメーションにおいて、エイゼンシュテインが言うところの「エクスタシー」のような強烈な情動性を生み出すことになる。

可塑性再考——アニメーション・イメージの政治学と制作

アニメーションについての著作は、イメージの可塑的な質――対象は伸縮し形態を変えていく――にしばしば言及するが、アニメーションの可塑性をめぐる議論は、完成した映像と可塑性とを結びつけて考えがちだ。本稿は、アニメーションの可塑性についての再考を行うことで、それが単に完成した映像の属性であるのみならず、制作における物質的条件の一側面でもあることを示唆する。1940年代・50年代の日本においてディズニー・アニメーションについての記述を残した今村太平と花田清輝という二人の左翼知識人の著作を紹介し、その著作をヨーロッパにおいて対応するもの対比させつつ、この論文は、これら日本人思想家たちが、ディズニー・アニメーションの制作現場におけるフォーディズムの重要性に注意を引こうとしていることを示唆する。今村と花田の著作は、アニメーションの可塑性を論じる際、フォーディズムによる映像制作の物質的条件の観点から可塑性を批判的に再考することを可能にする。そのことは、労働のレベルはもとよりアニメーションというメディアムのレベルにおける可塑性についても考察させてくれるのである。

抽象化されたウッディ――シェイマス・カルヘーンのカートゥーンにおけるフィルムの実験

アニメーターのシェイマス・カルヘーンは自伝のなかで、1940年代中盤を自身にとっての芸術的目覚めの時期であるとした。ロシアのフォルマリスト、セルゲイ・エイゼンシュテインやフセヴォロド・プドフキンといった映画理論家たちの著作を読んでいた時期である。その当時ワルター・ランツのスタジオで監督として働いていた彼は理論を実践へと移すことを決意し、ランツのカートゥーン作品において、承認の取れた絵コンテを用いつつ、そこに現代的なテクニックを適用する実験を始めたのである。ウッディ・ウッドペッカーのカートゥーンのような商業的プロジェクトでの制作を行なっていたカルヘインには、前衛的なことをやるための自由はほとんど残されていなかった。それゆえに、彼はヒットエンドラン的アプローチを採用することで、音楽的で映画的な実験を表に出すこととなる。本稿の議論が明らかにするのは、ウッディ・ウッドペッカーのカートゥーンはそのための適切な題材には見えないにもかかわらず、乱暴で道化的なウッドペッカーのキャラクターは、カルヘインが彼のモダニスト的悪戯を行なうための理想的な機会を提供し、シリーズ自体にも熱狂的な活力を注ぎ込むことになったということである。

サブアニメーション――ヴェリーナ・ファーデルによる出口丈人、山村浩二との対話

この論文は、アニメーションの実践と理論における二つの注目すべき声、出口丈人と山村浩二との対話である。東京で行なわれたこの対話は、脱中心化を通じた拡張という概念を、アニメーションの主題およびそれが語られる場所という二つの観点から追うことになる。脱中心化は、同世代の(アニメーションも含む)芸術作品に対する我々の理解が、社会政治的な背景の変容や拡張を通じていかに形成、解体、再構築されているのかという観点から考察される。アニメの分野におけるレイヤーの進化を理解するため、複雑さとハイブリッド性に言及しつつ、出口氏と山村氏との対話は、とりわけ実験作品の地位、社会変化、制度的なもの、非=歴史(不完全な歴史の理解の表明)などをめぐる質疑応答となっている。実験と時代的破裂とのあいだの、社会、制度、伝統的意見におけるドローイングとその変容中の状況とのあいだの、もしくは社会的情緒とアニメーション固有の質とのあいだのつながりが見出される。この記事を締める対話の結論には、将来的な研究テーマを新たに切り開いていくのに価値ある意見が含まれていることだろう。

アニメーションと映画の隠された系譜学

本稿は、映画がアニメーションという大きな統一体のサブカテゴリーだとする、広く共有されている見解に異議を唱える。「アニメーション」という言葉の語源を調べると、同単語がどのようにして二つの意味(一つは、命を与える、もしくは生き物になるという意味、もう一つは、動く、もしくは動かされるという意味)を獲得したのかが分かる。映画を取り巻く交易と専門的な言説において、「アニメーション」は、1910年代初頭まで、シングルフレーム・シネマトグラフィ、もしくはその手法を用いた映画の分類を指示していなかった。アニメーションが映画の先祖だという系統学的な主張は、上記の二つの意味の偶然の一致を利用したものでしかなく、そのアプローチは、映画形式、ジャンル、社会的実践としてアニメーションをより広く理解することから人を遠ざける。このような推論がもたらす否定的な結果の一つは、いわゆる「映画以前」の光学的な玩具の様々な特徴が、後に登場した映画とのつながりにおいてのみ評価され、独自のものとしては研究されえない可能性があるということだ。

ブローブック、マジックショー、初期アニメーション――生ける屍を仲介するということ

本稿は、生命のないもの(スチール写真を含め)に命を与える映画の力に関する言説に照らしながら、初期アニメーションおよび近代マジックの歴史を探究する。構造はフリップブックに類似しているが、継時的なイメージを伴わないブローブックというメタモルフォシス的なマジックブックと映画との遭遇を考察することで、アニメーションの一形態に関する側面、そしてイリュージョンとそれへの信用に関する側面を明らかにする。また、映画におけるアニメートの「力」をダイレクトに試演する手段としてブローブックをフィーチャーした数多くのトリックフィルムの意義も説明するために、近代マジックの原則も取り上げられる。このような分析は、映画およびメディア研究内においてアニメーションを包括的な概念として使ってしまうことに異議を唱えつつ、デジタル上のイリュージョンを理解するためのモデルとして19世紀のマジックへとニューメディア研究が立ち返ることを根本的に考察しはじめるための一つの基礎を提供する。

アニメーションにおける暗き先触れとしての幻灯

本稿は、映画とアニメーションとの関係を歴史的かつ存在論的に取り上げるための一つの重要な拠点として、明治時代(1868-1912)の日本にフォーカスをあてつつ、幻灯と映写機との対比を行う。フーコーのディスポジティフ(装置・配置)概念を技術的なパラダイムの理論に変容させる、技術的な対象に関するシモンドンの概念を用いつつ、筆者は、映画とアニメーションとの差異は主に物質の差異ではなく、運動における質の差異にあたるということを発見する。幻灯の投影イメージ(写し絵)を探究していくと、映画とアニメーションは、電磁気学に結びつくテクニカルなパラダイム、つまりデカルト的なテクニズムの影響を受けたものを共有するということが分かる。映画的な運動-イマージュのヴァーチャルなものとしての時間と、任意の瞬間(any-instant-whatever)に対するドゥルーズの強調を修正しながら、本研究は暗き先触れ、つまり映画とアニメーションが任意の質料(any-matter-whatever)を共有するということを発見する。アニメーションは任意の質料に近いがゆえに、質量の中の生を直接的に経験する機会を提供し、なおかつ、デジタルにおける任意の媒体=メディアムを予期するのである。

「絵ごとに、動きごとに」――メルボルン=クーパーとシリャーエフ、そして象徴的身体

本稿は、イギリス人のアーサー・メルボルン=クーパーとロシア人のアレクサンダー・シリャーエフの先駆的な初期立体ストップモーション・アニメーションを、19世紀末近代性に関する言説内に位置づけることを目指している。本議論は、近代都市と初期映画との両方の発展に関する支配的な言説、そして特に、モダニズム的な実践を仲介する役割を有しているものとして平面の「カートゥーン」を受け入れてきた様々な方法に取り巻かれ、これらの作品の意味が見失われてきたと同時に、立体の形式はあまり調べられないまま、映画的もしくは文化的実践における他の側面の内部に吸収されてきたことを示唆する。筆者は、メルボルン=クーパーとシリャーエフが「象徴的身体」に焦点をあてながら、実写によるフォトリアリズム的な観察と、初期のドローイング形式のグラフィックな自由との間における仲介として、自覚的に立体アニメーションを使うと主張する。それは初期映画における「アトラクション」の諸概念を改訂しつつ、都市-空間を再定義し、なおかつ近代的なモーションがもつ意味を記録している。

トリックという問題――初期のドローイング・アニメーションは映画のジャンルなのか、それとも特殊効果なのか?

