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アブ・アイワークスの(マルチ)プレーン・シネマ

アニメーションの先駆者アブ・アイワークスは、初期ディズニーの成功における裏側の推進力として頻繁に賞賛されてきたが、彼の自主作品はほとんど注目を浴びたことがない。彼のカートゥーン作品における以下の二つの主な特徴を考えると、アニメーション史からのそのちょっとした見落としは、興味深いことである――第一に、自由自在に変化する効果を含んだギャグの強調で、アヴァンギャルド映画制作に頻繁に結び付けられる特徴である。第二に、アメリカ・アニメーションにおけるリアリズム美学の中核をなすことになる装置、つまりマルチプレーン・カメラの先駆的な業績である。本稿は、1930年代に変わりつつあったアメリカ・アニメーションの美学という見地から彼の業績を位置づけるために、以上の特徴を調査する。そのことが示唆するのは、同時期において、実写映画の古典的なナラティブ様式と関わりながら生まれつつあった新たなリアリズムとアヴァンギャルドとのあいだの大きな葛藤の兆候としてアイワークスの作品を見ることができるということであり、彼の作品の「失敗」とでもいえるものにこそ、両者のあいだの交渉の不可能性が読み取れるのではないかということだ。

イメージ・フューチャー(映像未来)

今日、伝統的なアニメーションの諸手法、映画撮影技術、コンピュータグラフィックスは、新しいハイブリッドなムーヴィング・イメージの形式を創り出すため、組み合わせて用いられることが多い。本稿は、「マトリックス」三部作の第2作と第3作で使われた「ユニバーサル・キャプチャー(ユーキャップ)」という非常に複雑でハイブリッドな方法の実例を用いて、同プロセスを議論する。そうすることで、現在考えられているように「純粋」な諸形式の中の何かが視覚文化及びムーヴィング・イメージ文化を支配するであろうことを期待するよりも、むしろ未来はハイブリッドにこそあると提案する。

プラトニック・セックス――倒錯と少女アニメ(第1部)

日本のアニメには、「非人間型女性」、つまり、女神、女性型ロボット、ガイノイド、女性エイリアン、獣娘などが多く登場する。本稿は、非人間型女性と関わりあるジェンダーおよびジャンルの諸問題を紹介し、CLAMPという4人の女性チームによるマンガを原作としたテレビアニメシリーズ「ちょびっツ」に関する幅広い議論を展開する。「ちょびっツ」は、精神分析理論と不気味なほど一致しながら、人間の欲望の見地、つまり享楽という奇妙な実体の見地にもっぱら寄り添いつつ、メディアおよびテクノロジーの諸問題を読み取っている。だが、非人間型女性は非人間のままであるがゆえ、欲望の構造は偏屈な物質的歪みから逃れられず、「ちょびっツ」は非常に珍しい縫合の論理を提供することになる。非人間型女性は、大文字の他者たちとの関係性を迂回するかのような見方に帰するための触媒となり、結果、基本的な知覚のレベルで完全に新しい複数の世界を生み出すことを期待させる。

韓国アニメーションの新しい歴史風景に関する批評

本稿は、日本占領下の植民地時期から現在までの韓国の地政学的現実の中で作り出されたアニメーション映画、そしてこれがもたらしたアニメーション関連の現象への概観と批判的考察を行なう。これまで、韓国アニメーションに関する研究は、アニメーションの国際的なシーンを背景として、単に生産工場という見地から記述される傾向にあった。しかし、多くの部分が忘れ去られ記録されずにきた韓国のアニメーション史は、韓国自体の歴史と同じくらい広範囲なものである。韓国アニメーションの歴史的・政治的文脈を年代順に探究する本稿は、ナショナル・シネマのグランド・ナラティヴ(=国民映画の大きな物語)を提示することを目指してはいない。むしろ、アニメーション製作の複雑な絡み合い、審美的表現、韓国におけるイデオロギーと政治的状況に光を当てることを願うものである。

コミックスとクロノ・フォトグラフィ、もしくは「いつくるのか分からなかったんだ!」

マイブリッジとマレーによる運動の記録実験が行なわれるやいなや、コミックスはいち早く、連続運動の描写の強調を始めた。クロノ・フォトグラフィが行なったのは、動的な身体を産業文化における規制された空間上に配することであった。それは身体をあらわにする手段であると同時に、身体を収容・統制するための道具であった。一方、ヴィルヘルム・ブッシュ、スタンラン、ウィンザー・マッケイらによるコミックスは、クロノ・フォトグラフィの固定された視点および計られた移動を模倣しつつも、その行為の動機となった道具的理性を戯画化する。たとえば、ウィンザー・マッケイの『くしゃみのリトル・サミー』の各エピソードは、日常的な活動の「時間-動作」分割を、体系的かつ細かく提供しながらも、その能率的な動作のリズムは、あらゆるものを混沌へと一変させる強力なくしゃみによって覆される。本稿は、マッケイの先駆的なコミックスとアニメーション作品に重点を置きつつ、執拗な規制の時代における混沌のオアシスとして特徴づけられるパロディ的な独特の反論理を探究する。

大聖堂は生きている――生体模倣技術的な建機をアニメートするということ

本稿は(実験的な図と共に)、デザイン上の生体模倣技術における遺伝的建築および戦略のための様々な含意をもつアニメーションとしての『大聖堂』を分析する。この分析から、建築上の研究において、アニメーションは、デザイン思考プロセスに対して十分に貢献可能であり、なおかつソフトウェアを用いた視覚化と両立しうると主張する。著者は、アニメーションを建築上のプレゼンテーションのための単なる道具として利用することを拒否し、デザインにおける生体模倣技術とアニメーションとの組み合わせを肯定する。さらに、植物、貝殻、骨格から進化する自然的な諸要素をデジタルによって再視覚化することで、アニメーションが建築的なアイデア、形式、デザインをいかに刺激し展開しうるのかについて考察する。※意味が取れているのか自信がないので、要チェックをお願いします。

空間を再活性化(アニメート)するということ

アニメーションには映画的空間に対する我々の考え方を再活性化する力がある。映画的空間は、再現と表現を行い、映画の中核をなす物語上の意味を創出する。しかしこれは空間のもう一つの側面、つまり空間の強烈な経験と他の様々な変形に関連する側面を見逃している。実写映画において、変容中の空間を表現するイメージはほとんど存在しない。それゆえに、映画においてそのような側面はあまり言及されない。反面、多くのアニメーションにおいて、空間は変容中のものとして捉えられ、とりわけ空間的変形の経験に関する考察と関連づけられる。本稿の重点は、映画的な空間の再活性化としてアニメーションを探究することにある。筆者は、『カモにされたカモ』(チャック・ジョーンズ、1953)、『ストリート』(キャロライン・リーフ、1976)、『ザムザ氏の変身』(キャロライン・リーフ、1977)、『フラットワールド』(ダニエル・グリーブス、1997)、『人工の夜景』(ブラザーズ・クエイ、1979)、以上の作品の内容および形式の両方に括目することによって、アニメーションが空間をどのように再活性化(アニメート)するのかを証明する。このようなポジションを提供するため、筆者は、継続する「残響」の過程として、空間観を定式化する。単に出来事の起こる場所であることを越え、流動的であり、異質性によって特徴づけられ、親しみと不確かさとの間を行き来しつつ、結局のところ、混沌とした、潜在的に未知なるものとしての空間である。

ポーラー・エクスプレス全員乗車――CGブロックバスターにおける語りかけ方の「楽しい」変化

本稿は、映画史における変化は、観客への関与における変化を含意するというトム・ガニングの主張に従って、フルCGによるブロックバスター映画を観る今日の観客にとってどのような類の変化が懸案となっているのか問う。そのために、『ポーラー・エクスプレス』(ロバート・ゼメキス、2004)を詳細に分析する。また、同映画における、ビデオゲームのような没入型の視覚的美学と語りかけ方が、サイバースペースという「不可視」のヴァーチャル領域およびCG映画の両方に共通してみられるデジタル空間やキャラクターと観客との関係をどれ程度まで自然化しようとするのかについて考察する。最終的に本稿は、『ポーラー・エクスプレス』という映画が、美学、キャラクター構築、物語の見地から、映画とビデオゲームとが最も強い絡み合いをみせた時代の切実な歴史的記録として働くことを主張する。同時に、かつて映画がビデオゲームに与えた類の形成的影響を、現在、ビデオゲームが映画に与えはじめているのではないかという切迫した問いを提起する。

影の市民からテフロン・スターへ――新しいムーヴィング・イメージ技術の変容する効果の受容

本稿は、ムーヴィング・イメージ技術の文化的受容史に区切りをつける、奇妙な二つの儚い瞬間を調査、比較する。マクシム・ゴーリキーは、かつて「呪われた灰色の影」(1896年)という見地から初期の映画イメージを読み取ったことがある。一方、最近の評論家たちは、坂口博信の『ファイナルファンタジー』(2001)に関して、同映画のCGの役者たちを死体、ダミー、シリコン皮膚のマネキンと評してきた。本稿は、そういった不気味さを呼び起こすのは、そういった映像自体が馴染みのない新しい美学で作られたからというだけではないことを主張する。それらのイメージはむしろ、特定の文化的な枠組の内部で受け入れられるものなのであり、あるイメージが奇妙であるという知覚は、その時代において何が「人間」と見なされているのかを物語っているのだ。

不動の断片、そしてシリーズを超える運動――鉄腕アトムとアニメの出現

本稿は、最初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』に細心の注意を払いながら、映画とアニメーションにおける異なる運動の経済学を対比させ、日本のアニメに付随する運動とリビドー的な投資との特異な経済学を探究する。メッツとリオタールは、映画は映画独特の運動経済学を通してリアリティの印象を生み出すと主張するが、セル・アニメーションはそれとは別の運動経済学に依拠する。特に、日本のアニメに見られる特殊な種類のリミテッド・アニメーションの場合がそうである。本稿は、この種のアニメーションが(とりわけ静止を強調する際に)つくりだす運動の特徴と、没入を著しく促すイメージ環境(今日「アニメ」と知られているもののための舞台を設定した環境)を生み出すため、『鉄腕アトム』が商品のシリーズ化へと依拠していった方法に焦点を絞る。

「偽物でもかまわない」――サイバーシネマトグラフィと『シモーヌ』におけるヴァーチャル俳優の幽霊

本稿は、アンドリュー・ニコル監督のサイバーパンク・コメディ映画『シモーヌ』を考察する。この映画は、CGアニメーションで創られた俳優の開発に関するストーリーであり、往年のハリウッド監督が自らのキャリアの再出発のために、デジタル女優を本物の女優でるかのように公開すると、ファンたちは、「ものとしての少女(it girl)」が与えるその最新のトリックと快楽に取り憑かれてしまう。ヴァーチャル女優の名声はまもなく監督の名声を侵食しはじめる。しかし、監督は、当該プログラムを削除し、自分が世界に送り出した妖精ジニーを瓶の中に戻すのは不可能といえるくらい難しいことを知る。ニコルの映画は、映画的な寓話でもあり、また、ハリウッド映画におけるヴァーチャルなアクター(「ヴァクター」)の利用が映画製作者、俳優、観客にどのような影響をもたらすかという哲学的な問いでもある。

アニメーション研究における実技-理論の関係性に関する幾つかの考え

本論文は、三つの枠組みを通してアニメーション研究における理論と実技=実践(practice)との関係性を調べる。その三つとは、正統的周辺参加、批判的=臨界的(critical)実践、再文脈化である。本論文の包括的な主張は、アニメーション研究が「学際的」な方法で理解されるべきということであり、そしてそうした理解は、 類似した或いは関連した見地で実践(=実技)の異なる複数のコミュニティがどのように作用するのかを評価することを意味する。本論文は、アニメーション研究の分野で働く人々によって使われる言説のマッピングを始めるためにつくられた、電子メールによる討論グループのデータに拠っている。テクノロジーにおける認知された役割にとりわけ関心が払われたその議論は、実に批判的なアニメーション研究コミュニティ(つまり理論と実技に同じ程度の注意を払うコミュニティ)の発展を妨げると見られる複数の方法がその関心の的になっている。

プラトニック・セックス――倒錯と少女アニメ(第2部)

本誌『Animation: An Interdisciplinary Journal』の2006年7月号に掲載された第1部に引き続き、この第2部でも、アニメーションシリーズ「ちょびっツ」の考察を継続する。このシリーズは、精神分析理論がテクノロジーを享楽という奇妙な実体の見地から読み取るのと同じように、もっぱら人間の欲望という見地からメディアおよびテクノロジーの問題を読み取る。第2部は、その点を注視しつつ、メディアとしてのマンガとアニメの物質性が、完全に姿を消すことのないままに、いかに性的な享楽の動力学につきまとっているのかを明らかにするため、部分対象および倒錯の分析に着手する。マンガとアニメの物質性は、漫画の白い紙面や透明なセル紙によってい連想される「完全な空白状態」を喚起させるなかで再帰する。そしてそのことこそが、「ちょびっツ」における男性的な凝視の動力学と縫合論理との歪曲を可能にするのだ。非人間型女性は、大文字の他者たちとの関係性を迂回するかのような見方に帰するための触媒となり、結果、基本的な知覚のレベルで完全に新しい複数の世界を生み出すことを期待させる。

豚が空を飛ぶ時――アニメ、作家主義、そして宮崎の『紅の豚』

本稿は、もっとも重要なアニメ作家の一人である宮崎駿の作品の中で、比較的知られていないものを分析しつつ、「アニメ」として知られている日本アニメーションの形式に対する西洋の観点を扱う。トーマス・ラマールがアニメの「関係的」理解として言及しているものの構築を目指しつつ、映画学における作家理論上の諸概念のレンズを通して、なおかつ、アニメーションというメディアムとの関連の中で、宮崎の映画『紅の豚』を扱う。ビジュアル面へのアプローチからさらに深いテーマに至る側面において、宮崎の作品は、「創造的な伝統主義」と言いうるような一群の独特な戦略に依存していることが分かる。『紅の豚』をケース・スタディーとすることで、アニメはポストモダンのポピュラー・カルチャーの一形式として、西洋においてより適切に理解されるのは、形式、メディアム、文化的コンテクスト、個人クリエーターに関する諸問題のバランスを取る様々なアプローチの三角測量的な方法論を通してこそ可能だとことを幅広く議論したいものである。

日本におけるアニメーションとしての『白蛇伝』の復活

本稿は、1950年代日本における『白蛇伝』のアニメーションとしての再登場に関連した複数のファクターを分析し解明する。『白蛇伝』のアニメーション化は、戦後という新たな時代、新たなイメージ創出ビジネスがより至急なことになった東アジアおよび東南アジアにおける多数の要求によって押し進められ、微視的な目的と巨視的な目的を同時に果たした。白蛇伝の伝説は中華圏でよく知られており、当初は日本と香港の合作映画プロジェクトだった。したがってそのアニメーション化にあたっては、まず第一に中華圏の観客向けの作品として想定するということが、制作者(東映アニメーション)側へと期待されていただろう。しかし日本側の制作者は、この映画を作ることが、収益面および地政学的な利益をより多く見込めることを考え、他にも内密の計画を持っていた(もしくは後に発見した)。本稿は、「遂行性(performativity)」という概念を用いつつ、いくつかの次元においてアニメーション化の遂行上の過程に対する解釈を行う。そして、東映アニメーションスタジオとその夢を作り出す企業としての根本的役割の歴史を追っていく。

争いの種――アニメーション研究に関する考察

学界におけるアニメーションは、依然として、比較的研究の進んでいない分野でありつづけている(変化の兆しはあるが)。本論文はアニメーション研究という草創期の分野への論争的な反応である。本論文はアニメーションが周縁的なものとして捉えられていることが意味するものを探りつつ、正当な学術領域としてのアニメーション研究が進歩し強化していくことにおいて著しい障害(及び行き止まり)と看做されているものへと立ち向かう。本論文の中で提案される全般的なアプローチは、過去のアニメーション研究において取り上げられてきたもの、そして現在、正統かつ認識論的に生産的であるとされているものへの反目である。

「_grau」――有機的な実験映画

実験映画『_grau』(ロベルト・ザイデル、10:01 min、ドイツ 2004)は視覚的に抽象化されたレベルで個人的な問題を扱う作品だ。これは、記憶、科学的情報の可視化、実際のデータから生み出された、複雑に絡み合うシステムを確立し、近代化されたヴァージョンの活人画を創出するとともに、生き生きとした超現実的かつ抽象的なイメージを扱う。同映画は、自然、芸術、テクノロジーによって鼓舞される有機的なイメージを創り出すため、進行段階にある研究の一部である。同映画のアイデアと霊感は、その成果物が時には「アイ・キャンディ」(見ると楽しいが、頭脳のいらない視覚映像)もしくは一種のスクリーン・セーヴァ―として認知されるが故に、断片的に明らかにされる。これは、ある程度、近代芸術の古典的な問題に関連しており、その際、抽象絵画は子供たちによって簡単に描かれ得ることがよく主張される。重要なのは、如何なるテクノロジーもそれ自体としては感情的経験を捉えるものではないと認識することだ。むしろ、芸術家のビジョンこそが、単なる奇麗な絵以上のものにその経験をかたちづくっていく。

ロトスコープとのロマンス――ジェフ・シェアのアニメーションにおける自己再帰性とリアリティ効果

この論文において著者が行うのは、ジェフ・シェアの実験アニメーションを、近年のコンテンポラリーな商業的コンピュータアニメーションにおいて強迫的に見られる「リアリティ効果」の探求との関係で考察することである。シェアは作品制作にコンピュータを用いていない。しかし、ロトスコープ(アニメーションのイリュージョン的な効果を構築しようとする試みにおいて長年にわたる複雑な関係を持つ装置)を全面的に用いている。著者が議論するのは、彼の作品におけるあまり普通ではないロトスコープ技術の流用、アヴァンギャルド映画における歴史的傾向と彼の作品とのリンク、アニメーションにおける個々のフレームと運動の創造とのあいだの関係に対して彼が持つ関心、そして、認知的・視覚的知覚の根本原理に対する彼の反省的な関与といったものである。

ビデオ・アネクドート:ロシアのフラッシュ・アニメーションにおける作家と見者

この論文において、著者は、コンピュータを媒介とするコミュニケーションにおけるフラッシュ・アニメーションとユーモアという問題を扱う。著者は、ロシアのユーモアと出版におけるグラフィックアートの国民的伝統を辿り、そしてフラッシュ・アニメーションの美学に歴史的洞察を提供する。さらには、ビデオ・アネクドート(ソ連において国の検閲を克服するための試みとして活発化した、口述によるユーモアのパフォーマンス伝統に依拠するフラッシュ・アニメーションの形式)という概念を提案する。検閲の消滅に伴い、アネクドートは短編フラッシュ・アニメーションという形態でインターネット上に存在しつづけている。著者は、このアネクドートの新たな構造について、また、それ以前のユーモラスな諷刺芸術(ルボーク、ソ連のポスター、そして諷刺画)との関係について分析を行う。ビデオ・アネクドートの主要なテーマや物語構造について考察を行いつつ、口述によるパフォーマンスと視覚的表象の伝統という側面から、ロシア文化に起こった変容について、包括的な意見を述べることで締められる。

ディズニー製アニメーション・プロパガンダの消滅――グローバル化という観点から

この論文では、ディズニー製作の1940年代のプロパガンダ・アニメーションについて、グローバリゼーションに関する文献、メディア研究、社会学、コミュニケーション研究の観点から考察する。9.11やイラク戦争の例を用いつつ、著者は、第二次世界大戦以降の、メディア企業、テクノロジー、政治における変化が、アニメーションによるプロパガンダに対してどのように制約をもたらすようになったかを明らかにする。この変化に影響を与えている要因のひとつとして、映画、テレビ、インターネットへと至る断片化されたメディアの拡散に起因し、大衆としての観客が消滅したことが挙げられる。さらには、電子化されたコミュニケーションが情報の民主的交換をさらに促すことで、市民に対する国民国家の影響力を減少させていることも挙げられる。今日、アニメーションによるプロパガンダは、ニュース番組のシミュレーションやインターネット上のカリカチュアをはじめとした別の形式において存在する。それらは、大手のウェブサイトやケーブルテレビのチャンネル上において、「草の根」的なアプローチを行なう。

カートゥーンニストとしてのタランティーノ

映画の領域においてアニメーションと実写とが互いに関係しあう状況を見るのはそれほど珍しいことではないが、これまで、実写からアニメーションへの影響のみが主に注目されてきた。しかしながら、クエンティン・タランティーノは、カートゥーンの美学を実写へと適用する。この論文においては、それを「カートゥーンニズム」と名付け、タランティーノの作品における「カートゥーンニズム」とその発展に注目する。彼は継続的にこの美学の実現を試みるが、皮肉なことに、その完全なる達成は、自らの作品ではなく、他人の作品においてである。タランティーノの映画的政治学との関連性のもと出される結論は、啓発的なものとして、映画理論内部に潜在的に存在しうるひとつの研究方法を提供することになるだろう。

不可能なまでにリアル――想像的なものをグリーンベルト化するということ

CGI(コンピュータ・ジェネレーテッド・イメージ)のテクノロジーが真になしうるのは何か。こんな問いよりもむしろこちらの方が正しいように思われる――CGIテクノロジーの方こそ、われわれに対して何をなしうるのかを探求しているのではないか?企業広告の内部で用いられるアニメーションは、感情的・知的な面で有意義なメッセージの運び手として視覚メディアを、時代遅れのものにしつつある。

消失点――空間コンポジションとヴァーチャル・カメラ

この論文が考察するのは、映画的空間における新たな美的モードである。とりわけ、空間コンポジション、風景描写、そして、特殊かつユニークな関与を伴う見者の没頭のモードを構築するものとしての「ヴァーチャル・カメラ」(実践的・技術的見地からコンピュータ由来の3Dグラフィックス、レイヤーベースのモーショングラフィックス、そして何よりもコンピュータゲームやビデオゲームのアニメーションから派生したもの)に注目していく。ムーヴィングイメージを獲得するための方法としてハイブリッド化および再メディア化されたヴァーチャル・カメラの影響のもと、映画の美学は、フレーム内部におけるコンポジションとカメラのためのステージングという2者独占の状態から、空間コンポジションとカメラのステージングを伴う新たなモードへと移行しつつあることを著者は論ずる。さらには、ヴァーチャル・カメラについて、映画的アニメーションと物語的コンセプトにおける三つの敵対しあう枠組みからも精査する。その三つとは、物語内現実(diegetic)におけるポジショニング、媒介的および非=媒介的関与、物語的・遠近法的状況におけるディエジェーシスとミメーシスである。これらの調査は、映画的メディアの制作のプロセスおよびそれ自身の概念としての集合体においてヴァーチャル・カメラが持つ影響も考察することになる。

アニメーションの変容する空間――1940年代ディズニーのハイブリッド映画

1940年代初頭、ディズニーのアニメーションは決定的な再評価を蒙っていた。かつて、ディズニーの達成、とりわけリアリスティックな方向への前進を讃えていた人々が、ディズニーがまさにそのリアリズムを達成しようとする努力のなかで、アニメーションの前衛的な可能性から離れ、それどころか裏切りさえしていると強調しはじめたのである。しかしながら、アニメーションの不服従的な魂からの表面上の「決別」は、多くの批評家たちが言うほどには決定的でも計画的でもないものだった。この論文が探るのは、1940年代ディズニーにおけるハイブリッド・アニメーションへの試みである。とりわけ『三人の騎士』(1945)、『南部の歌』(1946)、『ファン・アンド・ファンシー・フリー』(1947)といった作品について、アニメーションのリアリスティックな可能性と不服従的な可能性のあいだの緊張関係という側面から考察する。それによって示唆しようとするのは、これらの作品において、ディズニー・スタジオは、かつて関連していたモダニスト的態度に対する埋め合わせを図ろうとしていたこと、つまり、少なくとも、かつてのディズニーと、その後アメリカのアニメーション産業を支配していくにあたり変化していったディズニーとのあいだに、何かしらの調整を行なう努力はしていたということである。

コンクレート・アニメーション

この論文は、2007年3月2日から4日にかけてロンドンのテート・モダンにて開催されたシンポジウム「Pervasive Animation」での講演に基づくものである。その場での私の目的は、今日新たに出現しつつあるアニメーション実践のカテゴリーを記述し、その種々の傾向を、私自身の映画・本・インスタレーション制作の経験と比較してみることにあった。私がここで試みるのは、自分自身の個人的な芸術史とアニメーションにおける大きな問題の分析とのあいだにバランスをとろうとすることだ。「コンクレート・アニメーション」は、物質性とプロセスとに格段のフォーカスをあてる作品に言及する。それは、コンテンポラリー・アートの実践に先駆者をもちながら、片方の足を映画以前の遠い過去に、もう片方をデジタルおよび手製のアニメーションの未来へと向かう道に踏み出すものである。

爆発、駆逐、異常――アニメーション化された身体の次元的過剰

不可能性への小旅行を行なうアニメーションは、噴火、爆発、飛行、咆哮する身体をもたらす。アニメーションと特殊効果映画の歴史はこの意味において深く結びついているが、一方、アニメーションにおける物理的に不可能なものを観るという感覚は独自の視覚的・文化的特性を持っている。スラッシュメタル音楽にあわせて走るガイコツを観る経験は、心理的効果の優勢を否定し、それ自身を一種の純粋な装飾へと変容させる。この論文は、アニメーションで描かれる暴力のテクストについての象徴的言説を、とりわけ、マンガ・エンターテイメント社を通じてヨーロッパ、オーストラレーシアにリリースされるアニメにおいて提案する。

キャラクター・アニメーションと身体化された精神=脳

3Dキャラクター・アニメーションに関する本稿の学際的研究は、神経科学、ナラトロジー、ロボット工学、人類学、認知心理学、精神についての哲学を含む多様な観点から調査を行なうことによる発見を綜合し、アニメーターおよびアニメーション研究のための理論としていかに統合しうるかを考察する。この論文が注目するのは、3Dアニメーション環境におけるキャラクターの構想とその創造における創造的性質であり、とりわけナラティブとスタイルといったキャラクターの諸側面である。そのことは、シミュレーション理論と精神化理論に関する神経科学を含む精神-脳の身体化についての学際的研究からの発見が、アニメーションの創造的プロセスに、さらにはアニメーション・スタディーズの文脈において教育学および創造的実践の両方にも、いかに情報や活気を与えいかに有益に綜合されうるかについて、考察するものである。

ヴェルナー・ネケス・コレクションから選ばれた「目、嘘、イリュージョン」展におけるアニメーションの歴史と利用についての考察

メルボルンのオーストラリアン・センター・フォー・ムービング・イメージ(ACMI)とロンドンのヘイワード・ギャラリーで開催された展覧会「目、嘘、イリュージョン」は、ドイツの実験映画作家ウェルナー・ネケスの二万点にも及ぶ視覚玩具、科学的装置、アンティークの本、視覚的エンターテイメントのコレクションから選ばれたものである。この論文は、死後の世界の信仰についての歴史的軌跡を、「アニメーション」――自律的に動いている対象であれば何でも魂を付与してしまうこと――に関連し考察することからスタートする。第二節では、アニメーション技術が近代における先祖返りの信仰の存続への証言となることが示唆されるだろう。第三節では、アニメーションにおける技術と魔術の近接性を提出しつつ、「アニメーション」という用語をより拡張して用いることを提案する。

チェコスロバキアのアニメーション黄金期から学ぶこと

チェコのアニメーターたちはチェコ・アニメーションの黄金期を復活させることができるのか? それとも、開かれた市場経済の変化に屈してしまうのか? 1989年以降、アニメーション・スタジオが私有化され、それに伴い政府からの財政的支援がなくなったことが、近年のチェコ・アニメーション衰退の主な要因のひとつとして共有されている。この論文が論じるのは、チェコのアニメーション製作にインパクトを与えた1989年以降の政治体制の変化と、それに結びつくその他の要因である。それらの要因には、(1)共通の敵と設定されていた共産主義体制の消滅に起因する主題の変化、(2)西側諸国からのアニメーション作品の輸入と新たな配給方法に伴うチェコ観客の断片化、(3)作家およびプロデューサーに対して金銭的成功の保証を求める経済的検閲がある。共産主義体制の時代およびそれ以降のチェコのアニメーション産業史を探るこの論文で、著者は、チェコのアニメーション作品が国際的評価を獲得し急激な成長を遂げることとなった1968年の「プラハの春」における状況を概観し、その状況と対をなすものとして、今日のチェコのアニメーション・スタジオに影響を与えている現代的問題も取り上げる。

「シネマ的」から「アニメ的」へ――アニメにおける運動の諸問題

本稿は、アニメにおける運動の形式的描写の方法を探る。トーマス・ラマールの「シネマ的」と「アニメ的」という概念に拠りつつ、本稿は、伝統的な映画形式とアニメとのあいだの運動およびアクションにおける違いを問う。しばしば「フラット」という見地から考察されるアニメだが、そのテクストで用いられる運動の形式自体を通してスペクタクル、キャラクターの展開、そして皮肉にも奥行きが提供されるのだ。本稿は、アニメーションのこの形式における語りかけのモードがアニメに固有のものなのかを問う。「シネマ的」と「アニメ的」という用語(そしてその延長としてシネマ的な装置とアニメ的な装置)がどのように理解され得るかを考慮しつつ、本稿は、観客がそのようなイメージと彼ら自身をどのように同一視するであろうかという問題をも探究しようとする。

星柄のジブリ――宮崎駿映画のアメリカ版におけるスターの声

本稿が提供するのは、一群の日本アニメーションのテクストにおいてアメリカのスターを起用し声の吹き替えを行ったことについての考察である。著者は、アニメーションにおいてスターの声に結びついている様々な意味の深いネットワークに浸透することによって、スターダムを産業、文脈、テクスト上で新たに理解できると主張する。さらに著者は、スタジオジブリのアメリカ版DVD発売におけるテクストおよびコンテクスト(文脈)の両方にアプローチすることで、アメリカにおける日本アニメの市場とその意味合いを検討する。そうすることで本稿が表明するのは、アメリカにおける日本アニメの重要性と今日のスターダムの本性をめぐるいくつかの学術的議論への仲裁である。

神経性の光の平面

電子的な流れは、それが消えたり破裂したりする際、もっとも光っているように見える。そのような瞬間、電子的な流れは、連続性を保ちたい、邪魔されずに物事を経験したい、という我々の欲望を明らかにするのだ。電子的パルスとライトスケープで特徴づけられる現代の芸術的環境において、明滅するスクリーンは、葛藤を伴うその関与の様々な方式と共に、限界および削除に関する思考を提供する。フィリップ・パレノのアナログなライン・アニメーション『あなたは何を信じる?あなたの目?私の言葉?語る絵:…』(2007)は、「連続する線が存在しない」腐敗性の場に存在する。そこでは、同作品に内在する多様な時間構造は、その作品の空間性の面から、そしてその作品と我々の時間感覚との関係性の面から、単一性の創造を拒否する。セミコンダクターのデジタル作品『聞こえない都市たち 第1部』(2002)で、明滅は、イメージから停電した電子の流れ、つまり推定上、イメージの本質的要素を奪う。アニメーション化されたその都市景観は、ある電気的激発の音圧に相互依存する別の種類の電子的な光の運動を我々に提示する。イメージ作りの過程そのもの、つまりイメージの自己変奏のための潜在力が表現される。それは想像力と、ブライアン・マスミの「ヴァーチャルなものの曖昧さ」に結び付けられる。ジル・ドゥルーズの「ポイント明滅」もしくはマスミの「想像的および非体系的」のような概念を参照しつつ、アニメーションに内在する間隔と破裂との経験として明滅の感覚を取り上げる。その感覚は、アニメーションを頻繁に逆説的な作業として提案するだけではなく、そのイメージが占め得る特殊な場所を提案しつつ、我々が、生成する芸術というその潜在力と共に削除そのものとして、アニメーション化されたイメージを考えることを可能にする。

日本アニメにおける国際化の諸側面

本稿は、日本のアニメ(アニメーション)の国際化を探究しつつ、このようなポピュラー文化の生産物の背後にある文化政治学の解明を促進しようと試みる。アニメの国際化は、作品の背景、コンテクスト、キャラクターデザイン、物語構成に対して、脱日本化された要素を組み込むことが含まれる。本稿では、アニメの国際化を理解するための理論的な枠組みを作り上げ、その国際的な成功の背後に少なくとも3種類の文化政治学が働いているという提案を行う。一つ目は、脱政治化された国際化で、主に国際的に観客を引きつける商業的な方策として機能するもの。二つ目は、オクシデンタライズされた(つまり欧米が他者化された)国際化で、ナショナリスティックな感情を十分に満足させるもの。三つ目は、自己オリエンタライズされた国際化で、日本をアジアにおけるニセの西洋国家として打ち立てようとする文化的欲望をあらわにするもの。

幻覚的映像とジェレミー・ブレークの「時間ベースの絵画」における主体の不鮮明化

ジェレミー・ブレークは、21世紀に入って以来2007年に死去するまで、映画的な諸戦略の利用を通してアニメーション、デジタル・テクノロジー、絵画を合成し、それらを収束させようと取り組んでいた。本稿は、ブレークの初期抽象作品が、ヴィジュアル・ミュージック芸術家たちと、戦後アメリカにおけるカラーフィールド派の画家たちによる実験的なアニメーション映画から受けた影響を議論する。同期間中、ブレークは新しいアニメーション・ソフトウエアを用いつつ、文学的なナラティブ構造に基づいた継時的形状/背景の抽象作品に自らの才能を注いだ。その後、ブレークは時間ベースの絵画から離れ、現代ポピュラー音楽における一匹狼的な主唱者たちとのコラボで創り出された、豊かな質感のノン・ナラティブ的な伝記的スケッチへ移動した。ブレークの幻覚的なムーヴィング・イメージの視覚性は、新しいデジタル・ソフトウエアが活用できることになったとき、感性的により激しくなった。彼の視覚的構成の奥深いハイブリッド性は、写真ベースのイメージ、抽象化されたカラーパッチ、落書き、アニメーションキャラクターなどの、絶えず続くフェードとオーバーレイとを通して伝えられ、主観的意識と見かけの世界との間に豊かな質感の架橋を創り出す。

「そうだね、確かにそんな風に見える……」――『モダン・トス』における「実写」の宇宙、単純化された具像デザイン、そしてコンピュータアニメーション

この論文が論じるのは、チャンネル4のテレビ番組『モダン・トス』の形式的側面である。ミニマルな映像とダイアローグを用いるこの番組は、ある範囲のキャラクターたちが社会的犯行の縮小模型となりうる過程を見せる。ここで興味を引くのは、事前に撮影された背景や俳優との共謀の中で、抽象された具像的なデザインを意図的に枠にはめて用いるアニメーション形式への高度に特徴的なアプローチである。あらかじめ了解済みの宇宙内にフラッシュを用いたコンピュータの形状を配置する特別なやり方は、第一に、この番組のユーモラスさの領域に関連する「距離」の感覚をもたらす。第二に、ナラティブそのものに内在する宿命を補い、第三に、この番組を、同様のコンセプトに特有の美的刻印がある原作のグラフィック/ウェブ・カートゥーンの系譜に並べるのである。

線とアニモルフ、もしくは「旅はAからBへと行くだけにあらず」

実写のフォトリアルな映画をアニメーションから分ける要素のひとつは線である。線とは、アイデアもしくはグラフィック的な表象として以外の実在を持たない、概念上のメタ対象である。線はフォトリアルな映画には必須ではない。ドイツのアニメーション作家ライムント・クルメが手がけたヒルトン・ホテルのためのテレビ広告5本を例として用いつつ、この論文は、アニメーション化された1本の二次元的な線に内在する逆説について問う。線はそのとき、抽象的・幾何学的構造物であり、同時に、エナジーとエントロピーのエキセントリックな視覚化でもあるのだ。クルメのアニメーションが強調するのは(たとえそれが広告キャンペーンであっても)、線が動くとき、それは決して「モノ」ではなく、差延を意図し表示するということ、そして線の幾何学が示唆する以上に常に偶然生を有し、生を生きるということである。

スタン・ヴァンダービークの『ポエム・フィールド』におけるメディアの政治学

この論文が提示するのは、ヴァンダービークがベル研究所において1966年から69年のあいだに制作したコンピュータアニメーション作品の連作『ポエム・フィールド』を理解するための文脈である。この連作は、ベル研究所のコンピュータ科学者ケン・ノールトンが発明した映像による初のプログラミング言語Bflixを用いている。 この連作の分析を通じて著者が示そうとするのは、ヴァンダービークのポリティクスが方向性として如何に深く意識的に社会主義的であったか、当時出現しつつあった情報・コミュニケーション技術のラディカルな構想を通じて如何に社会的意識を変容させようとしたか、そして、その目的のために、同時期に出現しはじめたコンピュータアニメーションがいかに中心的なものであったか、ということである。

外映画的アニメーション――グレゴリー・バーサミアンとスーザン・バカンの対話

グレゴリー・バーサミアンのストロボライトを用いたキネティック彫刻は、鑑賞者に知覚上の矛盾を経験させる。つまり、鑑賞者の時空間上の物理的現前を共有する実際の事物の現象的現前と、アニメーション映画のイリュージョンとのあいだを揺れ動く経験なのだ。この対話で明らかにされるのは、バーサミアンの制作の方法論、その美学的・哲学的影響および意図、そしてアニメーションによるイリュージョンに対し芸術家として持っている関係性である。

『ミッキーの大演奏会』における線と色彩

この論文が提出するのは、テクニカラーによる7分のミッキーマウス・カートゥーン『ミッキーの大演奏会』(1935)の制作で使われたテクニックと素材である。アニメーションの産業化とドローイングの技術の歴史の変遷において、ドローイングや線が平準化規格化されていくさまを調査したのち、色の利用、とりわけ、セルに用いられていたインクと当時のフィルム・プリントに用いられた染料とのあいだの関係について記述する。著者が問うことになるのは、あるテクニックがもつ美学的、倫理的、政治的意味についての唯物論的理論を、テクニックとテクノロジーそのものに対する眼差しを失わないままに明確化することが可能かどうかということである。

美術電影を偲びながらの記憶に――中国アニメーションの理論化における濫喩とメタファー

この論文が行うのは、中国の美術電影の制作・理論化における歴史上の濫喩と文化的メタファーを、民族的/国民的スタイルに関する社会主義的・芸術的言説との関連から考察することである。「中国派」が提起したいくつかの問題を精査することで著者が探求するのは、美術電影を、ナショナリズム的なアイデンティティを生み出すための強力なメタファーとして概念化および構成するということである。このアイデンティティは、視覚芸術と社会主義国家の言説を、アニメーション映画の制作における中国的な美学の再創出のための共有空間へと持ち込むものである。本稿において著者が議論するのは、中国の美術電影が、中国におけるビジュアルの歴史における国民化されたユニークな形式として同定され、それが国民的/民俗的スタイルを概念化・仲介すると同時に、社会主義的文化・政治内部において同スタイルが生き延びることを助けてきた言説ベースの美学的一派を構成したことである。

知覚の技術――宮崎駿、その理論と実践

近年の西洋において日本のアニメーションに対する熱狂があることは、文化生産におけるデジタルの経験が、自己を主題化することについて新たな理解の道筋を開くことと関連づけて考えることができる。インタラクティブでヴァーチャルな環境においてイメージへと関わっていくこと、その視覚化は、個というものが、人間および非人間両者のユニークな関係パターンを通じて現れてくるものであるという考えを放棄させる。この現実は、東洋の哲学的概念における相互関係性や前反省的思考、マーシャル・マクルーハンが言うところの「包括的意識」によって説明しうる。日本のアニメーション作家宮崎駿は、禅‐神道の宗教的想像によって、自己を放棄する能力を個に対して与える。ポストモダン時代の道徳的混乱に対するオルタナティブな政治学としての宮崎の実践は、ヴァルター・ベンヤミンが映画に対して賭けていたものが機能しているということの例証である。

