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アニメーション記号論:仮想性とドゥルーズ派の「生命を吹き込む魔法」

ジル・ドゥルーズが映画には密接に関わってきた一方でアニメーションにはそれほど関心がなく、その可能性をいくぶん無視していたことはよく知られている。しかし近年、アニメーション理論の分野でドゥルーズ派を構成する試みが 特にウィリアム・シャファーやトーマス・ラマール、ダン・トーレによって なされている。本論文はトーレの著作を批判的に検討しつつ、これらのアプローチについて概説する。とくに、ドゥルーズおよびドゥルーズ=ガタリの哲学にみられる顔貌性とクローズアップ、そして両者の関係という諸概念の検討をとおして、トーレがドゥルーズ思想のポスト構造主義的、政治的側面を軽視していることを前景化するものである。これはさらに、スチュアート・ブラックトンの『愉快な百面相』(1906年) トーレが直接とりあげた作品と、エミール・コールの『ファンタスマゴリー』(1908年) 彼がほとんど無視した作品との比較によって円滑化される。ここで主張するのは、明らかな類似点が数多くあるけれども、コールとブラックトンのアニメーションは根本的に異なる存在論的な取り組みを表しているということである。コールが支離滅裂さを楽しむものとして、混沌と流転するがしかし関連性のある複雑さを経験として観客に提供する一方、ブラックトンは大部分が対象中心の再現的形式にこだわっていて、より単純な構成でできていることを示している。これらの作品間に生じる再現と存在過程の対立によって、トーレのプロセス認知主義に対する批判的取り組みは円滑に進められる。示唆されるのは、トーレの著作は教育的価値において優れているけれども、この対立もまた同じように表しているということである。そしてそれはまた、第一に一連のプロセス哲学的で認知主義者的な思想を結びつける努力、第二にニコラス・レッシャーのより保守的な哲学をとおしてドゥルーズの急進的な思想をわかりやすいものとする努力において、一般論と表象からなる準カント哲学に回帰する恐れがあることも示唆している。

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