著者は、トリックフィルムの系譜の中にアニメーションの登場を位置づけることによってアニメーション映画史を再考するため、映画史を線型的に理解することを放棄する。初期のカートゥーン・アニメーションに関する言説(たとえば、業界紙から見つかる評論的および広報向けの言説)を分析すると、それらの映画が独自のジャンルとしてではなく、ほかのトリックフィルムに似たものとして看做されていたことが分かる。それでは、トリックフィルムがほとんど制作されなくなった1910年代半ばにおける初期のカートゥーン・アニメーションの人気はどのように説明しうるだろうか?ちょうどトリックフィルムが既にほとんどなくなっていたとき、様々な「トリックフィルム」、つまりアニメーションによるドローイングの人気をどのように説明しうるのだろうか?本稿では、それらの問題を提出するために、アニメーションによるドローイングへの見方がどのように変容していったか、その過程を検討する。特に著者が試みるのは、アニメーション化されたドローイングをトリックフィルムとして看做す段階から、結果的にそれらが一つのジャンルとして制度の中に収められていく段階までの推移を概略することである。

初期アニメーション映画におけるモデルとしてのエンターテインメントと教育――フランスにおけるフィルムメーキングへの新しい観点

この研究は、エミール・コール、マリウス・オガロ、ロベール・ロートラックの仕事を自伝的・審美的近似性の理由から結び付けることで、フランスにおけるアニメーション映画の最初の学派の特殊性を再構築するための貢献をする。これらのアニメーターたちは、元カリカチュア作家として、エンターテインメント向けもしくは教育向けのモデル、イラストレーション産業向けもしくは子供の図書・玩具市場向けのモデルを、舞台などパフォーミングアートから借用した見世物的なパラダイムと共に組み合わせた。彼らの仕事に関する本分析は、その重層的な文化的系列の組み合わせと相互作用を示すことで、草創期における第7の芸術の歴史記述を総括して検討、評価できる舞台を切り開く。

不在、過剰、認識論的拡張——ドキュメンタリー・アニメーション研究への枠組みに向けて

この論文は、ドキュメンタリー・アニメーションの歴史を、ドキュメンタリー・アニメーションという形式そのものと、それがいかに研究されてきたのかという両面から概略し、ドキュメンタリー・アニメーションについて考えるための新たな方法論を提示する。その際、アニメーションでしか可能ではない、実写という他の選択肢ではなしえないものは何かを問いつつ、それがテクストのなかでどう機能するかについて考える。結果、模倣的代替、非模倣的代替、喚起、という三つの機能が示唆されるだろう。著者は、このような方法でドキュメンタリー・アニメーションについて考えることで、実写が排除せざるをえなかった主題へのアプローチを切り開くゆえに、アニメーションはドキュメンタリーの認識論的課題を拡張し深めるということを示唆する。

ドキュメンタリー・アニメーションにおける経験——不安な境界、推論的メディア

ジュリア・メルツァーとデイヴィッド・ソーンによる『私はそんな風には記憶していない――3つの回想のドキュメントIt’s Not My Memory of It: Three Recollected Documents 』(2003)、ジャッキー・ゴスによる『ストレンジャー・カムズ・トゥ・タウンStranger Comes to Town』(2007)、スティーブン・アンドリュースによる『ザ・クイック・アンド・ザ・デッドThe Quick and the Dead 』(2004)といったドキュメンタリー・アニメーションは、近年における個々人および情報の増加する混乱と運動が広がりつつあることについて、その含意を私たちに考えさせる。本稿は、これらの代表的な作品の分析によって、実験的なドキュメンタリー・アニメーション作者たちが、「ドキュメンタリーが保証しているもの」の現状について可視的な方法で自覚的に精査を行う傾向を考察する。世界が不確かで、不安定で、根拠を失い、可視的な運動に関して大きな文化的不安が広がるなか、現在、ドキュメンタリーはいかにして真実を主張することができるのか?

描かれた声

本稿は、『ストレンジャー・カムズ・トゥ・タウンStranger Comes To Town』 (2007)のメイキングにおけるイメージ、セリフ、思索を提示するものである。この映画は、6人の移民者や旅行者がアメリカ合衆国への国境を越える経験について語る様子を中心に据えたドキュメンタリー・アニメーションだ。著者は、10枚のイメージを選び、そこにそれぞれのインタビュイーの言葉を書き写したものを添える。その後に続くのは、アニメーションを制作していくプロセス(作り上げられたイメージを語り手の「リアル」な声に同調させていくというプロセスから著者が拾い上げたもの、つまりアニメーションにおいて声とテクストはを拮抗す様々な異なる方法)、もしくは、ドキュメンタリーという形式において主観的な手描きのアニメーションを用いるというの破壊的な(驚くべきほどに)所作に関する思索である。

裁判のアニメーション

この論文はまず、コータ・エザワのビデオ・インスタレーション『シンプソン評決The Simpson Verdict』を、コンテンポラリー・アートの地平において高まりつつあるアニメーションへの関心という広い文脈において考察する。まず、芸術家によるアニメーションの急増における3つの傾向——映画史の重要な瞬間をアニメーション化する作品、「リアリティ」をアニメーション化する作品、カートゥーンやテレビ、ビデオゲームなどポピュラー・メディアを素材として使う作品——を探りながら、その後、既に露出が過度となっている実写のフッテージを描き直すエザワの作品と、実写映像が存在しない(しえない)場合に映像的な補足としてアニメーションを用いるドキュメンタリー作品との違いについて考える。

ライアンを再演する――ファンタスマティックとドキュメンタリー・アニメーション

本稿では、ドキュメンタリーとして理解される作品において、ステージ上での再演を用いるという関連からドキュメンタリー・アニメーションについての議論を行なう。議論のために主に依拠するのは、ドキュメンタリーにおける再演についてのビル・ニコルズの近年の考察である。そこで彼はドキュメンタリーの再演について、「ファンタスマティック」かつ再帰的な性質を持つと語っている。これらの性質はアニメーションにおいて鍵となる属性と緊密につながりあい、ドキュメンタリー・アニメーションを、重要かつ興味深いハイブリッドな創造的形式とする。鍵となる概念はクリス・ランドレスの『ライアン』(2004)をケース・スタディとして適用される。この作品においてランドレスはファンタスマティックなビジュアルを展開することで、ドキュメンタリーにおける真面目さという慣例的な言説を不安定化させ、その鏡的な言説である譫妄状態の方向へと進んでいく。そして部分的には、視覚的シミュレーションという領域におけるアニメーション(さらにはアニメーション・ツール)の現状を探っていくことになる。

事実を元にアニメートする――『ザ・テン・マークThe Ten Mark』(2010)におけるドキュメンタリー・アニメーションの遂行的(パフォーマティブ)プロセス

この論文は、アニメーション映画がいかに現実世界の出来事、人々、場所を再提示・再解釈するかということについての考察を、今日まで見過ごされている領域——パフォーマンスのプロセスとそれがドキュメンタリー・アニメーションにおいてどのように現れるか――にフォーカスを当てることで行う。ここでのパフォーマンスとは、我々が演劇において理解する単純な意味(誰かが役を再演すること)ではなく、アニメーターが、事実のもとづいた素材の解釈のために特定のアクションを演じるという意味である。中心となる問いは以下となる。「パフォーマンス(遂行)」およびそれに関連する「パフォーマティヴィティ(遂行性)」という概念が、アニメーション化された、もしくはノンフィクショナルなアクティングの理解のためにいかに役立つか?アニメーションにおける演技の観念(そしてアニメーティングという演技そのものが例示するパフォーマンス)を考えることでいかなる存在論的な問いが提起しうるのか?リアル/事実をベースとした物語であると主張するアニメーション作品に対し、観客はいかに関係し、解釈し、そして「信じる」のか? この論文は、『ザ・テン・マークThe Ten Mark』という近年の作品をケース・スタディとして用い、これらの問いに対してありうる答えを探求していく。

カリグラフィーのアニメーション――不可視なものをドキュメントする

カリグラフィーによるアニメーションは、ドキュメンタリーの座を、表象からパフォーマンスへ、指標から動く軌跡へと移動させる。アニメーションは、アラブ語の筆記が、とりわけイスラム芸術の文脈において何世紀にもわたって探求してきた変容的かつパフォーマティブな性質にとって、理想的な活動の場である。イスラムの伝統では、筆記はときにドキュメントであり、ときに不可視なものの表明である。さまざまなイスラムの伝統におけるテクストと筆記の哲学的・神学的な含意——文字の神秘的な科学、シーア派の思想と結びつく秘匿という概念、パフォーマティブもしくは護符的な筆記の性質を含む――が、コンテンポラリーな芸術作品にも活気を与えることになる。歴史的な迂回を行うことで示されるのは、アラブのアニメーションは、イスラム芸術から直接的に由来するわけではなく、イスラム芸術からインスパイアされた西洋式の美術教育、そして西洋の現代美術におけるテクストの特権化から出てきているものであるということだ。ムニール・ファトミ(モロッコ/フランス)、クトルグ・アタマン(トルコ)、パウラ・アブード(オーストラリア)といったムスリム・アラブ世界出身の多数の芸術家たちによって、筆記は不可視性の宗教的な次元から世俗的な次元へと越境する。さらにいえば、アラブやイスラムの伝統におけるテクストをベースとした芸術の豊かさは、テクストをベースとしたアニメーションの実践者そして研究者に大きく関係しているのだ。