精神的-機能的ループ――デジタル時代に再定義されたアニメーション

アニメーションはコンピュータに生命を吹き込みうるか? コンピュータは映画やビジュアルアートを拡張した新たな地平へとアニメーションを導きうるのか? この論文はアニメーションの伝統慣例的な定義とそれが生命感あるものの連続性へとつながっていく様子についての精査に始まり、有機的運動=精神性、そして、無機的運動=機能性といった二つの極点について考える。著者が示すのは、デジタル時代においては、生命感ある運動は、いくつかの度合いにまたがりつつ、運動感覚器官的な諸機能を通じて重要性と意味を持ちうるということである。このことは、物質性についての新しい考え方へとつながる。それはアニメーションの革新的な意義を構築する。その後著者が論じるのは、コンピュータのユニークな機能と結びつくことによって、アニメーションは生命感の二つの両極——精神性と機能性——のあいだにつながりを見出すということだ。アニメーションという分野がデジタル的属性の拡張から多くの利益を受け取りうるのはそのためである。最終的には、様々な時代・様々なメディアにおいて作られた芸術作品について論じることで、この精神性-機能性のループを例証する。

アニメーション化された表現——3Dコンピュータ・グラフィックによる物語アニメーションの表現的スタイル

3Dアニメーション・システムの発展は何よりもハイパーリアリスティックな風潮によって駆動されており、3Dコンピュータ・グラフィック(CG)はこの使命を広範にカバーしてきた。この傾向の対位点として、研究者、技術者、アニメーション作家たちは3Dアニメーション環境から表現豊かな物語的アウトプットを作り出す可能性を探究してきた。この論文が探るのは、こういった文脈における3Dアニメーションの美学、テクノロジー、文化である。CG、神経美学、美術史、記号学、心理学、さらには認知科学への実証的なアプローチまでも綜合しながら、表現性に対する自然主義的ビジュアル・スタイルの性質を分析する。とりわけ、表現豊かなコミュニケーションと感情的な関与に対する手がかりに注目しつつから分析を行う。一点遠近法とフォトリアリスティックなレンダリングという自然主義的3DCGの二つの原則を表現性への潜在的な力という観点から考察し、結論においては、3DCGアニメーションにおける表現美学の未来を考える。

9.11以降におけるソフトボディのダイナミクス

アニメーションにおいて、建築は運動性と変容性を授けられることにより、映画的・テレビ的な空間の枠から飛び出し、現実空間の環境へと拡張されていく。建築におけるアニメーションの中核的な例は、オーステルホイス.nlが新たなワールド・トレード・センターの案として提出したものである。同じくオランダの企業NOXの類似例の路線に沿って、オーステルホイス.nlのグラウンド・ゼロは、機動性、生命感、メタモルフォーゼに対する言及を通じて、アニメーションを包括する。それが指摘するのは、現代のデザイン実践においてアニメーションという形式が卓越していること、そして、建築デザインのプロセスにおいてアニメーション・ソフトウェアが遍在的に用いられているということである。グラウンド・ゼロが同時に明らかにするのは、物体の世界においてソフトで脆い生身をめぐる、9/11以降の不安である。グラウンド・ゼロによる生の言説的生産に関して著者が行う分析は、我々の空間的想像力やフォルムについての政治学における大きな変化をマッピングすることとなるだろう。

『ベオオルフ』——デジタルモンスター映画

モーションキャプチャの技術を用いた最新の映画『ベオウルフ』(ロバート・ゼメキス監督)は、モンスターたちを倒して行く英雄の旅についての物語である。この論文は、『ベオウルフ』においてモンスター性が果たす主題的役割だけでなく、モーションキャプチャやCGIを通じたこの映画の構築そのものがモンスター的なものとして理解できるのではないか、ということを語る。つまり、ドゥルーズの『シネマ2 時間イメージ』(1989[1985])に沿って言えば、『ベオウルフ』は、モンタージュからモントラージュへとシフトした映画、見せる映画の典型として理解できるということである。著者は、『ベオウルフ』におけるモンスター性の美学を分析しつつ、この映画におけるモーションキャプチャを用いたシンセスピアン、つまりヴァーチャル俳優のパフォーマンスが、アンリ・ベルクソンの笑いの理論(1912[1900])——人間が機械化された人間を笑う――におけるコミカルなものとしても如何に理解されうるかを考察する。

「あれはどの人種を表象しているのだろう、私とは何か関係があるだろうか?」アニメのキャラクターにおける人種カテゴリーの知覚

アニメのキャラクターがあえて用いる人種表象は、顔の特徴ゆえに識別可能なのか、それとも、あまりに「国際的」すぎて識別不可能なのだろうか? 本研究がこの問いを提出する際の方法論は、1958年から2005年まで制作されたアニメからランダムにセレクトされた341のアニメ・キャラクターの正面からの静止画のポートレイトを人種別にカテゴライズしたものと、それぞれの人種に対する1046人の評価者の知覚の結果を比較する、経験論的なものである。その結果が語るのは、作り手側の意図としてはアニメ・キャラクターの半分以上が人種的にはアジア人であり、白人はほんの少ししかいないのに、白人の評価者はキャラクターたちを白人であると知覚しているということだ。この反応パターンが示すのは「自身の人種の投影 (ORP)」、つまり、知覚者はアニメのキャラクターを自らの人種グループの一員として認知しがちだということである。アニメの国際的な普及における意味合いについても、議論が行われる。

ボーダーライン・アニメーション

概念としては「アニメーション」と呼ばれている分野でアーティスト・映像作家として活動しているトルステン・フライシュの作品は、芸術と科学とテクノロジーとが交錯するものである。ジャンルとしては構造的‐物質主義的映画に属する彼の作品は、自然現象の細やかな作用についての高度に自己再帰的な精査でもある。この論文においてフライシュが明らかにするのは、彼の作品に通底するアイデアやコンセプト、そして作品制作時に取り入れるテクニックである。フライシュの実験映画作家としてキャリアはすでに10年以上におよぶ。その多くは「アニメーション」というジャンルの一般的な慣例に収まりつつも、その制作のプロセスとテクニックは、ソースとなる素材、コンセプト、テクニックの普通でない複雑さに反する。これらのプロセスは結果となるイメージにとっても非常に重要である。なぜなら、フライシュはイメージを生み出すため、普通ではないやり方を見出そうと試みるからだ。フライシュの作品で特筆すべきは、有機的な事物(血、肌、灰)や科学的現象(フラクタル、クリスタル、電圧)を美学的にも技術的にも巧みに扱う点である。豊富に図版を用いたこの論文は、以下の作品についてのカラフルなディテールを多く含む:K.I.L.L. -- Kinetic Image Laboratory/Lobotomy (1998), Bloodlust (1998), Silver Screen (2000), Skinflick (2002), Gestalt (2003), Friendly Fire (2003), Kosmos (2004) and Energie! (2007).

コミック・ブックの世界における可視的なるものの発狂

本稿は、コミック・ブックという形式は決して静的なものではないと主張する。その紙面上に散らばっているコマは、時空間に対してコミック・ブック固有の分節を提示するダイナミズムと運動に満ちている。コミック・ブック内で再現される物語上のアクションの一部は時間を「凍結」することができるが、他のコマは(一紙面上の静止画として視覚的に静止状態にありながら)、コミックに特徴的な複数の知覚方式を創り出す複雑な時空間の描写を切り開く。コミックは、停止状態を通して、時空間のアニメーション的な流動を表象する。

地上最速の男――現代スーパーヒーロー・コミックスの停止状態と速度

スーパーヒーローの世界ではアクションが全てである。DCコミックスの「地上最速の男」であるザ・フラッシュにフォーカスを当てながら、本稿は、コミック・ブックのアーティストたちがスーパーヒーローの冒険ものにおいて一見停止したイメージをアニメートするために使う手法を調査する。近年、アクション映画のスターとして活躍するスーパーヒーローたちの成功にその糸口を捉えつつ、本稿は、アクションに関する映画理論を取り上げ、コミックの紙面に応用する。スーパーヒーローのスプラッシュ・ページの凍結されたポーズは、ナラティブとスペクタクルとの間で仮定される対立に異議を唱えつつ、読者側には知覚上の支配的立場を与えもする。スーパーヒーロー・ジャンルのコミックは、また、不可能なことを誇張して表象するため、自らの弾力的な時間性(継時的芸術ならではの時空間的な側面によって実現される)を利用する。ザ・フラッシュの英雄的な偉業は、コマの内部、そしてコマとコマとの間に存在する運動を表現するための概念的なメカニズムを通して描かれる。

運動内の運動――アニメーションとコミック・ブックにおいて線を追いかけるということ

アニメーションとコミック・ブックは、継時的なイメージで構成されるという側面において共通している。前者は映写中の機械的・電子的方法で動かされ、後者は読者の逍遥するような意志的活動によって動かされる。しかし、コミック・ブックの単一のコマは、物語の急場と、2次元の絵画的な平面のグラフィックな物性との両者によって調整される持続時間を有している。芸術家の身振りという動きはそれぞれの線に含有され、コミック・ブックと2次元の手描きアニメーションとの両方における動きを理解するための基礎として提示される。運動とは、アニメーション化された形状においては輪郭線の形態で保持される反面、運動および芸術家の身振りとの両方を読み取る分節化のおいては接線状に走ることもある。

デリダ、ドゥルーズ、そして一羽のアヒル――コミック・ブックの分析における循環的微分の運動

コミック・ブックという「不思議で珍しい」メディアにおける「コマとコマの間の秘密」に関する探索は、物語的な冒険へのアピールを呼び起こす(未知の領域の隠された宝物を探しにいくクエストである)。しかしコミック・ブックの分析が、同メディア内の隠ぺいされた存在の「正確な位置」を、宝地図で隠されたものを見つける「x」マークのように示してくれる印を見つける探索によって消尽される時、学術的な宝探しの言語中心的な形式は、その探索の過程が、隠ぺいされた存在に向かって進む線型的なクエスト以外の何ものかであることを許さないのか?本稿で筆者はドゥルーズの構造外的な対象=xをコミック・ブックにおける意味の構造化に適用する。筆者は、この第三のものを、デリダ的・ドゥルーズ的思考における「還元不可能な差異」へ寄託し、さらにコミック・ブックというメディアの異なる読み方を提案する。これは形式的構造をアポリア的に読み取ることを通して、閉塞を避けようとする試みである。

ドライデン・グッドウィンとの対話

フレームに基づいたドライデン・グッドウィンの映画は、アニメーションの原則と慣習に異議を唱えると同時に再肯定する。彼の幅広い芸術プロジェクトの基礎的な一要素として、そのような形の映画製作は、ドローイング、肖像画、‘シリーズ’の概念を含む彼の他の関心事に絡んでいる。本インタビューでバーナビ・ディッカーは、フレームに基づいた映画制作へのグッドウィンのアプローチと、これが一般的に彼の作品にはどのように関連するかに関する議論の場へグッドウィンを様々な観点から招待する。ディッカーにとって、このトピックは、アニメーション研究において、とても生産的で重要であるにもかかわらず、これまで無視されてきたものであり、本インタビューを通じて、その訂正を行おうとする。聞き手は、特にグッドウィンの作品と19世紀のクロノ・フォトグラフィとの関連に興味を持っており、聞き手の提案によると、後者はフォトクロノグラフィ(エティエンヌ=ジュール・マレーによる同プロセスのための元々の用語)としてより一層効果的な応用の可能性があると提案する。さらに、グッドウィンの芸術における「ドキュメンタリー」的な側面と、ジャン=ルイ・コモリのダイレクト映画論との間にリンクが設定される。両者は極点のように離れて見えるにもかかわらず、聞き手は、コモリの多くの説明がグッドウィンのアプローチを通して例示されうることを発見する。本インタビューを貫く他のテーマには、ギャラリーおよびインスタレーション文脈内における映画の役割、そして古典的および今日的芸術実践とテクノロジーとの間の関係性も含まれる。

パワーパフのポリティクス政治学 ——「ガール」を「ガールパワー」へと置き換える

この論文が考察するのは『パワーパフガールズ』の政治学である。このシリーズの三人のスーパーパワー・ヒロインを1990年代に人気のあった「ガールパワー」言説の内部に位置付けつつ、エンパワーされた若い女性性のイメージを提示する。子供が大人に勝利するという物語上の前提は、子供向けテレビにおける先例にも共通する世代論的な政治学とも関わっているが、一方で、このガールパワー・シリーズの政治学が持つ限界を考えると、番組の主役である白人中流階級のへテロセクシャルな少女表象の外部にある、ある種のアイデンティティの形成に対する周縁化と中傷をも明らかになっていく。

純粋感覚?抽象映画からデジタル・イメージへ

この論文は感覚sensationとしての映画についての研究である。それが提供するのは、抽象映画の実践に対する新たなアプローチであり、抽象映画は純粋感覚という概念を包括しうるということである。抽象映画は純粋に構造的かつコンセプチュアルなものとしては解釈すべきではない。著者が論じるのは、感覚としての映画は、そもそもの始まりから映画の本質の一部でありつづけていた。本稿の議論は、感覚としての映画が映画史の重要な瞬間に存在しつづけてきたという観点から抽象映画の歴史を書き直す。そのうえで、感覚としての映画という概念は、純粋なエンターテイメントとしての映画/視覚効果とは一致せず、批評的な断絶として理解されるべきだと論じる。この批評的な断絶は、ヴァルター・ベンヤミンが、新たに生まれたこの映画芸術が持ちうる美学的意図として正当化する際の根拠であった知覚上の衝撃・知覚上のトラウマという概念において理論的に正当化しうるものである。

アメリカとソヴィエトのアニメーション・シリーズにおける暴力、チェイス、身体の構築

この論文で考察するのは、アニメーション映画における暴力ものである。アニメーション映画製作(アメリカ合衆国とソヴィエト連邦における)の経済的・社会的な文脈は、キャラクターの身体の構築およびダイナミクスとつながっている。チェイスもののアニメーション・シリーズの分析によって著者が示唆するのは、アニメーション化された身体の流動性と可変性に帰着する暴力は、アニメーション映画に固有の特質が表明されたものであり、機能の側面からは、セルゲイ・エイゼンシュテインが言うところの原形質性と似通っているということだ。この特徴は、アニメーション・キャラクターが人間化されるとき、アニメーション映画から消失する。

羽のごとく重い――アグニェシカ・ウォズニカの『バーディー』、オブジェ・アニメーション、そして事物の道徳的な重力について

デジタル・テクノロジーは現在、私たちの表象の秩序を規定している。矛盾するようだが、デジタルの主導権は、写真的な指標性を喪失することを通じて、物質性の表象に新たな条件を生み出している。立体アニメーションはとりわけ、物質性についての現在出現しつつある概念のための舞台として適している。ウォズニカの立体アニメーション映画『バーディー』は、物質性を表象し、さらにそれについてのアレゴリーを生み出す。この映画は、メインキャラクターの計画、羽の構築、そして物質を単なる人間の使用のための材料としてしまうことについての倫理的含意を前景化する。物語構造とカメラの動きといった要素は、この映画においてキャラクターの計画に使われる物質に対し、道徳的な立脚点を与える。それは、キャラクターのみならず、観客や映画作家をも、このデジタル時代に我々が共有する時機にとって重要な倫理的状況へと引き込んでいくのである。

誰か自身の映画——現代の若手女性作家によるアニメーション自画像

この論文は、アニメーションの分野において目立つ活躍をするようになってきた現代の若い女性のアニメーションによる自画像を分析し、その新たな世代と先行する世代とのあいだの大きな違いを明確にする。過去の世代の女性作家たちは、アニメーションによる自画像を通じて、女性そして作家としての自らのアイデンティティを探りつつ、アニメーション映画の初期より存在してきたサブジャンルのための新たな言説とモデルを発展させてきた。しかし、新世代のアニメーションによる自画像はドキュメンタリーに接近し、より普遍的な関心事を扱うことで、これまで以上の広い観客にアピールし、劇場公開の機会を得ている。マルジャン・サトラピの長編アニメーション『ペルセポリス』(2007)はまさにこの例であり、この論文の中心となる。

「ライムント・クルメ 線と形で遊ぶ」——アニメーション映画の展覧会

独アニメーション映画研究所(DIAF)が主催し、ドレスデン技術博物館で2009年の4月から9月まで開催された「ライムント・クルメ 線と形で遊ぶ」展は、ドイツのアニメーション映画監督・作家ライムント・クルメによる作品を展示した。彼の映画作品の重要な出発地点は、落書き、運動のスケッチ、コラージュといった、グラフィックによるブレインストーミングのセッションである。クルメは、その作業を経て、言葉を用いることなくアイデアや感情を視覚化していく。この論文が提供するのは、展示のための準備で作られたものについての洞察であり、それがとりわけ最終的な作品へとたどり着くまでの創造的な芸術的プロセスにとりわけ焦点を当てることで、ライムント・クルメが空間をアニメートするそのユニークな方法を分析する。展示のコンセプトにおける中心的な側面、たとえばテーマを選ぶ際の基準、展示物の選択や配置、展示物や動画の見せ方についても詳細に説明される。それによって、著者は、アニメーション映画について展示を行うことのユニークさとそれが生み出す可能性について、いくつもの考察を行うことになる。

スタン・ヴァンダービークの『カルチャー:インターコム』における戦略的規範化とオーディオ-ビジョン-的な語用論

スタン・ヴァンダービークの重要性についての再考は、歴史を記述する際に直面する様々な問題を伴うことになる。テクノロジーの時代において、歴史を形成するとはどういうことかについて、多くのことを教えてくれるのだ。1960年代・70年代のアメリカのアヴァンギャルドにおいてテクノアート分野の革新者であり、アニメーションのすべてを覆した重要な実験映画作家が完全な忘却に陥ってしまっているという事態はなぜ起こるのか?さらに言えば、いかにして起こりうるのか?著者はここで、テクノカルチャー的制作と消費における変化があらゆる映画的意識をアニメーションとみなしてしまう現在において、とても似たプロセスが「デジタル・メディア」という還元的な用語の周辺で起こりつつあると論ずる。

「アニメーションの手なるものにおける興味深い章」——スタン・ヴァンダービークのアニメーション化された空間の政治学

この論文が肉付けしようと試みるのは、『タイム』誌が1964年にいかにももっともらしく「アニメーションの手なるものにおける興味深い章」と呼んだような達成を、スタン・ヴァンダービークがいかにしてなしえたのかということである。主に焦点をあてるのは、彼のコンピュータ時代以前に制作されたペインティング、人形、コラージュのアニメーション作品である。関連する用語法について考えたのち、著者が探ろうとするのは、スタン・ヴァンダービーク自身の著作を紐解きながら、彼の芸術的・文化的哲学が、いかに、そしてなぜアニメーション技術を通じて表現されえたのかということである。まずはコマ撮りの人形アニメーションとペインティング・アニメーションについて議論するが、その後には、コラージュとフォトモンタージュについてのモダニスト的な文脈を経由し、数多くあるヴァンダービークのコラージュおよび切り絵のアニメーション作品について、彼のビジュアル的な新造語がジェームス・ジョイスの混成語手法といかに比較しうるかという提案を行ないつつ考える。さらには、ファウンド・フッテージというジャンルおよびテクニック内部における彼の実践について美学的および社会政治的に分析しながら、彼が、自作を観る観客に対して立てた戦略を示唆する。結論となるのは、ヴァンダービークの多岐にわたる詩学と美学を、政治的フォトモンタージュおよびインディペンデント・アニメーションの連続体のうちに、「興味深い章」として記述することである。

ピクトリアル・コラージュからインターメディア・アッサンブラージュへ――『バリエーションズV』(1965)とヴァンダービークの拡張映画のケージ的起源

インディペンデント・アニメーションの制作者としてかなりの成功の経歴をおさめた6年間を経て、1964年以降、スタン・ヴァンダービークは、自身が拡張映画と呼んだパフォーマティブで学際的な実践へと足を踏み入れた。この論文が強く主張するのは、この移行に際して最も強力な動機となったのは『バリエーションズV』制作時におけるジョン・ケージおよびマース・カニングハムとの親密なコラボレーションであるということであり、ヴァンダービークの動く壁画をその文脈において精査することは、このようなビジョンを生み出す起源として、ブラック・マウンテン・カレッジ時代の教師たちが重要な役割を果たしたということを理解させてくれるということだ。この時期におけるアッサンブラージュの学際的なレトリックこそ、初期のコラージュ・アニメーションと後の拡張映画およびインターメディア的なパフォーマンスへの転向のあいだにある美学的・概念的なギャップに橋渡ししてくれるということを、著者は提示したい。

『POEMFIELDs』とコンピューテーショナル・スクリーンの物質性

この論文が探るのは、スタン・ヴァンダービークとケネス・ノールトンが1964年から1970年にかけて制作したコンピュータアニメーションのシリーズ「POEMFIELD」が、可視性と不可視性のあいだの領域をいかに意識的に掘りすすめつつ、絵画性、言語性、図式性を同時に持つ一連の表象へと数字と文字を引き入れたかということである。読みやすさと読みにくさの境界を滑りながら、このアニメーションのシリーズは、テクストとイメージ、コードと絵の二重のビジョンを提示しつつ、そうすることによって、機械時代の終息期におけるコンピューテーショナルな可視性について、広範かつ認識論的な問いを浮かび上がらせる。1968年のMOMAにおける展覧会の副題(「機械」)は、もはや人間の目には見ることのできない機械によるアニメーションのコンピューテーショナルなモデルが出現したことを鮮やかにしたものである。それに帰結して起こる可視性の危機は、当時探求されていたグラフィックなユーザー・インターフェース(GUI)のモデルという観点から眺められることで、特定の重要性を帯びることになる。「POEMFIELD」のシリーズにおいて、ヴァンダービークとノールトンは、その際に生起する絵画性、言語、コードのレイヤー化されたパラダイムがもつ複雑さと展望の両方を伝達し伝えようと試みているのである。

物語世界上の短絡――アニメーションにおけるメタレプシス(転喩)

この論文が論じるのは、メタプレシス(転喩)という非常に顕著な現象である。メタプレシスは我々が実際に生きる世界では超えることの叶わぬ相互的に排除しあう境界線を、フィクションとパラドックスによって超えていくことである。自分の創作物の物語世界に到達するアニメーターの手や、作り手の世界を逃れたり自らの世界を作り直したりしつつ観客とコミュニケーションをとるキャラクターは、それぞれ異なる種類のメタプレシス的超越である。この現象はアニメーション史を通じて広範囲に起こっているにもかかわらず、これまでアニメーション・スタディーズにおいては理論化されずにいた。この論文は、メタレプシスをトランスメディア的かつナラトロジー的に概念化し、アニメーションの分析的ツールとして持ち込む。そして広範な範囲の例について議論しながら、さまざまな形式のアニメーションに対する枠組みとして機能するか検討していく。

影響下でのスケッチ?マンガと映画のあいだの美学的収束についての問いとウィンザー・マッケイ

マンガと映画のあいだの形式的な類似性は、両者の美学的近接を巡る長きにわたる議論の火花をしばしば散らす。影響関係についての議論も同様だ。マンガ史家のデイヴィッド・クンズルは、フランシス・ラカサンを引きつつ、1800年代中盤から後期のマンガに映画形式の特徴を如何に辿ることができるかを語る一方、映画史家のドナルド・クラフトンは、マンガが映画言語の進化に及ぼした影響は、あったとしても稀少だろうと言っている。この論文は、ウィンザー・マッケイのマンガとそのアニメーション化の両方を分析することにより、歴史上の知識に基づいたテクスト分析を用いることで、美学的影響についての問いを、より複雑化しようと願うものである。

アーロン・マックグルーダーの『ブーンドックス』と、マンガからアニメーション・シリーズへのその移行

この論文が考察するのは、日刊新聞掲載のマンガ「ブーンドックス」のアニメーション・シリーズへの移行である。とりわけ、アニメーション版が、原作となる印刷物が生み出す予期を超え、細かな文化的言及を数多く行いながら、高度に間テクスト的な複雑な作品として出現するその過程に注目する。「ブーンドックス」におけるメディア間の移行を解説するため、アニメーション版は、流用と脚色の理論を通じて分析される。その際、このシリーズにおける巧みな文化的借用と、日本のアニメに典型的な形式的な約束事の利用にとりわけ注意を向ける。また、「ブーンドックス」と「ザ・シンプソンズ」との関係を探ることで、リアリズムと社会的言及という点において、『シンプソンズ』は「ブーンドックス」の先祖であると位置づける。

ディズニーのアリス・コメディ——イリュージョンの生命と生命のイリュージョン

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)と『鏡の国のアリス』(1871)は様々なディズニーのテクストに影響を与えている。そのなかには、同スタジオが1923年から27年に製作したアリス・コメディ(ディズニー・スタジオが世に出ることになった中核的な作品でもある)も含まれる。この初期シリーズは、ディズニーの映画様式の発展、つまりハイブリッド・アニメーションの様式を形成するのに大きく役立った。そのハイブリッド性の形成は、スタジオの全歴史を通じた大きな影響を及ぼすことになる。スタイル上は粗野なままでありつつも、リアルなものと幻想的なもののあいだの関係性の交渉を行なっていくスタジオの努力——後に「生命のイリュージョン」として知られることになったスタジオ独自のスタイル――を予見するものでもあった。この論文が探るのは、ハイブリッドなスタイル――たとえば、実写とアニメーションの組み合わせ――への強調という観点から、基礎的なテクストであるアリス・コメディの分析を行なう。それは、リアリスティックな空間を生み出すという問題へと目覚めることを必要としたと同時に、観客をファンタジーの空間に引き込むという点で、ルイス・キャロルが「アリス」シリーズで行った境界侵犯的な探求と同様のものであるともいえる。

ディズニー・フォルマリズム——「古典的ディズニー」を再考する

『プリンセスと魔法のキス』(ロン・クレメント、ジョン・マスカー監督、2009)の公開によって、「古典的ディズニー」というフレーズは再び議論の的となった。残念なことに、「古典的ディズニー」という概念は近年進化したものである。それは、ディズニーをめぐる無数の議論で用いられた一見率単純な用語から、ディズニーのアニメーション長編について「速記」的に批評を行うための特定性には欠けている用語へと進んでいる。。この論文では、「古典的ディズニー」を代替することが可能かもしれないものとして「ディズニー・フォルマリズム」という新たな用語を提唱する。そのため、『白雪姫』(デイヴィッド・ハンド監督、1937)、『ピノキオ』(ベン・シャープスティーンほか監督、1940)、『ダンボ』(ベン・シャープスティーン監督、1941)、『バンビ』(デイヴィッド・ハンド監督、1942)といった映画で追求された美学的スタイルの形成と継続に言及を行う。

ドローイング・アニメーション

ドローイングは古典的アニメーションの「伝統的」な実践において鍵となる構成要素であって、デジタル時代への関連性の乏しさから、時に流行遅れとみなされることがある。逆に、デジタル・ツールとヴァーチャルな素材の使用は、伝統的な方法論で教育をうけたアニメーターにとってはいまだに問題含みのものとして見られている。しかしながら、現代美術の領域においては、様々なツール、プロセス、パラダイムでの実験が爆発的に拡張しつつ、時間、パフォーマンス、物質性といった問題をめぐり、ドローイングに対する関心が復活している。この論文では、ドローイング・アニメーションのプロセスと理論化について、これらの異なる実践およびツールという観点から行なう。ドローイングは、物質的な基礎と概念化という側面から考察されていく。ドローイングは、時間の経過やキャラクターのパフォーマンスを表象しうるプロセスとして探究されるが、それ自身としても、持続をともなうパフォーマティブな活動なのだ。

押井守『攻殻機動隊』における声と視覚――デカルト的光学を超えて

この論文で考察するのは、押井守が『攻殻機動隊』(1995)において行った声と視覚の実験である。『攻殻機動隊』において身体を欠いた声が明確化する視聴覚的反転は、イメージと声の伝統的な一致を分解させる。押井が用いる非有機的な視線は、見ている人間の身体から脱却し空間へと拡張させる。それは、映画における人間中心的な視線という基準とはかけ離れている。この脱人格化された視覚は主体の散種を表現する。さらには、人類を存在論的に環境へと開いていくこの映画のモチーフとも反響しあう。押井の視聴覚的実験は、デカルト的光学への批判とみなすことができる。身体を欠いた声は他の感覚に対する視覚に優越するというデカルト的な見方の土台を崩し、非有機的な視線は非遠近法的な空間と非人間的な視覚を生み出しルネッサンス的な遠近法のシステムへの補足ともなる。結果的に、視覚を声から切り離す押井の傾向は、彼の作品において、アニメートされた身体を、主体‐客体の境界の古典的な構築を超えて複数の時空間的次元のいたるとこに配分される異質で離散的な担い手とするのだ。押井によるデカルト的光学への挑戦の結果は、アニメーションにおいて、エイゼンシュテインが言うところの「エクスタシー」のような強烈な情動性を生み出すことになる。

可塑性再考——アニメーション・イメージの政治学と制作

アニメーションについての著作は、イメージの可塑的な質――対象は伸縮し形態を変えていく――にしばしば言及するが、アニメーションの可塑性をめぐる議論は、完成した映像と可塑性とを結びつけて考えがちだ。本稿は、アニメーションの可塑性についての再考を行うことで、それが単に完成した映像の属性であるのみならず、制作における物質的条件の一側面でもあることを示唆する。1940年代・50年代の日本においてディズニー・アニメーションについての記述を残した今村太平と花田清輝という二人の左翼知識人の著作を紹介し、その著作をヨーロッパにおいて対応するもの対比させつつ、この論文は、これら日本人思想家たちが、ディズニー・アニメーションの制作現場におけるフォーディズムの重要性に注意を引こうとしていることを示唆する。今村と花田の著作は、アニメーションの可塑性を論じる際、フォーディズムによる映像制作の物質的条件の観点から可塑性を批判的に再考することを可能にする。そのことは、労働のレベルはもとよりアニメーションというメディアムのレベルにおける可塑性についても考察させてくれるのである。

抽象化されたウッディ――シェイマス・カルヘーンのカートゥーンにおけるフィルムの実験

アニメーターのシェイマス・カルヘーンは自伝のなかで、1940年代中盤を自身にとっての芸術的目覚めの時期であるとした。ロシアのフォルマリスト、セルゲイ・エイゼンシュテインやフセヴォロド・プドフキンといった映画理論家たちの著作を読んでいた時期である。その当時ワルター・ランツのスタジオで監督として働いていた彼は理論を実践へと移すことを決意し、ランツのカートゥーン作品において、承認の取れた絵コンテを用いつつ、そこに現代的なテクニックを適用する実験を始めたのである。ウッディ・ウッドペッカーのカートゥーンのような商業的プロジェクトでの制作を行なっていたカルヘインには、前衛的なことをやるための自由はほとんど残されていなかった。それゆえに、彼はヒットエンドラン的アプローチを採用することで、音楽的で映画的な実験を表に出すこととなる。本稿の議論が明らかにするのは、ウッディ・ウッドペッカーのカートゥーンはそのための適切な題材には見えないにもかかわらず、乱暴で道化的なウッドペッカーのキャラクターは、カルヘインが彼のモダニスト的悪戯を行なうための理想的な機会を提供し、シリーズ自体にも熱狂的な活力を注ぎ込むことになったということである。

サブアニメーション――ヴェリーナ・ファーデルによる出口丈人、山村浩二との対話

この論文は、アニメーションの実践と理論における二つの注目すべき声、出口丈人と山村浩二との対話である。東京で行なわれたこの対話は、脱中心化を通じた拡張という概念を、アニメーションの主題およびそれが語られる場所という二つの観点から追うことになる。脱中心化は、同世代の(アニメーションも含む)芸術作品に対する我々の理解が、社会政治的な背景の変容や拡張を通じていかに形成、解体、再構築されているのかという観点から考察される。アニメの分野におけるレイヤーの進化を理解するため、複雑さとハイブリッド性に言及しつつ、出口氏と山村氏との対話は、とりわけ実験作品の地位、社会変化、制度的なもの、非=歴史(不完全な歴史の理解の表明)などをめぐる質疑応答となっている。実験と時代的破裂とのあいだの、社会、制度、伝統的意見におけるドローイングとその変容中の状況とのあいだの、もしくは社会的情緒とアニメーション固有の質とのあいだのつながりが見出される。この記事を締める対話の結論には、将来的な研究テーマを新たに切り開いていくのに価値ある意見が含まれていることだろう。

アニメーションと映画の隠された系譜学

本稿は、映画がアニメーションという大きな統一体のサブカテゴリーだとする、広く共有されている見解に異議を唱える。「アニメーション」という言葉の語源を調べると、同単語がどのようにして二つの意味(一つは、命を与える、もしくは生き物になるという意味、もう一つは、動く、もしくは動かされるという意味)を獲得したのかが分かる。映画を取り巻く交易と専門的な言説において、「アニメーション」は、1910年代初頭まで、シングルフレーム・シネマトグラフィ、もしくはその手法を用いた映画の分類を指示していなかった。アニメーションが映画の先祖だという系統学的な主張は、上記の二つの意味の偶然の一致を利用したものでしかなく、そのアプローチは、映画形式、ジャンル、社会的実践としてアニメーションをより広く理解することから人を遠ざける。このような推論がもたらす否定的な結果の一つは、いわゆる「映画以前」の光学的な玩具の様々な特徴が、後に登場した映画とのつながりにおいてのみ評価され、独自のものとしては研究されえない可能性があるということだ。

ブローブック、マジックショー、初期アニメーション――生ける屍を仲介するということ

本稿は、生命のないもの(スチール写真を含め)に命を与える映画の力に関する言説に照らしながら、初期アニメーションおよび近代マジックの歴史を探究する。構造はフリップブックに類似しているが、継時的なイメージを伴わないブローブックというメタモルフォシス的なマジックブックと映画との遭遇を考察することで、アニメーションの一形態に関する側面、そしてイリュージョンとそれへの信用に関する側面を明らかにする。また、映画におけるアニメートの「力」をダイレクトに試演する手段としてブローブックをフィーチャーした数多くのトリックフィルムの意義も説明するために、近代マジックの原則も取り上げられる。このような分析は、映画およびメディア研究内においてアニメーションを包括的な概念として使ってしまうことに異議を唱えつつ、デジタル上のイリュージョンを理解するためのモデルとして19世紀のマジックへとニューメディア研究が立ち返ることを根本的に考察しはじめるための一つの基礎を提供する。

アニメーションにおける暗き先触れとしての幻灯

本稿は、映画とアニメーションとの関係を歴史的かつ存在論的に取り上げるための一つの重要な拠点として、明治時代(1868-1912)の日本にフォーカスをあてつつ、幻灯と映写機との対比を行う。フーコーのディスポジティフ(装置・配置)概念を技術的なパラダイムの理論に変容させる、技術的な対象に関するシモンドンの概念を用いつつ、筆者は、映画とアニメーションとの差異は主に物質の差異ではなく、運動における質の差異にあたるということを発見する。幻灯の投影イメージ(写し絵)を探究していくと、映画とアニメーションは、電磁気学に結びつくテクニカルなパラダイム、つまりデカルト的なテクニズムの影響を受けたものを共有するということが分かる。映画的な運動-イマージュのヴァーチャルなものとしての時間と、任意の瞬間(any-instant-whatever)に対するドゥルーズの強調を修正しながら、本研究は暗き先触れ、つまり映画とアニメーションが任意の質料(any-matter-whatever)を共有するということを発見する。アニメーションは任意の質料に近いがゆえに、質量の中の生を直接的に経験する機会を提供し、なおかつ、デジタルにおける任意の媒体=メディアムを予期するのである。

「絵ごとに、動きごとに」――メルボルン=クーパーとシリャーエフ、そして象徴的身体

本稿は、イギリス人のアーサー・メルボルン=クーパーとロシア人のアレクサンダー・シリャーエフの先駆的な初期立体ストップモーション・アニメーションを、19世紀末近代性に関する言説内に位置づけることを目指している。本議論は、近代都市と初期映画との両方の発展に関する支配的な言説、そして特に、モダニズム的な実践を仲介する役割を有しているものとして平面の「カートゥーン」を受け入れてきた様々な方法に取り巻かれ、これらの作品の意味が見失われてきたと同時に、立体の形式はあまり調べられないまま、映画的もしくは文化的実践における他の側面の内部に吸収されてきたことを示唆する。筆者は、メルボルン=クーパーとシリャーエフが「象徴的身体」に焦点をあてながら、実写によるフォトリアリズム的な観察と、初期のドローイング形式のグラフィックな自由との間における仲介として、自覚的に立体アニメーションを使うと主張する。それは初期映画における「アトラクション」の諸概念を改訂しつつ、都市-空間を再定義し、なおかつ近代的なモーションがもつ意味を記録している。

トリックという問題――初期のドローイング・アニメーションは映画のジャンルなのか、それとも特殊効果なのか?

著者は、トリックフィルムの系譜の中にアニメーションの登場を位置づけることによってアニメーション映画史を再考するため、映画史を線型的に理解することを放棄する。初期のカートゥーン・アニメーションに関する言説(たとえば、業界紙から見つかる評論的および広報向けの言説)を分析すると、それらの映画が独自のジャンルとしてではなく、ほかのトリックフィルムに似たものとして看做されていたことが分かる。それでは、トリックフィルムがほとんど制作されなくなった1910年代半ばにおける初期のカートゥーン・アニメーションの人気はどのように説明しうるだろうか?ちょうどトリックフィルムが既にほとんどなくなっていたとき、様々な「トリックフィルム」、つまりアニメーションによるドローイングの人気をどのように説明しうるのだろうか?本稿では、それらの問題を提出するために、アニメーションによるドローイングへの見方がどのように変容していったか、その過程を検討する。特に著者が試みるのは、アニメーション化されたドローイングをトリックフィルムとして看做す段階から、結果的にそれらが一つのジャンルとして制度の中に収められていく段階までの推移を概略することである。

初期アニメーション映画におけるモデルとしてのエンターテインメントと教育――フランスにおけるフィルムメーキングへの新しい観点

この研究は、エミール・コール、マリウス・オガロ、ロベール・ロートラックの仕事を自伝的・審美的近似性の理由から結び付けることで、フランスにおけるアニメーション映画の最初の学派の特殊性を再構築するための貢献をする。これらのアニメーターたちは、元カリカチュア作家として、エンターテインメント向けもしくは教育向けのモデル、イラストレーション産業向けもしくは子供の図書・玩具市場向けのモデルを、舞台などパフォーミングアートから借用した見世物的なパラダイムと共に組み合わせた。彼らの仕事に関する本分析は、その重層的な文化的系列の組み合わせと相互作用を示すことで、草創期における第7の芸術の歴史記述を総括して検討、評価できる舞台を切り開く。

不在、過剰、認識論的拡張——ドキュメンタリー・アニメーション研究への枠組みに向けて

この論文は、ドキュメンタリー・アニメーションの歴史を、ドキュメンタリー・アニメーションという形式そのものと、それがいかに研究されてきたのかという両面から概略し、ドキュメンタリー・アニメーションについて考えるための新たな方法論を提示する。その際、アニメーションでしか可能ではない、実写という他の選択肢ではなしえないものは何かを問いつつ、それがテクストのなかでどう機能するかについて考える。結果、模倣的代替、非模倣的代替、喚起、という三つの機能が示唆されるだろう。著者は、このような方法でドキュメンタリー・アニメーションについて考えることで、実写が排除せざるをえなかった主題へのアプローチを切り開くゆえに、アニメーションはドキュメンタリーの認識論的課題を拡張し深めるということを示唆する。

ドキュメンタリー・アニメーションにおける経験——不安な境界、推論的メディア

ジュリア・メルツァーとデイヴィッド・ソーンによる『私はそんな風には記憶していない――3つの回想のドキュメントIt’s Not My Memory of It: Three Recollected Documents 』(2003)、ジャッキー・ゴスによる『ストレンジャー・カムズ・トゥ・タウンStranger Comes to Town』(2007)、スティーブン・アンドリュースによる『ザ・クイック・アンド・ザ・デッドThe Quick and the Dead 』(2004)といったドキュメンタリー・アニメーションは、近年における個々人および情報の増加する混乱と運動が広がりつつあることについて、その含意を私たちに考えさせる。本稿は、これらの代表的な作品の分析によって、実験的なドキュメンタリー・アニメーション作者たちが、「ドキュメンタリーが保証しているもの」の現状について可視的な方法で自覚的に精査を行う傾向を考察する。世界が不確かで、不安定で、根拠を失い、可視的な運動に関して大きな文化的不安が広がるなか、現在、ドキュメンタリーはいかにして真実を主張することができるのか?