リアルをアニメートする――ケース・スタディ

ドキュメンタリー映画制作における証言収集の倫理は、とりわけクロード・ランズマンの記念碑的作品『ショアー』(1985)以来、長年にわたって学術的な議論の主題となっている。一方、潜在的に映画の主人公になりうる人物が自らの物語を語ろうとするとき、なんらかの原因によって語りえない場合がある。トラウマを表象化しようとする際、言葉はそれを失敗することがあるからだ。この論文が語るのは、その一例として、ロンドンに来た難民をテーマにしたナショナル・ジオグラフィック社のための三部作ドキュメンタリー・シリーズを作った際の著者の経験である。その際、ラカンの精神分析の概念を用いることで、このシリーズにおいてアニメーションを用いるに至った経緯について理論的な枠組みを提供する。

『戦場でワルツを』における回想のアニメーションと鑑賞者としての経験

この論文は、アリ・フォルマンによる戦争回想録のアニメーション『戦場でワルツを』(2008)が、戦争の記憶への言及と道徳的立ち位置とのあいだにいかにして折り合いをつけたのかを探る。この映画は、アニメーション以外には表象することが困難もしくは不可能な題材を取り上げるに留まらず、観客とドキュメンタリー・テクストとのあいだに新たな可能性を育むツールともなりうるドキュメンタリー・アニメーションの可能性がの例証であるということを、本稿は論じる。この観点から著者が論証するのは、『戦場でワルツを』のユニークな美的選択――その革新的なアニメーション技術、そしてファンタジーとリアリティをミックスするやり方――が、観客に対して、作品の内部に、豊かで一貫し信頼するに足るリアリティの感覚を総合的に作りだすのを邪魔するどころか促進しているということである。そのために著者は『戦場でワルツを』の内容と形式の分析をその受容についての解説と合わせて行なう。そして、『戦場でワルツを』が個々人に対してある種の身体的反応を生み出すその方法について論じ、こういった反応が引き起こしうる政治的重要性について考察する。

写真の痕跡をアニメートし、ファントムとファンタスムを交差させる――コンテンポラリー・メディア・アート、デジタル・ムーヴィング・ピクチャー、そしてドキュメンタリーの「拡張した領域」

この論文が考察するのは、さまざまなプラットフォームにおける現代のメディア作品が、デジタル上で作られた運動によって写真をアニメートすることにより、写真に刻印されたリアリティについて新たな外観をもたらしているという点である。これらの作品は、著者が呼ぶところのデジタル・ムーヴィング・ピクチャー、つまり写真的静止と映画的運動がデジタル上のイメージ生成システムを経由し単独の写真のフレーム内部で相互関係を築いていくハイブリッドなイメージに基づいている。著者は、ジム・キャンベル、ケン・ジェイコブス、ダヴィット・クレルボ、ジュリー・メルツァー、デイヴィッド・ソーンの作品を分析することで、こういったピクチャーが、実写とアニメーションのあいだ、そして記録されたものと操作されたものとのあいだの境界線を曖昧なものとすることで、ドキュメンタリー的なエピステフィリア(知ることへの欲望)を満たし、ドキュメンタリーに接するかのように見者が、「思索」かつ「調査」しつつ写真的痕跡に関わっていこうとする気持ちを喚起する。デジタル・ムーヴィング・ピクチャーは、ドキュメンタリーの拡張する領域(ロザリンド・クラウス)を心に描くことをわれわれに要求するだろう。その領域では、ドキュメンタリーについてのモダニスト的概念を規定する一連の二項——たとえば、アナログのフィルムおよび写真が持つ写真化学的な性質を、アニメーションもしくはレンダリングされた映像イメージよりも表象機能において信頼に値すると看做し、優越的に考えること――が問題として取り上げられる。

ガラクタ——歴史という水煙

著名なコラージュ映画作家ルイス・クラーが、自身の映画作品から引用した個人的な記述とイメージのコラージュを創り、自作の切り絵アニメーション映画について省察を行う。この論考は、クラーの芸術創造のプロセス、そして、歴史や時間の経過における儚さについて探求するため、人工物、文書、破片を利用することを論じる。アニメーションによる運動と静止の利用、そして過去の対象を再度アニメートするという考え方についても言及される。

「僕を閉じ込めないで」——『ウェイキング・ライフ』と『スキャナー・ダークリー』における曖昧な線

この論文は、『ウェイキング・ライフ』と『スキャナー・ダークリー』の映像スタイルの評価を試みる。その際、これらの映画の美学の分析を主として行う。これらの作品で用いられるロトショップは、キャラクターや主題を描き出す表現の手段であり、それによってアイデンティティは、固定・安定したものというより、多面的にスケッチされるようなものとなる。しかしながら、美学的に境界線と戯れることは、トラブルを抱えたアイデンティティへの主題的な先入観を詳細に記述するための手段以上の反響を孕んでいる。この二本の映画においては、そういった表象が重要となっているわけだが、一方、絶え間なく動く、横滑るキャラクターの輪郭線は、実写とアニメーションの境界線が曖昧なものとなっていることへの言及でもある。本稿の議論の中心となるのは、これらの二本の作品を理解するにあたってのアニメーション化された線の利用である。線は、ロトショップの利用と、この二本の映画が提起する諸問題を探るための弾みとなるのだ。本稿は、以下の主要なアイデアについて考察する――アニメーション化された線とその美学的分析、ロトショップというテクノロジー、断片化されたアイデンティティの表象、フォトリアルな映画とアニメーションのあいだの関係(とりわけナラティブやスペクタクルに焦点を当てる)。著者はテクノロジーとスペクタクルというコンテクストの内部でロトショップのことを提出する。産業上の実践を考慮にいれることにより、ロトショップのような技術的革新がいかに実写映画に変容をもたらすのかを評価することが可能になるのである。

不気味な指標――ドキュメンタリーとしてのロトショップ・インタビュー

この論文が考察するのは、ボブ・サビストンが1997年から2007年のあいだに制作したインタビューのアニメーション化と、それらの作品をドキュメンタリーとみなすことが持つ含意についてである。著者は、これらの作品が、リアリティと見せかけ、観察と解釈、現前と不在のあいだの緊張関係と交渉を行なう閾値的・言説的テクストであることを論じる。問題とされる短編作品のテクストを分析していくことで分かるのは、これらの作品の美的な提示は、ドキュメンタリーとしての地位を確かなものとすると同時に、ロトショップの表現主義的な可能性を開拓もしているということだ。ロトショップの本性は、インタビュイーの物理的な身体の不在を強調しつつ、表現的に過剰なアニメーションのスタイルへとそれを置き換えていく。ドキュメンタリーとしての真正さ・証拠、つまり視覚的指標などの慣例的な標識は、これらの作品においては欠如している。これらの欠如は、美学的に閾値的なものとなるアニメーションのスタイルと組み合わせられることにより、喜ばしく複雑ながら認識論的にかつ現象学的に問題を提起する鑑賞体験を作り出すのだ。

ロト‐シンクレシス――ロトショップ・アニメーションにおける身体と声の関係

ロトスコープのデジタル版として特許登録されているロトショップは、視覚的に革新的なプロセスであると論じられてきたが、その聴覚的な革新の可能性については見過ごされてきた。ロトショップのアニメーションにおける「トーキング・ヘッド」の度重なる再登場は、映像に対してと同様、サウンドトラックに対しても、批評的考察を促すものでもある。この論文は、ミシェル・シオンの議論を追いつつ、スクリーン上の身体を変容させるこの新たな方法が、身体とそれに伴う声とのあいだの関係性についての再想像を含むことを論じる。ロトショップを用いた実験的短編作品『フィギュア・オブ・スピーチ』と長編インディーズ作品『ウェイキング・ライフ』、『スキャナー・ダークリー』の分析を通じて、声と身体のあいだの同調における様々な異なる可能性を検証する。これらの議論は、声が身体の「真正性」を保証するリップ・シンクロナイゼーションについて広く受け入れられている約束事性への固執から、言葉と身体の運動がそれぞれ独立した純粋なる形式へと分解されていく自由な浮遊的集合体までカバーするだろう。

インディペンデント・アニメーション、ロトショップ、実践のコミュニティ――『スキャナー・ダークリー』から見えてくるもの

この論文は、2006年映画『スキャナー・ダークリー』が用いたボブ・サビストンのロトショップというソフトウェアの分析を通じて、アニメーションの実践の特別な一端について考察する。「実践のコミュニティ」および「正統的周辺参加」という概念について論じ、制作における様々なモードという観点からこの映画を文脈化することで、著者は、このプロジェクトで一定の人々が働くことになった過程や方法について追及する。それに加え、『スキャナー・ダークリー』の制作過程の歴史を概略することで、既に受け入れられている制作実践への様々な仮定や予期が、「インディペンデント」および「スタジオ」製アニメーションについてのより広範な理解へと向かうことを論じる。分業と規格化についての問いや、それらが創造性、自律性、そしてアニメーションの制作へといかに関係していくかという問いも提出される。アニメーション史におけるロトショップのポジションは、これらについて問ううえで、興味深いケース・スタディとなるだろう。