描かれた声

本稿は、『ストレンジャー・カムズ・トゥ・タウンStranger Comes To Town』 (2007)のメイキングにおけるイメージ、セリフ、思索を提示するものである。この映画は、6人の移民者や旅行者がアメリカ合衆国への国境を越える経験について語る様子を中心に据えたドキュメンタリー・アニメーションだ。著者は、10枚のイメージを選び、そこにそれぞれのインタビュイーの言葉を書き写したものを添える。その後に続くのは、アニメーションを制作していくプロセス(作り上げられたイメージを語り手の「リアル」な声に同調させていくというプロセスから著者が拾い上げたもの、つまりアニメーションにおいて声とテクストはを拮抗す様々な異なる方法)、もしくは、ドキュメンタリーという形式において主観的な手描きのアニメーションを用いるというの破壊的な(驚くべきほどに)所作に関する思索である。

裁判のアニメーション

この論文はまず、コータ・エザワのビデオ・インスタレーション『シンプソン評決The Simpson Verdict』を、コンテンポラリー・アートの地平において高まりつつあるアニメーションへの関心という広い文脈において考察する。まず、芸術家によるアニメーションの急増における3つの傾向——映画史の重要な瞬間をアニメーション化する作品、「リアリティ」をアニメーション化する作品、カートゥーンやテレビ、ビデオゲームなどポピュラー・メディアを素材として使う作品——を探りながら、その後、既に露出が過度となっている実写のフッテージを描き直すエザワの作品と、実写映像が存在しない(しえない)場合に映像的な補足としてアニメーションを用いるドキュメンタリー作品との違いについて考える。

ライアンを再演する――ファンタスマティックとドキュメンタリー・アニメーション

本稿では、ドキュメンタリーとして理解される作品において、ステージ上での再演を用いるという関連からドキュメンタリー・アニメーションについての議論を行なう。議論のために主に依拠するのは、ドキュメンタリーにおける再演についてのビル・ニコルズの近年の考察である。そこで彼はドキュメンタリーの再演について、「ファンタスマティック」かつ再帰的な性質を持つと語っている。これらの性質はアニメーションにおいて鍵となる属性と緊密につながりあい、ドキュメンタリー・アニメーションを、重要かつ興味深いハイブリッドな創造的形式とする。鍵となる概念はクリス・ランドレスの『ライアン』(2004)をケース・スタディとして適用される。この作品においてランドレスはファンタスマティックなビジュアルを展開することで、ドキュメンタリーにおける真面目さという慣例的な言説を不安定化させ、その鏡的な言説である譫妄状態の方向へと進んでいく。そして部分的には、視覚的シミュレーションという領域におけるアニメーション(さらにはアニメーション・ツール)の現状を探っていくことになる。

事実を元にアニメートする――『ザ・テン・マークThe Ten Mark』(2010)におけるドキュメンタリー・アニメーションの遂行的(パフォーマティブ)プロセス

この論文は、アニメーション映画がいかに現実世界の出来事、人々、場所を再提示・再解釈するかということについての考察を、今日まで見過ごされている領域——パフォーマンスのプロセスとそれがドキュメンタリー・アニメーションにおいてどのように現れるか――にフォーカスを当てることで行う。ここでのパフォーマンスとは、我々が演劇において理解する単純な意味(誰かが役を再演すること)ではなく、アニメーターが、事実のもとづいた素材の解釈のために特定のアクションを演じるという意味である。中心となる問いは以下となる。「パフォーマンス(遂行)」およびそれに関連する「パフォーマティヴィティ(遂行性)」という概念が、アニメーション化された、もしくはノンフィクショナルなアクティングの理解のためにいかに役立つか?アニメーションにおける演技の観念(そしてアニメーティングという演技そのものが例示するパフォーマンス)を考えることでいかなる存在論的な問いが提起しうるのか?リアル/事実をベースとした物語であると主張するアニメーション作品に対し、観客はいかに関係し、解釈し、そして「信じる」のか? この論文は、『ザ・テン・マークThe Ten Mark』という近年の作品をケース・スタディとして用い、これらの問いに対してありうる答えを探求していく。

カリグラフィーのアニメーション――不可視なものをドキュメントする

カリグラフィーによるアニメーションは、ドキュメンタリーの座を、表象からパフォーマンスへ、指標から動く軌跡へと移動させる。アニメーションは、アラブ語の筆記が、とりわけイスラム芸術の文脈において何世紀にもわたって探求してきた変容的かつパフォーマティブな性質にとって、理想的な活動の場である。イスラムの伝統では、筆記はときにドキュメントであり、ときに不可視なものの表明である。さまざまなイスラムの伝統におけるテクストと筆記の哲学的・神学的な含意——文字の神秘的な科学、シーア派の思想と結びつく秘匿という概念、パフォーマティブもしくは護符的な筆記の性質を含む――が、コンテンポラリーな芸術作品にも活気を与えることになる。歴史的な迂回を行うことで示されるのは、アラブのアニメーションは、イスラム芸術から直接的に由来するわけではなく、イスラム芸術からインスパイアされた西洋式の美術教育、そして西洋の現代美術におけるテクストの特権化から出てきているものであるということだ。ムニール・ファトミ(モロッコ/フランス)、クトルグ・アタマン(トルコ)、パウラ・アブード(オーストラリア)といったムスリム・アラブ世界出身の多数の芸術家たちによって、筆記は不可視性の宗教的な次元から世俗的な次元へと越境する。さらにいえば、アラブやイスラムの伝統におけるテクストをベースとした芸術の豊かさは、テクストをベースとしたアニメーションの実践者そして研究者に大きく関係しているのだ。

リアルをアニメートする――ケース・スタディ

ドキュメンタリー映画制作における証言収集の倫理は、とりわけクロード・ランズマンの記念碑的作品『ショアー』(1985)以来、長年にわたって学術的な議論の主題となっている。一方、潜在的に映画の主人公になりうる人物が自らの物語を語ろうとするとき、なんらかの原因によって語りえない場合がある。トラウマを表象化しようとする際、言葉はそれを失敗することがあるからだ。この論文が語るのは、その一例として、ロンドンに来た難民をテーマにしたナショナル・ジオグラフィック社のための三部作ドキュメンタリー・シリーズを作った際の著者の経験である。その際、ラカンの精神分析の概念を用いることで、このシリーズにおいてアニメーションを用いるに至った経緯について理論的な枠組みを提供する。

『戦場でワルツを』における回想のアニメーションと鑑賞者としての経験

この論文は、アリ・フォルマンによる戦争回想録のアニメーション『戦場でワルツを』(2008)が、戦争の記憶への言及と道徳的立ち位置とのあいだにいかにして折り合いをつけたのかを探る。この映画は、アニメーション以外には表象することが困難もしくは不可能な題材を取り上げるに留まらず、観客とドキュメンタリー・テクストとのあいだに新たな可能性を育むツールともなりうるドキュメンタリー・アニメーションの可能性がの例証であるということを、本稿は論じる。この観点から著者が論証するのは、『戦場でワルツを』のユニークな美的選択――その革新的なアニメーション技術、そしてファンタジーとリアリティをミックスするやり方――が、観客に対して、作品の内部に、豊かで一貫し信頼するに足るリアリティの感覚を総合的に作りだすのを邪魔するどころか促進しているということである。そのために著者は『戦場でワルツを』の内容と形式の分析をその受容についての解説と合わせて行なう。そして、『戦場でワルツを』が個々人に対してある種の身体的反応を生み出すその方法について論じ、こういった反応が引き起こしうる政治的重要性について考察する。

写真の痕跡をアニメートし、ファントムとファンタスムを交差させる――コンテンポラリー・メディア・アート、デジタル・ムーヴィング・ピクチャー、そしてドキュメンタリーの「拡張した領域」

この論文が考察するのは、さまざまなプラットフォームにおける現代のメディア作品が、デジタル上で作られた運動によって写真をアニメートすることにより、写真に刻印されたリアリティについて新たな外観をもたらしているという点である。これらの作品は、著者が呼ぶところのデジタル・ムーヴィング・ピクチャー、つまり写真的静止と映画的運動がデジタル上のイメージ生成システムを経由し単独の写真のフレーム内部で相互関係を築いていくハイブリッドなイメージに基づいている。著者は、ジム・キャンベル、ケン・ジェイコブス、ダヴィット・クレルボ、ジュリー・メルツァー、デイヴィッド・ソーンの作品を分析することで、こういったピクチャーが、実写とアニメーションのあいだ、そして記録されたものと操作されたものとのあいだの境界線を曖昧なものとすることで、ドキュメンタリー的なエピステフィリア(知ることへの欲望)を満たし、ドキュメンタリーに接するかのように見者が、「思索」かつ「調査」しつつ写真的痕跡に関わっていこうとする気持ちを喚起する。デジタル・ムーヴィング・ピクチャーは、ドキュメンタリーの拡張する領域(ロザリンド・クラウス)を心に描くことをわれわれに要求するだろう。その領域では、ドキュメンタリーについてのモダニスト的概念を規定する一連の二項——たとえば、アナログのフィルムおよび写真が持つ写真化学的な性質を、アニメーションもしくはレンダリングされた映像イメージよりも表象機能において信頼に値すると看做し、優越的に考えること――が問題として取り上げられる。

ガラクタ——歴史という水煙

著名なコラージュ映画作家ルイス・クラーが、自身の映画作品から引用した個人的な記述とイメージのコラージュを創り、自作の切り絵アニメーション映画について省察を行う。この論考は、クラーの芸術創造のプロセス、そして、歴史や時間の経過における儚さについて探求するため、人工物、文書、破片を利用することを論じる。アニメーションによる運動と静止の利用、そして過去の対象を再度アニメートするという考え方についても言及される。

「僕を閉じ込めないで」——『ウェイキング・ライフ』と『スキャナー・ダークリー』における曖昧な線

この論文は、『ウェイキング・ライフ』と『スキャナー・ダークリー』の映像スタイルの評価を試みる。その際、これらの映画の美学の分析を主として行う。これらの作品で用いられるロトショップは、キャラクターや主題を描き出す表現の手段であり、それによってアイデンティティは、固定・安定したものというより、多面的にスケッチされるようなものとなる。しかしながら、美学的に境界線と戯れることは、トラブルを抱えたアイデンティティへの主題的な先入観を詳細に記述するための手段以上の反響を孕んでいる。この二本の映画においては、そういった表象が重要となっているわけだが、一方、絶え間なく動く、横滑るキャラクターの輪郭線は、実写とアニメーションの境界線が曖昧なものとなっていることへの言及でもある。本稿の議論の中心となるのは、これらの二本の作品を理解するにあたってのアニメーション化された線の利用である。線は、ロトショップの利用と、この二本の映画が提起する諸問題を探るための弾みとなるのだ。本稿は、以下の主要なアイデアについて考察する――アニメーション化された線とその美学的分析、ロトショップというテクノロジー、断片化されたアイデンティティの表象、フォトリアルな映画とアニメーションのあいだの関係(とりわけナラティブやスペクタクルに焦点を当てる)。著者はテクノロジーとスペクタクルというコンテクストの内部でロトショップのことを提出する。産業上の実践を考慮にいれることにより、ロトショップのような技術的革新がいかに実写映画に変容をもたらすのかを評価することが可能になるのである。

不気味な指標――ドキュメンタリーとしてのロトショップ・インタビュー

この論文が考察するのは、ボブ・サビストンが1997年から2007年のあいだに制作したインタビューのアニメーション化と、それらの作品をドキュメンタリーとみなすことが持つ含意についてである。著者は、これらの作品が、リアリティと見せかけ、観察と解釈、現前と不在のあいだの緊張関係と交渉を行なう閾値的・言説的テクストであることを論じる。問題とされる短編作品のテクストを分析していくことで分かるのは、これらの作品の美的な提示は、ドキュメンタリーとしての地位を確かなものとすると同時に、ロトショップの表現主義的な可能性を開拓もしているということだ。ロトショップの本性は、インタビュイーの物理的な身体の不在を強調しつつ、表現的に過剰なアニメーションのスタイルへとそれを置き換えていく。ドキュメンタリーとしての真正さ・証拠、つまり視覚的指標などの慣例的な標識は、これらの作品においては欠如している。これらの欠如は、美学的に閾値的なものとなるアニメーションのスタイルと組み合わせられることにより、喜ばしく複雑ながら認識論的にかつ現象学的に問題を提起する鑑賞体験を作り出すのだ。

ロト‐シンクレシス――ロトショップ・アニメーションにおける身体と声の関係

ロトスコープのデジタル版として特許登録されているロトショップは、視覚的に革新的なプロセスであると論じられてきたが、その聴覚的な革新の可能性については見過ごされてきた。ロトショップのアニメーションにおける「トーキング・ヘッド」の度重なる再登場は、映像に対してと同様、サウンドトラックに対しても、批評的考察を促すものでもある。この論文は、ミシェル・シオンの議論を追いつつ、スクリーン上の身体を変容させるこの新たな方法が、身体とそれに伴う声とのあいだの関係性についての再想像を含むことを論じる。ロトショップを用いた実験的短編作品『フィギュア・オブ・スピーチ』と長編インディーズ作品『ウェイキング・ライフ』、『スキャナー・ダークリー』の分析を通じて、声と身体のあいだの同調における様々な異なる可能性を検証する。これらの議論は、声が身体の「真正性」を保証するリップ・シンクロナイゼーションについて広く受け入れられている約束事性への固執から、言葉と身体の運動がそれぞれ独立した純粋なる形式へと分解されていく自由な浮遊的集合体までカバーするだろう。

インディペンデント・アニメーション、ロトショップ、実践のコミュニティ――『スキャナー・ダークリー』から見えてくるもの

この論文は、2006年映画『スキャナー・ダークリー』が用いたボブ・サビストンのロトショップというソフトウェアの分析を通じて、アニメーションの実践の特別な一端について考察する。「実践のコミュニティ」および「正統的周辺参加」という概念について論じ、制作における様々なモードという観点からこの映画を文脈化することで、著者は、このプロジェクトで一定の人々が働くことになった過程や方法について追及する。それに加え、『スキャナー・ダークリー』の制作過程の歴史を概略することで、既に受け入れられている制作実践への様々な仮定や予期が、「インディペンデント」および「スタジオ」製アニメーションについてのより広範な理解へと向かうことを論じる。分業と規格化についての問いや、それらが創造性、自律性、そしてアニメーションの制作へといかに関係していくかという問いも提出される。アニメーション史におけるロトショップのポジションは、これらについて問ううえで、興味深いケース・スタディとなるだろう。

ボブ・サビストンとポール・ワードとの対話

ボブ・サビストンはマサチューセッツ工科大学(MIT)のメディア・ラボで学んでいた1980年代以来、アニメーションの領域に携わっている。サビストンは、ポール・ワードとの対話において、彼が一番親しんでいるデジタル・ロトスコーピング・ソフトウエアであるロトショップの開発について、そして彼に影響を与えた芸術家やアニメーターについて語っている。サビストンの作品の中心にあるのは日常への関心であり、アニメーションがいかにそれを掴み取り、そして創造的に扱うかということである。アニメーションとリアリズム、もしくはアニメーションとドキュメンタリーについての議論がなんらかのかたちで彼の作品と関係してくることは疑いようがない。ロトショップはしばしば、デジタル上での洗練された創造作業というよりイメージのフィルタリングの一形態であると誤解されてきたが、そのことが意味するのは、我々がどのようにアニメーションを定義しているのか、「適切な」アニメーション(ある「近道」の逆として)というものを構成するのは何なのか、アニメーションにおける様々な労働を我々はどのように見ているのか、といった議論の核心へ迫ることでもある。サビストンはロトショップ作品と最も強く関連づけられているが、一方で、他のプラットフォーム向けソフトウェアの開発にも積極的に関わっている。

ジョイスをアニメートする――ティム・ブースの『ユリーズ』

ポール・ウェルズによれば、アニメーション作家と、アニメーションによるテクストとのあいだの長期にわたる親密な関係性は、執筆のプロセスと似ている。アニメーションという形式が持つ技巧的感覚は、映画制作のために文学をソースとして用いるときに起こる変容的な側面に光を当てるのである。内面性、翻訳、そしてテクスト上のプロセスなどの表現こそ、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)——複数の語り手が採用され、20世紀初頭の都市ダブリンの社会の表象を構築し解体していく小説——を映画化するのにアニメーションが完璧な手段となり得るゆえんである。この論文の目的となるのは、ティム・ブースの短編アニメーション『ユリーズUlys』(1998)についての考察だ。この短編は、ジョイスの執筆への言及であると同時に、ジョイスの小説の脚色でもある。本稿において著者は、『ユリシーズ』を補強する「イメージ・スキーマ」、そして、文学およびアニメーションによるテクストの両方に対する人間の認知に意味を与える「小さな空間の物語」を回復するため、ブースがアニメーションを利用することを考察する。

人類学の視線を通してアニメーションを読む――サハラ以南アフリカ・アニメーションに関するケース・スタディー

本稿の狙いは、人類学が、現在西欧の学術的言説において流通している支配的なパラダイムから距離を置く一群の新しい批評的モデルを、どのようにしてアニメーション研究に提供できるかという主張を示すことである。筆者は、アニメーションを読み解く際、それらのモデルがどのように利用できるかを議論し、アニメーションを読み解くことへの学際的なアプローチの利点を広く知らせる裏づけの事例として、サハラ以南地域のアニメーションを活用する。このようなアプローチは、人類学からアニメーション研究へ、アニメーション研究から人類学へという二つの方向性を持つ。本稿は、アニメーション理論はどのように人類学から利得を得そうな形勢にあるかを示し、そこでまた、アニメーションは視覚的人類学における研究者の方法論の中にどのように含まれ得るかを説明する。

プロダクトデザイン操作文化としてのCGアニメーション、もしくは売場へ、レジへ、さらに向こう側へ進むバズ・ライトイヤー!

映画的なイメージと工業商品との関係性は、20世紀の間、多くのプロダクトプレイスメント研究の主題であった。本稿は、現代のコンピュータによる遠近法とレンダリングの自動化が、映画的なイメージと製造品との関係性に対して広範囲に渡って影響を与えると主張する。ルネサンス遠近法の出現はイメージと対象とのあいだに新たな関係性を構造化し、そのどちらもが幾何学的・数学的正確さで視覚的に再現され得ることを目指し合理化された。このことを出発点とした現代のコンピュータジェネレーテッド(CG)アニメーションは、ルネサンス遠近法の「視覚的唯名論」を更新するわけだが、一つの決定的な違いがある。つまりコンピュータアニメーションは、遠近法的なイメージに時間という第4の次元を加えるのである。これは、ルネサンスの手描きによるイメージ作業や、機械的に再生産された映画とも質的に異なるイメージ形式を促進し、なおかつ、それらの代わりに、手描きであると同時に機械的に再生産されたイメージ形式を促進する。このような違いが持つ意味合いが、現代の長編CGアニメーション映画の詳細な分析を通して探究される。その試みは、映画的なイメージ作業と消費文化における将来の発展を理解するに多くのことを提供するだろう。おそらくもっとも重要なこととして、CG長編を主な舞台にする物体とキャラクターたちは、工業製品デザイン工学における現代の実践(「プロダクトプレイスメント」を今日的に理解するための相当の含意を持つ発展)に総体的に関連する。画面上のすべてのものが、文字通り、産業的に製造され用意周到に配置された製品であるとき、映画に関する伝統的な諸理論、広告、消費文化は三角法で再び測定される必要がある。本稿の主張は、多くのCG長編が、映画イメージと製造品との関係性に向かって重層的なレベルでアプローチすることを要求するということである。

フォノグラフ玩具と初期有声カートゥーン――可視化されたフォノグラフィ史に向けて

1909年から1925年までの間に、蓄音機の回転運動によって動く多くの玩具が特許をとって生産された。本稿で筆者は、そのような「音玩具」が有声カートゥーンの系譜に関する我々の理解を補足し精緻化すると主張する。また、ポピュラー文化における録音は、映画、ヴォードヴィル、新聞漫画同様に、初期有声時代のアニメーターたちにとって表現の重要な源泉として考察されるべきだと提案する。1920年代末および1930年代初めに、ディズニー、フライシャー、ワーナーブラザーズ、ヴァン・ビューレン、アイワークス・スタジオが製作した有声カートゥーンと音玩具に共通する家族的類似の布置を概観することで、本稿は、この時代の有声カートゥーンと蓄音機文化との相互関係を明らかにする。それは結果的に、音声/映像の同調に対する戦略はもちろんのこと、人種、民族、ジェンダーの表象に関わるアニメーション研究上の諸議論に新たな観点を提供する。

全体論的な有生性(アニマシー)に向けて――東アジアの思想を反映するデジタルアニメーション現象

2009年発表された論文で、筆者は、アニメーションがコンピュータテクノロジーと組み合わせられたとき、人間にとって有意味となる様々なレベルの生気を保った運動をいかに作り上げるかを提示した。本稿はそれを受け、知覚心理学・認知心理学の洞察に拠りつつ、デジタルアニメーションによる諸現象を分類するため、生気に関する新しい類型論を提案する。同分類は、道教と神道の中核的な思想を含め、東アジアの伝統におけるホリスティックな思考を反映しつつ、デジタルで仲介される今日の環境における生気の均衡と広がりを強調する。日本のアニメーション映画『攻殻機動隊』(押井守、1995)の中のモンタージュシークエンス、上海万博で展示された中国画『清明上河図』のアニメーション版、日本の携帯ゲーム機用に発表されたビデオゲームである『エレクトロプランクトン』など、現代の東アジアで制作されたアニメーションからの事例分析を用いつつ、筆者は、今日のデジタルアニメーション現象がアニメーターやコンピュータ、さらには観客/ユーザーまでも統合し組み込むと主張する。それは、生命の幻影を追求するということにおいて、人間‐機械の関係に対する思考を刺激するのだ。

影のスタッフ――東宝航空教育資料製作所(1939-1945)のアニメーターたち

これまで日本のアニメーション史の研究者たちは第2次世界大戦中に作られたプロパガンダの漫画映画に注意を払ってきたが、その時期、軍事訓練用のアニメーションはその2倍も製作された可能性がある。現在のところ、所在が分からないそれらの映画は、東宝航空教育資料製作所に配置換えされた一群のアニメーターによって作られた。時には5~6リールの長さ(およそ48分)、そして8リールという長編規模のケースも一つあったが、それらの作品は、1930年代の1〜2リールの短編と、『桃太郎 海の神兵』(1945)という日本初の長編アニメーションとの間のミッシングリンクである。その内容は、真珠湾を爆撃する予定のパイロットのための戦術上の要領、敵艦を即座に見分ける方法、航空母艦の乗組員のための戦闘プロトコルの案内などを含んでいた。本稿は、現在利用可能な資料から、その「陰のスタッフ」の実態と成果を再構築し、彼らが日本アニメーション産業のナラティブから排除されたこと(と、そのナラティブへ取り戻すこと)を考察する。

『アバター』とユートピア

多数のレイヤーを単一のイメージに合成することは、ライティング、グレーディング、エディティングにおける複数の課題をもたらすが、それぞれに異なる方法自体は、一貫していると明白に分かる空間を創造する仕事において、美学上の課題を生み出す。その課題は非常に大きいものであるが、まずデジタルのスクリーンと映写機がまかなえるのは、非常に限られた画面表示の形式のみという理由から、そしてそれらと関連するコーデックも、空間の構築を2次元の直交座標に従わせざるを得ないという理由からである。『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)は、一貫した物語内現実(ディエジェーシス)の構築を試みるが、以上のような課題のために失敗する。さらにその課題は、モーションキャプチャのような他の技術分野とナラティブにおいて倍加される。イデオロギー的な読解は否定的な反応を提供できるのみなのだが、注意深い分析は、合成を伴う実写映像とアニメーションのスペクタクルにおいて、ユートピア的な可能性をも明らかにするのであり、これらのこともまた、批評的な蓄積の一部となるべきなのだ。

立体映像的な国民の創生――ハリウッドとデジタル帝国、そしてサイバー・アトラクション

本稿は、『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)は立体映像技術、映画、アニメーションの発展における重要な契機であると主張する。『アバター』は、美学的/形式的レベルにおいても、ナラティブの見地からも、ヴィクトリア期の立体視覚技術、アメリカの映画制作、それらに伴って巻き起こった民俗誌学および環境破壊に関する人種主義的な言説へと語りかけ直す。D.W.グリフィスの映画『國民の創生』と並んで、「先住民」に関する19世紀の立体写真と、その先住民たちの資源豊かな環境をエコーとして響かせているが、『アバター』は過去の残虐行為を克服しつつ、そのような行為を我々の時代に関連づけることも試みる。そのような克服は、より微妙な存在論的レベル上でも発生する。一種の「サイバー帝国」の内部に起源するヴィクトリア期的な立体写真イメージの工程は、サイバーシステム時代における文化の産物としての『アバター』の、現代における位置を明らかにする。立体視覚の形式は視覚のプロセスにおいて身体の役割を強調することにより近代の視覚的体制を破裂させるがゆえに、評判では平面写真におけるイメージの工程が人気の面でそれに取って代ったという主張がなされてきた。『アバター』のCG合成形式が巧みに回避するのは、そのような方程式である。つまり写真は、鑑賞者が指標的な形式を眺める過程の中で自分の身体を意識することを最小化させようと追求したのかもしれないが、そのような考え方は捏造されたCG合成物の時代においては有効性に疑問が残る。立体写真の諸起源が写真に先行したとするならば、そして立体写真の基礎になるイメージが手描きだったとするならば、立体写真史においては技術的な脚注でしかなかったものが、いま、『アバター』と新しい「近代のサイバー体制」の理解において、核心的なファクターになる。

『アバター』――立体視覚映画と気体的な知覚、そして暗闇

本稿が提供するのは、3D映画の経験に関する理論的な分析である。その際、とりわけ注意を払う問題は、3Dメガネのような付加的な装置・メディア・フィルターといったものが、映画のイメージ対する観客側の一層高いレベルのリアリスティックな知覚を可能にする逆説的なやり方である。3Dメガネが、映像と観客との間に付加的な装置・メディア・フィルターなどの構成要素になるということは、究極的には、「固体的」な知覚と「気体的」な知覚との間の(つまり簡単にいうと、対象を固体性のバリアーとして見ることと、染み込み得るものとして見ることとの間の)違いに関する、そして知覚そのものにおける「暗闇」の重要性に関する、より一層抽象的な議論へ進むはずである。筆者の主張は、ここで3Dメガネという付随的なメディアムと同等視される暗闇が、映画を観ることにおいて核心的でありながらもこれまで看過されてきたということである。それは3D映画によってようやく明確化される側面である。筆者は、このような論点を背景に『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)を分析することで、3D映画の経験に関する理論的主張のいくつかを規定しようと試みる。

運動を見るということ――モーションキャプチャ・アニメーションとジェームズ・キャメロンの「アバター」に関する考察

本稿は、モーションキャプチャ(mocap)アニメーションが運動を映画に対して独特な方法で関連づけると提案する。それは、モーションキャプチャ・アニメーションにおける運動が前映画的(profilmic)性質の一部というより、むしろその運動自体がをそもそも前映画的なものという側面からである。;文章を二つに分けました。pro-filmicという単語が非常に訳しにくいものですが、山形ドキュメンタリー映画祭のある文章で「前映画的」となっており、これを採択できればと思います。モーションキャプチャは、対象そのもののデータというよりも、空間における前映画的な対象の位置の変化のデータから構成されるイメージを記録する。運動と対象との間のそのような臨界的区別を利用しながら、筆者はモーションキャプチャの経験がイメージの本性を変容させ、そうすることでモーションキャプチャは、見る感覚というよりも存在するという特殊な感覚を含むということ、さらにいえば存在するという特殊な感覚そのものでありうるということを主張する。ジェームズ・キャメロンの『アバター』(2009)がモーションキャプチャ・テクノロジーを応用するのみならず、見る行為を主題として取扱うことに因んで、筆者は、モーションキャプチャと「見る/存在する」こととに関する命題を説明するものとして同映画を用いる。この過程において、筆者は、映画を観る際、光を見るという我々の経験を再検討し、モーションキャプチャおよび運動の経験は映画に対する我々の関与をどのように変容させるかを考察する。本議論は、ムーヴィング・イメージに対する我々の理解と相互作用とに関するだけではなく、我々は運動と存在、そして光と暗闇の中に収められている映画の世界における感覚的経験の総体をどのように理解できるかという問いへ向かう。

(デジタル的に)先住民になるということ

本稿はまず、『アバター』は、ドキュメンタリーの地位を獲得するほどの人類学的、歴史的正確性によってそのラディカルな政治-美学的ファンタジーを正当化するため、認識論的見地から科学的な「記録物」に頼っているということを論証する。筆者は、『アバター』が、観客をその事実の仮説者兼その実験者として構築し、さらには彼らを、そのフィクションに対する批評家として構成することを証明する。第二に筆者は、美学的想像力が科学的正当性に関する判断の代行をするように、『アバター』における科学的正当性が美学的想像力に関する判断の代行をどのようにするのかを説明する。第三に筆者は、『アバター』が科学的リアリズムに関与するラディカルなスペクタクルのアニメーションであると同時に、ラディカルな政治的ファンタジーに関するスペクタクルのアニメーションであると主張する。最後に筆者は、同映画がアイデンティティー形成のためのオルタナティブなモデルをどのように提供するかを論証する。それは内面化という精神分析的プロセスではなく、事実上、近代的ヒューマニズム(人間中心主義)からかけ離れている生命形態への投影という準現象学的プロセスに基づいている。つまり非人間的な存在、動植物界、さらに全員が相互依存的・協力的・共同構成的・共同創造的に参加する生態系と共生的な同盟関係を形成する社会的関係モデルへの投影のプロセスにあたる

コードが衝突する場所――『アバター』の創発的な生態学

生態学的なアプローチは、『アバター』の物語世界に一つの洞察力を提供する。そのアプローチは本稿において、同長編映画とその関連テクスト(制作現場の開示、メーキングの特典映像、インタビュー)との関連性の探究のために拡張される。グレゴリー・ベイトソン、フェリックス・ガタリ、ジェーン・ベネットの生態学的思想に拠りつつ、本稿は「アバター」およびその関連テクストが、創発的空間に関する一種の生態学として考えられると主張する。このような空間の物質性は、その編成に関わるアニメーション・ソフトウエア、モーションキャプチャ・テクノロジー、俳優、デザイナー、監督など様々な実在物から見出される。以上の主張は、主に『アバター』におけるCGイメージの生態学に関する我々の理解を、リアルタイムのモーションキャプチャ・テクノロジーがどのように変容させるかという議論を通して進められる。同映画におけるイメージのリアリズム、もしくはそれらの内側にある人間的なものの痕跡のみにフォーカスを当て続けると、創発的空間がどのようにコードの交差点に出現するかを見失うことになってしまうのだ。

「表現の新しいモード」――1930年代フランスのアニメーションに関する思考

1930年代のフランスで、大衆出版と映画雑誌はアニメーションについての活発かつ多面的な議論を提供した。本稿は当時の言説の内部において、アニメーションが一つの新しい芸術形式としていかなる表現的潜在力を持つものと考えられ、どのような展望によって眺められたのかを調査する。また、同形式に関する様々な考えが、アニメーション美学、アニメーションと他の芸術・文化形式との関係性、アニメーションの歴史という見地から、どのように表現されていったのかを追跡する。アニメーションの受容と言説に焦点を当てたアニメーション史の研究方法を進展させることで、本稿は、アニメーションに対する観念が文化的にいかに形成されたのかを詳述する。

ウィンザー・マッケイ作『恐竜ガーティ』(1914)のメーキングとリメーキング

ウィンザー・マッケイは『夢の国のリトル・ニモ』のような伝説的なコミックスを創造しただけではなく、アニメーション先駆者の一人であった。そして彼の『恐竜ガーティ』(1914)はアメリカ最初の傑作アニメーション映画だった。「ガーティ」には二つのヴァージョンが存在すると知られている。最初のヴァージョンでマッケイは、スクリーン上に投影されるガーティという名前の恐竜のアニメーションと共にヴォードヴィルの舞台上に出演し、後のヴァージョンでは、ウィリアム・フォックスのBox Office Attractions Companyによって撮影、配給された実写のプロローグとエピローグを含んでいた。フォックスのヴァージョンは、原本のナイトレート・プリントとして現存するが、マッケイのヴォードヴィル・ヴァージョンは在り処が不明である。しかしマッケイの334枚の原画を調べると、ヴォードヴィル・ヴァージョンが終わるあたりにフォックス・ヴァージョンに含まれていない「カーテンコール」シークエンスがあったことが分かる。失われたセグメントの元になった15枚の作画のおかげで、デジタル・テクノロジーを取り入れたガーティ・プロジェクトはそれらを再構築することができた。筆者らは、ガーティのヴォードヴィル・ヴァージョンの年代をより正確に定めつつ、マッケイの元来の注釈を解読することで、「スプリット・システム」を含め彼のアニメーション手法を実演した。筆者らは、ガーティのため1万枚の作画をしたというマッケイ自身の主張を検証する。サイレント映画としてのアニメーションにおける一つの節目に関する歴史的分析の結果を通し、ウィンザー・マッケイの芸術的完成度、歴史的真正性に関する様々な争点、アーカイブにおけるデジタル再構築の意味合いが議論される。

マイブリッジの幻灯

エドワード・マイブリッジは、人間および動物のロコモーションの高速度撮影とその研究に貢献したことで広く知られているが、19世紀末の数十年間は幻灯巡業でも名声を同様に獲得していた。当時、彼は写真家として、自らの映写機ゾープラクシスコープを通して制作されたアニメーションと静止画とを交互に見せる、多属のマルチメディア・ショーで観客に娯楽と教育を提供した。本稿は、マイブリッジの幻灯活動が、時間と時間性はもちろん、視覚と視覚性についての認識論的な変容を取り巻く19世紀の不安にどのように基づいているのかを論証するために、その活動における時間的、物質的側面を調査する。マイブリッジはアニメーションを、静止イメージが動くようにアニメートする動的なプロセスとして看做し、動物たちの不恰好なイメージを人間の自然な視覚領域へもたらすための一時的な対策として扱った。そうするなかで彼は、幻影を通じて真実を培いつつ、観客が、当時浮上しつつあった映画的感受性を前もって整えるための手助けをした。筆者はさらに、写真的指標性の時間的側面を強調することで、マイブリッジの試みは時間のアーカイブ化に等しく、彼にとって幻灯は、物質化された時間を提示すると主張する。かつてスライドによる投影が展示したのは仮想の非物質的なものだが、割れたスライドを調べると、写真的な美がその短命性と脆弱性から浮かび上がってくることが明らかになる。静止と運動との間、物質性と非物質性との間のアニメーション的交替は、映画の出現の中で定着した、時間および視線を取り巻く認識論的な仮定と不安の出現を示すものとして機能する。

2Dアニメにおける押井守のマルチ・レイヤー空間の制作

本稿は、日本の空間的装置であるレイヤリングのことを明らかにする。西洋の遠近法とは対照的に、レイヤリングは、2次元のイメージを重ねることにより輪郭と共に深みを生み出す。3つのレイヤーに関する押井守自身の理論化を通じて、筆者は、伝統的な木版画とアニメにおけるレイヤリングの応用を調査し、芸術形式としての書道からレイヤリングが派生したことを考察する。本稿が提出する見解において、アニメのレイヤリング・システムは、統一された遠近画とは異なり、複数の異なる作画スタイルを重ねることを可能にする。さらに、押井監督の映画を通して、視覚的・聴覚的交換における彼の実験と、アニメにおける間、ポーズ、休止という概念の時間的応用を探究する。そして最終的に目指すのは、時間的・空間的経験の一場所であるアニメを検討することで、間とレイヤリングという概念を追求することである。間の時間的・空間的概念に関しては、仮名と漢字を組み合わせる日本の文字言語によって生み出されたと推測される。

今敏の『千年女優』――夢のような特質を伴うある女性の旅程

今敏は、精神的な錯乱もしくは夢のような変造された心的状態を提示する作品、ストーリー、イメージで知られる日本のアニメーション映画監督である。筆者は『千年女優』(2001)を彼の最高傑作と考えるが、この映画は、虚構的な女優の伝記という物語を創り出すため、夢幻的なスタイルのアニメーションとフィルムメーキングとを用いる。同映画で今敏は、20世紀初め以来、およそ100年間にわたって進展してきた、夢の機能とその力学に関する諸理論と発見を具体化する。同作品の夢幻的な性質を精神分析/心理学の諸理論と神経学的な枠組みを用いて探ることにより、女性の旅立ちに関するそのストーリーを、集団的無意識および神話的物語構造、さらにはストーリーテリングを夢状態に至らせる映画的な編集手法との関連において明らかにする。

キーフレーム・アニメーションの美学――労働、初期の発展、そしてピーター・フォルデス

本稿は、「キー・フレーム」の設定によってコンピュータアニメーションを生成させる作業、つまり「キー・フレーミング」の実践を経由するCGアニメーションの中核的なメカニズムと美学を調べることで、同分野における無重力の動力学を議論する。筆者は、キー・フレーミングの実践こそが、コンピュータアニメーションが連想させる重力の欠乏感にもっとも影響すると主張する。より一層重要なのは、キー・フレーミングにおいて用いられる変形(デフォルメーション)法が、初期アニメーションの人気スタイルだったゴムホース・アニメーションを不意に喚起するということだ。ゴム質の弾力的な運動は、ディズニーにおいて「原形質的(plasmatic)」なものとしてエイゼンシュテインに印象を残したものである。ゴムホース・アニメーションは、新しい自動化された運動を持って、自由な歪曲とメタモルフォシスを探究したピーター・フォルデスの先駆的なコンピュータアニメーション作品において再登場したのであり、アニメーション産業がゴムホース・アニメーションと共に始まった地点への完全なる回帰であった。

支配機械――デジタルアニメーションと統制のファンタジー

数十年間にわたって、クリエーターは自身の描くイメージに対して絶対的な統制力を持っているという考えが、アニメーション言説の軸でありつづけてきた。コンピュータアニメーションの到来は、近年、そのような議論を再活性化している。SF長編アニメーションである『メトロピア』(タリク・サレ、2009)、『メトロポリス』(りんたろう、2001)、『ファイナルファンタジー』(坂口博信・榊原幹典、2001)は、進歩したテクノロジーによって容易になった高度な芸術的支配力をめぐるユートピア的な白日夢と明らかな懸念を呼び起こす。以上の3本の映画をケース・スタディーとして用いながら、本稿は、コンピュータアニメーションによる未来的な都市空間を統制の建造物として検討する。さらに、人間の形を模倣的に再現したものに対するアニメーターの増大した統制力から生み出されたものであるデジタル上の身体を議論し、コンピュータアニメーションが、イメージに対するその技術的・芸術的支配力を驚異的な偉業としていかに前景化するかを探究する。そうする中で、本分析は、全能のクリエーターという夢が全能な機械へと進化していく様子に光を当てる一方、テクノロジーがアニメーターの労働を侵食し、今日の生産活動のコンテクストにおいてその労働を時代遅れのものにする危険の可能性に関する懸念も前景化する。

『千と千尋の神隠し』――日本の生態学的・環境的言説に関する映画に基づいたケース・ステディーを概念化するということ

本稿は、宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』の内容を環境に関連づけて読解するやり方について、その種のいかなる試みにも同意しないという観点から議論する。本議論は、フィールドワークと二次的資料を通して得られた多様な観点を分析する際、同映画に見られる物理的な設定に関連する象徴主義とキャラクターたちの解釈を行っていく。つまり、1960年代以来続く昭和期日本の高度経済成長期との相互関連、公害を表象するキャラクターたちと伝統的な自然の象徴との対照、消費と廃棄物に関する相関的な思考、自然と人間との繊細な共存、自然に関する伝統的な概念、環境に関する諸解釈と精神性、人間と自然との相互作用、国家レベルと非国家レベルの利害関係者たちに対する日本社会内部の考え、経済的清算の衝撃、開発に伴った共同体の結束における変化などである。この際の方法論は、日本において環境に関連する様々な考えを取り巻く学術的論争とテクスト分析に基づいている。第二の方法論は、以上の論点に関連する教育や執筆の経験を持つ知識人コミュニティ内の指導者や学術的専門家との口頭インタビューに基づいている。結論部分では、『千と千尋の神隠し』の受容と共に、観客が同映画の内容にどのように意識的に反応し、彼ら自身の環境テーマの理解(もしくはその拒絶)へと辿り着くか、その道筋を議論する。

ショット長における宮崎、押井、細田のスタイル――定量分析

グループで制作されるアニメーション映画において、一人の監督は、自らの映画スタイルをどのように表現しうるのか?このような問題への言及のため、筆者二人は、宮崎駿、押井守、細田守、以上3名の監督による日本のアニメーション映画22本のショット長を分析した。我々の分析は、ショット長の統計学的測定が明確にその監督たちに拠ることを明らかにした。宮崎の映画の分析は、彼が長めのショットと短いショットを両方ともに避けることを示す。押井のショット長は平均的に長い傾向にあるが、細田は比較的短いショットを好む。さらに押井と細田それぞれにおいて、統計学的な指数の側面から二人の第1作と後続の作品との間には大きな違いがあることが分かった。それは、彼らがその第1作目の監督もしくは第2作目の監督を務めているうちに、ショット長におけるスタイルを確立させたことを示唆する。筆者たちは、この三人の監督が、ショット長の数値の決定にとって重要なプロセスである絵コンテの作業を通じて、映画のショットをコントロールしていたと結論する。映画内のショット長に、絵コンテ段階のものとの関連が見られるからだ。

モレル_モロー_モレラ――(再)アニメーションの宇宙におけるアドルフォ・ビオイ=カサーレスの発明のメタモルフォシス

アドルフォ・ビオイ=カサーレスの短編小説『モレルの発明』(2003[1940])は、テクノロジーを通して自らを定義するという人間の願望、つまり、まさに仮想化が進む環境の中で技術的分身として人間を再アニメートするという願望を描いている。発明品と(再)アニメーションとの間に形成される特権的な関連を強調するために、本稿は、ファンタスマゴリア、オートマタ、機械環境という三つのアニメーション形式と『モレルの発明』がどのような関係にあるのかを議論する。このような目的のため、本稿はアニメーション理論という分野において、我々がシミュレーションとオートマタを理解する際に重要な論考、例えばアラン・チョロデンコの「アニメーション・オートマタに関する考察」、さらに、ジュベール・ロランセンの著書『La lettre volante. Quatre essais sur le cinema d’animation(盗まれた手紙——アニメーション映画に関する4編の論考)』を調査する。ジーグムント・フロイトの「不気味なもの」における美学の領域への精神分析的アプローチと、森政弘の「不気味の谷」理論のような後続のものもまた検討される。

都市をアニメートするということ――ストリート・アート、Blu、そして視覚的遭遇の政治学

注目すべきウォール・ペイント・アニメーションを創り出すストリート・アーティストのBluが描写する漫画キャラクターたちは、実際の都市の様々な表面沿いと周辺において、そして都市の表面を貫通しつつ跳ね回る。このような活動を通して、彼の映画『Muto(沈黙)』(2008)は、都市空間とその住民たちとの絡み合った関係性を描く。同映画は、都市空間に関する今日の考え方を端的に表す側面を持っている。その考え方は、近代都市が持つ、主に視覚的でスペクタクル的な特徴を強調しつつ、総体化する凝視が個人の身体的経験を省略させる空間としての性格を都市に与える。しかし『Muto』において、Bluは、個別の振り付けで構成されるバレエの複合体としてのメトロポリス(大都会)を構想するために、このような視覚的側面を採用する。パラドクスとしての都市を心に描きつつ、『Muto』は非常にスペクタクル的で、なおかつ、身体化された複数性として都市空間を性格づける。また、アニメーションによる作品として『Muto』は次のような矛盾を形式的にコード化する。つまり同作品は、資本主義的な消耗と枯渇の領域としての都市を描写しながらも、作品そのものの変貌する様々な身体に場所を再定義できる力を吹き込む。作中の変形していく様々な身体、それを観ている観客の身体、そしてアーティスト自身の身体をつなぎつつ、『Muto』は都市空間を複数性の感覚で充満させる。都市的な運動を刻印として、そして都市的な刻印を運動として身体化させるBluの芸術的実践は、身体が住む空間を身体そのものはどのように形づけるかを認知する。

映画的な収集――オスカー・フィッシンガーの『ミュンヘンからベルリンまでの散歩』における静止フレームの連続的な不連続性

ヴァルター・ベンヤミンの主張によると、写真によって触知可能なものになる「偶然ある瞬間」とは、映画においては存在しない。映画は、連続性と現存を生成する、捕らえどころのない瞬間の一時性に拠るものである。本稿はオスカー・フィッシンガーの1927年の実験短編映画『ミュンヘンからベルリンまでの散歩』が、写真と映画との不適合性を提示する方法で両者を組み合わせる一方、その不適合性を乗り越える手段としての新しい視覚言語(つまりラディカルな形式のアニメーション)をも作り出すことを明らかにする。本稿はフィッシンガーの作品を、アニメーションに対して、また、ワイマール時代およびそれ以降のアヴァンギャルドに対しての特別な貢献として検討し、収集、映画、写真、アニメーションの諸理論のための哲学的な含意を解明する。

定量化と代替――ヴァーチャル・シネマトグラフィの抽象空間

空間に価値を与え交換経済へと進入させるために、資本主義は空間を抽象的な計画に還元させる方向に働く。アンリ・ルフェーヴルは、そのプロセスに関して執筆する際に、「抽象空間」という用語を提案し、同空間における論理を詳細に記述する。その論理は、ヴァーチャル・シネマトグラフィにおいてデジタルアニメーションで創出された空間、例えば『マトリックス リローデッド』(アンディ&ラリー・ウォシャウスキー、2003)で用いられた空間でも働く。ヴァーチャル・シネマトグラフィは、総体化された予見可能な空間を創りだし、俳優の代わりに非常に道具的な、なおかつ、管理可能なデジタルの代替物(時にはシンセスピアンとして知られている)をその空間に生息させつつ、幾何学的な抽象化に開かれているものとして、空間と個人を捉える。ヴァーチャルな空間の創出を解釈するためルフェーヴルの研究を用いることによって、今後のコンピュータアニメーションのモチーフと結果とを批判的に評価することが可能になり、ヴァーチャル・シネマトグラフィが、空間を再現し定量化する他の視覚システムと連携する方法が浮き彫りになるのである。

境界の宇宙――ヤン・シュヴァンクマイエルの『フード』におけるピクシレーション化されたパフォーマンス

チェコの超現実主義映画作家ヤン・シュヴァンクマイエルは、葉、壁の表面、靴下、釘、生肉といったものをアニメートすることで知られているが、生命のない物体にとどまらず、ピクシレーションという手法を通して生身の俳優をもアニメートする。本稿は、1992年の短編『フード』におけるピクシレーションを用いた俳優のパフォーマンスについて考察する。同作品は俳優という仲介者と、アニメーターという仲介者との間で一種の弁証法を構築する。本稿における筆者の主張は、シュヴァンクマイエルが人間の仲介者に限界を設定し、また、我々の身体の境界が我々の予想以上に浸透可能であると提案しつつ、身体に基づく自律性の土台を侵食するということだ。

「レミーのおいしいレストラン」における音響的主観性と聴覚的遠近法

本稿は、『レミーのおいしいレストラン』からの諸例を用いることで、聴覚的遠近法を通じたキャラクターたちとの同一化を創出するため、音がどのように使われうるかを検証する。この聴覚的遠近法が生み出されるのは、距離を創出するためのマイクロホンの配置、位置を創出するためのスピーカーの配置、環境を創出するためのデジタル信号処理、我々を内部者もしくは外部者として位置づけ、なおかつ、キャラクターたちの内的な主観性を説明する主観的遠近法で、画面上のイメージを強化もしくは否定することを通してである。

アニメの国のアリス:初期のディズニーアニメーションにおける小児期、ジェンダー、空想の世界

ミッキーマウスの変化自在な世界が1920年代後半から1930年代にかけて小さな子供からヨーロッパの映画制作者や哲学者まであらゆる人を魅了したのは有名だが、ウォルト・ ディズニーがメディア技術を使って小児期の自由な想像力を表現しようとした試みは、彼が初めて成功させたシリーズ「アリス・コメディ」(1923-1927)まで遡ることができる。これはアニメーションで表現された夢と空想の中の不思議の国を探検する少女を実写したもので、もととなったルイス・キャロルのキャラクターと同様、ディズニーのアリスも現代の合理的な生活と正反対の不合理で不思議な世界への架け橋の役割を果たしている。ディズニーはアリスを通して自分自身の文化作品を人々から長く愛されてきた児童文学に結びつけ、独自の視点でアニメ化した不思議の国を少女の無邪気な視点から見たものとして描いたわけである。このシリーズの冒頭では、遊ぶ子供たちを描いた実写ストーリーがきっかけとなってアリスがアニメの国に行き、子供から年寄りまで観ている全ての者を小児期の空想の世界への逃避に誘う。しかし、ディズニーは単に理想化された小児期を実写映画で描くだけでなく、アニメを使うことによって、誰の心にもある空想の世界へ手招きしたのだった。このような子供の視点を強調した実世界とアニメの世界の関係の描写は、当時の早期教育、精神的発育、および合理化が進む世界から小児期を守ることの大切さを取り巻くもっと大きな文化的懸念に訴えかける。本論文では、擬態、行動、「実」世界の転換など、子供の頃の遊びを実写とアニメーションの両方を用いてアリスの最初のアニメシリーズの中で表現したやり方を考察し、ディズニーの初期の作品のインパクトが理想化された小児期の空想ごっこを表現したメディア技術の力や子供の頃の感覚をよみがえらせるアニメの使い方によるところが大きいことを示している。

鳥山明 のドラゴンボールに見られる民話やその他の引用

本論文は、ジャンルとしての日本のアニメの日本の民話との関連性を示し、特に伝統的な物語と神話との間テクスト性がいかに従来の使い方を覆しているかを示そうとするものである。このため著者は、1980年代に初めて出版された当時からずっと人気を誇る鳥山明の大ヒット作「ドラゴンボール」シリーズを取り上げ、「ドラゴンボール」とその主な元となった中国の古典小説「西遊記」の類似点を分析している。しかし、「ドラゴンボール」には他にも宗教や民話に繋がる引用が多くある。著者は、日本の伝統的な民話に対応しているがそれを破壊的目的で使っているアニメから抜粋した例をもとにこの関連性を示しており、分析や文学教育に有用な内容の濃い資料となっている。

認知アニメーション理論:プロセスをもとにしたアニメーションの読解と人間の認識

本論文では、プロセス哲学の観点からアニメーションと人間の認識の考察を行い、アニメーションのプロセスと人間の認識イメージのプロセスの間にあるいくつかの共通点を明確にしている。そのなかで、今までになかったアニメーションの認知論を示唆しているが、これは鑑賞した映画に対する認知的反応のみを扱う傾向がある多くの映画論に関する文献とは大きく異なっている。その代わり、本理論では、認知イメージの利用に関する考察を合わせることによってアニメーションを他の媒体とはかなり離れた場所に位置づけることができるプロセス哲学をもとにした考え方をいくつも取り上げている。まず、アニメーションという形式においても人間の認識においても動きやイメージははっきりと識別されたものだと認識すべきだと提言する。次に、アニメーションと認識イメージは、独自の一連のプロセスのサインとなってより素晴らしい創造的・認識様態的可能性を促進するたくさんの層から構成されていると示している。そして最後に、音響の影響や相対的な変容の使用の考察を行なっている。

哲学者の観点から:アニメーションに対する素朴な視点

映画哲学や視覚的美学などに関心を持つ哲学者はごく少数いるかもしれないが、それ以外でアニメーションが哲学者から多くの関心を集める対象となったことはない。だが、哲学的思考の側面がアニメーションに関連している可能性は大いにあり、実際にアニメーターやアニメーションの理論家は哲学に関心を示してきた。最も多いのは時間、動き、プロセスについてであるが、ある分野で働くなか哲学を活用することと、その分野についての哲学的考察を行うことは全く異なる。この明らかに素朴なアニメーションに対する視点は―アニメーションで哲学したのではなく、哲学的にアニメーションを考えたために素朴なのだが―特に映画製作としてのアニメーションに焦点を当てて、はっきりと哲学的視点からアニメーションを検討している。

どうしてもサイズがぴったりしない:CG映画におけるデジタルスケーリング

現代のデジタル文化では、コンピュータのサイズが縮小している一方、コンピュータネットワークはますます拡大している。同時に、個人が自由に利用できるテクノロジーがずらりとある一方、人々は大量の選択肢や情報に圧倒されたり、詳細で立ち入ったデータ収集の対象となったりしている。本論文では、「ジャックと天空の巨人」、「パシフィック・リム」、「シュガー・ラッシュ」などの大きさの差の物語を含む近年の映画の中に見られる、微小と広大・巨大の間の二分法を考察する。著者は、これらの映画におけるスケールの表現は、そのスケール効果や画像の制作に用いられたデジタル技術に対する間接的な論評だと提唱し、デジタル画像と技術に関わる抑制と過剰、制御できるものとできないものの寓話としての役割を果たしていると示唆している。

スケールを変えた旅のドキュメンタリー:身体と生命の限界のアニメーション化

「Scalar Travel Documentaries」およびその対話型メディア用の翻案では、身体の内部や物理的世界などのモデルが様々なスケールで描かれている。これらは、より包括的な画像をアニメ化して微視的および巨視的なスケールで表現することで、科学者が万物の構造の理解を深めることに役立っている。本論文では、スケールの詩的側面やこれらのドキュメンタリーで使われた様々な修辞的メカニズムについて考察している。映画 「Powers of Ten(10のべき乗)」 や「Cosmic Voyage(宇宙への旅)」 などでは、自然界の基礎構成の規則正しさを示すあらましが宇宙における人類の立ち位置のイデオロギー的な言説を生み出している。これらの映画が創りだす機械的な視点は、知識の新たな様式や私たちのポストヒューマン的な認識の有用性を明らかにしていると論じている。最後に、スケールドキュメンタリーが科学的モデルをアニメーション化する様々な方法を比較し、これらの映画は自然界の様相を可視化するうえで知り得ることの最先端を表現する限界をもっと反映すべきだと示している。

小画面で修復するパノラマ:ソフトウェアで作成したパノラマ写真におけるスケール、動き、傍観者の視点

本論文では、ユーザーが小画面デバイス(ノートパソコン、携帯電話、タブレットPC等)を使ってパノラマ写真を撮ったり探したりできるソフトウェアを使ったデジタルパノラマの一連のサービス(著者が言うところの「小画面パノラマ」)を検討し、パノラマのアルゴリズム的視点と動きがデジタル化前のスケールや機動性を修正する新たな視覚方法の出現を示唆していると論じる。デジタル合成技術は、ある場所の個々の写真をひとつにまとめ、没入型の傍観者視点を提供する360度シームレスの視野を作成することで、現代性に対する旅行者的パノラマ目線の知覚や認識論的条件を復元する。しかしその一方、このアプリケーションは、技術的特性がノートパソコンや携帯電話の携帯性やアプリケーションのアルゴリズムによる2D写真の効率化などのモバイルメディアの傍観者的視点の具現化された本質的・偶発的な側面を有効化することで、従来のパノラマの視界と傍観者視点を損なってしまう。これらの例は、シームレスな仮想3D画像を作成しようとするアプリケーションの試みにもかかわらず、動画と静止画、没入型と小型化、具体化と非具体化という矛盾の共存につながることを示していると著者は述べている。

手抜きティルト・シフト:ミニチュアビュー、グローバルな景観

近年ティルト・シフト写真撮影がデジタル技術向けに改良されたことにより、カメラが本物の風景をまるで作りもののミニチュアのようにとらえる非常に面白い目の錯覚が生まれた。これはインターバル撮影を使ってストップモーションアニメの効果を作って街をおもちゃサイズの自分たちに見立ててまとめる、手抜きティルト・シフトの動画である。この精巧に思い描き直された19世紀の絵葉書は、航空写真における20世紀初頭のイノベーションを用いてスケールを視覚的にも時間的にも大きく変えたもので、印象を驚くほど変え、視覚の新たな現象学を作り出している。ミクロ的な認識とマクロ的な認識がひとつの動画として交わることで、時間と空間に対する人の認識を近代化とグローバル化を反映した形で刺激する。本論文が述べているように、手抜きティルト・シフトは、世界主義的な意識の広がりや、ポストモダニズムによる狭い視野の減少そして世界共通のビジョンに則して文化的な境界や国境を考え直すことを一層促す国際的な視点の変化を反映している。これによって空間的視野が広がり、不思議の国のアリスのように、私たちもティルトとシフトをしながら見る人によって力強く訴える風景に一人ひとりを刻みつけ、世界との予想外の新しい関係に自分を適応できるようになる。

スケールなしのエコロジー:ワールドズームを忘れる

様々な要素が含まれる「スケール」は、地理学から生態学、哲学から科学技術の研究まで様々な専門分野の範囲で激しく議論される用語である。問題の核心はその存在論的な状況とトポロジー的な性質をめぐる論争にある。スケールとは映画 「Powers of Ten(10のべき乗)」 やグーグルアースのようにズームイン、ズームアウトしてあちこち検索できる秩序正しい完全性だと思われることが多い。そのような可視化モードは、地球上全体の意識に形を与えるだけでなく、著者が言うところの「ワールドズームの時代」において偵察行為や戦争を可能にする。スケール的な考えを全て拒否することを求める地理学者がいるのに対し、著者はスケールという従来の落とし穴に陥らずに存在物の相互関係を概念化することについて、いかにオブジェクト指向のオントロジー(OOO)とアクター・ネットワーク理論(ANT)が新たな洞察を提示することができるかを示している。これらのアプローチは、「スケールなしのエコロジー」またはスケールという概念を超えた相互関連性を考える基礎を作る。

多局的な自己:パフォーマンスキャプチャー、遠隔手術、永続的な物質性

ここ20年にわたり、パフォーマンスキャプチャーの技術とロボット手術の技術の使用度・注目度がともに増加している。一見するとこれらの技術は全く似ていないように思えるかもしれないが、両者とも様々なスケールにわたって自動的に動くヒューマンマシンシステムを生み出している。それぞれの技術がパフォーマンスをとらえてデジタル情報に変換し、そのコードを別の物体に適用している。本論文は、具体化がアナログ形式であれデジタル形式であれ、人の身体の動きが捕捉、送信、翻訳されて最終的に別の物体に適用されることから、パフォーマンスキャプチャーと遠隔手術は両者とも物体の物質性に入り込んでその物質性を別の場所で再構成していると述べている。それぞれの技術によって作られた動き、知覚、体験、感覚のスケールの変換は、これらのテレプレゼンスの技術がどこまで身体の多局的体験を伸ばすのか、どこまでヒューマンマシンシステムの操作者の制御を分散させるのか、そして情報を非具体化するという文化的夢想を受け入れながらもどこまで体験の具体化を強化するのかを示している。本論文ははっきりと現象論的な立場をとって俳優とアバターまたは外科医とロボットを結びつける結合組織について考察している。人と人でないものを繋ぐ靭帯が両者を隔てると同時に密接させる。本論文はその結果シフトするパフォーマンスキャプチャーやロボット手術のスケール、知覚、体験についても検討している。

手を入れて何かに触る:仮想空間における戦略的な感触の再現

人とコンピュータのやり取りをもっと効率的で楽なものにしたいという意欲にかられてインターフェースの設計者は情報伝達、表示、操作の新しい方法を考える。コンピュータのインターフェース回路図に触覚フィードバックの合図を取り込むことで、視覚や聴覚によって提供されたデータを補完し試す手段としての触覚経路を開くことができる。本論文では、Novint社のファルコン3Dタッチインタフェースをケーススタディとして取り上げ、CG空間を触覚型の人向けにアニメ化しスケーリングする戦略的な狙いについて検討する。微視的から巨視的までスケールが異なる空間は、ファルコンの三次元のワークスペースを使用して類似した力覚としてレンダリングすることができる。複雑なタッチフィードバックをコンピュータの計算に組み込むプロジェクトは、触ることでアクセスされた時空間の場だけでなく人間の体験のカテゴリとしてのタッチの全面的な再定義・再表現をも変容させると著者は論じている。

プロテウスとデジタル:海洋アニメーションでの海水の実質性のスカラー変換

本論文では、海洋とデータベースの論証的かつ概念上の因子を分析する。化学物質と海水の不可欠な特性が「貯蔵される」ものを変換するために役立つ方法を考慮すると、海水が実際に物体に対してすることについて記述するには、流量と流動性の言語では不十分である―それは、これらを外皮で覆い、腐食させ、急成長する生物形態を守るものである。地球と沈渣の言語で知られているアーカイブまたはデータベースの地上の概念を再考し、代わりに多様性のある変換に対する海水の能力に関するデータベースとしての海を考慮するよう海水は求めてくる。海水の多様性のある特性がマクロスケールで意義があるにもかかわらず、ますます顕微鏡的尺度で、抽象概念の複数のプロセスはデジタル性に相応した海水にしている。著者は海水とその実質性の異なる尺度に重点を置くステークを検討し、例として2つの異なるデータ描出/アニメーション(コンピュータ上のGoogle Ocean(コンピュータ画面のサイズに海を縮小)とATLAS (プロジェクションまたはコンピュータ画面のクラスタのサイズまで海洋微生物ゲノムデータをスケーリング))を取り上げる。著者は、メディアの理論は、マクロおよびミクロ尺度でどのように異なり、海水の実質性から進化する可能性があるのかという問いで締めくくっている。

再生可能なウイルス:科学と大衆文化におけるHIV分子審美性

ウイルス的審美性の存在はますます健康と病の表現の中に認められるようになってきた。HIVを視覚的に分離するために電子顕微鏡が初めて使用されて以来、「ウイルスの顔つき」は生と死に関する学術的議論や一般的な議論に影響を及ぼしてきた。一般的に、ウイルスは、同定や除去を困難にする迅速で目に見えない伝達、隠ぺい、遺伝子の再コード化および検出や治療を遅延させる「潜伏細胞」の挙動と結び付いている。分子物質の視覚的な分離、除去、制御により、生命を維持するために、異物は視覚的かつ生物学的に制御されるべきである。分子空間の画像化は最近、研究者たちの慣行を変化させた。アルゴリズム、モデル、グラフィカル・インターフェースを用いて、研究者たちは今日では、科学的研究に一般大衆を組み込み、写真ではなくシミュレーションを通して視覚的に分子空間へアクセスできるようになった。フォールディットのようなゲームでは研究手法として対戦プレイを用いる。コンピュータ処理により分子サイズの問題を克服し、HIV/AIDSの流行に応えて開放のためのエイズ連合(ACT UP)により編成された「専門知識」の批判を操作しながら、成功例がいくつか報告されている。本稿では、スカラーがどのように移動し、それらを明らかにする視覚化が実践される様子を示し、一般参加型の研究の可能性は科学的知識の創造における文化的実践力を我々に思い起こさせる。

ズビグニュー・リプチンスキーの「タンゴ」の枠物語ウェンディ・ティルビィーとアマンダ・フォービスの「ある一日のはじまり」、ユーリー・ノルシュテインの「話の話」における枠物語とは「何か」について

評論家のJames Phelan(ジェームズ・フィーラン)が開発した解析ツールを用いて著者はアニメ映画3作の枠物語の組み立て方を調査した。ズビグニュー・リプチンスキーの「タンゴ」では層になって重なっている短編の構成に足し算と引き算が用いられており、ウェンディ・ティルビィーとアマンダ・フォービスの「ある一日のはじまり」では、互いに反映しあい、明らかにしあう反復的な出来事が起こるA–B–A構造が用いられている。また、ユーリー・ノルシュテインの「話の話」ではキャラクターをナレーターとして用いることで傍観者でもあり参加者でもある役目を果たしているため、このアニメは交差物語のジャンルに分類される。本稿は、枠物語に求められる積層ビューア反応 についても調査している。これらのアニメ映画3作はデジタル作品ではないが、Lev Manovich(レフ・マノヴィッチ)がデジタル合成の美学的理論に属するとみなしている存在論的モンタージュを表しており、彼が主張していることは、層構造であり、「技術的オペレーションだけではなく最初で最高の概念的なもの」である。

アニメ化された魔法のような写実主義の世界:今敏の「千年女優」と「パプリカ」の考察

本論文は、日本のアニメ映画監督今敏の二作の映画「千年女優」(2001)「パプリカ」(2006)を魔法のような写実主義という視点から考察する。流れるように続くアートであるアニメーションには文学と同様に物語構造があるとし、芸術に応用される写実主義の魔法に対し、文学に応用される魔法のような写実主義として捉えることができると著者らは論じる。本論文は、ウェンディ・ファリスによる魔法のような写実主義の5つの特徴を分析に取り入れながら、それとは別に「千年女優」と「パプリカ」特有の概念も紹介している。著者らは、これらのアニメにおける魔法のような写実主義の仕掛けに向き合い、これら二作の映画は型にはまらない物語ややり方を使って形式としても自己意識としても独特なアジア的(日本的)な独自性を示していると論じる。今敏 の映画は写実主義に根ざしたものだが、「千年女優」では願望と切望を表現する魔法のようなものを、そして「パプリカ」では無意識の探査を表現する魔法のようなものを探っている。

舞台裏で:Autodesk Mayaの研究

オートメーションは、コンピュータ生成アニメーションを取り巻く多くの議論の中心にある。まれにニュートラルな用語として使われ、しばしば技術のヒューマンユーザーのコントロール外のところで何らかの実践内容に変化を与えるマーカーであり、時に機関が設立される驚異的な用語である。このオートメーションとコンピュータアニメーションソフトウェアに対する理解が、ソフトウェアの研究からの洞察によって複雑化されることがある。したがって、特定のモデラーとアニメーターにおいて、3DアニメーションソフトウェアAutodesk Mayaは、ソフトウェアのユーザーとのインタビューとともにユーザーインタフェースの視覚的組織の解析を配置する方法によって調査される。インタビュー素材のディスカッションは、表現力豊かなプロセッシングについてのNoah Wardrip-Fruinの考えとソフトウェアと機関のAdrian Mackenzieの説明で構成される。提案される論はユーザーがユーザーインタフェースでそれらの相互作用を経てソフトウェアのオートメーションを経験するということであり、むしろヒューマンユーザーとオートメーションの対照的要素を通して生成される情報である。

戦時のウォルト・ディズニー :アニメーション、変容、教化:ディズニーの架空動物兵士の画像

本論文では、セルゲイ・エイゼンシュテインのウォルト・ディズニーについての著作およびアニメ動画における身体的変容に関する研究を理論的枠組みとし、身体的変容と政治的変革の繋がりを大量動員と兵器の使用があった第二次世界大戦下においての漫画の動物の役割を通して探っている。ウォルト・ディズニー・プロダクションが採用した架空の画像やシナリオに対する反響は、不条理さ、そして生から死だけでなく一見異なる政治的イデオロギーの間でも起こる変貌の容易さを明らかにした。第二次世界大戦のプロパガンダや戦時エンターテイメントとして目にするものとその政治的イデオロギーとの間に現れた矛盾に焦点をあて、映画時代以前の動物キャラクターの風刺漫画の系譜を示すことで、著者はディズニーブランドの戦時シナリオで提示された変わりゆく動物性と人間性の表れについて検討している。

画面全体の変容および仮想カメラ(アニメーションにおける透視画法のムーブメントに関するメモ)

本稿は、カメラのムーブメントの理論が多くの場合想定するカメラとその世界間の関係の問題を提起するために、アニメーションにおける空間的定位の特別な種類のゆがみを扱っており、著者はそれを画面全体の変容と呼んでいる。デジタル画像における最新の発展は、「カメラのムーブメント」について語ることが未だ意味を成すかどうかの学者間の議論の混乱に拍車をかけた。というのも、多くの場合、実機のカメラはほとんど(例えば「Gravity(ゼロ・グラビティ)」)あるいはまったく(例えば「Frozen(アナと雪の女王)」)使用されていなかったためである。著者は、この混乱は誤った方向へ導かれることが多いことの根拠を示している。それは、重要な解析ツールとしてのカメラのムーブメントは、実機のカメラ使用方法(非使用)にかかわらず、常に透視画法のムーブメントの現象学に基づいてきたということである。しかし、アニメーターは、我々の映画の世界のより基本的な印象に対する関係を効果的に変容させながらそれを切り取るような方法で透視画法のムーブメントを使用することがある。こういった変容について2つの種類が調査されている。一つは、我々の空間に対する印象におけるゲシュタルト・スイッチを作製したNorman McLaren(ノーマン・マクラレン)の「Blinkity Blank(線と色の即興詩)」に見られ、もう一つは、世界の印象を支えるために必要な地面の間隔を奪ったCaroline Leaf(キャロライン・リーフ)の「The Metamorphosis of Mr. Samsa(サムサ氏の変身)」にカメラのある種の進化として見られる。これらの現象は、ライブアクション、アニメ化、デジタル画像間の関係に関するより繊細な説明の必要性を指し示している。

ハイブリッド画像、ハイブリッドモンタージュ画像:ライブアクション/アニメーションハイブリッド用フィルム解析パラメータ

この論文で提案されている類型論は、ライブアクション/アニメーションハイブリッドフィルムの形式的な特性を総合的に明らかにしている。6つのフィルム解析カテゴリーを参考にして、モンタージュのレベルに加えて単一画像でアニメーションとライブアクションフィルムの相互作用が調査されており、さまざまなフィルムの例を挙げて説明されている。一連の柔軟で順応性のあるパラメータはさまざまなアニメーション技術から成り、長編または短編シーケンスと同様にフィルム全体に適用可能である。さらなる目標は、いわゆるメランジェ(ごちゃまぜ)フィルムとデジタルハイブリッドフィルム間の境界線をなくすことである。唯一求められることは、アニメーションとライブアクションフィルムの視差がビューアで識別できなければならないということである。提案された類型論を適用することは、理想的には、フィルムの歴史のハイブリッドな性質のあらたな歴史的な位置づけにつながると思われる。

アニメーションを定義する基準:デジタル動画の到来に伴うアニメーションの定義の見直し

デジタルメディアの到来により、アニメーションをどう定義するかが問題になっている。動くデジタル画像の情報性が動画と録画された動きの再現の区別を困難にしている。「非録画(非実写)による見せかけの動き」や「フレーム毎の制作」など、これまでのアニメーションの定義は自動化されたコンピュータによる見せかけの動きの多くを含まず、録画された動きから作られる動くデジタル画像があることの説明にもならない。この見地から、本論文ではデジタルメディアのアニメーションは、現実では全くない動きに特有の性質およびアナログかデジタルかにかかわらず全てのアニメーション制作技術に共通する性質で区別できると主張する。本論文では、アニメーションの見せかけの動きに焦点をあてた一組の基準を作成している。また、どの要素が他の動く画像と共通していてどの要素がアニメーションのみに見られるかも検討している。さらに、著者はデジタルメディアのインデックスの永続性と自動アニメーションの原作者についても取り上げている。

漫画の展望: UPA、プレシジョニズムとアメリカのモダニズム

戦後、アニメーションスタジオであるユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ(UPA)はモダンアートの感性をアメリカの漫画業界にもたらしたこと、簡潔で、1950年代と1960年代を通してスタジオアニメーションの様相を変えた抽象的なスタイルで高い評価を得ている。本稿では、UPAの特徴的なスタイルをとプレシジョニズムのスタイルと一緒に検討する。プレシジョニズムとは1920年代にアメリカで流行した絵画のスタイルでこれまでにあまり考察されていない。その際、UPAとモダンアート、広義ではモダニズムとの関係について我々の理解を複雑にする。プレシジョニズムは、可視できる世界を減らして半抽象的な形にすることで混沌としたモダンアートの環境に秩序をもたらすと考えられた。半抽象的な形では、都会的な風景や工業的な風景が幾何学的図形や鋭い線、ソリッドカラーで作り上げられている–これは、UPAのスタイルを正確に表す特徴である。戦時訓練映画としてのその始まりを背景とするアニメーションスタジオの漫画の分析および芸術家の手記の分析を通して、本稿はUPAを、プレシジョニズムのビジュアルスタイルの駆動力となる特別なモダニストのエネルギーの回復として位置付けている。それは、理論的には、現代の生活を感覚的に圧倒することができる視覚の新しい様式を開発しようとする試みと連動していた。従ってそれは、文化的な現象として20世紀半ばのモダニズムを、また10年に及ぶ最新のモダニズム実験における戦後のアニメ―ションの位置付けを明確に理解させて、アメリカの文化の歴史におけるこれらの2つの時期の間に線引きをする。

人形アニメ映画とジェスチャーの美学

ジェスチャーとは生き物による意味のある行為である。全てのジェスチャーは身構えしていることを語り、この身構えによって私たちはジェスチャーという行為に縛られその中で生まれた文化を理解することさえできる。本論文では、人形アニメーションに見られるジェスチャーの美学を検討する。人形には豊かな質感や作り上げられた形状がある一方、限られたぎこちない演技しかできない。しかし、コンピュータで作成された滑らかな画像(CGI)や2Dアニメーションの図画とは異なる人形の限界こそが、演技の1つひとつのニュアンスをことのほか重要なものとし、キャラクターの動機を理解するヒントを与える。イジー・トルンカの「手」(1965)、川本喜八郎の「鬼」(1972)、スージー・テンプルトンの「犬」(2001)を含む三作の短編アニメが本論文でケーススタディとして選択されている。著者らは、ジェスチャーがどのようにポーズ、ショット、フレーミングを介して伝えられているかを詳しく説明し、そのうえでジェスチャーのカテゴリを作成し議論している。

音楽ビデオのパフォーミング・ボディ:ジェスチャーアニメーターおよび操り人形師としてのFloria Sigismondi(フローリア・シジスモンディ)

映画監督であり音楽ビデオ監督であるフローリア・シジスモンディは、美しいながらもぞっとするような画像を作製するともっぱらの評判で、その作品は超現実主義かつ不可思議と表現されてきた。その方法はあまり明らかにされておらず、その中で彼女はアニメーションとジェスチャーを用いてパフォーミング・ボディのムーブメントを遠ざけている。ピクシレーションとストップモーションアニメーションはともに用いて、ヒトとモノの作用を反転させるが、シジスモンディはジェスチャーを用いることで、技術的なプロセスを超えてこの作用の操作を拡げる。この映画的作用の弁証は、シジスモンディが監督した3つの音楽ビデオの調査を通して考察されている。その3つの音楽ビデオとは、ザ・キュアーの「End of the World」(2004年)、Lawrence Rothman(ローレンス・ロスマン)の「Montauk Fling」(2013年)、およびDavid Bowie(デヴィット・ボウイ)の「The Stars(Are Out Tonight)」(2013年)である。これらのビデオとパペットアニメーション、ライブ・アクション映画、ジェスチャーの文化的歴史および歴史的変遷との関係を考慮に入れて、著者は、シジスモンディがヒトとアニメ化されたジェスチャーを逸脱の手段として操っていると論じている。

ボイリングラインと電光スケッチ:プロセスとアニメ描画

アニメーションには、描画がある程度含まれることが多いが、ボイリングと動画スケッチは、描画のプロセスを明らさまに前面に出す描画アニメーションの2つのユニークな形式である。本論文では、著者は描画アニメーションへのこれらの2つの具体的なアプローチ法に目を向け、特に動画スケッチの歴史、プロセス、進化の特性に注目し、プロセスとボイリング画像の重要な本質に重点を置く。これらのアプローチ法のいずれも即座に不動および可動の形式を生み出し、動のこの二分の中で、描画のプロセスはさらに強調される。これらの点については、アニメーションおよび描画の理論とプロセスを幅広く考察するなかで検討することになる。さらに、これらの考察は、アニメーションのこれらの2つの方法の制作と掲示において、描画プロセスの重要性を更に強調する努力の中で、プロセスの考え方の(やや非公式の)背景と対比しておこなう。

台湾、韓国、中国における日本のアニメの受け入れられ方およびその決定要因

東アジアにおける日本のアニメの受け入れられ方は社会科学分野で特に関心が寄せられるテーマのひとつであるが、定量的方法を用いて様々な国における視聴者の決定要因を検討した実証研究はほとんどない。本論文では、東アジアでの日本のアニメの受け入れられ方に影響を与える歴史的、社会的、文化的要因を研究し、ロジスティック回帰分析モデルを用いて行なった2008年東アジア社会調査(EASS)のデータ分析により、台湾、韓国、中国の視聴者の決定要因を調査している。主な結果として、学歴の高さや中国の映画や韓国のドラマなどの他の文化財の消費量の高さが日本のアニメに対するプラス要因であることが示された。これとは対照的に、年齢層の高い視聴者は日本のアニメに否定的な意識を持っている。これらの変数やコミュニティの自己評価については、先行研究の文脈で議論されている。実証分析から得られた著者の結論はこの先行研究を支持し、新たな傾向の可能性を確認したうえで日本という概念が東アジアの文化的消費という文脈の中で遷移している可能性を示唆している。