ボブ・サビストンとポール・ワードとの対話

ボブ・サビストンはマサチューセッツ工科大学(MIT)のメディア・ラボで学んでいた1980年代以来、アニメーションの領域に携わっている。サビストンは、ポール・ワードとの対話において、彼が一番親しんでいるデジタル・ロトスコーピング・ソフトウエアであるロトショップの開発について、そして彼に影響を与えた芸術家やアニメーターについて語っている。サビストンの作品の中心にあるのは日常への関心であり、アニメーションがいかにそれを掴み取り、そして創造的に扱うかということである。アニメーションとリアリズム、もしくはアニメーションとドキュメンタリーについての議論がなんらかのかたちで彼の作品と関係してくることは疑いようがない。ロトショップはしばしば、デジタル上での洗練された創造作業というよりイメージのフィルタリングの一形態であると誤解されてきたが、そのことが意味するのは、我々がどのようにアニメーションを定義しているのか、「適切な」アニメーション(ある「近道」の逆として)というものを構成するのは何なのか、アニメーションにおける様々な労働を我々はどのように見ているのか、といった議論の核心へ迫ることでもある。サビストンはロトショップ作品と最も強く関連づけられているが、一方で、他のプラットフォーム向けソフトウェアの開発にも積極的に関わっている。

ジョイスをアニメートする――ティム・ブースの『ユリーズ』

ポール・ウェルズによれば、アニメーション作家と、アニメーションによるテクストとのあいだの長期にわたる親密な関係性は、執筆のプロセスと似ている。アニメーションという形式が持つ技巧的感覚は、映画制作のために文学をソースとして用いるときに起こる変容的な側面に光を当てるのである。内面性、翻訳、そしてテクスト上のプロセスなどの表現こそ、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)——複数の語り手が採用され、20世紀初頭の都市ダブリンの社会の表象を構築し解体していく小説——を映画化するのにアニメーションが完璧な手段となり得るゆえんである。この論文の目的となるのは、ティム・ブースの短編アニメーション『ユリーズUlys』(1998)についての考察だ。この短編は、ジョイスの執筆への言及であると同時に、ジョイスの小説の脚色でもある。本稿において著者は、『ユリシーズ』を補強する「イメージ・スキーマ」、そして、文学およびアニメーションによるテクストの両方に対する人間の認知に意味を与える「小さな空間の物語」を回復するため、ブースがアニメーションを利用することを考察する。

人類学の視線を通してアニメーションを読む――サハラ以南アフリカ・アニメーションに関するケース・スタディー

本稿の狙いは、人類学が、現在西欧の学術的言説において流通している支配的なパラダイムから距離を置く一群の新しい批評的モデルを、どのようにしてアニメーション研究に提供できるかという主張を示すことである。筆者は、アニメーションを読み解く際、それらのモデルがどのように利用できるかを議論し、アニメーションを読み解くことへの学際的なアプローチの利点を広く知らせる裏づけの事例として、サハラ以南地域のアニメーションを活用する。このようなアプローチは、人類学からアニメーション研究へ、アニメーション研究から人類学へという二つの方向性を持つ。本稿は、アニメーション理論はどのように人類学から利得を得そうな形勢にあるかを示し、そこでまた、アニメーションは視覚的人類学における研究者の方法論の中にどのように含まれ得るかを説明する。

プロダクトデザイン操作文化としてのCGアニメーション、もしくは売場へ、レジへ、さらに向こう側へ進むバズ・ライトイヤー!

映画的なイメージと工業商品との関係性は、20世紀の間、多くのプロダクトプレイスメント研究の主題であった。本稿は、現代のコンピュータによる遠近法とレンダリングの自動化が、映画的なイメージと製造品との関係性に対して広範囲に渡って影響を与えると主張する。ルネサンス遠近法の出現はイメージと対象とのあいだに新たな関係性を構造化し、そのどちらもが幾何学的・数学的正確さで視覚的に再現され得ることを目指し合理化された。このことを出発点とした現代のコンピュータジェネレーテッド(CG)アニメーションは、ルネサンス遠近法の「視覚的唯名論」を更新するわけだが、一つの決定的な違いがある。つまりコンピュータアニメーションは、遠近法的なイメージに時間という第4の次元を加えるのである。これは、ルネサンスの手描きによるイメージ作業や、機械的に再生産された映画とも質的に異なるイメージ形式を促進し、なおかつ、それらの代わりに、手描きであると同時に機械的に再生産されたイメージ形式を促進する。このような違いが持つ意味合いが、現代の長編CGアニメーション映画の詳細な分析を通して探究される。その試みは、映画的なイメージ作業と消費文化における将来の発展を理解するに多くのことを提供するだろう。おそらくもっとも重要なこととして、CG長編を主な舞台にする物体とキャラクターたちは、工業製品デザイン工学における現代の実践(「プロダクトプレイスメント」を今日的に理解するための相当の含意を持つ発展)に総体的に関連する。画面上のすべてのものが、文字通り、産業的に製造され用意周到に配置された製品であるとき、映画に関する伝統的な諸理論、広告、消費文化は三角法で再び測定される必要がある。本稿の主張は、多くのCG長編が、映画イメージと製造品との関係性に向かって重層的なレベルでアプローチすることを要求するということである。

フォノグラフ玩具と初期有声カートゥーン――可視化されたフォノグラフィ史に向けて

1909年から1925年までの間に、蓄音機の回転運動によって動く多くの玩具が特許をとって生産された。本稿で筆者は、そのような「音玩具」が有声カートゥーンの系譜に関する我々の理解を補足し精緻化すると主張する。また、ポピュラー文化における録音は、映画、ヴォードヴィル、新聞漫画同様に、初期有声時代のアニメーターたちにとって表現の重要な源泉として考察されるべきだと提案する。1920年代末および1930年代初めに、ディズニー、フライシャー、ワーナーブラザーズ、ヴァン・ビューレン、アイワークス・スタジオが製作した有声カートゥーンと音玩具に共通する家族的類似の布置を概観することで、本稿は、この時代の有声カートゥーンと蓄音機文化との相互関係を明らかにする。それは結果的に、音声/映像の同調に対する戦略はもちろんのこと、人種、民族、ジェンダーの表象に関わるアニメーション研究上の諸議論に新たな観点を提供する。

全体論的な有生性(アニマシー)に向けて――東アジアの思想を反映するデジタルアニメーション現象

2009年発表された論文で、筆者は、アニメーションがコンピュータテクノロジーと組み合わせられたとき、人間にとって有意味となる様々なレベルの生気を保った運動をいかに作り上げるかを提示した。本稿はそれを受け、知覚心理学・認知心理学の洞察に拠りつつ、デジタルアニメーションによる諸現象を分類するため、生気に関する新しい類型論を提案する。同分類は、道教と神道の中核的な思想を含め、東アジアの伝統におけるホリスティックな思考を反映しつつ、デジタルで仲介される今日の環境における生気の均衡と広がりを強調する。日本のアニメーション映画『攻殻機動隊』(押井守、1995)の中のモンタージュシークエンス、上海万博で展示された中国画『清明上河図』のアニメーション版、日本の携帯ゲーム機用に発表されたビデオゲームである『エレクトロプランクトン』など、現代の東アジアで制作されたアニメーションからの事例分析を用いつつ、筆者は、今日のデジタルアニメーション現象がアニメーターやコンピュータ、さらには観客/ユーザーまでも統合し組み込むと主張する。それは、生命の幻影を追求するということにおいて、人間‐機械の関係に対する思考を刺激するのだ。

影のスタッフ――東宝航空教育資料製作所(1939-1945)のアニメーターたち

これまで日本のアニメーション史の研究者たちは第2次世界大戦中に作られたプロパガンダの漫画映画に注意を払ってきたが、その時期、軍事訓練用のアニメーションはその2倍も製作された可能性がある。現在のところ、所在が分からないそれらの映画は、東宝航空教育資料製作所に配置換えされた一群のアニメーターによって作られた。時には5~6リールの長さ(およそ48分)、そして8リールという長編規模のケースも一つあったが、それらの作品は、1930年代の1〜2リールの短編と、『桃太郎 海の神兵』(1945)という日本初の長編アニメーションとの間のミッシングリンクである。その内容は、真珠湾を爆撃する予定のパイロットのための戦術上の要領、敵艦を即座に見分ける方法、航空母艦の乗組員のための戦闘プロトコルの案内などを含んでいた。本稿は、現在利用可能な資料から、その「陰のスタッフ」の実態と成果を再構築し、彼らが日本アニメーション産業のナラティブから排除されたこと(と、そのナラティブへ取り戻すこと)を考察する。