『ザ・シンプソンズ』において時間はどのように働くか

本論文では、2グループのケーススタディエピソードを利用し、『ザ・シンプソンズ』の中で「フローティングタイムライン」を長期にわたり使用することから生じる複雑性と難局を探る。第一に、2つの'flashback'(フラッシュバック)エピソード(「パパとママの恋物語(The Way We Was)」および「ザット'90sショー(That 90's [sic] Show)」)でのホーマーとマージにみる若者の矛盾した表現を検討する。フローティングタイムラインから離れ、個々のエピソードで定着している(が、複数あり矛盾がある)歴史的な参照ポイントを紹介することによって示される必然的な困惑の輪郭を描く。そのうえで、それらを解決しようと試みるよりはむしろ、作り出された虚構のパラドックスを受け入れる方がよいことが示唆される。第二に、「サイドショー・ボブ」を主役とするエピソードを調査する。ボブは、時の流れを経て、波乱に富んだ歴史を積み重ねて抱えるという並外れた能力(『ザ・シンプソンズ』の虚構の世界の中で)を与付与されたという設定になっている。これは『ザ・シンプソンズ』自体の時間的経験と対比され、進むことのない波瀾万丈さがある。本論文は、アニメーション番組としての『ザ・シンプソンズ』のステータスは、シチュエーションコメディーやテレビの時間、歴史、日常の関係をもっと広げ、特に純粋で持続的な形で見せることができることを示唆して結論づけている。

少女マンガのセカンドウェーブ:ジャンルの変化

米国の少女マンガのジャンルは連邦通信委員会によるテレビの規制緩和のもとで1980年代に始まり、玩具ベースのマンガの番組供給が可能になった。少女用玩具対少年用玩具という二者択一の玩具業界のジェンダーは、少女マンガと少年マンガの決定的なずれへと変換された。少女マンガのこの第一波は、マンガ番組を少女マンガとしてはっきりと分類するジェンダーの規範的パラメータを定義した。たとえば、モチベーションを感じさせる少女のリーダーたちによる友好に満ちたコミュニティの虹、ユニコーン、星のきらめきなどが自信、決断力、分別を示す一方で、感情を整理し、コミュニケーションを通して対立状態を解決するというものである。これらのキャラクターは、10代ではない幼い少女か、発達した身体をもつヤングアダルトであった。これらのマンガのキャラクターが、「ガールズパワー」という性的特質の付与なくパワーを持つこの呼び方が生まれる10年前に大衆文化の中で、能力を与えられた少女のメディアでの成果を示したことについて取り上げた研究はまれである。本論文で著者は、1990年代の米国のテレビ界のマンガのルネッサンスから生じた少女マンガの第二波について検討している。本研究は、先頭に立つ少女のキャラクターが新たに描写される方法と第一波時代に少女マンガの表現からどのように進化したのかという点について探る。また、本研究では能力を与えられた少女のキャラクターの表現とともに、女性のトリプティックを特定した。1人以上の少女のリーダー格のキャラクター設定では、女性像が美しさ、頭脳、腕力のトリプティックで表現されていた。本研究では、平均的な少女や、女性不振の少年あるいは非同性愛少年として識別される二次キャラクターの形で少女マンガの主人公に能力を付与することへの持続的な不具合についても指摘した。12歳を過ぎた男女の別をつけられた身体にキャラクターや異性愛規範性の関係を与えたいという衝動を示すため、別の弱点としては、ドジを踏む者やボーイフレンドが確認される。『パワーパフガールズ』、『Maggie and the Ferocious Beast』、『ドーラといっしょに大冒険』、『Ni Hao- Kai Lan』、『フラニーズ・フィート』、『リロ・アンド・スティッチ ザ・シリーズ』、『Maya & Miguel』、『Word Girl and Mighty B! 』など、いくつかのマンガ作品のエピソードの原文に関して分析し、話し言葉と視覚的な性別のキューをともに記録する。

間テクスト的映画としてのアニメーション:Nezha Naohai(邦題:わんぱくナージャの竜王退治)

本論文は「わんぱくナージャの竜王退治」の間テクスト的読解である。「わんぱくナージャの竜王退治」は、中華人民共和国(PRC)のアニメーションフィルムスタジオ大手である上海アニメーションフィルムスタジオが1950年から1980年にかけて製作した2作めのセルアニメである。1979年に公開された「わんぱくナージャの竜王退治」のストーリーは、勇敢な神の子に関する16世紀の明朝の有名な小説の3つの章を改作している。「わんぱくナージャの竜王退治」が公開された1979年はPRC映画のヒーローにとってターニングポイントである。「わんぱくナージャの竜王退治」のビジュアルデザインは手塚治虫の「鉄腕アトム」と中国共産党のスポーツ宣伝活動の合体のように思われる。チーフディレクターでシナリオライターでもあるWang Shuchen(ワン・シュウチェン)は、この映画を文化大革命後のファンタジックな主題への回帰だと考えた。「わんぱくナージャの竜王退治」はPRCの映画における神話的なテーマへの回帰を示唆し、今後の社会的および文化的矛盾が生じる傾向を示しながら簡潔で自由なフィナーレで終わる。

アニメーションの政治と政治のアニメーション

本稿は、政治をめぐる探求がいかにしてアニメーション研究を導くかを示すものである。映画研究とメディア研究において、アニメーションが低い地位に貶められていることを論じ、次いでアニメーションの定義とその概念的関連には広がりがあることを検討していく。こういった広がりには哲学的含意が孕まれているが、本稿ではジェフ・マルパスとブルーノ・ラトゥールの著作を通してこの哲学的含意について探求する。本稿は、この二人の哲学者がアニメーションや動きを与えられた(animated)もの——とりわけ人形——についていかなる議論を立てているかを詳しく辿るが、そうした手続きを経て、統御や幻想を表現するものとしてではなく、変容を、異質なものからなる行動を、分散した作用を表現するものとしてアニメーションを考えるような転換を示すことになる。こうした考え方の転換によって、哲学が修辞学や詩学や科学技術と対立するという考え方に疑問を呈し、また同様に、自然と文化、科学と政治、現実と人工物、事実と呪物といった近代特有の二項対立にも異議を唱える。そして、世界とは動きの与えられた(animated)ものであることを提示する。筆者は、このような考え方がアニメーションや映画と呼ばれる動画を生み出す様々なテクノロジーを必ずしも不明瞭にせしめるわけではないと主張する。そうではなく、カートゥーン・アニメを筆頭にするいくつかのテクノロジーこそが、近代的二項対立がアニメーションをめぐって引き起こした混乱に直接的に関わっているのである。ここでは、複数の方法や視点を通してアニメーションを研究することが提案される。というのも、実在論的で有力な調査方法が不確実性と多元論を抑制するのを妨げるためには、複数の視点が必要だからである。政治的表現にあたってアニメーションの能力の中心にあるのは、不確実性と多元論なのである。

世界の痕跡——セル・アニメーションと写真

カートゥーン・アニメは映画をめぐる写真理論から除外されるのが通例であった。アニメーション用のカメラはカートゥーン制作では付随的な役割しか与えられていないというのが、その理由とされてきた。本稿は、こうした想定に対して異議を呈するものである。セル画式アニメーションであればすべての作品がもとは写真的なものだという事実を基本的前提とする本稿では、私たちの世界——とりわけ、アニメーション・スタジオの世界——の物理的現実が、いかにしてカートゥーンのイメージに痕跡を残しているかが示される。筆者はここでワーナー・ブラザーズをはじめとする、20世紀半ばのアメリカのメジャー・スタジオが製作したカートゥーンをひとコマごとに分析することを通じて、画面上における不完全さの様々な実例を列挙し、セル・アニメーションが写真に起源を持つことを証明する。間違って入れられたセル画や、カメラの反射、ほこりやごみなどがそうした実例であるが、誰だか分からない作業者の指紋もそこに含まれる。こうした失策の数々は、見ている時はほんの一瞬現れるだけであっても、まるで写真のように後代に残される。カートゥーン・アニメは、自身の制作を写真的に記録したものなのである。本稿が採用する方法のモデルを挙げるなら、それはアーティスト、アンドリュー・ノーマン・ウィルソンの作品『ScanOps』(2012)である。この作品は、グーグル・ブックスから取ってきた一連の写真で構成されている。このような分析方法は、労働過程に関する政治と美学の双方を探求するにあたって役立つことだろう。

表象なき共同作業——モーション&パフォーマンス・キャプチャーにおける労働問題

古典的な映画理論の主題といえば、実写とアニメーションの区別だの、映画的な演技の定義だの、スター・システムの形成と影響だのが挙げられるだろう。こういった主題は、デジタル時代のアニメーションにおける労働をめぐる言説をいまだに整えており、また他方でかかるデジタル時代の言説によって古典的な主題も捉え直されている。本稿は第一部において、現代ハリウッド映画におけるモーションキャプチャに焦点を絞り、広告素材や一般の議論の中で、こうした映画制作方法に対するアニメーターの貢献がないがしろにされるとともに、スターという人格の演技に対する過剰な強調がともなう点を歴史的に検討する。またそのように検討することで、現在の産業における労働政策と権力関係を決定づけている実践と至上命令に光を当て、その背景を解き明かしてみたいと考える。第二部では、ジェンダー関係の問題およびジャンダーを基準にした表象のヒエラルキーの問題が、モーション&パフォーマンス・キャプチャーの作業現場をめぐる議論との関係で問われる。モーションキャプチャ産業の労働政策における両面性を強調し、それについて熟考するために、ここで行っていくのはフェミニズム的な読解である。モーションキャプチャでの映画制作では一種の公民権剥奪が行われており、それとは別個の問題ではあるが関連したものに、デジタル時代における覗き趣味の問題と女性の演者のオブジェ化が横たわっている。たとえば、『ベオウルフ/呪われし勇者』(ロバート・ゼメキス、2007)や『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)のような映画作品や、『Beyond: Two Souls』(クランティック・ドリーム、2013)のようなゲームにそれは顕著である。最後に、筆者は第三部において、労働の周縁化と消去に関し、このような相互に関係した政策があることを強調するが、それは、モーションキャプチャを共同作業と見ることが不適当である点を強調するためであり、モーションキャプチャ研究に向けた批判的アプローチを概念化しなおす必要を訴えるためである。

フォーディズム以後のスラップスティック——『ウォーリー』、自動性、ピクサーの愉快の工場

スラップスティック・コメディは、その歴史や制作や粗筋や身振りにおいて、テイラーリズムの理論とフォーディズムの実践の二つに集約される近代的労働の登場と深い関係を結んでいる。チャップリンやキートンのような実写の俳優から、フェリックスやミッキーといったアニメの動物まで、喜劇の主人公は労働に反抗して労働してきた。合理化へと邁進する産業界を舞台に、過剰な従順と逸脱を面白おかしく繰り返すことで、労働に反抗して働いてきた。デジタル・アニメーション・スタジオのピクサーは、2008年の長編映画『ウォーリー』でスラップスティックに挑戦し、そこにフォーディズムの反響を高らかに響かせた。ただし、ちょっとしたひねりを加えている。完璧なフォーディズムの権化をタイトルロールに用意しながら、それに人間味を加えてみせた。フォーディズムを体現するのは、人間がいなくなり廃墟と化した地球で労働を繰り返すロボットである。ウォーリーは、明らかにチャップリンやキートンやロイドをもとに造形されているが、この作品中における人間たちとは著しい対照を見せている。人間は、自動化のおかげで労働から完全に解放されているのだ。『ウォーリー』は風刺でもって、「労働の終焉」というポスト・フォーディズムの課題と楽しませるばかりのデジタル文化への広汎な批判とをともに考察している作品である。本稿が焦点を当てるのは、この作品が、自動化された労働の未来と労働する身体の変容という、ポスト・フォーディズムに関する近年の議論の文脈の中で、スラップスティックの伝統を甦らせようとしている点である。スラップスティックと近代的労働との関係が、映画制作とそれらの形式を通して愉快に扱われるばかりではなく、ピクサーの企業評価は高い指標を叩きだしている。スラップスティックの主人公とその動きに命を吹き込むデジタル労働との間には複雑な関係があることは、『ピクサー流 創造するちから』が示唆する通りである。また同様に、デジタルによって映像を作り出すという面と商品を産出するという二面において、ピクサーが誇る技術も論じられる。これら二つの側面は、スラップスティックの二律背反を喚起するノスタルジックなアニメーションと、ピクサーが筆頭であるポスト・フォーディズム的生産を否定することをそれぞれ示唆している。

インドのためにデザインする——政府によるアニメーション教育とアイデンティティの政治

本稿は、インドにある二つの国営デザイン学校——国立デザイン大学(NID)とインダストリアル・デザイン・センター(IDC)——におけるアニメーション教育を検討し、技術の伝達にとどまらぬ、社会的・職業的なアイデンティティの交渉に着目する。学校と学生と卒業生は象徴的な価値を表現するものであり、そこではインドという地域の特性に加え、独立後のインドの発展を導く道具である「適切なデザイン」の伝統に根を張った文化の連続性が問題となる。ここから明らかになるのは、国家的・地域的・階級的・ジェンダー的なアイデンティティをめぐる不穏な言説ばかりではない。創造的な独立と起業家精神こそが明らかになる。筆者はデザイン教育を実践の共同体の文脈に位置付けることで、教育者と学生がインドのアニメーションを囲い込む現在の産業状況に答えようとするのは明らかな政治的反映である点を論じる。彼らは市場が求める労働の標準化を拒否し、イデオロギーをもとにした職業ネットワークに便宜を図っている。

アニメーションのエスペラント語——シャーンドル・ライゼンビュヒラー作品におけるグローバリズム的ビジョン

本稿は、ハンガリーのコラージュ・アニメーション作家シャーンドル・ライゼンビュヒラーの作品を論じるものである。1960年代半ばから2004年に逝去するまで活躍した作家だが、彼の作品はアニメーションによるエスペラント語という概念に関して、理論的な問題を提起している。ベラ・バラージュが初期に編み出した、国際的な映画言語を巡る理論に端を発する概念である。筆者はライゼンビュヒラーの2作品を丁寧に論じながら、彼が風景の構成を通してアニメーションのエスペラント語を練り上げようとした点を主張する。それは、身体を通してエスペラント語を練り上げようとしたアニメーションの伝統からの意義深い切断である。本稿は、ライゼンビュヒラーによるアニメーションのエスペラント語の試みを彼のグローバリズムに向かう超越論的な政治観と結びつけ、ハンガリーの社会体制の文脈の中にその作品を位置付けるものである。最後には、ハンガリーの中心的なアニメーション・スタジオであるパンノニアの文脈を考慮したうえで、彼の作品を検討する。ライゼンビュヒラーは生涯を通して、このスタジオと関係を結んでいた。また、ハンガリーの最も有名なアニメーション作家マルツェル・ヤンコヴィチの作品は、身体と風景の相互関係がより深く読み込められることを示唆している。筆者は結論として、アニメーションによるエスペラント語において、国際主義(インターナショナリズム)と世界主義(グローバリズム)との弁証法の可能性を考え、こうした弁証法をバラージュの初期概念である国際的な映画言語に応用する。

童話の人間には物語は不可能である——『人狼 JIN-ROH』について

本稿は、日本の長編アニメーション『人狼 JIN-ROH』における形式とアイデンティティが相互に関連した問題を論じるものである。この作品は童話「赤ずきん」を換骨奪胎したもので、第二次世界大戦後にナチ・ドイツに占領された、もう一つの日本を舞台にしている。主人公は特殊警察の部隊に加入した若き新人で、名前を伏一貴という。彼は爆弾を持った少女を殺すことができなかったために、上官より再訓練を命じられるが、彼の失敗は警察内部での勢力争いを浮き彫りにしてしまう。警察本部では特殊部隊の解体が画策されていたのである。物語は、トラウマに苦しむ若き巡査が我が身と自分の特殊部隊を守るために暴力を行使することができるようになるかどうかをめぐって展開していく。伏一貴は強欲な狼なのか。冷酷な暴力を行使できるのか。それともトラウマを抱えた哀れな被害者なのか。こういった問題は、映画というメディウムに対するこの作品の地位の問題に収斂する。なぜなら『人狼』は政治スリラーであり、1つのシーンを除いて、実写映画と同じように撮られているからである。本稿は、アニメーション研究者トマス・ラマールによるアニメーション的イメージと映画的イメージの区別を取り上げ、この作品が映画であるかいなかという問いは、物語がいかに主人公の内面の問題を解決するかという点に関してのみ扱われうることを解き明かそうとする。実写にしがたいのは一つのシーンに限られ、そのシーンは主人公の不可解な行動を理解するための手掛かりを提供している。伏一貴は武装した男たちから自分を守り、特殊部隊の消滅を図る陰謀に打ち勝てることを証明してみせるが、一方でトラウマを抱えた個人でありつづける。彼の能力の開花は、自身の心理的不安が増していくのと軌を一にしているのである。

3次元アニメーションコードスケープ:ウォーリー(2008年)とシュガーラッシュ(2012年)の不完全さとデジタル労働ゾーン

実写映画とビデオゲームは、各メディアの視覚と物語の読み聞かせに存在感と収束を共有する。トロン(1982年)からラン・ローラ・ラン(1998年)、ザ・ビーチ(2000年)、マインクラフト(2014年)を経た新しい計算機ジャンル映画としてのマシニマまで、これは過去40年間特に顕著である。複雑な問題としては、映画やビデオゲームがウォーリー(アンドリュー・スタントン、2008)やシュガーラッシュ(リッチ・ムーア、2012)などの映画でこれらの文化的な関係を吸収して、3Dコンピュータアニメーションに登場したのは最近のことである。この記事では、Walt Disney/Pixarの2つのインタラクティブで分離可能なテーマについて説明します。まず、ジョン・ロバートの記事「Art after deskilling」(2010年)で説明されているように、視聴者と業界の芸術的な欲望につながる「不完全な美学」の側面を理論化する - プロセスの作成におけるキャラクターのキャラクターイメージはより傷つきやすく、したがってより人の心を惹きつける。この不完全な美学は、典型的には前衛的なアニメーションやアニメーション化されたショートと関連しているが、3次元コンピュータアニメーションへの不完全さを結びつけて、2000年代以降の新しい視覚的傾向を示している。第2に、マウリツィオ・ラザラートの研究成果を引き合いに出して、それぞれのキャラクターがアニメ界で何をしているのかを、「デジタル労働ゾーン」と呼んでいる。ウォーリーロボットは感情的な労働になりがちだが、シュガーラッシュ、グーフィーの悪役ラルフは、彼の暴走行為​​の理由とそのような行動の背後にある労働に疑問を抱くようになる。

モーショングラフィックスの有効性に関する研究:複雑なアニメーションがモーショングラフィックスによって提示された説明に及ぼす影響

モーショングラフィックス(MG)は、情報を提供し、ビューアーを楽しませるために、様々な場所で利用されている。ほとんどのグラフィックスは複雑な仕上がりで、複雑なアニメーションを使用して主題の視覚的説明を表示したり(展示)、物語を伝えたりする。複雑なMGアニメーションでは、動的仮想カメラと深度マーカーの使用、視覚的に明確な現象によって提示されるモーション、そしてフォトリアリスティックレンダリングによって表現される。現在のところ、一般的にMGに関する経験的研究はほとんどなく、複雑なアニメーションがMGに関連した視聴経験に及ぼす影響もほとんどない。この記事で紹介された準実験的研究の目標は、視聴者が視覚的説明を提供する解説グラフィックとどのように対話し、視聴体験の異なる側面に対処する2つの理論の合成に従ってこの相互作用を特徴付けるかを探究することであった。この結果は、MGの視聴経験が動的であり、複雑なアニメーションが視聴者にとって有益であることを示唆している。

技術的に決定された10年:ロバート・ゼメキス、アンディ・セルキス、およびパフォーマンス・キャプチャの推進

2004年から2011年の間、ロバート・ゼメキスはパフォーマンス・キャプチャ・テクノロジーを活用したポーラー・エクスプレス、モンスター・ハウス、ベオウルフ、クリスマス・キャロル、マーズ・ニーズ・マムズの5作品を監督または制作した。ポーラー・エクスプレスのゼメキスと彼のエフェクトチームは、モーションキャプチャの既存の基準をさらに高めてより洗練されたパフォーマンスキャプチャを作成し、俳優の完全なパフォーマンスのデジタル化を可能にした。この記事では、これらの映画を取り巻く2つの相容れない談話を取り上げている。パフォーマンスキャプチャが気味悪くぞっとさせるように美しいという一般的に否定的な批評と、ゼメキス自身が業界インタビューでその技術を宣伝していることである。ゼメキスのその技術を使った初期の仕事は、パフォーマンスキャプチャのスターとしてのアンディ・セルキスの賞賛とは対照的であり、そして両方の男性がパフォーマンスのキャプチャが映画制作、特に映画演出法を向上させたり、革命を起こしたりもする可能性があるという主張を支持しながら、その技術の主張者としてどのように働いていたかも対照的である。

宮崎駿の神話の詩的表現:千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、ポニョの物語風の教訓を体験する

宮崎の神話的な物語の中には、夢のようなものの中に描かれているものもあり、確かに幻想から離れられない。監督は、(英雄的な)鑑賞プロセスの間に、関係のある人間の行動と妥当な量の挫折を描いている。宮崎のアニメーションの世界は、未来への明るい見通しを視聴者にもたらす。彼の物語は、しばしば絵画的な詳細と計算された筋書きに基づいている。本研究では、宮崎のアニメーション化された物語を、視聴者が映画の枠内のサインに内部投影したものを使って読み上げることを提案する。この記事では、千と千尋の神隠し(2001)のハイライトが元型的な探求の目標にするものについて議論される。最後に、この記事ではポニョ(2008)の物語の振動を調べる。ガストン・バシュラールの現象論的な視点を念頭に置いて、研究では、3つのケースのテキストの側面に目を向けることを目指して、宮崎が観客に説得力のある影響を発揮するためにどのようにフィルムフレームをレンダリングするかを示し、宮崎駿監督の説得力のある芸術性について説明する。

アニメーションから拡張まで:電脳コイルと複合自己

拡張された現実の層で都市が覆われているとき、どのような影がこの新しい能力によって投影されて見えるか?日本のアニメシリーズの電脳コイルは、拡張現実の眼鏡が、今日スマートフォンのように日々の生活に欠かせないものとなってきている近い将来の社会に住む子供たちのグループを追って、この問題をまさ探求している。ユビキタスコンピューティングにおける「縫い目のない」デザインについての議論とデジタル画像合成におけるアルファチャンネルの役割についての議論とを比較すると、作者は、アニメ化されたイメージを日々の生活空間に取り入れてきた長い歴史の一部として、拡張現実感の感覚環境を理解することを主張する。この記事では、個人が新しく増強された世界のプロトコルを探求しながら、作者が「複合自己」と呼んでいるものを育て、調整することを求めて、個人に課される新しい身体的、心理的要求を探究する。

「私は本物の男の子ではない、私は人形だ」:コンピュータアニメ映画と擬人主義

この記事では、現代デジタル時代のコンテキスト内で、より正確には、コンピュータアニメーションの長編映画の登場に対抗して、擬人形の表現とアニメーションアニメリティを再考する。擬人型の必然的にハイブリッドな形態として擬人化された同一性を調べることによって、それはどのように人気のあるコンピュータアニメーション映画が擬人主義によって仮想空間を操作するために"人間"を拒否し、代わりに非人間のモーフ要素を利用したかを示唆している。視聴者をデジタル領域への意識を鋭くするスペクタクルゲームに吸収するように、擬人型はここではより規範的で機能的なエージェントに洗練される。レミーのおいしいレストラン(ブラッド・バード、2007)やビー・ムービー(シモン・J・スミス、スティーブ・ハックナー、2007)などの映画は、特定のモードの主観化したアドレスによって登録されたフォームまたはモーフ要素への移行を反映するケーススタディとして提供されている。この記事では、コンピュータアニメーション映画は、人間のような行動から離れた階層的な切り換えに関与していると主張し、ジルズ・ドリューズの「気体知覚」の概念を描いて、擬人型の非人間的なアイデンティティの可能性を受け入れ、擬人化の批判的研究の中でどのように擬人化が概念化されたかについての一般的に認められた物語を掘り返す。

ベストプラクティスのアニメーション化

この記事では、アニメーション制作者の説明的なアニメーション作成プロセスのアフォーダンス、具体的にどのトピックを選択したかについて概念的に理解し、深く掘り下げ、最終的にこのプロセス全体をどのように統合するかについて説明する。本研究では、第三世代の活動理論を、方法論的なレンズとして用いて、様々な段階での説明的なアニメーションプロセスをツールとオブジェクトの両方として検証した。伝統的にプロのアニメーターと教育者の協力の結果として教育用のアニメーションが作られてきましたが、この記事では、自分の学習のために、子供がこの同じプロセスに参加する方法を文書化していく。私たちの主張は、アニメーションのキーフレームに描かれているような子供の精神モデルは、柔軟なモデルと診断ツールの両方として機能していたということである。

カロル・イルジコフスキとフェリクス・クチコフスキ:純粋なムーブメントの映画としてのアニメーション(理論)

カロル・イルジコフスキの「10人目の女神:映画の美学的諸側面(1924)」は、ポーランド語での映画としての映画の地位を探求した最初の拡張研究である。この記事では、彼のアニメーション映画の理論に関連するイルジコフスキの本のこれらの側面を調べる。著者が示しているように、イルジコフスキのアニメーションの認識は、ポーランドのアニメーター、フェリクス・クチコフスキ、イルジコフスキのポール・ウェゲナーの映画の賞賛との関係の効果として見ることができる。しかし、議論されるように、イルジコフスキは、絵画と彫刻をしたのと同じように映画を常に芸術と見なすとは限らなかった。ドイツの批判的思想家ルドルフ・マリア・ホルツァッフェルの適切で不適切な芸術の理論であり、イルジコフスキが映画としての彼の見解を芸術として再考したのは、著者の主張である。示されるように、イルジコフスキのアニメーション映画の理論は、主にクチコフスキの作品に精通して開発され、クチコフスキは1916年以来アニメ映画を作った唯一のポーランド人である。現代の多くの芸術の発達に沿って、クチコフスキは彼の映画を「合成映像作品」の原則に従って制作した。彼の革新的なアイデアは、ヤン・レニカやワレリアン・ボロウチクのようなポーランドのアニメーションの重要な人物に影響を与えたと考えられている。イルジコフスキの理論の側面は、1930年代のジャル・クレークとステファン・テイマーソンのようなポーランドの前衛的な映画制作者のの作品に見られる。この記事では、イルジコフスキとクチコフスキの間の関係が、後に出現する映画アヴァンギャルドに関連して見られるように、理論と実践との間の対話を確立するために不可欠であったことを実証する。

「アンチ・ディズニー」制作のビジョン・アニメーション、ブランディング、エトス:ディズニー映画批評をとおしての宮崎駿監督作品と登場人物

ウォルト・ディズニー(1901-1966)は、映画史上最も重要な人物の1人であるが、最も批判を受けている人物の1人でもある。日本のアニメーター宮崎駿(1941-)の分析には、ディズニーをさまざまな形(「日本のディズニー」、「アジアのディズニー」、「オリエンテーションのディズニー」など)で表現した形容詞も適用されている。ディズニーの遺産は、文化研究と映画批評から得られたさまざまな理論的レンズによってレビューされ、審査されてきた。対照的に、研究成果と文化批評は、宮崎の作品を自閉症の観点から読み解いている。これらのアプローチはまた、制作者の遺産のイデオロギーと文化の読みを区別しながら、高品質の生産と個々の特色に基づいて類似点を強調する。「アンチ・ディズニー」と呼ばれるこの構成では、文化的批評やその他の映画のパラテキストを通して、創作者の登場人物の神話的構成を含んだ、古典的な自閉症の最も一般的な戦略が一緒に実行される。アニメーションでの原作者の役割をよりよく理解するために、ブランド、スタイル、制作者の登場人物の区別が示唆されている。

表現型アニモーフの開発

モーフ(変身)の表現力は、アニメーションで最も完全に実現されている。これは「アニモーフ」として知られている。アニメーションモーフィングは魅力的な歴史を持っているが、そのような変換を別の変換と直接比較できるようなこの技術の重要な体系化はされていない。この記事では、多様なモーフィングシーケンス間で包括的な比較を行うことができるように、モーフの視覚的表現性を調べるための一貫性があり且つ組織化された方法を提供する、分類学的フレームワークを紹介する。このフレームワークは、「連続アニモーフィング」や複数のモーフを連続して使用することの評価に特に役立つ。この記事では、最初に分類法の各カテゴリを類型化し、次に進歩的な段階の完全な目録に従うことによって、いくつかのアニモーフの詳細な分類学的分析に入ることから始める。事例研究は、連続したアニモーフィングにおける高い表現力が、特に非常に活動的で空間的な変換を通して、一連のオブジェクト関係および機能ベースのミッドモーフを使用するシーケンス内に存在する、という結論を支持している。アニモーフの文体上の発展は、最終的に、フォトリアルまたはデジタルモーフィングの未来を予測する上で有益である。連続的なフォトリアルモーフィングは、連続的なアニメーションモーフィングの歴史において明白な表現力レベルを示していないが、アニメモーフィングの進化は、最終的に、フォトリアルモーフィングの表現力が将来どのように発展するかを示唆している。

トランスローカル化されたマクダルシリーズ:国家アイデンティティと無力の政治

アニメーション映画「わたしとわたしのママ」は、2014年に中国本土と香港で発売され、香港最大のアニメーションとして賞賛されている既存のマクダルアニメーション映画に巨額の興行収入をもたらした。これまでの研究成果は、マクダルのアニメーション映画シリーズが香港の地元文化の象徴であることを示唆している。それは香港の変化する景観の宝庫として機能し、ハイブリッドアイデンティティを示す。しかし、この記事では、マクダルアニメーション映画シリーズが現地よりもトランスローカルであり、1997年に香港が中国の主権に復帰した後、香港と中国の関係のダイナミクスを明らかにする事実を示していると主張している。トランスローカル化されたマクダルシリーズは、国民のアイデンティティを呼び起こすのに役立つ。擬人化された動物を通したかわいさの無力感を美化することによって、マクダルシリーズは以前は高度に政治的であった。彼らは香港の社会の傷に取り組んだ。しかし、トランスローカル化された映画「わたしとわたしのママ」の中のふくよかなマクダルの関節は、美的無力感に対する政治力は抑圧されているが、中国共産党の理想的な子供たちのイデオロギーに従っていることを示している。これは、中国の映画市場の支配的な力を明らかにしている。

ポストヒューマンと後退するオートピアへの抵抗:ワンダー・キディーの韓国SFアニメの物語を探る

この記事では、ポストヒューマン社会のモデルを提示し、この想像上の世界に対する文字の認識を実証しようとする、韓国の最初のアニメーションSFフィクションテレビシリーズ、2020年ワンダー・キディの物語を分析する。この研究は、将来の社会を構成する可能性のある方法を提案する、いわゆる「オートピア(oughtopia)」モデルについての洞察を提供する。人間、エイリアン、あらゆる種類のロボットが一つの社会的生物として共存するワンダー・キディの共同体を描くことによって、著者は未来の技術文明を判断し、現代人の技術恐怖に関連する問題を分析する。第一の関心事は、インテリジェントな機械が、人間社会に典型的な統治原理を模倣する自己進化の独自のルールに従って生きることができるという恐怖である。第二に、ワンダー・キディは、現代人類の崩壊と人類の死の恐怖と、それに続くポストヒューマン社会への移行を反映している。第三に、それは、技術文明のスピードと方向感が損なわれた場合、人間の霊的豊かさの本質的要素である神話的価値がどのように崩壊するかという懸念を提示する。最後に、それは線形時間の概念に支えられている人間の歴史的進歩についての信念に疑問を投げかけている。一方、ワンダー・キディは、すべての生態学的、自然的、景観的価値を維持するための理想的なソリューションのモデルを提示している。これは、ワンダー・キディのオートピアが現実的なモデルとして計画されていないが、一般的な環境主義論理の単純な結果を象徴するように設計されているという見解に有力さを加えている。

アニメの遂行性:世界のメディア形式における従来型の多様性

アニメは、多様なスタイルを持つ世界的に目立つメディア形式であるが、メディアの特定のカテゴリとして認識できるアイデンティティーを維持するための相対的な統一性を維持している。認識可能な「アニメ風」のパフォーマンスは、アニメを「アニメ」として販売し消費することを可能にするが、アニメーションの一つのタイプとしてアニメとは区別するものである。アニメとその認識可能なアイデンティティーは、アニメーションで実行される一連のアニメ風のふるまいによって実行的に構成され、各繰り返しで従来のモデルのシステム/データベースを引用している。私たちが「正統アニメ」と認識しているのは、「日本のアニメーション」だけでなく、大量のアニメ風を演出するアニメーションもである。しかし、アニメは、冗長性を持たずにアイデンティティを維持するという問題を継続的に解決しなければならず、各パフォーマンスは多様性と統一性の狭間の緊張状態を持って取り組まれている。すなわち、従来のモデルからあまりにも遠く離れていると、それはアニメ風としての識別される能力を失い、アニメとして売買することはできなくなる。したがって、アニメのアイデンティティーは、一方では統一性、反復性、グローバル性、そして多様性、変容性、ローカル性の間の動的な区分をうまく分けて取り入れている。この問題を解決するには、それぞれのパフォーマンスで従来のモデルからの引用の組み合わせが、アニメ制作としての特定のアニメのアイデンティティと、他のアニメとの区別を交渉するというように、異なる種類の創造性が必要である。アニメで起こる問題は、従来のキャラクタデザインと物語のモデルの関与だけでなく、キャラクタモデルやアニメーション化された従来の演技表現を引用するアニメーションの技術的プロセス/資材においても引き起こされる。さらに、アニメーションの媒体の資材の限界だけではない。アニメの実行(および販売)を容易にする引用の行為におけるアニメのパフォーマンスにはもう一つの制限がある。アニメ風の反復行為、メディア形式のアニメのシリーズ化、アニメの正式なシステムの迂回は収束の一因となる。

よく聞かれるオンライン教育のアニメーションの明示的デザイン特性の類似点とニュアンス

オンライン学習は長年にわたり普及してきており、インターネットを介して学ぶことができるさまざまな方法がある。その1つは、YouTubeなどのオンラインストリーミングサイトからの教育用動画を見ることである。インターネット上での指導用アニメーションの利用可能性の高まりに伴い、受け入れられた指導用アニメーションがどのように設計されているかを知ることは有益である。したがって、この探索的な記事では、明示的なデザインの特性とこれらのアニメーションの視覚的表現の指向性と解釈的なコンテンツ分析の研究のハイブリッドに焦点を当てている。この調査のアニメーションサンプルは、いくつかの基準を使用し、YouTubeの確立された教育アニメーションコンテンツクリエイターから選択された。マルチメディア学習原理の認知理論と解説アニメーションの特徴付けシステムに関連して、設計特性や視覚的表現などの側面を分析し、議論した。このアプローチに基づいて、よく見られるオンラインアニメーションを作成するための共通の特性とユニークなアプローチが見つかった。したがって、これら顕著な設計特性(すなわち、視覚的表現、音声および視覚的合図)を識別し、認識することによって、教育者およびアニメーション設計者は、それらを自分の教育的アニメーションに組み込むことができる。

アニメーションでのレフ・クレショフ:イメージの編集

ソビエトの映画監督レヴ・クルセホフは歴史的にアニメーションには関係していないが、彼の遺産には次のものが含まれる。すなわち、ソ連の中核特集「キノ・ガゼータ」に掲載されたアニメーションに関する記事、フィルムの実質的な部分がアニメーション化されているフィルム、そして、ロシアの文学芸術アーカイブ(RGALI)に保存されている4つの講義のテキストである。ソ連の中央アニメーションスタジオ「Soiuzmul'tfil'm」でアニメーターに渡した講義では、彼はモンタージュの理論を再利用し、アニメーション手段のニーズに応えている。これらの資料を分析し、講義に焦点を当てて、クルセホフのアニメーション理論と制作への貢献を紹介し、クルセホフの遺産が1930年代のソ連特有のアニメーション制作における歴史的な特殊な状況を明らかにするだけでなく、一つの現象としてアニメーションイメージをより深く理解することを可能にすることを示す。

過去を混乱させること、アダム・エリオットのクレイムネーションにおける未来を切り開くこと

オーストラリアのアニメーターであるアダム・エリオットは、障害を持つ人々の経験を説明することに専念している。エリオットの最初の三部作 - おじさん(1996)、いとこ(1999)、兄(2000) - は、ナレーションが障害をもつ最愛の家族の思い起こさせる黒と白の粘土人形を使ったアニメーション(クレイメーション)である。この記事は、エリオットのクレイメーションにおける身体障害者の分析と、観客に喚起される可能性のある巧妙な倫理の中で、障害研究、現象論、映画研究についても触れている。著者は、エリオットの「クレイオグラフィー」は、それを切望して過去を狂わせ、障害者の疎外を批判して未来を切り裂き、人生の『アウト・オブ・ライン』への思いを募らせると主張している。三部作のハイブリッド性は「国内の民族誌」のドキュメンタリーやホームビデオの混合体であり、それは記憶の暗い領域へ入ることを可能にする架空のフィルム·ノワールと親しい「他人」を中央に配置している。視聴者には、身体の脆弱性とはかなさを強調し、悲劇的でインスピレーション的な形ではなく、人間の存在と切り離すことのできない身体的な体験が提供されている。これらの正反対の映画的様式とジャンルを粘土で表現することによって、障害は倫理的な思い出を通して作られた人の経験という定義で表現されている。

フランク・グライムズの敵:シンプソンズの不安定労働とリアリズム

多くのファンが1997年のシンプソンズの黄金時代が終わったと認識しているが、シーズン9の初めに、その変化がショーと大衆文化全体にとって、どのようなものであるかについての詳細な分析はほとんどない。シンプソンズにとって、このシフトは、2つの重要な質的変化を意味している。第一に、仕事の定義の変化において、フォード主義の雇用モデルから不安定なものへ、第二に、第一の結果として、そのリアリズムの様式において、キャラクターの人生の描写が内部的に一貫したものから屈折したものに移行している。この変容の最初の兆候は、シーズン8でフランク・グライムスの性格を通して現れる。ホーマーとの彼の関係は転換期を迎え、登場人物と同様に視聴者も安定したフォード主義の世界に住むことができなくなる転換期であることを告げるものである。リアリズムの課題が社会的現実に近づくための一つの表現方法であるならば、シンプソンズが一貫した特徴付けを提供できないということは、新自由主義自体の混乱を反映している

見せかけのアニメ映画のデジタル人間の特徴付け:オンラインソースを用いた定性的調査

3つのオンライン・レビューア・アグリゲータサイト(インターネットムービーデータベース、ロッテン・トマト、メタクリティック)からのユーザーのコメントをサンプリングすることにより、デジタル人間様のキャラクターを特徴とする映画のレビューに関する定性的な調査が行われた。分析のために選んだ映画は、ファイナルファンタジー:スピリッツウィズイン(監督:坂口博信と榊原幹典、2001)、ポーラーエクスプレス(ロバート・ゼメキス、2004)、ベオウルフ(ロバート・ゼメキス、すべて、CGIアニメーションを使用して制作され、これは、ボブ・サビストンのロトショップソフトウェアを使ってロトスコープで描かれたスキャナー・ダークリー(監督:リチャード・リンクレイター、2006)と一緒に作られている。著者の分析は、特にCGIを用いて作成された人間のようなキャラクター(CGI-人間)の不確実な存在論に関連して、視覚経験における個人差を識別した。彼らは、本物とCGI-人間の俳優を区別することができないことを示すレビューの例を見出した。つまり、自身の人工体に戻る前に一時的にリアリズムを見せるキャラクターや不気味であると見なされるキャラクター(狂気の谷に類似)の観察で、このように、この現象に対する複雑で動的な反応を示している。いくつかの状況では、キャラクターの薄気味悪さは、目の動きなどの典型的でない特徴の存在に関連していた。特にベオウルフの場合、何人かのレヴューアーがキャラクターをリアルまたはアニメーションのいずれかに分類することは困難であると述べているが、CGI-人間キャラクタを演じる俳優を良く知っている場合、認識がより問題になった。CGI-人間の動作は、社会的交流の欠如、またはその不適切さによっても特徴づけられた。オンラインレヴューアーはロトショップ(ロトショップ・ヒューマンズ)を使って描かれたキャラクターを不気味なものとして認識しなかった。ロトスコピングでは、アニメーションの素材として使用された実写映画から記録された俳優間の自然な社会的交流を維持し、場合によってはそれを強化できることが判明した。著者らの調査では、これらの映画を見るためのユーザの動機、およびCGIフィルムを見る際レヴューアーの提出したディスプレー形式の重要性が明らかになった。彼らは、ウォルトンの実証理論(見せかけとしての模倣:表現芸術の基盤について、1990年)に関連して、これらの知見の解釈を明らかにしている。