『アバター』とユートピア

多数のレイヤーを単一のイメージに合成することは、ライティング、グレーディング、エディティングにおける複数の課題をもたらすが、それぞれに異なる方法自体は、一貫していると明白に分かる空間を創造する仕事において、美学上の課題を生み出す。その課題は非常に大きいものであるが、まずデジタルのスクリーンと映写機がまかなえるのは、非常に限られた画面表示の形式のみという理由から、そしてそれらと関連するコーデックも、空間の構築を2次元の直交座標に従わせざるを得ないという理由からである。『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)は、一貫した物語内現実(ディエジェーシス)の構築を試みるが、以上のような課題のために失敗する。さらにその課題は、モーションキャプチャのような他の技術分野とナラティブにおいて倍加される。イデオロギー的な読解は否定的な反応を提供できるのみなのだが、注意深い分析は、合成を伴う実写映像とアニメーションのスペクタクルにおいて、ユートピア的な可能性をも明らかにするのであり、これらのこともまた、批評的な蓄積の一部となるべきなのだ。

立体映像的な国民の創生――ハリウッドとデジタル帝国、そしてサイバー・アトラクション

本稿は、『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)は立体映像技術、映画、アニメーションの発展における重要な契機であると主張する。『アバター』は、美学的/形式的レベルにおいても、ナラティブの見地からも、ヴィクトリア期の立体視覚技術、アメリカの映画制作、それらに伴って巻き起こった民俗誌学および環境破壊に関する人種主義的な言説へと語りかけ直す。D.W.グリフィスの映画『國民の創生』と並んで、「先住民」に関する19世紀の立体写真と、その先住民たちの資源豊かな環境をエコーとして響かせているが、『アバター』は過去の残虐行為を克服しつつ、そのような行為を我々の時代に関連づけることも試みる。そのような克服は、より微妙な存在論的レベル上でも発生する。一種の「サイバー帝国」の内部に起源するヴィクトリア期的な立体写真イメージの工程は、サイバーシステム時代における文化の産物としての『アバター』の、現代における位置を明らかにする。立体視覚の形式は視覚のプロセスにおいて身体の役割を強調することにより近代の視覚的体制を破裂させるがゆえに、評判では平面写真におけるイメージの工程が人気の面でそれに取って代ったという主張がなされてきた。『アバター』のCG合成形式が巧みに回避するのは、そのような方程式である。つまり写真は、鑑賞者が指標的な形式を眺める過程の中で自分の身体を意識することを最小化させようと追求したのかもしれないが、そのような考え方は捏造されたCG合成物の時代においては有効性に疑問が残る。立体写真の諸起源が写真に先行したとするならば、そして立体写真の基礎になるイメージが手描きだったとするならば、立体写真史においては技術的な脚注でしかなかったものが、いま、『アバター』と新しい「近代のサイバー体制」の理解において、核心的なファクターになる。

『アバター』――立体視覚映画と気体的な知覚、そして暗闇

本稿が提供するのは、3D映画の経験に関する理論的な分析である。その際、とりわけ注意を払う問題は、3Dメガネのような付加的な装置・メディア・フィルターといったものが、映画のイメージ対する観客側の一層高いレベルのリアリスティックな知覚を可能にする逆説的なやり方である。3Dメガネが、映像と観客との間に付加的な装置・メディア・フィルターなどの構成要素になるということは、究極的には、「固体的」な知覚と「気体的」な知覚との間の(つまり簡単にいうと、対象を固体性のバリアーとして見ることと、染み込み得るものとして見ることとの間の)違いに関する、そして知覚そのものにおける「暗闇」の重要性に関する、より一層抽象的な議論へ進むはずである。筆者の主張は、ここで3Dメガネという付随的なメディアムと同等視される暗闇が、映画を観ることにおいて核心的でありながらもこれまで看過されてきたということである。それは3D映画によってようやく明確化される側面である。筆者は、このような論点を背景に『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)を分析することで、3D映画の経験に関する理論的主張のいくつかを規定しようと試みる。

運動を見るということ――モーションキャプチャ・アニメーションとジェームズ・キャメロンの「アバター」に関する考察

本稿は、モーションキャプチャ(mocap)アニメーションが運動を映画に対して独特な方法で関連づけると提案する。それは、モーションキャプチャ・アニメーションにおける運動が前映画的(profilmic)性質の一部というより、むしろその運動自体がをそもそも前映画的なものという側面からである。;文章を二つに分けました。pro-filmicという単語が非常に訳しにくいものですが、山形ドキュメンタリー映画祭のある文章で「前映画的」となっており、これを採択できればと思います。モーションキャプチャは、対象そのもののデータというよりも、空間における前映画的な対象の位置の変化のデータから構成されるイメージを記録する。運動と対象との間のそのような臨界的区別を利用しながら、筆者はモーションキャプチャの経験がイメージの本性を変容させ、そうすることでモーションキャプチャは、見る感覚というよりも存在するという特殊な感覚を含むということ、さらにいえば存在するという特殊な感覚そのものでありうるということを主張する。ジェームズ・キャメロンの『アバター』(2009)がモーションキャプチャ・テクノロジーを応用するのみならず、見る行為を主題として取扱うことに因んで、筆者は、モーションキャプチャと「見る/存在する」こととに関する命題を説明するものとして同映画を用いる。この過程において、筆者は、映画を観る際、光を見るという我々の経験を再検討し、モーションキャプチャおよび運動の経験は映画に対する我々の関与をどのように変容させるかを考察する。本議論は、ムーヴィング・イメージに対する我々の理解と相互作用とに関するだけではなく、我々は運動と存在、そして光と暗闇の中に収められている映画の世界における感覚的経験の総体をどのように理解できるかという問いへ向かう。

(デジタル的に)先住民になるということ

本稿はまず、『アバター』は、ドキュメンタリーの地位を獲得するほどの人類学的、歴史的正確性によってそのラディカルな政治-美学的ファンタジーを正当化するため、認識論的見地から科学的な「記録物」に頼っているということを論証する。筆者は、『アバター』が、観客をその事実の仮説者兼その実験者として構築し、さらには彼らを、そのフィクションに対する批評家として構成することを証明する。第二に筆者は、美学的想像力が科学的正当性に関する判断の代行をするように、『アバター』における科学的正当性が美学的想像力に関する判断の代行をどのようにするのかを説明する。第三に筆者は、『アバター』が科学的リアリズムに関与するラディカルなスペクタクルのアニメーションであると同時に、ラディカルな政治的ファンタジーに関するスペクタクルのアニメーションであると主張する。最後に筆者は、同映画がアイデンティティー形成のためのオルタナティブなモデルをどのように提供するかを論証する。それは内面化という精神分析的プロセスではなく、事実上、近代的ヒューマニズム(人間中心主義)からかけ離れている生命形態への投影という準現象学的プロセスに基づいている。つまり非人間的な存在、動植物界、さらに全員が相互依存的・協力的・共同構成的・共同創造的に参加する生態系と共生的な同盟関係を形成する社会的関係モデルへの投影のプロセスにあたる

コードが衝突する場所――『アバター』の創発的な生態学

生態学的なアプローチは、『アバター』の物語世界に一つの洞察力を提供する。そのアプローチは本稿において、同長編映画とその関連テクスト(制作現場の開示、メーキングの特典映像、インタビュー)との関連性の探究のために拡張される。グレゴリー・ベイトソン、フェリックス・ガタリ、ジェーン・ベネットの生態学的思想に拠りつつ、本稿は「アバター」およびその関連テクストが、創発的空間に関する一種の生態学として考えられると主張する。このような空間の物質性は、その編成に関わるアニメーション・ソフトウエア、モーションキャプチャ・テクノロジー、俳優、デザイナー、監督など様々な実在物から見出される。以上の主張は、主に『アバター』におけるCGイメージの生態学に関する我々の理解を、リアルタイムのモーションキャプチャ・テクノロジーがどのように変容させるかという議論を通して進められる。同映画におけるイメージのリアリズム、もしくはそれらの内側にある人間的なものの痕跡のみにフォーカスを当て続けると、創発的空間がどのようにコードの交差点に出現するかを見失うことになってしまうのだ。

「表現の新しいモード」――1930年代フランスのアニメーションに関する思考

1930年代のフランスで、大衆出版と映画雑誌はアニメーションについての活発かつ多面的な議論を提供した。本稿は当時の言説の内部において、アニメーションが一つの新しい芸術形式としていかなる表現的潜在力を持つものと考えられ、どのような展望によって眺められたのかを調査する。また、同形式に関する様々な考えが、アニメーション美学、アニメーションと他の芸術・文化形式との関係性、アニメーションの歴史という見地から、どのように表現されていったのかを追跡する。アニメーションの受容と言説に焦点を当てたアニメーション史の研究方法を進展させることで、本稿は、アニメーションに対する観念が文化的にいかに形成されたのかを詳述する。

ウィンザー・マッケイ作『恐竜ガーティ』(1914)のメーキングとリメーキング

ウィンザー・マッケイは『夢の国のリトル・ニモ』のような伝説的なコミックスを創造しただけではなく、アニメーション先駆者の一人であった。そして彼の『恐竜ガーティ』(1914)はアメリカ最初の傑作アニメーション映画だった。「ガーティ」には二つのヴァージョンが存在すると知られている。最初のヴァージョンでマッケイは、スクリーン上に投影されるガーティという名前の恐竜のアニメーションと共にヴォードヴィルの舞台上に出演し、後のヴァージョンでは、ウィリアム・フォックスのBox Office Attractions Companyによって撮影、配給された実写のプロローグとエピローグを含んでいた。フォックスのヴァージョンは、原本のナイトレート・プリントとして現存するが、マッケイのヴォードヴィル・ヴァージョンは在り処が不明である。しかしマッケイの334枚の原画を調べると、ヴォードヴィル・ヴァージョンが終わるあたりにフォックス・ヴァージョンに含まれていない「カーテンコール」シークエンスがあったことが分かる。失われたセグメントの元になった15枚の作画のおかげで、デジタル・テクノロジーを取り入れたガーティ・プロジェクトはそれらを再構築することができた。筆者らは、ガーティのヴォードヴィル・ヴァージョンの年代をより正確に定めつつ、マッケイの元来の注釈を解読することで、「スプリット・システム」を含め彼のアニメーション手法を実演した。筆者らは、ガーティのため1万枚の作画をしたというマッケイ自身の主張を検証する。サイレント映画としてのアニメーションにおける一つの節目に関する歴史的分析の結果を通し、ウィンザー・マッケイの芸術的完成度、歴史的真正性に関する様々な争点、アーカイブにおけるデジタル再構築の意味合いが議論される。

マイブリッジの幻灯

エドワード・マイブリッジは、人間および動物のロコモーションの高速度撮影とその研究に貢献したことで広く知られているが、19世紀末の数十年間は幻灯巡業でも名声を同様に獲得していた。当時、彼は写真家として、自らの映写機ゾープラクシスコープを通して制作されたアニメーションと静止画とを交互に見せる、多属のマルチメディア・ショーで観客に娯楽と教育を提供した。本稿は、マイブリッジの幻灯活動が、時間と時間性はもちろん、視覚と視覚性についての認識論的な変容を取り巻く19世紀の不安にどのように基づいているのかを論証するために、その活動における時間的、物質的側面を調査する。マイブリッジはアニメーションを、静止イメージが動くようにアニメートする動的なプロセスとして看做し、動物たちの不恰好なイメージを人間の自然な視覚領域へもたらすための一時的な対策として扱った。そうするなかで彼は、幻影を通じて真実を培いつつ、観客が、当時浮上しつつあった映画的感受性を前もって整えるための手助けをした。筆者はさらに、写真的指標性の時間的側面を強調することで、マイブリッジの試みは時間のアーカイブ化に等しく、彼にとって幻灯は、物質化された時間を提示すると主張する。かつてスライドによる投影が展示したのは仮想の非物質的なものだが、割れたスライドを調べると、写真的な美がその短命性と脆弱性から浮かび上がってくることが明らかになる。静止と運動との間、物質性と非物質性との間のアニメーション的交替は、映画の出現の中で定着した、時間および視線を取り巻く認識論的な仮定と不安の出現を示すものとして機能する。

2Dアニメにおける押井守のマルチ・レイヤー空間の制作

本稿は、日本の空間的装置であるレイヤリングのことを明らかにする。西洋の遠近法とは対照的に、レイヤリングは、2次元のイメージを重ねることにより輪郭と共に深みを生み出す。3つのレイヤーに関する押井守自身の理論化を通じて、筆者は、伝統的な木版画とアニメにおけるレイヤリングの応用を調査し、芸術形式としての書道からレイヤリングが派生したことを考察する。本稿が提出する見解において、アニメのレイヤリング・システムは、統一された遠近画とは異なり、複数の異なる作画スタイルを重ねることを可能にする。さらに、押井監督の映画を通して、視覚的・聴覚的交換における彼の実験と、アニメにおける間、ポーズ、休止という概念の時間的応用を探究する。そして最終的に目指すのは、時間的・空間的経験の一場所であるアニメを検討することで、間とレイヤリングという概念を追求することである。間の時間的・空間的概念に関しては、仮名と漢字を組み合わせる日本の文字言語によって生み出されたと推測される。

今敏の『千年女優』――夢のような特質を伴うある女性の旅程

今敏は、精神的な錯乱もしくは夢のような変造された心的状態を提示する作品、ストーリー、イメージで知られる日本のアニメーション映画監督である。筆者は『千年女優』(2001)を彼の最高傑作と考えるが、この映画は、虚構的な女優の伝記という物語を創り出すため、夢幻的なスタイルのアニメーションとフィルムメーキングとを用いる。同映画で今敏は、20世紀初め以来、およそ100年間にわたって進展してきた、夢の機能とその力学に関する諸理論と発見を具体化する。同作品の夢幻的な性質を精神分析/心理学の諸理論と神経学的な枠組みを用いて探ることにより、女性の旅立ちに関するそのストーリーを、集団的無意識および神話的物語構造、さらにはストーリーテリングを夢状態に至らせる映画的な編集手法との関連において明らかにする。

キーフレーム・アニメーションの美学――労働、初期の発展、そしてピーター・フォルデス

本稿は、「キー・フレーム」の設定によってコンピュータアニメーションを生成させる作業、つまり「キー・フレーミング」の実践を経由するCGアニメーションの中核的なメカニズムと美学を調べることで、同分野における無重力の動力学を議論する。筆者は、キー・フレーミングの実践こそが、コンピュータアニメーションが連想させる重力の欠乏感にもっとも影響すると主張する。より一層重要なのは、キー・フレーミングにおいて用いられる変形(デフォルメーション)法が、初期アニメーションの人気スタイルだったゴムホース・アニメーションを不意に喚起するということだ。ゴム質の弾力的な運動は、ディズニーにおいて「原形質的(plasmatic)」なものとしてエイゼンシュテインに印象を残したものである。ゴムホース・アニメーションは、新しい自動化された運動を持って、自由な歪曲とメタモルフォシスを探究したピーター・フォルデスの先駆的なコンピュータアニメーション作品において再登場したのであり、アニメーション産業がゴムホース・アニメーションと共に始まった地点への完全なる回帰であった。

支配機械――デジタルアニメーションと統制のファンタジー

数十年間にわたって、クリエーターは自身の描くイメージに対して絶対的な統制力を持っているという考えが、アニメーション言説の軸でありつづけてきた。コンピュータアニメーションの到来は、近年、そのような議論を再活性化している。SF長編アニメーションである『メトロピア』(タリク・サレ、2009)、『メトロポリス』(りんたろう、2001)、『ファイナルファンタジー』(坂口博信・榊原幹典、2001)は、進歩したテクノロジーによって容易になった高度な芸術的支配力をめぐるユートピア的な白日夢と明らかな懸念を呼び起こす。以上の3本の映画をケース・スタディーとして用いながら、本稿は、コンピュータアニメーションによる未来的な都市空間を統制の建造物として検討する。さらに、人間の形を模倣的に再現したものに対するアニメーターの増大した統制力から生み出されたものであるデジタル上の身体を議論し、コンピュータアニメーションが、イメージに対するその技術的・芸術的支配力を驚異的な偉業としていかに前景化するかを探究する。そうする中で、本分析は、全能のクリエーターという夢が全能な機械へと進化していく様子に光を当てる一方、テクノロジーがアニメーターの労働を侵食し、今日の生産活動のコンテクストにおいてその労働を時代遅れのものにする危険の可能性に関する懸念も前景化する。