穏やかな平和の海へ:平和と反暴力のアニメーションの探究

この記事では、平和構築の目的でアニメーションを使用する方法について検討する。これはまず、平和に関するかなめの定義と、それがどのように芸術に適用されているかを調べることによって行う。アニメーションの特定のコンテキストにこれらの定義を適用し、ケーススタディを使用してどのようにこのコンテキストでアニメーションを使用できるかを示す。この記事では、平和構築の目的でアニメーションへの参加型アプローチをサポートすることで結論づけている。研究を推進する意義は、ヨハン・ガルトゥングによって開発された積極的な平和のパラダイムから派生している。これらは、正義、平等、繁栄、非暴力、協力、連帯として要約することができる。

シミュレーションと不可視性の労働:ハルーン・ファロッキのマニュアル

この記事では、コンピュータアニメーションのイメージジャンルを切り開くファロッキの4部構成のフィルムサイクルParallel I-IVに焦点を当てる。Parallel I-IVでは、1980年代の雑な作りの2次元画像から、グランド・セフト・オートVなど現代的なタイトルの超リアルな環境まで、ビデオゲームのグラフィックスの進化をたどっている。この記事では、ファロッキの幅広い仕事とテーマのおもしろさに関連して、フィルムサイクルを位置づけている。同時に、パラレルI-IVが映画史のメディア考古学的な再評価にどのように行き着くかを考察する。5つの相互に関連したトピックが扱われている。それらは、表現と再生、操作可能なイメージ、監視と軍隊、シミュレーションと役割演技、不可視性の労働と労働の不可視性である。

雲のアニメーション

雲は生き生きと変化しづつける、一過性の、常に動いている形状を持つ。雲は、特に絵画において、長い間想像の対象であり続けた。ジョン・コンスタブルの絵画に見られるように、絵具、特に水彩絵具は、雲が空に溶け込むように厚い画用紙にしみこんでいく。20世紀になると雲は映画に取り上げられるようになった。ハリウッドの映画スタジオのロゴには雲が使われていることが多いのは注目すべき事柄といえる。コンスタブルからハリウッドのロゴまで描かれているのはロマン主義の雲である。雲は漂い、浮かび、天候によって独特の雰囲気やムードを醸し出す。しかし、雲はこのデジタル時代においても様々な方法で表現されている。雲は商業アニメーション・スタジオにおいてデジタルで作成され、漫画の主役として使用されてきた。雲は建築や造園など商業用にも使用可能であり、アニメーション制作者によっても作成されている。この論文では、低俗でばかばかしいものもあることは否めないが、これらの作品をデジタルの雲が新しい実体として現れる時代の象徴として考察を試みる。デジタル時代の雲は、3Dプリンターのように想像可能な形状の源である。何か別の物の象徴というより、むしろそれ自体の象徴を生成するものとなっている。今日、我々はクラウドと呼ばれる巨大な雲の象徴と共に、あるいはその内部で生きている。空にある雲はどのような形でクラウドと呼ばれるプラットフォーム全体に働きかけ、どのような意味を持つのであろうか。アニメーションでの雲のデジタル化、およびクラウドの技術を使用したアニメーション制作では何が起こっているのか。我々はすべての制作が移転し、デジタル化された雲がすべてを決定する合成された天国の創造を目の当たりにしているのだろうか。

メディアミックスの動員: 社会的動員と妖怪ウォッチ

日本において、テレビのアニメーション作品は、「メディアミックス」またはトランスメディアの必要不可欠な要素とみなされている。さまざまな状況で、このようなテレビ番組は「30分のコマーシャル」または「番組の長さのコマーシャル」と認識されてきた。この論文では2014年のアニメである「妖怪ウォッチ」を取り上げ、アニメの物語としてではなく、総動員を目的とした呼びかけの一部として検証する。日本におけるメディアミックスの先導者である角川春樹は、メディアミックスのモデルは、ヒトラーの国家主義終盤のおける「国家総動員」のファッション、音声、イメージから採ったものであるという扇動的な発言をしたが、この論文では、「妖怪ウォッチ」を国家総動員という概念におけるメディアミックスとして検証する。作者は、「妖怪ウォッチ」の商品、ゲーム、およびアニメーションの詳細な分析を通じて、年少者たちを対象としたこのメディアミックスの最終段階は、収集中心の消費への総動員であることを示す。つまり、商品流通の調査を必要とする「消費の物流管理」、そしてゲームへの誘因およびゲームのマニュアルとしてのアニメーシの役割を考察する。

アニメーションおよび可塑性の力

この論文では、セルゲイ・エイゼンシュテインがアニメーション作成の重要事項として特定した可塑性の概念について検証する。ただし、この論文では、可塑性を美学的な見地でのみ検証するのではなく、その意味を拡大し、アニメーションの登場人物が観客に及ぼす影響について考察する。17世紀におけるアタナシウス・キルヒャーの実験からアメリカ合衆国軍部によって開発された仮想現実アプリケーションに至るまで、過去および現在の事例を基に、作者は精神生活におけるアニメーションの持つ変革を起こし得る潜在能力、そしてこの潜在能力がどのように権力の行使に使用されてきたかという問いに対する答えを求める。

挿入および結合:実写ドキュメンタリーにおけるアニメーション部分の重要な潜在能力

この論文では、2000年以降作成された主流の商業ドキュメンタリーである実写に現れるアニメーション部分について調査する。「The Age of Stupid」、「ボウリング・フォー・コロンバイン」、「シュガーマン 奇跡に愛された男」、「北朝鮮強制収容所に生まれて」、「COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック」、および「Everything’s Cool」 を含む映画の考察により、一連のアニメーション部分は「結合組織」または「混乱させる挿入」として機能するが、アニメーションが審美的または存在的に、挿入される実写と全く異なったものであるということが要因となるわけではない。むしろ、他の物語および修辞的部分によって、アニメーション部分の挿入程度が決定される。作者は、究極的には、ドキュメンタリーという形をとった現実主義者の虚勢に挿入することができるアニメーションの性質は、ノンフィクションにおけるアニメーションの重要で政治的な潜在能力を示していると考えている。

推論アニメーション: 都市部の過去および未来のデジタル予測

この論文では、都市地理学に関する現代の視覚芸術家、建築家、及びデザイナーたちの作品におけるデジタルアニメーションの存在の増加について考察する。ベルナール・スティグレールやマーク・ハンセンなどの現代の理論家は、デジタル・メディア技術が文化的記憶を植民地化し、共同で心に描いた未来へのアクセスを排除してきた方法に焦点を当ててきたが、社会に参画している建築家やアーティストたちは、重要な審美的潜在能力を持つ媒介としてのアニメーションに注目してきた。したがって、デジタルアニメーションは、政治的参画作品の中で、都市部の異なる未来を視覚化し、精神的外傷を残した過去を再編成する主要な方法となったのである。この論文では、過去の2つの事例および未来志向の2つの事例に焦点を当てる。概念芸術家であるスタン・ダグラスは最近、彼の性格とは裏腹に、カナダ国立映画制作庁(NFB)との協力による「Circa 1948」 にデジタルアニメーションおよびゲーム技術を導入した。ダグラスは対話型アプリを使用してバンクーバーの抑圧された過去を再活性化し、現代都市を支配する進歩の物語および土地投機に疑問を投げかけている。エヤル・ワイズマンの作品と法科学的建築プロジェクトでは、デジタルアニメーションの技術を駆使して、人道的危機に関する主要な日付や出来事を再現、視覚化する事例がますます増えている。たとえば、「Rafah: Black Friday」では、デジタルアニメーションおよび 3Dモデルが使用され、2014年のイスラエル軍によるガザ地区への攻撃、特に4日間の激しい砲撃が再現された。芸術家ラリッサ・サンスールは実写とデジタルアニメーションを組み合わせて、説得力あふれる荒涼としたパレスチナの未来を描いた。また、「思索建築家」であるリアム・ヤングはアニメーション技術を使用して、技術的な理想郷と暗黒郷の間でぐらついている都市部の状況を表現した。

ランゴ、倫理およびアニメーション

最初の取り組みは、倫理の定義ではなく、映画の中である特定の唯一無二の出来事(ここでは、政治とは、すべての人間、大多数の人、または大多数のグループにとって、成り行きの結果である可能性がある)を描写することである。たとえば、ドキュメンタリーは描写する唯一無二の出来事および主題に対する責任がある。問題はアニメーションにおける唯一無二とは何かと言い換えることもできる。この問いは特異性を示唆している。大容量のデータセットに基づいたシミュレーションは唯一無二および特異性を表すものではない。したがってこの枠組みでは政治的であるとみなされるべきである。手描きおよび手作業のコマ撮りによるアニメーションは、ある行為の唯一無二の表現であるとみなされ、明確な倫理的取り組みが必要になるかもしれない。調整されたコンピュータ生成画像 (CGI) によるアニメーションは、この二極の間に存在する第三の選択肢、つまりアニメーションの倫理的義務と政治的義務をどのように区別するか、として確立されるわけではない。解決法は約束されてはいないが、問いかけをする戦略とみなすことはできるであろう。

デジタルの不合理性 :ジョーダン・ウルフソンの「邪悪なユダヤ人」

この論文では、現代のユダヤ系アメリカ人であるジョーダン・ウルフソンによる「Animation, Masks」(2011年)を分析する。このアニメーション映画は10分ほどの長さで、登場人物は一人である。これはウルフソンがグーグルでの「邪悪なユダヤ人」および「シャイロック」を検索した結果に基づいている。この「evil Jew」の定型の一つである「Le Happy Merchant」は、4chanメディア・ネットワークで回覧されている人気のあるミームで、「alt-right」と呼ばれる、2016年のドナルド・トランプの選挙運動および大統領就任の強力な支持層となった人種差別および反ユダヤ主義の緩やかなネットワークのマスコットとなった。ウルフソンは、この定型をアニメーション化する仕事のためにアメリカ人の動画制作者を雇い、自身のバージョンのメームを作成した。それが、予測不可能で支離滅裂、暴力的身振りと懐柔的な身振りの間を行ったり来たりする、魅力的なドリームワークスのキャラクターとして再上演されたファシストの定型である。詳細な分析を試みる代わりに、この論文では、定型、陰謀論、およびファシストの反乱に対するウルフソンの社会的結びつきを理解するには、ドナルド・トランプの選挙運動、英国のヨーロッパ連合からの離脱、そしてル・ペンの立候補の観点からより詳細な調査が必要であるということを議論する。これらの社会運動では、都市部の「エリート」または「グローバリスト」への積極的な批判が、移民、有色人種、イスラム教徒への言語攻撃に対する反体制の口実となった。アルベルト・トスカーノおよびジェフ・キンクルは「Cartographies of the Absolute」 (2015年) の中で、陰謀的思考の急増を資本主義に対する批判の不在と結び付けている。彼らは、資本主義の抽象的で客観的な特徴のため大衆の疑問が決して受け入れられないのであれば、陰謀論は安易な代用品であり、反ユダヤ主義および人種差別的な投影の余地が残されることになると論じている。そして、陰謀的思考に陥るのではなく、後期資本主義の理解不可能な動きへの組織的な結びつきを生み出す芸術および大衆文化を呼びかけている。この論文では、「Animation, Masks」のウルフソンがアニメーションと風刺画を使用して、国際的極右の台頭によって力を増してきた反ユダヤ主義陰謀および自己陶酔的なソーシャル・ネットワークの流布の事実を証言していることを示唆している。しかしながら、ウルフソンはあいまいに定型を取り扱っているため、反語的な取り扱いとは無関係である暴挙の力による共謀に陥るという危険を冒している。この論文では、この芸術作品の重要な貢献および限界、そして、ウルフソンの概念的パフォーマンス全体を評価する。

カリフォルニア・ダウンおよびアナログーデジタル動画像の上昇

この論文では、主流ハリウッド映画の現在の状態を、ベルナール・スティグレールがハイパーキャピタリズムと呼ぶ時代における世界規模のデジタル・メディアの娯楽大作の特徴であるアニメーションを駆使した形状としてとらえる。エスター・レスリー、ディック・トマソヴィック、およびスティグレールの論文と関連して、作者は、最近のハリウッドのドル箱である「カリフォルニア・ダウン」(ブラッド・ペイトン監督、2015年)の詳細な分析により、現代の主流映画およびメディアにおけるアニメーションのテクニックや技術の展開に明らかである、レスリーが呼ぶところの「呆然とするような混乱」の説明を展開する。巨額予算、大仕掛けなスペクタクル主導の物語、および最新のデジタル「モーション・デザイン」ツールにより、この映画は現代の主流デジタル映画の逆説的な形態の代表的な例となっている。レスリーはデジタル映画を革新的であると同時に非常に型にはまったものであると述べている。作者は、スティグレールが現在のハイパーキャピタリズムの動力の螺旋不安定と呼ぶものについて、もう少し詳細に述べる。ここでは、この逆説的であるにもかからわず究極的には持続不可能な「呆然とするような混乱」を、技術的および文化的な変換の混乱体験として詳しく説明する。なぜなら、技術的生成と文化的生成の間にある深遠な結合を受け入れる場合にのみ、レスリーが呼ぶところの「夢見る現実」に生命を吹き込む支配的なハイパーキャピタリスト・モード下における混とんとしたデジタル変革の状況から先へ進むための潜在能力が見いだされるのである。

「白雪姫」、「シンデレラ」と「眠れる森の美女」―ディズニー初期の手作業による長編アニメーション映画における衣装デザインの諸要素

長編映画における衣装は、映画の物語のための主要な要素として機能し、筋書に関連する何かを表したり隠したりするために意図的に使用することができる。アニメーションにおける衣装デザインはキャラクターづくりに欠かせないものである。しかし、そのデザインの過程に関してはほとんど知られていない。これまでの研究は、手描きアニメーションの歴史、アニメーションフィルムの作成やキャラクター構築などに焦点を当てていた。この論文では、ウォルト・ディズニーの長編アニメーション映画である『白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs)』(1937)、『シンデレラ(Cinderella)』(1950)、『眠れる森の美女(Sleeping Beauty)』(1959)の衣装デザイン過程におけるいくつかの主要な要素について論じ、これらの映画の衣装デザインには、重層化されたプロセスが関わっていることを示す。たとえば、『白雪姫』では、初期のコンセプチュアル・デザインを見ると、最終的なアニメーションの衣装の輪郭が見える。一方、シンデレラやオーロラ姫では、主任キャラクター・アニメーターが最終衣装をデザインしている。さらに、制作時間の遅れが衣装のスタイルにも影響を与えている。衣装の非常に細やかなところや複雑な構造は、描画するのに時間がかかりすぎるため使用されなかった。この論文では、アニメーターが実写フィルムおよびロトスコープを衣装デザインのツールとして使用していたことも明らかにする。さらに、ロトスコープ用事前撮影のために使用された衣装は、通常の衣服とはその構造において異なることも明らかにする。衣装デザイナーの仕事は、登場人物デザイン過程の一部として存在するが、独立した仕事ではない。この論文は、ディズニーの初期の手描きアニメーション映画における衣装デザインの重要性、およびアニメーションの登場人物に対するさまざまな衣装デザインの方法を強調することを目的とする。

映画からテレビにいたるまでのジェンダーとカートゥーン―初期カートゥーンに対するフェミニズム批評

大人から子供、劇場からテレビまで、カートゥーンは、実験や変化によって対象視聴者を常に再定義し、それにより、文化や社会における重要性を証明してきた数少ない大衆向け芸術形式の1つである。この論文では、当時の知識階級や芸術コミュニティから称賛を受けた劇場におけるカートゥーンの開始から発生した社会的批評について論ずる。メディアの大衆化への探求は、アニメーション業界における低賃金で正当に評価されていない労働者としての女性の過小評価に対するカートゥーンの役割を明らかにする。この論文では、ディズニーおよびワーナー・ブラザーズによる「聖母と娼婦」の二重性を持つ女性の描写を詳細に検討することにより、アニメーションの女性に関連する業界の強制的な性別符号化の作成についても探求する。さらに、ディズニーにおけるお姫様、魔女、妖精の代理母という形をとった異性愛規範の性別符号化を永続させるディズニーの3つの女性像女性も詳細に調査する。伝達手段の大衆化は、テレビの番組が子供番組の業界を形成するにつれ、女性向けカートゥーンの優先順位を低くし、女性労働力を過小評価し続けたハンナ・バーベラ(Hanna-Barbera)によって先導された。

ヤン・シュヴァンクマイエルの「ドン・ファン」(1970年)-親密なオブジェとしての操り人形

人形劇は多くの芸術家や作家を虜にした。しかし、この謎めいた形状と折り合いをつけるのは困難である。緊張感と競合によって特徴付けられている形状は安易に定義しにくい。この論文では、外在する形態と内在する人形のドラマ上の人生の間に生じる緊張、複雑な二重の人生を持つ、人形形態を形作る2つの実存的状態に焦点を当てる。内部世界と外部世界の対話の流れを再び試みるという逆説は、介在という現象との関係において論じられる。人形劇、舞台、映画、およびオブジェクトアニメーションなどの異なる表現形態の介在連結の中で、人形劇の形態は親密的な空間として機能する。介在的な交流の具体例は、人形形態に対する認識と感情という最も親密な関係を比喩的に表現する。映画で操り人形を使用した最も素晴らしい例である、ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer)の『ドン・ファン(Don Šajn)』(1970)を研究すると共に、映画評論家であるマイケル・オプレ―(Michael O’Pray)の映画に対する見解、アンドレ・ブルトン(André Breton)の通底器の概念、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)によるバロックの襞の概念、ポール・リクール(Paul Ricoeur)の解釈学的現象学などを読み込むことで、これらの思索を展開させる。

ウォルト・ディズニー・トレジャーズ、またはミッキーマウスのDVD? アニメーション愛好、ノスタルジア、そしてホームビデオにおける劇場向け短編カートゥーンの競合する表象

劇場時代の短編アニメーションは、時として、複雑で矛盾するテキストの本質をもたらす。ほとんどのカートゥーンはもともと一般読者向けに作成されたものであるが、その後ほとんど子供のみを対象にマーケティングされ、テレビで繰り返された。DVDの普及により、これらの映画の状況はより複雑になっている。その一方で、DVDというフォーマットにより、珍しいアニメーション資料のリリースが促進された。たとえば、『Walt Disney Treasures』と呼ばれる複数枚の特別版は、以前は無視されていた成人視聴者を対象としている。しかし、ディズニーは、ほとんど同じアニメーションを特集している低価格の「家族向け」ディスクを製造している。『Treasures』版とは異なり、問題のある内容を校閲し、状況を説明するボーナス版は付いていない。この2つのコレクションのいずれかを選択して視聴するということは、映画の解釈に多大な影響を与えることになる。トーマス・エルセッサー(Thomas Elasasser)によると、献身的な映画ファン(およびこの研究の目的では、アニメファンに等しい)によって熱烈な形で具象化される映像文化は、世代記憶の産物の映像として自らを認識することができなくなる。このようなグループによるとDVDの特別版は、その形式自体によって内容がどの程度まで修正されているのかを認識せずに元の映画としての体験を与えてくれるため、最も「本物」に近いということになる。たとえば、『Treasures』ディスクは、1930年代・1940年代以来公開されたことのない『復元』映像など、通常映像をノーカットで提供しているが、しばしば人種差別など異論の多い要素に対する歴史的な状況を提供する必須の責任放棄声明が付随している。これらのコレクションが提供する莫大な量の資料は、「すべて再生」機能を使った一気見機能などが含まれるが、劇場において限定された量の資料を見るという体験を様変わりさせることになる。この論文では、特別版および「家族向け」DVDのオプションは、過去を本当に取り戻そうとするのではなく、映画に対する現在および将来の受け止め方を決める上でのノスタルジックな葛藤を最終的に反映しているということを示す。

「トイ・ストーリー」シリーズにおけるアニメーション化されたイメージとアニメーション化された物体:再帰的・間テクスト的な逸脱的ミメーシス

この論文では、神の創造行為を反復し脅かす可能性のある芸術的模倣についての宗教的禁止事項に挑戦する再帰的な間テキスト性の枠組みを、アニメーションがいかに操作できるのかについて考察する。やはり神からの禁止に違反する媒体である彫刻に由来する物体の動きを物語化するとき、アニメーション映画は、間テキスト性において最も再帰的である。彫刻とアニメーションという媒体において、模倣行為は基本的に存在論の見地からは越境的であり、3次元の彫刻で生物の複製を作成するか、2次元の映像で生命のないものが生きているという幻想を与えることによって創造の幻想を設定する。どちらの媒体でも、生命の幻想を作成するだけでなく、実際の人生を作成する創造的行為についての物語を使用することによって、これらの過程について直接言及する芸術作品を生成することができる。そのような芸術作品は非常に再帰的で、間テキスト的な仕方で相互に関与する。この論文では、有史以前および初期の歴史的宗教、神話的、および哲学的媒体から、生命の模倣的表現についての概念構築のプロセスを追跡する。この過程では、古典および近代の彫刻を通して、メアリー・シェリー (Mary Shelley)の『フランケンシュタイン(Frankenstein)』における逸脱のすさまじい結果を結晶化するプロト・フェミニストの過激な改訂を通じて、映画およびアニメーションに到達する。この論文は『トイ・ストーリー(Toy Story)』シリーズにおけるこれらの過程の比較的詳細な説明で締めくくられる。このシリーズは、アニメーションがどのようにして直示的に生命のない作られたおもちゃが自分の意思で動くという物語を演じ、おもちゃの生き物としての動きを存在論的観点から行うことにより、そのアニメーションの二重形態が再帰的にこれを実行するのかを示す最高の例である。ここで分析されたアニメーション映画はまた、このアニメーションの二重形式の違反および手に負えない結果に関与する。これは模倣における神の禁止事項に挑戦する物語の間テキスト性から派生する。

ディズニー・スタイルのイスラム教を考える―エジプトのイスラム教アニメーションの勃興

1930年代には早くも、エジプトはアニメーション制作を確立した最初のアラブ国となった。この業界の80年の歴史におけるほとんどのプロダクションは、エジプト国民を対象としており、この地域のみで通用するメッセージを伝達したが、1990年代から国境を越えたイスラム教徒を対象とし、イスラム教を主題とした映画やシリーズが増えている。この論文では、エジプトにおけるイスラム教のアニメーションの発展と特質、およびアニメーションのイスラム化について考察する。ここでは、1990年代のエジプト政府の方針および国内で最も強力な宗教的権威であるアル=アズハルとの緊密な関係がこのようなプロダクションに導いた過程についても検証する。また予算、品質、および配信において今までで最も重要な作品であるQisas al-Qur’an(コーランからの物語)の詳細な調査を通じて、エジプトのイスラム教アニメーションの特質を紹介する。

幼少期とメディアの表象―韓国アニメーション「小さなペンギンポロロ」はどのようにして家父長的な家族のイデオロギーを再生産しているのか

この研究は、韓国の教育的娯楽アニメーション『ポンポンポロロ』の50回分のエピソードを分析し、文化的、社会的意義を検証するものである。この論文では、『ポロロ』の物語や美意識におけるジェンダーの固定観念を分析するだけではなく、社会的言説のより大きな枠組内でこれらの特質を調べ、『ポロロ』に関する初期の研究を拡張する。『ポロロ』は大人の介入なしに子供たちの間で友情を構築していくように見えるが、韓国における家族関係やそれに対する大人の見解を明らかにする機能を実際には反映している、ということを著者は見出した。韓国の典型的な家父長制家族内に大人と子供のキャラクターを配置することにより、『ポロロ』は今日の韓国における家父長制家族の理念を再生産している。したがって、この研究は、子供のメディア、性役割、および子供時代の社会学の分野に貢献するものである。

アメリカのアニメーションサウンドデザインにおける一般的美学

同時録音が導入された1920年代後半から今日まで、アニメーションのサウンドは様々な形式を受け入れてきた。この論文では、慣習、技術、資金の変化する偶然性に基づいてアメリカの商業的アニメーションで発達してきた4つの主要な方法を紹介する。これらの方法は、融合、ジップクラッシュ、機能的および詩的認証と呼ばれている。それぞれが異なる美学的効果に対して使用され、画像との関係性を変化させる。音声、音楽、効果音、およびアトモスの使用は、録音、操作、ミックスの方法と見なされている。さらに、ある時期から次の時期へと慣習が被る状況も説明される。ここで提案されるカテゴリーは、視界領域を超えてアニメーターが使用できるさまざまなオプションの歴史および創作範囲の理解に役立つ。

動きのダイアグラム―ヤン・シュヴァンクマイエルとブラザーズ・クエイの短編映画に見る、動的な彫刻の形式としてのストップモーション・アニメーション

ジャン=リュック・ゴダールは、「映画は人生を撮る芸術ではない。映画は芸術と人生の間にある何かだ」(ラウド(Roud)による2010年のゴダールの伝記から引用)と言った。これは特にストップモーション・アニメーションに関して言えば真実である。ここで論じられる映画製作者、ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer)およびブラザーズ・クエイ(Brothers Quay)は、見いだされた対象の潜在内容への魅力にとりつかれた。彼らは、忘れられたおもちゃ、捨てられた道具などは過去の体験の残響が含まれていると信じている。我々が触るオブジェには記憶が伝わるというシュヴァンクマイエルの信念を推定すると、クエイが夢のような映画を骨組みで理解する心霊的内容から発展させたように、彼の映画における操り人形としての見いだされた対象の操作は、潜在内容の想起および作り変えの手段となる。この論文では、アニメーターの選択された短編映画に関する事例研究を行い、動く彫刻ではなくストップモーション・アニメーションの実践を検証し、本質的に静的な媒体で固定された瞬間の象徴である彫刻や写真と、化石化された瞬間がよみがえる一時的な場所であるストップモーション・アニメーションとの複雑な関係をひも解く。

アニメーションはどのようにしてライトニング・スケッチに勝利したか―「愉快な百面相」再考

ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(James Stuart Blackton)監督(1875-1941)の1906年発表の短編映画『愉快な百面相(Humorous Phases of Funny Faces)』は、アニメーション映画のもっとも初期の実例である。この論文では、この映画の影響を、カメラの草分け的な使用方法を超えた別の見地から検証する。著者は、ブラックトンの映画は後続のアニメーション作品、特にアニメーションのキャラクターのデザイン原則を打ち建てたと考えている。この議論をサポートする目的で実行されたブラックトンの映画の分析は、スコット・マクラウド(Scott McCloud)の多大な影響力を持つ著作『マンガ学(Understanding Comics: The Invisible Art)』(1993)に基づいている。また、この論文では、マクラウドの「マンガの用語(Vocabulary of Comics)」の修正された方法を提供し、ブラックトンが今日まで使用されているアニメーションキャラクターのデザインにおける基本的構成要素をどのようにして導入したかを示す。これは、文化固有の項目が重ね合わせられる感情的、普遍的な核に依存するものである。さらに、ブラックトンはアニメーションキャラクターの外見および演技を通じて、アニメーションキャラクターのデザイン過程をそのような構成要素に分解し、その重要性を強調した。

ロトスコープにおける不気味なもの―「悪の華」と日本のポストモダニティの美学

CGIはメディア研究に理論上の革命を引き起こした。コンピュータ上で現実が作成できるのであれば、映画とは一体なんであろう? スーパーフラット2Dの美学が3Dのデジタルグラフィックスに悩まされるのであれば、アニメーションとは一体なんであろう? この論文では、この議論にロトスコープという第3の用語を追加する。著者はまず、ロトスコープのみを使用して作成された日本のアニメーションである『悪の華』を分析する。これはシャルル・ボードレールの『悪の華』に対する現代的な再解釈で、ポストモダンの不安、地方都市の崩壊と過疎化、オタクの現実逃避などを反映している。さらに、ロトスコープの美学を映画およびアニメーションとの関係から検証していく。ロトスコープは、シネマティズムとアニメティズムの奇怪な組み合わせで、ディズニーの没入型リアリズムとフラットなアニメーションのイデオロギーへの反論的な対応であると著者は考える。この論文では、物語の中で「ポストモダン生活の小説家」である仲村佐和をボードレールのモダニズムおよびポストモダン状況との関連、つまり今日の日本の帝国主義的構造とこの番組の舞台である群馬県に対する影響との関連から検証する。最後に、オタクの間に巻き起こされたこの番組への憎しみに満ちた反応を分析し、ロトスコープ機器の憑在がいかにして第三世界の搾取された労働者であるネオリベラリズムの亡霊に導いたかを探求する。

动は動き、画は絵画―中国の动画に関する調査への領域横断的アプローチ

この論文では、文化的多様性に欠ける長年のアニメーションの定義に対する問いかけを行う。あまり知られていない中国の地域からの現代アニメーションの社会文化的形成を再調査し、『动画』と呼ばれる中国のアニメーションについて検証する。現代中国の視覚文化の異種混合現場とのダイナミックな対話を通して取得された『动画』の学術的特質を示すことが目的である。著者は、中国のアニメーションをより正確に描写するため、概念に基づいた枠組みを提案する。これは、动画の3つの具体的な特徴である言語を超えたもの、国家を超えたもの、そしてメディアを超えたもので構成される。动画の研究によって「アニメーター」の異なる『文化的分野』のより広範囲に定義された領域が生成され、今日の急激にモバイル化している世界に対応する「地域を超えたアニメーションのイメージ」を作り出すであろう。

多義的なイメージの工場―中国インディペンデント・アニメーションの系譜学と視覚的な歴史

この論文では、中国本土の独立アニメーションの台頭、構成、および多様化が、過去20年の間にどのようにして民話および独立した創造性と共に形成されていったかを検証する。これは、アニメーションの主流が、主に政治的説話から完全に商業化されたエンティティに変換された時期であり、想像上の『中国らしさ』の美的風刺および模倣作が、アニメーションの実践において、個性(individuality)と独立性(independency)との間の権力闘争内で再生を経験した時期でもある。

発明家としてのアニメーター―労働者と2010年代の新しいアニメーション・マシーン・コメディ

2010年頃から、発明家のキャラクターが超大作アニメーションに出現するようになった。『ロボッツ(Robots)』(クリス・ウェッジおよびカルロス・サルダーニャ、2005)、『くもりときどきミートボール(Cloudy with a Chance of Meatballs)』(フィル・ロードおよびクリストファー・ミラー、2009)、『怪盗グルーの月泥棒(Despicable Me)』(ピエール・コフィンおよびクリス・ルノー、2010)、『ベイマックス(Big Hero 6)』(ドン・ホールおよびクリス・ウィリアムス、2014)などコンピュータ3Dアニメーション映画とその続編は、発明家と彼らの大げさな機械を主役にしている。この論文では、アミメーターの自己反映的比喩としての発明家の職人キャラクターを探索する。著者はクラフトンによるアニメーターの自己形成についての論文およびトム・ガンニングの機械と喜劇、そして作業美学に関する研究を拡大し、アニメーターおよびアニメーションの労働力についてのさらなる討論を展開する。この論文では、同時代のアニメーションスタジオの生産モードだけでなく、ポストフォーディズムの生産モードの大きな懸念を反映する2010年代の新しい機械喜劇アニメーションの政治的課題を探求する。

アニメーション記号論:仮想性とドゥルーズ派の「生命を吹き込む魔法」

ジル・ドゥルーズが映画には密接に関わってきた一方でアニメーションにはそれほど関心がなく、その可能性をいくぶん無視していたことはよく知られている。しかし近年、アニメーション理論の分野でドゥルーズ派を構成する試みが 特にウィリアム・シャファーやトーマス・ラマール、ダン・トーレによって なされている。本論文はトーレの著作を批判的に検討しつつ、これらのアプローチについて概説する。とくに、ドゥルーズおよびドゥルーズ=ガタリの哲学にみられる顔貌性とクローズアップ、そして両者の関係という諸概念の検討をとおして、トーレがドゥルーズ思想のポスト構造主義的、政治的側面を軽視していることを前景化するものである。これはさらに、スチュアート・ブラックトンの『愉快な百面相』(1906年) トーレが直接とりあげた作品と、エミール・コールの『ファンタスマゴリー』(1908年) 彼がほとんど無視した作品との比較によって円滑化される。ここで主張するのは、明らかな類似点が数多くあるけれども、コールとブラックトンのアニメーションは根本的に異なる存在論的な取り組みを表しているということである。コールが支離滅裂さを楽しむものとして、混沌と流転するがしかし関連性のある複雑さを経験として観客に提供する一方、ブラックトンは大部分が対象中心の再現的形式にこだわっていて、より単純な構成でできていることを示している。これらの作品間に生じる再現と存在過程の対立によって、トーレのプロセス認知主義に対する批判的取り組みは円滑に進められる。示唆されるのは、トーレの著作は教育的価値において優れているけれども、この対立もまた同じように表しているということである。そしてそれはまた、第一に一連のプロセス哲学的で認知主義者的な思想を結びつける努力、第二にニコラス・レッシャーのより保守的な哲学をとおしてドゥルーズの急進的な思想をわかりやすいものとする努力において、一般論と表象からなる準カント哲学に回帰する恐れがあることも示唆している。

少女の形成:アニメーション化された女性身体の体形分析

少女がもつ身体へのイメージにテレビや映画が影響を与えるかどうか、この議論が物議を醸している。研究者たちは映画やテレビが少女の身体イメージに悪影響を与える・部分的にのみ与える・与えないと主張するが、これらの研究には1つの共通した限界がある。すなわちアニメーション化された女性身体に対して、それらの大部分が浅薄なものであるがゆえに、あたかもみんな同じであるかのようにアプローチしているのである。本プロジェクトにおいて、筆者は1989年から2016年にかけてアメリカのアニメーションスタジオで制作された67作品に登場する身体について分析し、それによって既存の学識の拡張と重層化を試みる。この研究では239人の女性キャラクターの体形を4つの類型、砂時計型・洋ナシ型・長方形型・逆三角形型に分類する。論点となるのは次の二つである。(1)過去30年にわたって一つの支配的な体形(砂時計型)からいくつかの体形(とくに洋ナシ型と長方形型)が優勢となるように移行したこと。(2)少女はこれまでの研究ではほとんど無視されてきた、自分と同じ年齢層のキャラクターに影響される可能性があること。筆者が主張するのは、少女は学者が研究する単一のイメージよりもむしろ多様な身体イメージを見ているということである。少女がもつ身体へのイメージはアニメーションの影響を受けるかもしれないが、アニメーションに登場するイメージは非常に多様なので、その影響の特定は難しいだろう。アニメーションがさかんに用いる体形の微妙な違いをもっと理解できれば、研究者は少女が内面化したりしなかったりするさらに複雑なメッセージを研究できるかもしれない。

未来の国における不在の家父長と説得力ある執行者:ウォルト・ディズニーの『ピノキオ』『ダンボ』『バンビ』からアメリカの戦時期の父親たちを当時の状況に即して読解する

本論文は、ウォルト・ディズニーを評価するうえで基準となる長編作品『ピノキオ』(1940年)『ダンボ』(1941年)『バンビ』(1942年)の父性および父権の描写について、歴史的文化的文脈に即した分析をとおして考察する。筆者が目指すのは、これらの作品で父親像がどのように構成されているのか、劇場公開の間の短い期間内でその提示の傾向がなぜ大きく変化するのか、この二つについて一貫した研究を提供することである。本論文は、1940年代初頭のアメリカにおいて、これらの長編作品が傑出した父親のキャラクターたちとともに、父性と男らしさをめぐる過渡的で挑戦的な考え方をいかに比喩的に提示しているかを論証する。巨大な社会的危機であった大恐慌と第二次世界大戦は支配的なジェンダーの役割を不安定にし、ひとつの反応としてイデオロギー的に緊迫した言説を生じさせたが、それは同時代に主流だった映画において虚勢を張るようにして広められ、かつての家父長的秩序を回復しようとしたものだった。本論文はディズニースタジオがこうした大衆的言説にどの程度関わったのか、あるいは自らの利益のためにどの程度利用したのかを明らかにしようとする。最終的に本論文が調査するのは、これらの映画がその時代の「現実」と父親の役割の構築と理解にどのように寄与するかということである。

ロッコーの魔法資本主義:『ロッコーのモダンライフ』の魔術的現実主義における物神崇拝

本論文はニコロデオンのアニメーションシリーズ『ロッコーのモダンライフ』のテクスト分析である。ギー・ドゥボールと今村太平の理論に照らすなら、このシリーズは後期資本主義の精神的危機に対する啓示的な拡大鏡だということになる。筆者が主張するのは、ロッコーシリーズが魔術的な現実主義をもちいて、物神崇拝がシリーズに文字どおり生命を与えているアニミズム的資本主義を描いているということである。シリーズに登場するキャラクターたちは精神の消耗として労働疎外を経験し、物神崇拝という黒魔術によって蘇ったゾンビ労働者として職場に化けて現れる。キャラクターたちは消費者として、生活を商品で満たすことによって、疎外された自己の衰弱した作用力を取り戻そうとする。結局のところ、彼らは生命を与えられた商品がばらまいた作用力のさなかにあって、有意義な作用力と精神的な充足を見つけることができない。先住民的なものとアニミズムの両方を噛み合わせるのはかなり問題があるけれども、『ロッコーのモダンライフ』のこの詳細な分析は、西洋のアニメーションは物神崇拝のかたちで死んだ労働者に生命を与える先住民のアニミズムの要素を横取りしたものだ、という今村の理論を支持するものとなる。それはまた、アニメーションにおける資本主義的アニミズムと先住民的なアニミズムとの相互関係および議論に対するさらなる研究を示唆する。

鏡を開いて明らかにする:パトリック・ボカノウスキのアニメーション映画における動く反射

本論文の主な目的は、自主映画作家パトリック・ボカノウスキの最も重要な作品と、彼がアニメーション映画を制作するさいに用いる方法論の分析を提供することである。光学的な歪みによってイメージを変貌させ、それによって自らの主観的なビジョンを映画やアニメーションで表現する戦略として、ボカノウスキの様々な反射面で映画を撮影する手法を取り上げる。彼が探求するのは、鏡や水銀のようなより不安定な反射面にあらわれる変わった反射や、彫刻されたレンズやガラスや水でおこる屈折を用いることだけでなく、視覚的反響として反射を創造する実践的な利用法である。この戦略の目的は主観的な経験を純粋に表現することであり、創造性を刺激し機械的なカメラの運動に束縛されない、まるで完全に自由に動く絵筆であるかのようにボカノウスキはカメラを用いる。したがってこの研究では、ボカノウスキの二つの短編映画La Plage(1992年)とAu bord du lac(1994年)を典型的な例として取り上げ、反射光学という言語のダイナミックな表現力の可能性について検討する。これらの作品に対する筆者の分析の目的は、ボカノウスキが鏡や水銀の波紋や水の動きにイメージを反射させることによって、そしてこれらの要素を組み合わせることによって、どのように形状と空間に質的な変形的な変化をもたらそうとしたかを論証することである。ボカノウスキが開発した方法は私たちを絶えず変化する詩的な宇宙へと導き、アニメーションの分野で新しい地平を切り開くことに成功している。