『千と千尋の神隠し』――日本の生態学的・環境的言説に関する映画に基づいたケース・ステディーを概念化するということ

本稿は、宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』の内容を環境に関連づけて読解するやり方について、その種のいかなる試みにも同意しないという観点から議論する。本議論は、フィールドワークと二次的資料を通して得られた多様な観点を分析する際、同映画に見られる物理的な設定に関連する象徴主義とキャラクターたちの解釈を行っていく。つまり、1960年代以来続く昭和期日本の高度経済成長期との相互関連、公害を表象するキャラクターたちと伝統的な自然の象徴との対照、消費と廃棄物に関する相関的な思考、自然と人間との繊細な共存、自然に関する伝統的な概念、環境に関する諸解釈と精神性、人間と自然との相互作用、国家レベルと非国家レベルの利害関係者たちに対する日本社会内部の考え、経済的清算の衝撃、開発に伴った共同体の結束における変化などである。この際の方法論は、日本において環境に関連する様々な考えを取り巻く学術的論争とテクスト分析に基づいている。第二の方法論は、以上の論点に関連する教育や執筆の経験を持つ知識人コミュニティ内の指導者や学術的専門家との口頭インタビューに基づいている。結論部分では、『千と千尋の神隠し』の受容と共に、観客が同映画の内容にどのように意識的に反応し、彼ら自身の環境テーマの理解(もしくはその拒絶)へと辿り着くか、その道筋を議論する。

ショット長における宮崎、押井、細田のスタイル――定量分析

グループで制作されるアニメーション映画において、一人の監督は、自らの映画スタイルをどのように表現しうるのか?このような問題への言及のため、筆者二人は、宮崎駿、押井守、細田守、以上3名の監督による日本のアニメーション映画22本のショット長を分析した。我々の分析は、ショット長の統計学的測定が明確にその監督たちに拠ることを明らかにした。宮崎の映画の分析は、彼が長めのショットと短いショットを両方ともに避けることを示す。押井のショット長は平均的に長い傾向にあるが、細田は比較的短いショットを好む。さらに押井と細田それぞれにおいて、統計学的な指数の側面から二人の第1作と後続の作品との間には大きな違いがあることが分かった。それは、彼らがその第1作目の監督もしくは第2作目の監督を務めているうちに、ショット長におけるスタイルを確立させたことを示唆する。筆者たちは、この三人の監督が、ショット長の数値の決定にとって重要なプロセスである絵コンテの作業を通じて、映画のショットをコントロールしていたと結論する。映画内のショット長に、絵コンテ段階のものとの関連が見られるからだ。

モレル_モロー_モレラ――(再)アニメーションの宇宙におけるアドルフォ・ビオイ=カサーレスの発明のメタモルフォシス

アドルフォ・ビオイ=カサーレスの短編小説『モレルの発明』(2003[1940])は、テクノロジーを通して自らを定義するという人間の願望、つまり、まさに仮想化が進む環境の中で技術的分身として人間を再アニメートするという願望を描いている。発明品と(再)アニメーションとの間に形成される特権的な関連を強調するために、本稿は、ファンタスマゴリア、オートマタ、機械環境という三つのアニメーション形式と『モレルの発明』がどのような関係にあるのかを議論する。このような目的のため、本稿はアニメーション理論という分野において、我々がシミュレーションとオートマタを理解する際に重要な論考、例えばアラン・チョロデンコの「アニメーション・オートマタに関する考察」、さらに、ジュベール・ロランセンの著書『La lettre volante. Quatre essais sur le cinema d’animation(盗まれた手紙——アニメーション映画に関する4編の論考)』を調査する。ジーグムント・フロイトの「不気味なもの」における美学の領域への精神分析的アプローチと、森政弘の「不気味の谷」理論のような後続のものもまた検討される。

都市をアニメートするということ――ストリート・アート、Blu、そして視覚的遭遇の政治学

注目すべきウォール・ペイント・アニメーションを創り出すストリート・アーティストのBluが描写する漫画キャラクターたちは、実際の都市の様々な表面沿いと周辺において、そして都市の表面を貫通しつつ跳ね回る。このような活動を通して、彼の映画『Muto(沈黙)』(2008)は、都市空間とその住民たちとの絡み合った関係性を描く。同映画は、都市空間に関する今日の考え方を端的に表す側面を持っている。その考え方は、近代都市が持つ、主に視覚的でスペクタクル的な特徴を強調しつつ、総体化する凝視が個人の身体的経験を省略させる空間としての性格を都市に与える。しかし『Muto』において、Bluは、個別の振り付けで構成されるバレエの複合体としてのメトロポリス(大都会)を構想するために、このような視覚的側面を採用する。パラドクスとしての都市を心に描きつつ、『Muto』は非常にスペクタクル的で、なおかつ、身体化された複数性として都市空間を性格づける。また、アニメーションによる作品として『Muto』は次のような矛盾を形式的にコード化する。つまり同作品は、資本主義的な消耗と枯渇の領域としての都市を描写しながらも、作品そのものの変貌する様々な身体に場所を再定義できる力を吹き込む。作中の変形していく様々な身体、それを観ている観客の身体、そしてアーティスト自身の身体をつなぎつつ、『Muto』は都市空間を複数性の感覚で充満させる。都市的な運動を刻印として、そして都市的な刻印を運動として身体化させるBluの芸術的実践は、身体が住む空間を身体そのものはどのように形づけるかを認知する。

映画的な収集――オスカー・フィッシンガーの『ミュンヘンからベルリンまでの散歩』における静止フレームの連続的な不連続性

ヴァルター・ベンヤミンの主張によると、写真によって触知可能なものになる「偶然ある瞬間」とは、映画においては存在しない。映画は、連続性と現存を生成する、捕らえどころのない瞬間の一時性に拠るものである。本稿はオスカー・フィッシンガーの1927年の実験短編映画『ミュンヘンからベルリンまでの散歩』が、写真と映画との不適合性を提示する方法で両者を組み合わせる一方、その不適合性を乗り越える手段としての新しい視覚言語(つまりラディカルな形式のアニメーション)をも作り出すことを明らかにする。本稿はフィッシンガーの作品を、アニメーションに対して、また、ワイマール時代およびそれ以降のアヴァンギャルドに対しての特別な貢献として検討し、収集、映画、写真、アニメーションの諸理論のための哲学的な含意を解明する。

定量化と代替――ヴァーチャル・シネマトグラフィの抽象空間

空間に価値を与え交換経済へと進入させるために、資本主義は空間を抽象的な計画に還元させる方向に働く。アンリ・ルフェーヴルは、そのプロセスに関して執筆する際に、「抽象空間」という用語を提案し、同空間における論理を詳細に記述する。その論理は、ヴァーチャル・シネマトグラフィにおいてデジタルアニメーションで創出された空間、例えば『マトリックス リローデッド』(アンディ&ラリー・ウォシャウスキー、2003)で用いられた空間でも働く。ヴァーチャル・シネマトグラフィは、総体化された予見可能な空間を創りだし、俳優の代わりに非常に道具的な、なおかつ、管理可能なデジタルの代替物(時にはシンセスピアンとして知られている)をその空間に生息させつつ、幾何学的な抽象化に開かれているものとして、空間と個人を捉える。ヴァーチャルな空間の創出を解釈するためルフェーヴルの研究を用いることによって、今後のコンピュータアニメーションのモチーフと結果とを批判的に評価することが可能になり、ヴァーチャル・シネマトグラフィが、空間を再現し定量化する他の視覚システムと連携する方法が浮き彫りになるのである。

境界の宇宙――ヤン・シュヴァンクマイエルの『フード』におけるピクシレーション化されたパフォーマンス

チェコの超現実主義映画作家ヤン・シュヴァンクマイエルは、葉、壁の表面、靴下、釘、生肉といったものをアニメートすることで知られているが、生命のない物体にとどまらず、ピクシレーションという手法を通して生身の俳優をもアニメートする。本稿は、1992年の短編『フード』におけるピクシレーションを用いた俳優のパフォーマンスについて考察する。同作品は俳優という仲介者と、アニメーターという仲介者との間で一種の弁証法を構築する。本稿における筆者の主張は、シュヴァンクマイエルが人間の仲介者に限界を設定し、また、我々の身体の境界が我々の予想以上に浸透可能であると提案しつつ、身体に基づく自律性の土台を侵食するということだ。

「レミーのおいしいレストラン」における音響的主観性と聴覚的遠近法

本稿は、『レミーのおいしいレストラン』からの諸例を用いることで、聴覚的遠近法を通じたキャラクターたちとの同一化を創出するため、音がどのように使われうるかを検証する。この聴覚的遠近法が生み出されるのは、距離を創出するためのマイクロホンの配置、位置を創出するためのスピーカーの配置、環境を創出するためのデジタル信号処理、我々を内部者もしくは外部者として位置づけ、なおかつ、キャラクターたちの内的な主観性を説明する主観的遠近法で、画面上のイメージを強化もしくは否定することを通してである。

アニメの国のアリス:初期のディズニーアニメーションにおける小児期、ジェンダー、空想の世界

ミッキーマウスの変化自在な世界が1920年代後半から1930年代にかけて小さな子供からヨーロッパの映画制作者や哲学者まであらゆる人を魅了したのは有名だが、ウォルト・ ディズニーがメディア技術を使って小児期の自由な想像力を表現しようとした試みは、彼が初めて成功させたシリーズ「アリス・コメディ」(1923-1927)まで遡ることができる。これはアニメーションで表現された夢と空想の中の不思議の国を探検する少女を実写したもので、もととなったルイス・キャロルのキャラクターと同様、ディズニーのアリスも現代の合理的な生活と正反対の不合理で不思議な世界への架け橋の役割を果たしている。ディズニーはアリスを通して自分自身の文化作品を人々から長く愛されてきた児童文学に結びつけ、独自の視点でアニメ化した不思議の国を少女の無邪気な視点から見たものとして描いたわけである。このシリーズの冒頭では、遊ぶ子供たちを描いた実写ストーリーがきっかけとなってアリスがアニメの国に行き、子供から年寄りまで観ている全ての者を小児期の空想の世界への逃避に誘う。しかし、ディズニーは単に理想化された小児期を実写映画で描くだけでなく、アニメを使うことによって、誰の心にもある空想の世界へ手招きしたのだった。このような子供の視点を強調した実世界とアニメの世界の関係の描写は、当時の早期教育、精神的発育、および合理化が進む世界から小児期を守ることの大切さを取り巻くもっと大きな文化的懸念に訴えかける。本論文では、擬態、行動、「実」世界の転換など、子供の頃の遊びを実写とアニメーションの両方を用いてアリスの最初のアニメシリーズの中で表現したやり方を考察し、ディズニーの初期の作品のインパクトが理想化された小児期の空想ごっこを表現したメディア技術の力や子供の頃の感覚をよみがえらせるアニメの使い方によるところが大きいことを示している。

鳥山明 のドラゴンボールに見られる民話やその他の引用

本論文は、ジャンルとしての日本のアニメの日本の民話との関連性を示し、特に伝統的な物語と神話との間テクスト性がいかに従来の使い方を覆しているかを示そうとするものである。このため著者は、1980年代に初めて出版された当時からずっと人気を誇る鳥山明の大ヒット作「ドラゴンボール」シリーズを取り上げ、「ドラゴンボール」とその主な元となった中国の古典小説「西遊記」の類似点を分析している。しかし、「ドラゴンボール」には他にも宗教や民話に繋がる引用が多くある。著者は、日本の伝統的な民話に対応しているがそれを破壊的目的で使っているアニメから抜粋した例をもとにこの関連性を示しており、分析や文学教育に有用な内容の濃い資料となっている。

認知アニメーション理論:プロセスをもとにしたアニメーションの読解と人間の認識

本論文では、プロセス哲学の観点からアニメーションと人間の認識の考察を行い、アニメーションのプロセスと人間の認識イメージのプロセスの間にあるいくつかの共通点を明確にしている。そのなかで、今までになかったアニメーションの認知論を示唆しているが、これは鑑賞した映画に対する認知的反応のみを扱う傾向がある多くの映画論に関する文献とは大きく異なっている。その代わり、本理論では、認知イメージの利用に関する考察を合わせることによってアニメーションを他の媒体とはかなり離れた場所に位置づけることができるプロセス哲学をもとにした考え方をいくつも取り上げている。まず、アニメーションという形式においても人間の認識においても動きやイメージははっきりと識別されたものだと認識すべきだと提言する。次に、アニメーションと認識イメージは、独自の一連のプロセスのサインとなってより素晴らしい創造的・認識様態的可能性を促進するたくさんの層から構成されていると示している。そして最後に、音響の影響や相対的な変容の使用の考察を行なっている。

哲学者の観点から:アニメーションに対する素朴な視点

映画哲学や視覚的美学などに関心を持つ哲学者はごく少数いるかもしれないが、それ以外でアニメーションが哲学者から多くの関心を集める対象となったことはない。だが、哲学的思考の側面がアニメーションに関連している可能性は大いにあり、実際にアニメーターやアニメーションの理論家は哲学に関心を示してきた。最も多いのは時間、動き、プロセスについてであるが、ある分野で働くなか哲学を活用することと、その分野についての哲学的考察を行うことは全く異なる。この明らかに素朴なアニメーションに対する視点は―アニメーションで哲学したのではなく、哲学的にアニメーションを考えたために素朴なのだが―特に映画製作としてのアニメーションに焦点を当てて、はっきりと哲学的視点からアニメーションを検討している。

どうしてもサイズがぴったりしない:CG映画におけるデジタルスケーリング

現代のデジタル文化では、コンピュータのサイズが縮小している一方、コンピュータネットワークはますます拡大している。同時に、個人が自由に利用できるテクノロジーがずらりとある一方、人々は大量の選択肢や情報に圧倒されたり、詳細で立ち入ったデータ収集の対象となったりしている。本論文では、「ジャックと天空の巨人」、「パシフィック・リム」、「シュガー・ラッシュ」などの大きさの差の物語を含む近年の映画の中に見られる、微小と広大・巨大の間の二分法を考察する。著者は、これらの映画におけるスケールの表現は、そのスケール効果や画像の制作に用いられたデジタル技術に対する間接的な論評だと提唱し、デジタル画像と技術に関わる抑制と過剰、制御できるものとできないものの寓話としての役割を果たしていると示唆している。

スケールを変えた旅のドキュメンタリー:身体と生命の限界のアニメーション化

「Scalar Travel Documentaries」およびその対話型メディア用の翻案では、身体の内部や物理的世界などのモデルが様々なスケールで描かれている。これらは、より包括的な画像をアニメ化して微視的および巨視的なスケールで表現することで、科学者が万物の構造の理解を深めることに役立っている。本論文では、スケールの詩的側面やこれらのドキュメンタリーで使われた様々な修辞的メカニズムについて考察している。映画 「Powers of Ten(10のべき乗)」 や「Cosmic Voyage(宇宙への旅)」 などでは、自然界の基礎構成の規則正しさを示すあらましが宇宙における人類の立ち位置のイデオロギー的な言説を生み出している。これらの映画が創りだす機械的な視点は、知識の新たな様式や私たちのポストヒューマン的な認識の有用性を明らかにしていると論じている。最後に、スケールドキュメンタリーが科学的モデルをアニメーション化する様々な方法を比較し、これらの映画は自然界の様相を可視化するうえで知り得ることの最先端を表現する限界をもっと反映すべきだと示している。

小画面で修復するパノラマ:ソフトウェアで作成したパノラマ写真におけるスケール、動き、傍観者の視点

本論文では、ユーザーが小画面デバイス(ノートパソコン、携帯電話、タブレットPC等)を使ってパノラマ写真を撮ったり探したりできるソフトウェアを使ったデジタルパノラマの一連のサービス(著者が言うところの「小画面パノラマ」)を検討し、パノラマのアルゴリズム的視点と動きがデジタル化前のスケールや機動性を修正する新たな視覚方法の出現を示唆していると論じる。デジタル合成技術は、ある場所の個々の写真をひとつにまとめ、没入型の傍観者視点を提供する360度シームレスの視野を作成することで、現代性に対する旅行者的パノラマ目線の知覚や認識論的条件を復元する。しかしその一方、このアプリケーションは、技術的特性がノートパソコンや携帯電話の携帯性やアプリケーションのアルゴリズムによる2D写真の効率化などのモバイルメディアの傍観者的視点の具現化された本質的・偶発的な側面を有効化することで、従来のパノラマの視界と傍観者視点を損なってしまう。これらの例は、シームレスな仮想3D画像を作成しようとするアプリケーションの試みにもかかわらず、動画と静止画、没入型と小型化、具体化と非具体化という矛盾の共存につながることを示していると著者は述べている。

手抜きティルト・シフト:ミニチュアビュー、グローバルな景観

近年ティルト・シフト写真撮影がデジタル技術向けに改良されたことにより、カメラが本物の風景をまるで作りもののミニチュアのようにとらえる非常に面白い目の錯覚が生まれた。これはインターバル撮影を使ってストップモーションアニメの効果を作って街をおもちゃサイズの自分たちに見立ててまとめる、手抜きティルト・シフトの動画である。この精巧に思い描き直された19世紀の絵葉書は、航空写真における20世紀初頭のイノベーションを用いてスケールを視覚的にも時間的にも大きく変えたもので、印象を驚くほど変え、視覚の新たな現象学を作り出している。ミクロ的な認識とマクロ的な認識がひとつの動画として交わることで、時間と空間に対する人の認識を近代化とグローバル化を反映した形で刺激する。本論文が述べているように、手抜きティルト・シフトは、世界主義的な意識の広がりや、ポストモダニズムによる狭い視野の減少そして世界共通のビジョンに則して文化的な境界や国境を考え直すことを一層促す国際的な視点の変化を反映している。これによって空間的視野が広がり、不思議の国のアリスのように、私たちもティルトとシフトをしながら見る人によって力強く訴える風景に一人ひとりを刻みつけ、世界との予想外の新しい関係に自分を適応できるようになる。