メアリー・エレン・ビュートの初期映画における表現力豊かな運動

メアリー・エレン・ビュートは1935年から1938年にかけて、 『リズム・イン・ライト』(1935年)『シンクロミーNo.2』(1936年)『放物線』(1938年)『エスケイプ』(1938年)など主にアニメーション映画の連作によって映画制作者としてのキャリアをスタートした。本論文では、芸術的で表現力豊かな運動を創造するアニメーションの可能性について、これらの作品が革新的で巧妙かつ目的のある研究をどのように提供したかについて検討する。ビュート自身の著作に細心の注意を払いつつ本論文が探求するのは、映画を構成されているだけでなく自由に流動もする新しい形のキネティックアートとみなす、ビュートの発展性のあるビジョンとこれらの映画がどのように関連していたかである。絵画や音楽、彫刻、分解写真を援用しているが、ビュートの作品は高度にメディア融合的であり、これらの芸術やメディアに映画やアニメーションの運動というダイナミックな可能性を与えるものであった。ビュートがどのように運動を構成し提示し表現力豊かに使用したかをたどりながら本論文がめざすのは、20世紀の重要な映画制作者への理解と同時に、ビュートが映画制作の実践と理論的な執筆活動において明言したアニメーションの運動の美学や形式、効果についての独特なアイデアに対する研究を進展させることである。

過去の恩恵を受けるのは誰か?ポーランドのアニメーション分野における文化遺産管理のプロセス(ウッチのセマフォル映画スタジオの場合)

社会主義下のアニメーション映画に対する1989年以降のアプローチと関係のある社会的制度的慣行を研究する目的で、本論文ではウッチにある国営のセマフォル映画スタジオから、のちにその名前を引き継いだ民間企業(セマフォル映画会社)への転換について取り組む。本研究の年代範囲は1989年から2016年におよぶが、1989年の転換期がポーランドのアニメーション市場に与えた影響を明確にするために、国家社会主義時代のアニメーション映画スタジオの運営様式も紹介する。本論文は文化遺産管理のプロセスが行われてきたその方法の問題だけでなく、どの遺産共有がウッチのアニメーション映画スタジオの記憶と機能しているのかという疑問にも取り組む。本論文が主張するのは、社会主義下におけるポーランドの映画産業の組織的および美的価値に賛同する姿勢が、この時代からポーランドのアニメーション映画の文化遺産管理にいたる戦略の特徴となっているということである。
結論として著者は、旧国営スタジオの文化遺産は商業化されたことによって、映画博物館とセマフォル映画会社という二つの機構の経済的象徴的資本となり、ひいてはウッチの街にも映画都市としてブランド化されるという恩恵をもたらしたと主張する。

レッティング・ゴー:再現と提示とディズニーのアニメーション芸術

本論文はディスニースタジオの主要な転換点において、そのアニメーションに二つのリンクした発展があったことを検討する。一つはこの時代に新しい「知覚のロジスティックス」あるいはディズニー作品の見方と鑑賞法を苦労して作ろうとしたことであり、もう一つはそうした努力を促したこと、すなわちスタジオの初期の現実的な再現あるいは「生命を吹き込む魔法」の強調から、ディズニーアニメーションを再パッケージ化するとともにその経験を再構成する提示的アプローチと称されるものへと移行したことである。これらの発展は、「アニメーションの芸術」に専念した1950年代から60年代におけるディズニーランドTVシリーズのエピソードに見られるものであり、ディズニーアニメーションの新しいスタイルと、最後にはオーディオアニマトロニクスやテーマパークの発展に反映されることになるアニメーションへの新しいアプローチの出現を予期させる。

ディズニー最後のオムニバス映画:『イカボードとトード氏』(1949年)の制作とマーケティング

1940年代という騒然とした10年間に制作されたディズニーのオムニバス映画の最後として、『イカボードとトード氏』(1949年)は有名な文学的財産に基づいた二つの別個の物語のぎこちない「政略結婚」という評価を得た。二つとはすなわちアメリカのものとイギリスのものであり、ワシントン・アーヴィングの『スリーピーホロウの伝説』とケネス・グラハムの『たのしい川べ』である。本論文は8年間におよぶ映画の構想期間を再構築することによって、この二つの間のあからさまな相違がいかに必然的であったかだけでなく、いかに意図的でもあったかを論証する。これはとくに物語の扱い トードのために周到に用意された見せ場とイカボードの本格的なミュージカル だけでなく、トードにはリアリズム、イカボードには様式化を優先する美術演出に顕著である。マーケティング戦略を分析すると、この映画がA作品とB作品からなる当時の標準的な二本立て映画の複製として提示されたことがわかる。イギリスとアメリカの映画批評家のなかには、喜怒哀楽すべての感情反応を刺激し共感するディズニーのキャラクターと物語の新たな一石であると称賛した者もいるが、そのとき彼らは『イカボードとトード氏』を『白雪姫』や『ダンボ』、シリーシンフォニーシリーズと好意的に比較し、この映画をディズニーの復興 1950年の『シンデレラ』の初上映によって完全に実現されることになる復活劇の前触れとみなしていた。

ネコバスの終点の先:『蟲師』における幻想的なアクタント

筆者は、宮崎駿作品が気候変動対策を提唱する作品として受け入れられるにはいくつかの限界があるとしたうえで、人間以外の生物を描写する新たなアニメーションづくりの道が必要だと提言する。生態学的に見てより健全でポスト・ヒューマニズム寄りな未来への理想的かつ草分け的存在として、アニメ『蟲師』を挙げよう。『蟲師』は、写実的なタッチで描かれた20世紀末の日本を舞台に、植物でも動物でも、宮崎作品に登場する幻想的な生き物でもない単純な生命「蟲」が、小さな農村と共存する様が描かれる。筆者は、『蟲師』とそのかろうじてアニメ―ション化された名ばかりの生命を例に、、アニメーションが持つ幻想性と自然描写が人間中心主義の中心的教義に対抗することができると主張する。アニメーションにより、人間と人間以外の生物、主体と物体、そしてキャラクターと風景は象徴的なトーテムとして同質化し、これらはアニメーションというフィルターを通して視覚的に非現実的なものに概念化されると論じる。

丹念な作りでありながらも不思議なほどリアル:アメリカの大手アニメーションスタジオによる共通のキャラクターデザインを通して共感を呼ぶ方法論

アメリカの大手アニメーションスタジオ・ピクサー、ディズニー、ドリームワークスによる近年のコンピュータアニメーション映画作品は、観客の(非常に強い)感情を呼び起こす作品だといわれており、その観客数も年々増加している。著書『Engaging Characters: Fiction, Emotion, and the Cinema(魅力的なキャラクター:フィクション、感情、そしてシネマ)』(1995年)内で、観客と物語のつながりを理解するうえで鍵となるのはキャラクターであるというマレー・スミスの主張に続き、本稿ではキャラクターの描写スタイルが強い情動を引き出し、映画がヒットする理由になり得ると考え、『インサイド・ヘッド』(ピート・ドクターおよびロニー・デル・カルメン監督、2015年)、『ベイマックス』(ドン・ホールおよびクリス・ウィリアムズ監督、2014年)、『ヒックとドラゴン』(クリス・サンダーズおよびディーン・デュボワ監督、2010年)などの現代の作品に例示されるキャラクターの描写スタイルに注目する。本稿では、スティーヴン・プリンスの「知覚的リアリズム」、スコット・マクラウドの「単純化による増幅」というモデル、森政弘の不気味の谷現象などのさまざまな学術的研究を踏まえ、生きた人間のようなリアルさと抽象化の逆説的組み合わせとして定義されている共通のキャラクターデザインが、どのように映画に対する共感性を生む役割を果たしているのかについて論じる。これにより、「ピクサーピーク」と呼ばれる森の不気味の谷現象とは逆の新現象が起こる。急降下とは対照的に、この現象では特定の共通のキャラクターデザインが見られるときに観客の共感レベルが頂点に達する。

ゴラム問題:映画における共感とデジタルキャラクター

キャスリン・S・イーガンは「The soul factor: Deception in intimations of life in computer-generated characters(魂という要素:CGIキャラクターによって作り出された人間らしさに潜む嘘)」(2009)という論文内で、映画内のCGIキャラクターには魂がなく、人が共感することは不可能であると主張している。イーガンは、ピーター・ジャクソンによる『ロード・オブ・ザ・リング』の3部作(2001年〜2003年、ニュージーランド、アメリカ)に登場するゴラムの評価を行うことでその証明を試みた。このイーガンの主張に反して本稿で明らかになったのは、ゴラムに共感する人は多く存在するということである。イーガンによる調査は現象学的研究ではなく理論的研究であり、ゴラムのようなCGIキャラクターに共感する可能性はあると筆者は主張する。独特なキャラクターとの関係性についてはさらなる研究が必要であり、人間とデジタルな人工のキャラクター間の関係性のニュアンスを正確に伝えるためには「共感」などの用語よりも明確な言葉が必要である。さらに、観客とデジタルキャラクター間にある共感的関係を呼び起こすために「直接的な共感」という用語を提案する。

ディストピアの核心におけるアニメーション:アリ・フォルマンの『コングレス未来学会議』

アリ・フォルマン監督の『コングレス未来学会議』(2013)は、スタニスワフ・レムのSF小説、泰平ヨンの『未来学会議』(1971)のディストピア的見解から発想を得ており、人間がゆっくりと人工的な形に変わっていく姿、つまりアニメーション化していく姿を示した映画である。アリ・フォルマンは、原作の舞台を架空の未来からハリウッドに移すことで、制作システムだけではなく、人間の思考そして社会的変化における触媒的な役割をCGIアニメーションに与えた。こうすることで、この映画はデジタル化される時の役者の役割の変化と映画業界で進む非物質化についての思考を巡らしているのだ。シミュレーションが取り返しのつかない現実と化すディストピアの未来を考慮している。これにより、 アニメーション技術が「消去の文化」をもたらしたとするジャン・ボードリヤールとアラン・チョロデンコの論文と『コングレス未来学会議』を結びつけることが可能になる。さらに本稿では、旧ソビエト時代の情報操作に関するレムのメタファーがどのように『コングレス未来学会議』の2部で使用され、映画というビジョンを通した集団的中毒に変換するのかについて、オレクサンドル・ドヴジェンコとエドガール・モランによる「映画全体(total film)」に関するスペキュレイティブ理論に関連づけながら注目する。これは今日のバーチャルリアリティと拡張現実の発展性に近いものである。また、『コングレス未来学会議』で描かれる映画業界やアニメーション技術には不穏さが見られるが、映画に対するビジョンには懐かしさを感じるのは、商業主義優先をアニメーションに変えたアニメの黄金期の伝統のすべてを裏づけるものであるからだ。これが示唆するのは、人生を映画化しポストモダンにおけるアニメーションと映画の間の連続したつながりの構築である。

グリーン・アニメーション:アニメーション化された寓話を利用した教育学へ

短編アニメーションを使って重要な社会的課題やニーズに向き合う試みには豊かな伝統がある。こうしたアニメーションは環境保護の価値観や信念を促進する様々な映画によって行われてきた環境プロパガンダの流れに位置付けられる。筆者らは、映画館およびテレビで流れる映画の調査を行い、娯楽的な手法によって環境保護の信念や秩序ある行動を促す、教育学的テキストとしての短編アニメーション映画の活用に焦点を当てる。さらには、環境教育の推進手段としてのアニメーション映画を通した娯楽・教育コミュニケーション戦略の応用について論じている。筆者らは、短編アニメーションを模範的あるいは啓示的な寓話として使用する教育ツールと考えている。

痕跡を越えて:ローレンス・ジョーダンによるアニメーション・ドキュメント

1960年代初頭から、ローレンス・ジョーダンはストップモーションを用いて、ヴィクトリア朝時代の様々な版画を実験的なアニメーション映画へと変身させてきた。当時でさえ時代遅れとなっていたそのスタイルと技術によって、コラージュされたエフェメラによる緻密なタペストリーは、それらのヴィクトリア朝時代におけるコンテクストとその印刷工程を示す指標として機能し始める。しかし、ストップモーションによる操作によって、一見すると無関係なイメージの並置が、指標となるこれらの素材を現実離れしたものに変えてしまう。。これは、映画の草創期において観客が新たな技術を奇跡や驚き、魔法の産物として認識していたことを想起させるアプローチといえる。『Patricia Gives Birth to Dream by the Doorway』(1961年〜1964年)や『The Centennial Exposition』(1961年〜1964年)といったジョーダンのアニメーション作品は、アニメーションとドキュメンタリーの間だけでなく、指標性と幻想の間においても生産的な緊張状態を利用している。このような緊張状態をアニメーション作品に用いることで、歴史と文化が記憶・幻想・経験の断片的構築物であり、よって現在、今この瞬間にも改変、再読、再構成を招く可能性を示しているのだ。

フィトグラム:人間・植物のアフィリエーション構築

本稿は、フィトグラムと呼ばれる植物内部の化学物質と写真乳剤を混ぜて作られる画像を提案するものである。まず構造・唯物論の映画理論、生物記号学および視点主義にヒントを得て、理論的枠組みを設定する。植物の感覚・知覚の概念が疑問視されることで、人間と植物間でコミュニケーションを図る本物の可能性が生まれる。次に、技術的および自然的要素間の相互依存性が、いかに示唆に富む結果と自発的なアニメーションにつながるかを示すために、フィトグラム作成のための関連材料と方法の要約について言及する。無生物を動かさなくとも、画像は自ら動く。これにより人々はつながり、さらに広いコミュニティの団結と人間と植物の歴史を楽しみながら環境に関する知識を共有できる。自然環境に対する関心や意識を高める上で、このような広範囲なコミュニティを可視化させることは重要である。記述植物学は、生態学的な作法や厳格な行動を説く代わりに、生活環境に前向きかつ充実した気持ちで向き合うことを我々に教えてくれるのである。

スペインアニメーションの黄金期(1939–1951)

1940年代、バルセロナを拠点とするスペインのアニメーション業界の技術レベルは最高潮を迎えた。フランコ体制の独裁政治、そしてスペイン内戦後の緊縮経済にもかかわらず長編映画を製作したカタルーニャのアニメーション業界は 、当時のヨーロッパのアニメーションと比較されることとなった。本稿では、バルセロナのアニメーション黄金期の理由と性質を探り、同業界が歩んだ卓越した技能への道を辿る。著者は1939年から1951年まで続いたスペインアニメーションの黄金期の歴史を、当時の国際的なアニメーション業界という視点から回想する。

アニメーション業界のマネジメント:ピクサーにおける非線形シミュレーションとマネジメント理論

既存する学術によれば、初期のアニメーション制作会社は、予測不能な独創力を広げることに重きを置こうとしていたとされる。それと同時に、制作会社の規制と効率化を促進する産業的マネジメント技術を通し、自社の管理・マネジメント能力の発揮を試みていた。本稿では、1980年代初頭から、いかに制作会社がこの予測不能性と規制の間に存在するダイナミクスを取り決めてきたかについて考察する。これにおいては、どのようにしてピクサー・アニメーション・スタジオのマネジメント理論が、俗本、ビジネスジャーナルの記事、DVDセット、特典映像を通して体現されているかに注目する。
本稿では、非線形シミュレーションを介して予測不能性を作成し管理するための計算理論が、どのようにピクサーの促進するマネジメント理論に影響を及ぼすのかに焦点を当てる。シミュレーションされた予測不能性の原則は、液体と物質(水、煙、毛皮、布)などのアニメーション化を可能にするピクサーの技術レベルの根拠となるものである。それと同時に、インダストリアル・ダイナミックスや組織レジリエンスなどのマネジメント・サイエンス分野における概念の根拠でもある。このような認識的枠組みが、巧みに管理された条件とパラメーターの予測不能性が生んだ副産物としてのピクサーの独創性を表している。さらに、こういった技術・アニメーション・マネジメントの崩壊が、アニメーション制作会社兼テクノロジー企業としてのピクサー独自の企業イメージを形作っている。本稿の研究は、アニメーション業界のポストフォーディズムと論理制御に関する研究に貢献するものである。

映画『パーフェクトブルー』の複雑な物語の解明

映画評論家および研究者の両者によって、『パーフェクトブルー』(今敏、マッドハウス、1997年)の特徴といわれているのがその複雑なストーリー性だが、その定義は曖昧なものである。本稿では、今監督初の長編映画である本作において特に曖昧なシーンに見られる物語の複雑さ、解釈の広さ、不透明さを、物語学的分析を通して考察する。著者らは、デヴィッド・ボードウェルとエドワード・ブラニガンによって提唱された認知論的映画理論を用いて、本作品に見られる情報の流れの変調、つまり高いナレッジビリティー、高い自己意識、そして時に少ない情報量という観点から、同理論のアプローチをスラッシャー映画の慣習と結びつける。未麻、内田(通称ミーマニア)、ルミという3人の語り手の焦点がベールに包まれながら変化する様子を観察することで、『パーフェクトブルー』内の複雑なシーン分析を行う。このために、現代の従来型のパズル映画(puzzle film)と呼ばれる複雑なストーリーテリング物語において、ルミが未麻を追い詰め 、殺人に関与していることを隠すためにどのように観客の判断、先入観、認知的錯覚が物語に利用されているのかを探る。著者らは、本作品の複雑な物語を日本のポップアイドル(および元アイドル)の描写、および日本の音楽・映像のエンターテインメントの状況と重ね、批評的な解説を結論で述べる。

ダークナイトのリメイク:スーパーヒーロー、アニメーション、そして『レゴバットマン・ザ・ムービー』の評価

本稿では、長年にわたりマルチメディアで語られてきたバットマンの歴史における『レゴバットマン・ザ・ムービー』(クリス・マッケイ、2017年)の評価について考察する。ここでは多様かつ数々のプラットフォームで語られる物語、そして本作品がいかに超テクスト性を通してノスタルジアに訴えかけているかに着目する。映画評論家による『レゴバットマン・ザ・ムービー』の賞賛と、それ以前に公開された実写映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(ザック・スナイダー、2016年)の酷評は、アニメーションが持つ文化的価値、興行的に成功を収めたスーパーヒーロー映画というさらに大きなサイクル、道徳・マーチャンダイジング、商業主義をめぐる複雑な議論を勃発させた。よって本稿では、評論家がアメリカ大衆文化の一つを代表すると考えるアニメーションにおける子供中心の物語に対する明らかな適合性という疑問に取り組む。

Netflixオリジナル作品の大人向けアニメーションの位置づけ:『ボージャック・ホースマン』と『ビッグマウス』を通して考察するテイストカルチャーと「視聴価値のある」テレビという遺産

本稿は、マレイケ・ジェナーによるNetflixオリジナルコメディー作品の研究に示される重要な側面についてさらに詳しく言及することを目的としており、ポスト・テレビIIIのシットコム形式で発展している新たな要素が、ストリーミング配信サービスのオリジナル作品である大人向けのアニメーションシリーズに、いかに反映されているかを検討するものである。Netflixオリジナル作品のアニメーション、『ボージャック・ホースマン』(2014年〜)と『ビッグマウス』(2017年〜)をケーススタディとし、複雑なテーマを扱う表向きは「スマート」なアニメーションシリーズが、変わりゆく業界のダイナミクスとテイストカルチャーをどのように示しているかを考察する。『サウスパーク』(コメディー・セントラル、1997年〜)や『ファミリー・ガイ』(Fox、1999年〜)のような過去の大人向けの主要アニメーションシリーズ内にみられる下品なユーモア、ジョークや話題性のあるトピックの風刺、複雑なストーリーテリング、そして本稿で議論される作品が持つ曖昧な特徴などというクオリティを示しながら、テレビ制作における別の関連性とのつながりを検討する。本稿では、こういったつながりを調査してきながら『ボージャック・ホースマン』と『ビッグマウス』の例を用いて、今日のテレビアニメーションシリーズの傾向をみていく。また、これらのアニメーションが持つ特性と視聴者からの反応を、より広範なネットワーク内に位置づけを行う。複雑なストーリーテリングへの転換は、従来のアニメーション制作戦略、変わりゆくテイストカルチャー、そして媒体自体により提供される多面的かつ多様的なポテンシャルに表れていると著者は主張する。

近代の中国アニメーションを動かすクラウドファンディング

本研究は、近代の中国アニメーション映画のためのオンラインで行われる資金調達の形態および実践を考察するものである。アニメーション映画業界によるクラウドファンディングの活用と近年公開された映画である『十万个冷笑話』(One Hundred Thousand Bad Jokes、2014年)、『Monkey King ヒーロー・イズ・バック』(2015年)、『紅き大魚の伝説』(2016年)の3作の分析に焦点を当てる。これらの映画は、興行収入の高さ、類い稀ない芸術性・独創性、そして次世代の想像力を掻き立てる強い影響力を考慮して選ばれたものである。著者らは探索的および記述的調査方法を用いて、クラウドファンディングによるアニメーション映画制作にみられる主な特徴を明らかにする。調査結果によれば、制作側はファンベースを築くためのプロモーション戦略、および各プロジェクトに対する関心が広がるような人々の積極的な関わりという副次的効果を目的として、クラウドファンディングを利用していることが明らかになった。

『テコンV』(1976年)にみる1970年代韓国の社会的・政治的状況

初期の韓国アニメーションの名作の一つでもある映画『テコンV』は、公開当時の1970年代後半から韓国人の若者世代に夢と希望を与えてきた。一方で一部の評論家は、『テコンV』がアメリカのポップカルチャー、特にディズニーのアニメーションスタイルに影響を受けており、日本で人気のアニメであった『マジンガーZ』を盗作したと非難している。1970年代、韓国政府は軍事政権による反共政策を背景に「国家の近代化」のための経済開発を積極的に推進していた。反共主義の道具として制作された『テコンV』は、戦後の韓国のナショナリズムを追求し、韓国の国力に自信を持つよう後押しした。その後、韓国は急速な経済成長を遂げた。こういった社会的・政治的状況は、「巨大ロボット」という姿や韓国人のキャラクターの容姿が韓国人的でないことにも表れている。このような側面を考慮し、著者は『テコンV』がどのように戦後の複雑なイデオロギーの枠組みを乗り越え、海外文化の影響を取り込みながら、キャラクターデザインと物語を通してトランスナショナリズムを示していったのかを考察する。

「どこからともなく聞こえる音色」と無感覚:オスカー・フィッシンガーとモホイ=ナジ・ラースローの合成音映画の記憶

合成音映画とは、フィルムストリップのサウンドトラック上に音声を直接書き込む前衛的な方式だが、その大半が理論化されないまま、看過される傾向にある。本稿では、この分野における正統な研究であるトーマス・Y・レビンの「“Tones from out of Nowhere”: Rudolph Pfenninger and the archaeology of synthetic sound(「どこからともなく聞こえる音色」:ルドルフ・フェニンガーと合成音の歴史)」(2003年)を発展させる。この論文は、合成音映画の芸術的アプローチには、新しい形の視覚的表現を通して特定の聴覚的対象を創造しようとする映画制作者と、グラフィックな対象およびその新しい/未知の聴覚的表現への直接変換に焦点を当てた映画制作者との間に、根本的な分裂があることを論じている。本稿では、オスカー・フィッシンガーとモホイ=ナジ・ラースローに始まる後者のグループに着目し、唯物論の枠組みを通して、彼らの生み出した音が、いかにしてそこから生まれる対象を「再認識」し、その結果、この対象性への感覚的回帰によって定義される物質的出会いに結び付いているのかを明らかにする。

『リメンバー・ミー』のように感動的な死後の世界

本稿は、近年公開された死後の世界を扱うフィクション作品におけるピクサーのCGアニメーション『リメンバー・ミー』(リー・アンクリッチおよびエイドリアン・モリーナ監督、2017年)の位置づけを行い、なぜこのような物語が現代の人に響くのか、その理由を探る。この答えは、ユートピアという考えに基づいていると著者は考え、『リメンバー・ミー』の中にみられるユートピア的空間と理想を特定する。死後の世界を描いたフィクション作品は、登場人物と観客を内省的な場所、つまり人生を死後のものとしてではなく生きているものとして考える場所に誘うものである。古典的なハリウッドのミュージカル作品をエンターテイメントのユートピアを位置づけるというリチャード・ダイアーの研究を、本稿ではエンターテイメントをアニメーションのミュージカルに置き換えて考える。その上で筆者が考えるのは、このような映画は「映画の中に新たに光る誠実性」を忠実に守っていると見なすことができるということだ。『リメンバー・ミー』で描写される死者の日のお祭りと死者の国のもととなったのは、メキシコ人作家オクタビオ・パスによる詩的かつロマンチックな著書『孤独の迷宮』(1950年)である。これらを比較すると、死に自ら歩み寄る姿勢は、恐怖心のない生と死の行き来に関係していることがわかる。観客を自らの感情と変遷のユートピアに誘うために、どのようにミュージカルの特性とアニメーションの美学(ベビースキーマやバーチャルカメラ)が組み合わされているのかを、『リメンバー・ミー』の鍵となる劇中歌を詳細に調べ示していく。

歌の映画からテレコミックへ:ヴァリー・ビデオと戦後のアニメーションの新たな市場

1948年から1952年まで、ラジオ、映画、レコード音楽、ショー・エンターテインメントの世界で成功を収めていたパフォーマーのルディ・ヴァリーは、自らの制作会社であるヴァリー・ビデオ(Vallée Video)を立ち上げ、その活動の幅を当時急成長していたアメリカのテレビジョン市場にまで広げた。プログラミングコンテンツの需要の高まりに対応するために当時設立された数百社のうちの一社であるヴァリー・ビデオは、戦後のテレビ制作におけるアニメーション制作従事者の役割を理解するうえで重要なケーススタディである。カリフォルニア州のサウザンドオークス図書館、およびカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)映画テレビアーカイブに保管されているルディ・ヴァリー・ペーパーの記録と映画を分析したところ、短編ミュージカル映画のカメラからアニメーションを使ったコマーシャル、オリジナルのアニメーションシリーズまで、ヴァリーがフリーランスのアーティストおよび外部のアニメーション制作会社に発注していたことが明らかになった。これらの作品から、アニメーションに関係する仕事は劇場映画から規模の小さいスクリーン市場まで柔軟性に富んでいることがわかり、これはのちに20世紀半ばの米国のテレビを独占することになるミニマリストな描画スタイルと限られたキャラクターのアニメーションという、より大きな美的感覚の動きに加わることになるのである。

YouTubeのアニメーションはアルゴリズム・フレンドリーか? インターネットアニメーション制作に影響を及ぼすYouTubeのアルゴリズム

YouTubeとは、視聴覚製品にとって最適のショーケースの場であり、多くのクリエイターにとっての収入源の場である。一部のインターネットアニメーションの先駆者は、YouTubeというプラットフォームに移行することで作品のさらなる可視化と経済的備えを図った。リプライ・ガールと呼ばれるユーチューバー集団は、そのコンテンツ自体には芸術性や話力という価値はないものの、YouTube収益化の仕組みと動画掲載順位のアルゴリズムを欺くことで急速に経済的利益を得た。これに対抗するため、YouTubeは動画掲載順位のアルゴリズムと収益化の仕組みの変更を行なった。著者は、2006年から2018年にかけて25のアニメーションチャンネルで公開された3300個以上のビデオの調査を行なった。デジタル・メソッド・ツールを使用して、YouTubeのプラットフォームおよびポリシーに適用された変更内容がどのようにインターネットアニメーション制作の発展に影響し、それを形作ったのかを分析する。

バットマンと未来の世界: アニメーション映画『バットマン/マスク・オブ・ファンタズム』にみる過去の未来予想図

アニメーション映画『バットマン/マスク・オブ・ファンタズム』(1993年)に描かれる最先端の未来像や脚色された都市と舞台空間。本稿では、これらのモダニスト的ビジョンが持つ側面を考察しながら、グラフィック・フィクションにおけるテクノロジーの持つ文化的意味を探る。ゴッサム・シティの万博博覧会会場でのバットマンとジョーカーの直接対決のシーンは、1939年のニューヨーク万博博覧会と同様にモダニスト的都市の楽観主義と最先端のテクノロジー、近代的な映画、マルチメディア・スペクタクルに対するポップカルチャー的魅力があると著者は主張する。本稿は、バットマンのストーリー性が持つ力に光を当てることで、 テクノロジーと大衆エンターテインメントにおける複雑な文化的探究とトランスメディア・ディスコースへの貢献を図るものである。キャラクターの舞台を抽象的な建築都市にすることが可能なアニメーションという優れた媒体を通して、『マスク・オブ・ファンタズム』は「理想的な」舞台キャラクターのモダニスト的ビジョンを体現している。非現実的なアートを生み出し、より複雑なキャラクターの動きを実現できるアニメーションを使うことで、モダニスト的思考を20世紀に反映させているのである。

アニメーション・ドキュメンタリー:複合現実におけるアニメーションの二重指標

アニメーションはデジタル映像文化の至る所に存在しており、知識生産に欠かせないものである。そのため、潜在的に信頼性の高い画像としてのアニメーションの地位を明確にする必要がある。本稿では、物理とバーチャルが交差する複合現実において、どのようにアニメーションの二重指標(トレースと直示)が変化するのかを考察する。またこれが、いかにドキュメンタリーまたはノンフィクション画像としてのアニメーション研究に役立つのかを調査する。アニメーションは、デジタル文化における物理的およびバーチャルな出来事・動作を表現するために幅広く使用されていることから、もはや視覚的インタープリタ言語ではない。バーチャル文化におけるアニメーションとは、コンピューターを介した動作、キャプチャ、および記録をリアルタイムに視覚化するものとして機能する。アニメーションには、静止画像と生成された画像の両方が含まれていることを踏まえると、アニメーションの定義が変わるだけでなく、その中で描かれている現実とのつながりやドキュメンタリーとしてのアニメーション表現の価値を再考する必要があるだろう。本稿は、まずアニメーションの定義、およびドキュメンタリー画像としてのアニメーションの妥当性の理解および関係について述べる。次に、指標とその視覚化の強みを考察し、グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)からデータ視覚化に至るまで、アニメーションの指標性のハイブリッドおよび複雑な形式を理論化するための強い指標と弱い指標の連続体を紹介する。最後に、物理的およびバーチャルな現実に関連する4つの指標的つながりを考察し、今日の複合現実におけるアニメーションの指標能力を概念化する理論的枠組みを提示する。

アニメーションにおける12の基本原則の見直しおよび更新

本稿は、アニメーションにおける12の基本原則の改定、および増していくアニメーション業界の複雑化・拡大化に対応するために必要な現代のアニメーション業界に関する議論を行うものである。12の基本原則をさまざまなアニメーション手法や技法に拡大するには、アニメーション技術の進歩を考慮する必要がある。1930年代と1940年代の手書きアニメーション手法のニーズに応えてきた同原則は、その後数十年間にわたりその正確性を証明し続け、多大な貢献をもたらしてきた。しかし、より広範囲のアニメーション技術に対応するためには、この基本原則を更新する必要があることを本稿では示す。12の基本原則の大きな利点はシンプルさと合理性だが、これらすべての基本原則を(12個のフルセットとして)、手書きのデジタルアニメーション、ストップモーション・アニメーション、実験的あるいはデジタルアニメーション化されたメディアすべてに応用することはできない。よって、本稿では過去30年間にわたりアーティストや学者によって提案されてきた追加原則やバリエーションを考慮しながら、12の基本原則を読み解いていく。まとめとして、基本原則の内容のほとんどを再構成し追加していき、サブポイントに分けて考慮する。さらにはすべてのアニメーション技術のために同原則を再概念化するために用語の更新を行う。

ハイブリッド・ドキュメンタリーと先住民によるアニメーションモデルの実験

ノンフィクションは、長年の間、先住民とファースト・ネーションズにとって戦略として使われてきた。この伝統的なドキュメンタリー手法の実験美学は、現代の媒体への移行とともにアニメーションにその注目を移していった。本稿では、先住民によるアニメーションモデルの技術やスタイル、つまりデジタル補足されたストップモーションとゲームにもとづいたマシニマで使われるハイブリッド・ドキュメンタリーを調査する。本稿では、 まず(1)先住民と開拓者植民地の歴史に関する政治的ドキュメンタリー、(2)植民者に記録することを禁じられていた物語や考えを表現するためのアニメーションの使用、(3)先住民に根づいた美学としきたりの表現、といった先住民のアニメーション・ドキュメンタリーの3つの主な特徴の考察から行う。次に先住民のアニメーションの題材を分析し、3人の先住民のアーティストが作品を通してどのように浄化され、再具象化していくのかを説明する。彼らは、脱植民地化の過程としてアニメーションの新技術をドキュメンタリーに採用した。独特のハイブリッドの美学を推進することで、植民者のドキュメンタリーの信憑性に疑問を投げかけることとなった。常に一部のイメージと物語、つまり開拓者植民地時代のみが「歴史」として記録され承認されてきたが、アニメーションモデルの実践と新たなメディアプラットフォームが過去の歴史の再構築につながった。先住民のアニメーションは、想像上の記録を作ることでノンフィクションとフィクションの間をすり抜けている。これが植民地制度の正当性を失わせるのである。

ハンナ・バーべラの不協和音:サウンドエフェクトとムーブメントの誕生

1950年代の終わり、ハンナ・バーベラ・プロダクションの登場とともに、テレビの中はバーン、ドカーン、ドーン、バンッという効果音で溢れかえり、今日に至るまで使われ続けている。ハンナ・バーベラ・プロダクションは、テレビおよびアニメーションの歴史の中でも最も有名なサウンドコレクションの一つを作成し、普及させた。本稿では、どのようにハンナ・バーベラ・プロダクションの効果音コレクションが作られたのか、そしてどのようにこれらの効果音がスタジオのアニメーションで使われていたのかを辿る。テレビの厳しい制作スケジュールと厳しい予算が原因となり、ハンナ・バーベラ・プロダクションは同じ効果音をエピソード、シーズン、そしてシリーズ内で繰り返し使用した。幾度も繰り返される効果音は、音を引き起こす動きに合わせて使うことで画像を活気づけることができ、スタジオのトレードマークでもあるリミテッド・アニメーション(動力学的に欠けている表現方法)と組み合わされた。これを本稿では軌道型模写行動と呼ぶ。この軌道型模写行動の論理により、スタジオは容易にサウンドエフェクトを用いることができる。テレビの経済的制約やスタジオでの不十分なアニメーション美学といった条件は、ハンナ・バーベラがサウンドエフェクトライブラリーを作成するのに理想的な環境を作り出した。

「ボクは髑髏も骨もないんだ」:ディズニーアニメーションのマイナーキャラクターたち

本稿ではディズニーの長編アニメーションにおけるマイナーキャラクターの位置付けを検討する。より具体的には、ディズニーの長編アニメーションと関連づけられてきたハイパーリアリズム様式と決別することで、マイナーキャラクターの美学的断絶を示すことを提案する。本稿では、文学研究におけるキャラクター理論とアニメーション映画のパフォーマンスの研究をもとに、ディズニーのマイナーキャラクター固有の「平面性」と「形象的」なパフォーマンススタイルが、メインキャラクターの持つ特徴と美的スタイルと対照的であることを示す。ディズニーのマイナーキャラクターにみられる誇張された形で引き伸ばされたり潰されたりする(stretch and squash)傾向は、ディズニー初期の柔軟かつプラズマのように自由に動くスタイルを彷彿とさせる。マイナーキャラクターの持つ美的な特徴を探ることに加え、本稿では、ディズニー映画の架空の世界を肉付けするうえで重要な役割を果たしていることについても言及する。マイナーキャラクターは、代替的な視点やストーリーライン、さらにはより広範囲な物語の世界に焦点を当てることで、アニメーション映画にディテール、ニュアンス、複雑性を加えているのである。最後に、これらのマイナーキャラクターによって、ディズニーのおとぎ話の世界がフィクションの空間としてより拡大し、その信ぴょう性を高めていることを本稿で示す。

クエンティン・タランティーノ作品にみるマンガ的暴力

本稿は、2007年発行の『Animation: An Interdisciplinary Journal』第2巻第2号に登場するクエンティン・タランティーノの「カートゥーンニズム」の研究(「Tarantino the Cartoonist」)を再考するものである。クリス・パラントによるエッセイ同様、ここで焦点を当てるのは、どのようにマンガという物語の世界の慣習がタランティー作品 のアクションシーンで表現されているかということだ。つまり(1)誇張法、(2)グラフィックノベル、(3)コミック・ストリップで描写される暴力である。本稿では、パラントによる解釈の枠組みを採用し、タランティーノ作品の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)を分析するが、今回は作品の劇的な内容を考慮し、さらに補足的な分析を行っていく。アリストテレスの詩学をもとに、タランティーノ作品のマンガ的な暴力描写がいかにドラマに反比例的に関係しているかを調査し、さらにはマンガの形式が本質的にノン・ドラマチックあるいはアンチ・ドラマチックであるかについて、「個人的」および商業的なマンガ消費を通して推測する。

ブレイキング・ザ・スタック:ツールアシストスピードランを通したビデオゲームアニメーションの理解

本稿は、従来のゲームプレイの概念を覆すゲーム手法であるツールアシストスピードラン(TAS)を考察し、ビデオゲームがいかにアニメーション化されるかを考察する。TASとは、ビデオゲームのプレイを人間があらかじめプログラミングしておくことで、操作なしにゲームのエンディングまでを自動的に再生することができるものだ。これにはゲームシステムの内部構造への深い造詣が不可欠であり、効率的な進行のため、しばしばグリッチやエクスプロイトを用いてゲームを破壊することさえある。このような極端なプレイ方法は、ビデオゲーム内でアニメーションがどのように発生するかについてのユニークな洞察をもたらし、視覚やプレイヤーを対象としない様々な方法でゲームがアニメーション化していることを明らかにしている。本稿では、これらのアニメーションを感覚出力、ゲームの状態、コード、マテリアル、オペレーターという5つのモードに分類し、多層的な「アニメーションのレイヤー」として概説する。TASにより、このようなレイヤーが実際には独立したアニメーションの形態であり、個々にアニメーション化されることで相互に影響を与えるとは限らないということが示されている。

シエラオンラインのアドベンチャーゲームから考察するゲーマーのアニメーションとアニメーターとしてのゲーマー

アメリカのソフトフェア発行元であるシエラオンラインが、自社のアドベンチャーゲームインタプリタを使って制作したデジタルアドベンチャーゲームは1980年代にかけて販売された。このゲームは、デジタルのゲーム体験に不可欠であるアニメーション開発において非常に重大な役割を果たしたが、その役割は見過ごされてきた。当時、同社が発売していたゲームに関する歴史的・理論的な議論の注目はゲームのジャンルであった。一方で、このゲームがアニメーション化されたアバターとそれを操作するゲーマーの関係に及ぼした影響については無視されてきた。本稿でも議論しているが、この関係とは実質的にゲーマーをアニメーターに変えるものである。クリス・パラントが「Video games and animation(ビデオゲームとアニメーション)」(2019年、『The Animation Studies Reader』所収)で述べている、アニメーションはデジタルゲームに没頭するうえで必要不可欠であるという議論を考慮するのなら、ゲーマーがアバターを自由にアニメ化することができたシエラオンラインアドベンチャーゲームは、デジタルの世界に没入する道を開いたのではないか。また、ゴンザロ・フラスカの「Ludology meets narratology: Similitude and differences between (video) games and narrative(ルドロジーとナラトロジー:(ビデオ)ゲームとナラティブの類似点と相違点)」(1999年)のナラティブ主導型あるいはフリープレイ型(ludus 対paidea)というデジタルゲームの区分を参照するのであれば、シエラオンラインのアドベンチャーゲームは、ゲーマーの能力からアバターの操作まで、二つの要素間の重要なバランスを示す初期の例として役立ったといえる。さらに、シエラオンラインのアドベンチャーゲームは、アニメーターとアニメーターが操作するキャラクター間に存在する従来の緊張関係をうまく利用している。これについてはスコット・ブカットマンが『The Poetics of Slumberland: Animated Spirits and the Animating Spirit(Slumberlandの詩:追従者と主導者)』(2012年)の中で、従来のアニメーター、アニメーターが操作するキャラクター、および視聴者間の分断について論じている。本稿が目的としているように、こういった研究のすべてが今日のデジタルゲームにおけるアニメーションが持つ役割に影響を与え続けている。

音の粒:『Sand or Peter and the Wolf』にみる視覚と音の質感

アニメーション研究には、音を画像言語で語る傾向があり音と視覚的手がかりの同調を強調するものである(ミッキーマウシングや ライトモティーフ)。しかし音とは単に映像を模範するだけではない。音は、目に見えるものを変えるような質感や感情も運ぶのだ。本稿では、視覚的・音響的素材が持つクオリティとしての粒(質感)と音色(特定の楽器や技法によって作られる音色)について探る。このために著者は、キャロライン・リーフが音と砂のアニメーションを使ってマイケル・リースマンの電気音響スコアと同調する作品、『Sand or Peter and the Wolf(砂またはピーターと狼)』(1969年)を綿密に調べた。リーフは、砂の一粒一粒を取り除いて丁寧に動物を形作っていき、リースマンはブックラのモジュラーシンセサイザーのノブとタッチ・センシティブパッドをわずかに調整して音の質感を削っていく。砂と音を使って互いに即興演奏をする姿は、素材を使ったアーティストの動き、不和、そして映像と音のインタープレイを新たな視点で考える方法を示してくれるものだ。彼らは動物を単なるプラズマ、あるいはセルゲイ・エイゼンシュテインのキャラクターアニメーションの概念である原形質性とは離して認識するように観客に促し、代わりに「顆粒状の変調」と著者が呼ぶものを展開する。感覚的物質性を使って、砂と動物を表現するのである。音と視覚がどのように共存し、アニメーションで不和を生むかを理解するための鍵となるのが、リーフとリースマンの即興内の粒子の粗い質感である。

「過去最高にブラックカルチャーを感じるディズニー映画!」:『グーフィー・ムービー ホリデーは最高!!』と「ブラックネスの描写」の制作

ディズニー映画は常に独自の方法を使って流行を取り入れ、理解し、収益を上げてきた。『グーフィー・ムービー ホリデーは最高!!』(AGM)は1995年に劇場公開されてから、熱狂的ファンの心を魅了し続けてきた。ファン層の中心にいるのが黒人のミレニアル世代で、劇中のR&Bのサウンドトラックや物語に親しみを感じたことからこの映画に敬意を示している。しかし、映画内での黒人の描写は黒人ファンの読み方が可能になる様子ほど面白いものではないだろう。黒人が暮らす世界の本質に意図的に働きかける映画を制作する場合、その構成要素とはなんだろうか。AGMは人種を描写せずにブラックネス(黒人らしさや黒人であることの意)を表現した。テクニカル・パフォーマーとしてのAGMのアニメーター、アメリカアニメーションの背後にある暗い歴史、そして、いかにブラックミュージックが黒人らしさを知らしめるだけでなく信頼させたかを考えることは、マイケル・ジレスピーが著書『Film Blackness: American Cinema and the Idea of Black Film(ブラックネスの描写:アメリカン・シネマとブラック・フィルムという思考)』(2016)において用いた「ブラックネスの描写」を具体化するものである。

視聴者のアニメーション認知に対する音楽の影響に関する研究

アニメーション監督や作曲家は、どのようにその独創性と表現力を作品に取り入れているのだろうか。また、視聴者はどのようにそれが重要かつ議論に値するものとして理解し、評価できるのだろうか。本研究では、定量的研究および定性的研究を通して 視聴者のアニメーション認知に対する音楽の影響を研究する。美学および音楽を専門とする学者によって音楽美学と音楽そのものに関する多くの研究が行われた。近年では、音楽と映画に関する研究も同様に進んでいるが、視聴者のアニメーション音楽の認知に関する研究は不足している。本研究は、人気のある砂のアニメーションという形式に焦点を当て、主要な要因を明らかにする手掛かりとなる視聴者の認知の違いと好みを明らかにする。研究結果は次のとおりである。(1)視聴者は楽器、リズムのケーデンス、ビデオとオーディオの適合性におけるより一貫性のある微妙な違いを認識した。ボーカルとパフォーマンススキル、音楽性、さらには感情の伝え方にも明確な違いがみられた。(2)視聴者によるアニメーションの評価において、独創性、文化的意味および好みという3つの主要な側面が音楽の影響を受けていた。アニメーション音楽を構成する7つの要素(管弦楽法、ボーカルスキル、音楽性、リズムのケーデンス、パフォーマンステクニック、感情の伝え方、ビデオとオーディオの適合性)は、視聴者によるアニメーション映画の評価にさまざまな度合いの影響を及ぼした。この中でも最も重要な要素がビデオとオーディオの適合性である。これは、独創性、文化的意味および好みという点で視聴者の評価に同時に影響した。(3)独創性、文化的意味および好みという点からアニメーション映画を評価する上で、異なる年齢と職業的背景を持つ視聴者の間には大きな違いがみられた。(4)音楽の違いは、物語の内容、役割の特定、スピリチュアル面での適合性など、アニメーション映画の10つの側面に対する視聴者の認識と評価に多大な影響を与えた。

中国アニメーションスタイルの現代化:『ナタ~魔童降臨~』を事例として

本稿では、人気アニメ『ナタ~魔童降臨~』(2019年)がアニメーションスタイルを代表する「国風」になれるのかについて考察する。学者によって変化しやすい「国風」の性質が実証されてきたが、本稿ではその研究を拡大し、今日の社会政治的状況において、いかに『ナタ~魔童降臨~』(2019年)が「中国らしさ」を表現しているのか、その概念を考察する。方法論的には、主に映画のナラティブと美学に注目して、本作品を話題作にした数々のレビューを対照する。『ナタ~魔童降臨~』(2019年)が表すのは、伝統と現代性が融合した国家のイメージであり、「技術」とそのデジタル性に焦点を当てることは、近代性のシンボルとしての中国アニメーションを変えることだと著者は主張する。過去と現在を物語風に美しく描写する『ナタ~魔童降臨~』(2019年)は、グローバルと国内というハイブリッド型スタイルを体現している一方で、中国文化が国を象徴する文化として掲げられていることから、文化的にはきっちりと区別されている。

現代の中国における自主制作アニメーションに関する論文

自主制作アニメーションは、中国ではマイナーなメディアである。研究によれば、中国人アーティストと映画学の研究者が、このジャンルおよび人気映画の実施と制作を始めたのは1990年代で、とりわけShanke(閃客、中国人のFlashアニメーター)現象が起きたあとのことである。本稿にある現代の中国の自主制作アニメーションに関する既存の言説は、主に中国の専門家および研究者の言葉および文書を考察することで厳密に分析されている。著者は、アニメーションは「芸術形式」として考えるべきであり、外的制約や他者の介入なしに自由に表現できるべきである前提にもとづき分析を行う。終局の目的と芸術の意味、そして芸術の形に焦点を当てるべきである。専門家によるさまざまな談話の中でも、現代の中国のアートシーンによる談話は自主制作の形を守るよう推奨すべきであると著者は考える。これは、制度化され主流となっている談話の枠組みの外にある、真実かつ個人的・内面的価値観と表現に光を当てるためである。

スコットランドのアニメーション史: 重要人物・重大イベントの調査報告

スコットランドのアニメーションの歴史において、アニメーション/VFXセクターは忘れ去られた過去の栄光である。重要かつ影響力のあるアニメーションのプロフェッショナル達は国内外で活躍してきたが、今日までその歴史が意義のある形で文書化されたことはない。このような記録があれば、業界の育成と発展に向けた政治的主導権の発揮に有益となるだろう。こうした発展は、業界の功績や重要性が忘れ去られたり、未開発に終わったりすることがないよう保証することができる。事実、国の過去の栄光とそれに縋った機会的損失において、スコットランドは過去の過ちを繰り返しているといえる。しかし、公的資金と人材育成・維持のためのさらなる投資があれば、アニメーション業界が社会面・経済面での中心的存在になるよう後押しすることは可能である。本稿は、文献調査とスコットランドのアニメーション業界の中心人物たちとの意見交換による結果を示し、スコットランドのアニメーションが、自国および全世界のアニメーション業界にとって重要であるという事実を初めて明確にするものである。フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の政策や資金調達モデルを検討し、スコットランドのアニメーション業界の成長を後押しし、自国と全世界のアニメーション業界の発展のために地位を確立するための政策的取り組みを提案することで本稿のまとめとする。

モジュラージャンル? ポスト宮崎「ジブリ映画」受容の問題点

宮崎駿の引退、高畑勲の死、そして彼らの後継者問題。これらがいつまでも亡霊のようにつきまとう中、スタジオジブリは長い間重要な岐路に立ち続けてきた。数十年にわたり日本のアニメーションスタジオとして高い評価を得てきたジブリは、こうした変化に対応するべく3つの主要戦略を掲げてきた。新たな若手育成のための徒弟制度、国内外での共同制作、そして制作部門の解体である。このアプローチは、ジブリという進化し続けるブランドのアイデンティティおよび「ジブリ映画」の意味するものにも影響し、結果としてジブリ映画の国際的な評価に混乱を招いた。学術的アプローチにおいても、ジブリの近年の変化には対応しきれていない。「ジブリ映画」をブランドの産物、あるいは宮崎・高畑の作品として概念化することが有用であることは実証されてきたが、この枠組みがこのような変化に対応するには不十分である。よって本稿では、近年の「ジブリ映画」を理解するための新しいアプローチを提案し、ブランドやジャンルとして扱うのではなく、モジュラー線に沿って制作されてきていると主張する。

アニメーションにおける死

ウインザー・マッケイが、沈没船の乗客の死をドキュメンタリー風に描いて以来、死の表現はサイレント・アニメーションにおいてタブであった。ディズニーがアニメーシヨンにリアリティをもたらしたとき、アニメーションに死の表現が入り込んだ。「白雪姫」における魔女の死は、邪悪に対する勝利の証しであった。「バンビ」では、ハンピが母親の死を受け入れる過程が示された。こうした孤児が主人公となる作品は日本のシリーズものなどによく見いだされる。これらでは、死はシリアスなものであった。これとは別に、ワーナ一作品では死を笑いの種にした。パックス・パーニーは銃で撃たれて今にも死にそうな苦悶の様相を呈しつつ、撃ったエルマー・ファッドをあざ笑う。こうした死についてのギャグは、最近の「サウスパーク」に受け継がれている。さらに、ブルーノ・ボッツェットは「バッタ」のなかで人間の歴史を要約し、死はひとつの行き着く先であることを意識化させた。リチャード・コンデイの作品では核爆発後に天使になった夫婦は、天国で、死の直前までやっていたスクラブルを、また何事もなかったかのように続ける。「ザ・シンプソンス」の中で車にはねられたパート・シンプソンは、天国、地獄、現実を往来した。一方、ホーマー・シンプソンは、死を宣告されその準備を始めたり、夢の中で神に命の意味を問い、神より、それは死の訪れと共に明らかになるとの答えを得た。

宮崎駿のアニメーションにおける生き物の心理学的意昧

宮崎駿のアニメーションにあらわれる生き物には彼の精神状態が反映されている。彼はアニメーターとして20年働いた後、中年期危機に陥った。「風の谷のナウシカ」の王蟲と「ラピュタ」のロボットが示す強大な破壊力は中年期危機における宮崎の攻撃性が昇華されたものとみなされる。この2作品で中年期危機をのりこえた宮崎は出発点に戻り「となりのトトロ」で日本を描こうとした。同時にスタジオジブリで自由に彼の創造性を発揮できる条件がととのい、自然の力を自由に操るトトロのごとく全能感をもった。しかしその一方で、有能なスタッフから厳しい批判をあびた彼は、スタッフとの問の一体感を失ったと感じた。この一体感の喪失は、「魔女の宅急便」においてキキと黒猫のジジの問でコミュニケーションが失われることに認められる。両者のコミュニケーシヨンはキキのスランプの脱出(自立性の確立)とジジが父親になったことによって回復する。いわゆる宮崎のスタッフに対する父親的役割の獲得を意味する。ついで「紅の豚」では、豚を、趣味的生活を楽しむ自分自身として表現した。「紅の豚」とコミック「風の谷のナウシカ」で死と再生のエピソードを描いた後の英知が「もののけ姫」に引き継がれた。「もののけ姫」では自然(宮崎)の英知とともに観客(若者世代)を勇気づけるメッセージが送られた。

アニメーションに魅せられたマンガの神様(前)

1989年に他界した“まんがの神様”手塚治虫とアニメーションとの、生涯に渡る関わりを、手塚自身の文章や発言を通して検証する。幼少時から家族と共に映画館に通っていた手塚は、戦前のディズニー作品にまず魅せられた。終戦間近に短期公開された国産長編アニメ『桃太郎海の神兵』に感動し、戦後まんが家として頭角を現すなかで、アニメーターになろうとしたこともあった。手塚まんがのなかにもディズニー作品などからの影響が多々認められ、執筆の傍ら映画館へと足を運ぶ日々が続く。1951年日本公開の『パンピ』に熱狂した時にはそのまんが化にも取り組み、当時執筆中だった「ジャングル大帝」の内容も変化したと手塚自身が語っている。さらに「漫画教室」「フィルムは生きている」といった、アニメーションへの傾倒が色濃く反映された手塚作品を筆者は紹介し、『ブラック・ジヤツク』の主人公の髪型と、『101匹わんちゃん大行進]』に登場するクルエラの髪型との類似を指摘。最後に手塚がみずから製作したアニメ作品にも触れて、彼より6歳年下の筆者ならではの感慨で最後をくくっている。

ポケモン事件の視覚的ストレスに関する認知的要因

1997年10月16日、およそ700人の人々がテレビ・アニメーション『ポケモン』(ポケットモンスター)を視聴中に不快感を訴え病院に搬送された。その多くは小学生の子どもであった。いわゆるポケモンショック事件である。多くの専門家は、5秒間12Hzで継続する赤と青の点滅シーンをその主な原因と看做した。視覚的刺激(つまり点滅)におけるいつくかの物理的な特性が、光過敏性の人々、もしくは視覚的ストレスを受けやすい人々に有害という可能性はよく知られている。しかし我々が思うには、同事件において認知的要因も重大な影響を及ぼしている。それらの要因を調べるため、『ポケモン』から選ばれたシーンによって誘発される視覚的ストレスのマグニチュードを成人の健常者たちに評定させ、なおかつ、ストーリーに関する被験者の知識に変化を添えた。そこから分かったのは、視覚的ストレスの測定値が認知的要因に依存することである。ストーリー未知群の被験者よりもストーリー既知群の被験者の方が、そのシーンの視覚的ストレスの効果を有意義に高く評定した。

高畑勲:若者世代の心の健康を心配しているアニメーション映画監督

高勲は、若者世代の心の問題に関心を持ち続けた。初演出「太陽の王子ホルスの大冒険」では主人公ホルスが「迷いの森」に迷い込むといった形で青年の心の問題が描かれていた。「アルプスの少女ハイジ」では、住み慣れたアルプスの山から強制的に連れさられたハイジはホームシックとなり、抑うつ的となり、そして夢遊病を発症した。「セロ弾きのゴーシュ」のゴ- シュは内気で、劣等感が強く、脆い自尊心を持ち、対入場面を恐れる傾向があった。「火垂るの墓」では、主人公が快不快の原理に基づいて行動するとみなし、その行き着く先を描き出した。こうした快不快の原理を打破するための方略は、「おもひでぼろぼろ」の主人公タエ子がおこなった、田舎の太陽の下、身体を動かすことであった。「平成狸合戦ぽんぽこ」では、「おもひでぼろぼろ」で十分に描かれなかった集団への帰属が細やかに描かれる。高畑は、集団帰属の種々のパターンを描くことで、個人が集団へ適応する思考実験を試みた。さらに高畑は、昨今の癒しブームへの懐疑をもち、癒しよりは慰めを必要としていると考え、「ホーホケキョとなりの山田くん」を製作した。この作品では、家族成員はそれぞれ欠点を持つが、他の家族成員が補って、家族が上手く機能している。こうした家族が、高畑の結論とする心の問題への対処法なのであろう。

テックスと物語――循環する主題と展開する様式

テックス・アヴェリーはユーモアにあふれたアニメーション監督として良く知られているが、またそんな彼は物語作家の伝統を継承しているのである。彼は良く知られたお話を使ってお話のテーマを自分なりに解釈しそれを提示した。本論文は「赤頭巾ちゃん」に焦点をあてる。アヴェリーが 1937年から 1949年にかけて作った6つのアニメーションはこのお話についてのものである。これらはアヴェリーのスタイルと発想の進展を調べる良い例である。偶然のこっけいさがアペリーの話法の始まりである。やがて彼はこつけいの場面を作り出し、お話の語りを管理するようになった。当初は伝統的なお話は明らかに噂重されている。すなわち、アヴェリーのお話は現代的にユーモアを加味した翻訳である。徐々にお話のテーマは、物語をはじめるための単なる出発点に過ぎなくなってくる。キャラクターは新しい個性を獲得していく。こうしてアヴェリーは話法と表現のコードのいずれをも逸脱していく。こうすることで彼は自身のコードを作りあげていく。これらのコードは40年代を通じて一般に使用され、期待されるようになる。最後に、アヴェリーは赤頭巾と狼のサーガを終わりにする、シリーズの最後のアニメーションで、彼がすでに確立したコードを逸脱し、そしてそれと戯れる。

アジアのアニメーションの諸様相

アニメーションはアジアでは長い伝統があり、インドでは1915年に、次の10年間で中国、日本においてはじまった。しかし、アニメーションの最初の黄金期は1950年代から1960年代であった。それは、少なくとも中園、インド、日本、ベトナムでスタジオが設立され、アニメーターが機材や技術、内容を革新させたからである。この時期は、いくつかの日本や朝鮮のスタジオはアメリカやヨーロッパの主要なアニメーション会社に製品を提供し始めた。そしてこうした傾向は20世紀の終わりまでにアジアのすべての地域に広まった。アジアのアニメーションスタジオの魅力は、アジアの提供する安くて安定した労働力であり、同様にコンピューターとヨーロッパ言語の能力であった。日本、韓国、台湾における最初の国外へ向けてのプロダクション施設から、フィリピン、中国、タイへと支部が急速に成長し、後にはベトナム、マレーシアや他の地域にまで広まった。シンガポールは低賃金労働よりもむしろその高いコンピューター能力により国外へ向けての生産者となった。大部分の国において、自国内へ向けてのアニメーションは苦戦してきた。しかし時には海外へ向けてのアニメーションスタジオに助けられた。あるいは韓国、ベトナム、中国、マレーシアのように自国政府によって援助を受けた。この論文は東・東南・南アジアの自国内へ向けてのアニメーションおよび外国へ向けてのアニメーシヨンの歴史と現状について概観する。日本についてはこの雑誌でよくカバーされているので省略する。

麻宮騎亜原作『コレクター・ユイ』について――古典文化の継承という側面から

麻宮騎亜の『コレクター・ユイ』は、日本古典文学の伝統と符号する非常に興味深い作品である。一見、その舞台は現代的に見える。しかしそこには古代から人類が受け継いできた精霊の世界は表象されている。事実上、コンピュータ・ネットワーク上で、ユイは妖精と同一視される。さらに、ユイと戦う8つのコンピュータ・ソフトウエアは仏教における4つの要素、つまり土、水、空気、火を象徴している。敵であるグロッサーには4人の四天王が従っている。これは古典的な物語の一つとして看做せるだろう。四天王の物語はヒーロー(もしくはヒロイン)の成長を象徴しており、その意味で麻宮の作品に近いともの考えられる。しかし最終話直前にユイのライバルとしてハルナを追加したのは麻宮自身のオリジナルであり、そうすることで、物語は二人のキャラクターの間の単なる対決にとどまらなくなっている。

ノーマン・マクラレン関連の文献整理

本報告は、これまで日本を含む各国で発表されたマクラレン関連文献を収集・整理し、今後の研究に資することを目的としたものである。実験アニメーションの分野を開拓・発展させたノーマン・マク ラレンに関する研究は、これまで諸外国では進んでおり、多数の論文やインタビュー記事が発表されている。しかしながら日本では、彼の作風や独創性を讃美することはあっても、体系的な研究が成立しているとは言えない。圏内の文献は、マクラレン作品の独創性を解説したもの、あるいは作品を見たときの印象を記述したものが大多数で、彼が他界した1987年以後は、発表された文献も極端に少ない。一方、諸外国の文献は、マクラレン作品の独創性について論じた文献も多いが、特に彼の死後は、そうした独創性への礼讃志向とは異なる立場や、これまで知られていなかった彼の側面を発掘しようとする等、新たな展開を試みた文献が発表されはじめている。

アニメーションに魅せられたマンガの神様(後)

1989年に他界した“まんがの神様”手塚治虫とアニメーションとの、生涯に渡る関わりを、手塚自身の文章や発言を通して検証する。幼少時から家族と共に映画館に通っていた手塚は、戦前のディズニー作品にまず魅せられた。終戦間近に短期公開された国産長編アニメ「桃太郎海の神兵」に感動し、戦後まんが家として顕角を現すなかで、アニメーターになろうとしたこともあった。手塚まんがのなかにもディズニー作品などからの影響が多々認められ、執筆の傍ら映画館へと足を運ぶ日々が続く。1951年日本公開の「パンピ」に熱狂した時にはそのまんが化にも取り組み、当時執筆中だった「ジャングル大帝」の内容も変化したと手塚自身が語っている。さらに「漫画教室」「フィルムは生きている」といった、アニメーシヨンへの傾倒が色波く反映された手塚作品を筆者は紹介し、「ブラック・ジャック」の主人公の髪型と、「101匹わんちゃん大行進」に登場するクルエラの髪型との類似を指摘。最後に手塚がみずから製作したアニメ作品にも触れて、彼より6歳年下の筆者ならではの感慨で最後をくくっている。

セルアニメーションの生態心理学的情報

多くのアニメーションは、ある種の自然事象である。アニメーターたちは、彼らの専門的な技術を用いながら、自然事象の一部をアニメーションにおいて記録する。本稿では、かつてJ.J.ギブソンが提案した知覚および行為への生態学的アプローチの概念上で、セルアニメーションにおける自然事象の情報を議論する。ギブソンの指摘によると、環境は包囲光で満たされ、後者は光学的配列を構成する。対象の表面は光を反射し、そうすることによって光学的配列の構成要素は表面に独特なものになる。自然事象は表面の動きを含む。それらの動きは光学的配列に変形をもたらす。変形は事象の形成における独特なものとして不変項であろう。風における空気の流れを考えると、空気は目に見えないが、風は環境の中に可視的な変化をもたらす。そこで提案されるのは、風速の知覚が表面の変形に基づいており、流体力学で開発された無次元数、つまりレイノルズ数に関連するということである。風を描写するいくつかのアニメーションをテスト分析することによって、レイノルズ数に関連する独特な変形パターンは風速を明示しうることと、風は秩序と不規則性両方の性質をもっていることが分かった。本稿の調査によって視知覚の研究と共にアニメーターの技術に関する説明が可能になると思われます。

日本で世界初のアニメーションが公開された可能性についての考察

参考文献によると、海外から輸入され日本で公開された初のアニメーション映画は『ニッパルの変形』だった。残念ながら、その原題と内容は知られていない。筆者による調査からは、日本で上映された初のアニメーションは、1906年アメリカのヴァイタグラフ社制作によるJ.S.ブラックトンの『Humorous Phases of Funny Faces』だった可能性があることが分かった。本稿はこの問題を議論する。明治期の映画輸入業者である吉澤商店のフィルム目録が大阪のプラネット映画資料図書館に所蔵されており、その目録に記録されている『不思議のボールド』という映画の内容を見ると、世界初のアニメーションと同様である。男性と女性の顔が黒板に描かれアニメーションによって変化する同映画は、『奇妙なるボールト』という題名に変更され東京で公開された。筆者が思うに、それはブラックトンの映画のようだが、上記の目録の中に図版がなく、フィルムそのものもないわけで、残念ながら、それを証明することは不可能である。

幾何学図形静止画アニメーションによる社会的事象の系統的印象測定

本研究の目的は、被験者が2種類のアニメーションを観た後の印象を測定することである。まずは、互いにチェースする2つの図形のシークエンスで、Heider & Simmel(1944)が記述したものに類似している。次は、2つの図形が横断歩道を渡るシークエンスである。異なるサイズの2つの図形が登場する順序においても操作が行われた。被験者の印象を体系的に測定するために、筆者は先行実験(森・土田・神宮、2000)の自由記述データに2回以上現れた包括的な形容詞と形容動詞を用いた。それぞれのアニメーションを観た後、被験者(130名の学生)は19語の形容詞および形容動詞で印象定評を行った。評定値の因子分析からは、魅了感、知性感、嫌悪感、力量感など4因子が見つかった。それらの因子はアニメーションのストーリーを把握し、図形の諸特性を一つの人格として認知した。分散分析の結果からは、2つの図形の登場の順序とアニメーションの種類との間に有意な交互作用があるということが明らかになった。異なるサイズの2つの図形が登場する順序は、それぞれのアニメーションにおける被験者の印象に異なる影響を及ぼした。

単純図形の動きが生む事象の知覚――登場する要素図形の大木さ入れ替えの効果

筆者は、Heider, F. & Simmel, M. (1944) アニメーションの簡略されたバージョンを用い、刺激シークエンスに登場する2つの要素図形のサイズ効果について調査を行った。小さな円形が先に動いたとき(小-大条件)、45名の被験者(54%)は、当該シークエンスを追跡と捉え、22名(27%)は追従と捉えた。対照的に、大きな円形が先に動いたとき(大-小条件)、28名(34%)はそれを追跡と捉え、39名(47%)は追従とし捉えた。2つの要素図形のサイズを同様にした実験2において被験者は、実験1における大-小条件に類似した反応を示した。つまり39名の被験者(37%)は当該シークエンスを追跡と捉え、49名(47%)は追従と捉えた。さらに、実験2では先行図形が後続図形に捕まる新しいシークエンスを導入した。その条件下で、52名の被験者(48%)は当該シークエンスを追跡と捉え、35名(33%)は追従と捉えた。以上の実験から、2つの要素図形の間の大きさ入れ替え効果が明らかになった。

点運動映像が与える感情効果

本稿は、動いている点の映像を用いた2件の心理学的実験に関する報告である。同実験には、それぞれ21名および74名の大学生が参加した。実験1で我々は点運動によって誘発された感情効果の測定をセマンティック・デイファレンシャル法(SD法)で行った。因子分析の結果から、活動性、価値、生物的印象、以上3因子が明らかになった。分散分析からは、波形、振幅変動、速度がそれぞれの因子に影響することが分かった。生きているものという印象に関して、点運動は点の静止軌跡よりも高く評定された。実験2においては、2種の刺激映像がそれぞれ12の場面で構成され、実験1の点と同種の赤小円・青大円が交互に呈示された。そして被験者は刺激からストーリーを記述することを要求された。自由記述において多くの被験者は2つの点が生きているかのような解釈を示した。記述における差異は、点運動における差異からもたらされた。以上の結果が示しているのは、運動は、「生きていること、もしくは有生性」を含む特別な感情効果を生み出すことである。

日本のアニメーションにみられる心理学的依存:りんたろうを例にして

りんたろうのアニメーシヨン作品では御都合主義的なエピソードが多く描かれる。ドラマチックに描かれる大破壊シーンのために彼の御都合主義的な話しの展開を忘れてしまいがちである。御都合主義はまた心理学的依存によって成り立っている。彼の作品のなかの主人公を、困難な出来事のさなか、出会った人々ばかりでなく機械までもが助けだそうとする。しかし後年心理的依存の破壊的側面が描かれるようになった。時に登場人物は他者ないし機械との共生的関係を作り上げ、結果的に破滅する。りんたろうは主人公が危機を脱する背景をなす心理学的依存の表現に飽きてしまって、異様な依存関係あるいは依存関係の拒否を描くようになってきた。

ウォル卜・ディズ二ー――忘れ去られた時代

ディズニー作品の中で、ほとんど紹介されてこなかった、忘れ去られた時代の作品について論述した。この40年代の作品群は、折衷主義的、実験的、奇妙な、センチメンタル、風刺的なものが次々と現れ、都会的で、上品なものであったり、野卑で凝ったものもあったりした。こうした一貫性のなさは、会社が他社から学ぼうとする姿勢を持っていたことを理解させる。しかも、少年少女に影響を与えると思われる、タバコを吸うといった行動は注意深く削除され、会社哲学の価値を低めるような試みは避けられた。最近では忘れ去られた時代の作品の多くが、完全な形のまま残っているわけではないにしても、ある形式では、見ることができるのは幸運なことである。(日本語版要約作成:横田正夫)

ポール・ドリエッセンの外的世界と内的世界

アニメーション・フィルムのアイデアの源泉を説明することは容易なことではない。心に働きかけてくる要因には多くのものがある。たとえば、生活歴、養育、創造的環境の選択である。創造過程を理解するためには、今日の自身を形成することになった外的世界を述べる必要があり、一方で、映画がどのように現れてくるのかについての内的世界について述べる必要がある。外的世界の要因については、出生からどのような養育を受け、職業経歴を経たかが述べられ、内的要因については、作品ごとにどのようなアイデアから作品が出来上がってきたかについて参考図を掲げながら詳述された。(日本語版要約作成:横田正夫)

アニメーション・キャラクターの相貌的・性格的特徴の分析

本稿では、アニメーション・キャラクターの相貌的・性格的特徴を研究するため、その顔に関する調査を行う。12名のアニメーション・キャラクターの顔が選ばれ、91名の学生がその顔の相貌的特徴と性格的特徴について20の尺度で評定を行った。因子分析を通して、相貌的特徴においては5因子(丸顔/虚弱/鼻/目元/額)、性格的特徴においては4因子(親近感/精神力/消極性/慎重性)が抽出された。さらにそれらの9因子によって制作会社ごとにアニメーション・キャラクターの判別か可能かどうか判別分析は行われた。

日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究

日本アニメーションにおいては下川凹天(1892-1973、沖縄県出身)、幸内純一(1886-1970、岡山県出身)、北山清太郎(1888-1945、和歌山県出身)がその創始者とされており、3人は1917年ほぼ同じ時期に作品を公開した。下川と幸内は元々漫画家だったが、映画会社からの委託でアニメーションを作ることになった。下川は自らのマンガ「芋川椋三」をアニメーション化したが、それは第5作目で終わった。幸内は、時代劇アニメーション『塙凹内 名刀の巻』(1917)と政治宣伝映画を含む全15作くらいを制作した。一方、北山は元々画家であり雑誌の編集者だった。彼は、映画館で観たフランスとアメリカのアニメーションに対する興味を発展させ、自らの作品を独自に映画会社に販売した。下川、幸内らとは違って、彼の作品は『猿蟹合戦』(1917)、『桃太郎』(1918)のような日本の昔話、『財金の勤(すすめ)』(1917)のような政府の保険・郵政に関する広報映画、『口腔衛生』(1922)のように口腔衛生の普及のための科学映画、『円』(1937)のような科学・数学の教育映画など、幅広い範囲をカバーしていた。彼がアニメーションは総じて30編以上を制作した。さらに北山には、山本善次郎(早苗)、金井喜一郎ほか、多くの弟子がいた。彼は日本初のアニメーション専門の制作スタジオ「北山映画製作所」を設立した。以上のような点から、北山清太郎の業績は、日本アニメーション映画における3人の創始者の中で最も大きいといえるだろう。ただし3人におけるアニメーション手法は洗練されておらず、主に切り紙やペーパー・アニメーションで、セルが使われることはほとんどなかった。

実写映画的表現法のアニメーションへの応用――『太陽の王子ホルスの大冒険』

太平洋戦争が終わって、連合軍の日本統治が終わった後、日本の劇映画、漫画、アニメーションといった領域で働く文化的労働者は、彼らの芸術的、社会的表現を拡張するために、各自の労働媒体を上手にまた速やかに活用するようになった。本論文は「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968)をグラムシ流に解釈している。それは映画制作を取り巻く状況と映画の物語の内容を包含するものである。本論文では、映画の政治的立場を戦後の産業化日本に関連付け、国の独立を確かめ、また国際舞台での役割を確認する努力に関連付けることを試みている。(日本語訳:横田正夫)

四年制美術・デザイン系大学におけるアニメーションの専門教育課程設置に関する試案

最近までアニメーションは、日本の美術・デザイン系大学において正規の教科目でも特別コースでもなかった。しかし2000年に京都精華大学でマンガ学科が設置されると同時に、映像メディア表現の指導を開始し(文部省の学習指導要領改訂に基づくものとして)、アニメーションが産業、文化、芸術形式として社会的に認知されていく中、大学でアニメーションを教えるための基礎が築かれたと考えられる。本稿は、アニメーションを教育、指導、研究する諸領域の設置における意味合いと位置づけを論じる。美術・デザイン系大学におけるアニメーション技術コースの設置に関する基本的な考察、さらに装備、設備、コースを含むカリキュラムの試験的なプランを提案する。

展覧会「日本アニメの飛朔期を探る」の開催と、初期東映動画に関する今後の研究課題

2001年から2002年まで川崎市市民ミュージアム他各所において、戦後日本アニメーションの復興期である1960年代、東映動画の映画に関する展示が開催された。同展では主に日本初のカラー長編アニメーション『白蛇伝』(1958)の素材が展示された。制作過程の各段階における素材を見せることで日本アニメーションの飛翔期に同映画が誰によってどのような試行錯誤を経ながら生み出されたのかを提示したのである。しかし同展示は次の問題に直面した。つまり静写真で映像を提示することと、戦前のアニメーションや1960年代以降のテレビアニメーションを含む日本アニメーション全史をカバーすることは難しいという問題だった。東映動画の元スタッフや研究者が展示の監修を行ったにもかかわらず、幅広い日本アニメーションの全史を展示することは不可能であった。展示の開催中に催されたシンポジウムにおいて監督、アニメーター、カメラマンらは東映動画が果たした重要な役割を議論し、それは研究者たちに対し日本アニメーション史の研究を促すことになった。

東映動画の誕生に到る経緯とその歴史的背景

本稿の目的は、映画史的な観点から東映動画(1956年設立し後に東映アニメーションへ改名)に関する分析を行うことである。本稿は、序論、10章の本論、結論を含む全12章からなっている。序論では東映動画の設立に関わるデータを摘示し、東映動画と日動社との関係を記述することで、そこからもたらされた問題を提起する。次の本論では、東映動画の親会社であり同社より5年前に設立された東映が戦後の日本映画において果たした役割に言及し、さらに東映の前身である東横映画が日本映画史において果たした役割を議論する。特に、他の映画社とは違って東横映画は開発部署を設けていたことに焦点を当てる。東横映画の開発部署における初期の主な業務は巡回上映だったが、後に16ミリ教育映画の制作・配給・上映へと拡大し、その中にはアニメーション映画も含まれていた。それらの短編アニメーションが東映の社長である大川氏の主導で東映動画へつながったのである。データを提示しつつ、その過程を検証する。東横映画の設立の基礎になったのは、実は、戦後映画産業に関する根岸の再編成構想であった。根岸の狙いは、旧満映のスタッフに映画業界内で落着き先を提供するための映画社を設立することだった。それは、旧満映の制作体制が東横映画および東映を通し東映動画へ移転されたということを示唆する。歴史家にとって重要なのは、自らの歴史記述を検証する際、生の資料や情報源を用いることである。しかし本稿における歴史記述の検証においては重要なおくつかの記録が失われており、用いられた記録やデータに関しては筆者の誤読の可能性がある。従って、さらなる研究を促す試験的な仮説として本稿を読まれたい。

日動から東映動画ヘ(熊川正雄氏インタビュー)

熊川正雄氏は1916年京都府生まれで、経歴は1930年代まで遡る。戦後、東映動画の前身である日動映画で原画を担当し、戦時中には、『弁慶対牛若丸』(1939)、『くもとちゅうりっぷ』(1943)の制作に関わる。戦後日本アニメーションにおける傑作として知られる『すて猫トラちゃん』(1947)、『小人と青虫』(1950)の制作にアニメーターとして参加した。その後アニメーション界を離れ、しばらくイラストレーションに携わる。1956年にはアニメーターの養成係として東映動画に招かれ、『少年猿飛佐助』(1959)、『西遊記』(1960)の制作に関わる。1964年に東映動画を退社し、東映動画の課長代理だった山本善次郎氏が設立した「山本アニメーンヨン研究所」へ招かれアニメーターを養成する。「山本アニメーンヨン研究所」の退社後は、自ら「熊プロダクション」を設立し、テレビアニメーションの制作にアニメーターとして関わる。現在は、水彩画の画家として活動している。

60年代頃の東映動画が、日本のアニメーションにもたらしたもの

1960年代に東映動画は長編アニメーションの映画社として日本アニメーション界の発展に大きく貢献した。第一に、同社は様々なアニメーション技術を開発し、その10年間長編およびテレビアニメーションを含め多数の作品を制作することで、多くの若手アニメーターを養成した。第二に、東映動画は、ディズニー作品に影響されつつも単なる亜流ではない日本アニメーションのオリジナリティを確立した。例えば、同社は当時、アクション中心の子ども向けアニメーションというより、ストーリー中心の大人向けアニメーションを制作することで、日本アニメーションのオリジナリティの一面を示した。第三に、東映動画は日本型のアニメーション制作体制を確立した。それは、一人のチーフ・アニメーターによる強い指導の下で、多くのアニメーターたちがそれぞれのシーンにおけるアニメーションを作画し、チーフは全てのシーンのレイアウトやカメラアングル、カメラワークなどを決定する体制である。

日本のアニメに期待すること

東映動画は、同社初の長編アニメーション映画制作の際、それまで15分から20分くらいのアニメーションを制作してきただけに1時間以上のアニメーション映画におけるストーリー表現のノーハウがなく、そのため、親会社の東映がカラーの娯楽映画を制作する目的から開発した映画技術を応用した。東映動画はアニメーション制作においてアニメーション監督という役割を新たに設けた。さらに、長編アニメーション制作の先進国であるアメリカの技術を取り入れなかった。つまりドラマの作り方を独自に洗練させたのである。手塚治虫は、日本におけるテレビアニメーションシリーズ(毎週各話30分のフォーマット)の先駆者である。彼は、限られた予算とスケジュールでテレビアニメーションシリーズを制作するために低予算と省力化が可能なアニメーション技術を採択した。その技術は、技術的な観点からは高く評価されなかった。しかし手塚のテレビアニメーションシリーズは大ヒット作になったのである。その影響から東映動画もテレビシリーズの制作を始める。低予算と厳しいスケジュールという状況下でテレビアニメーションの第2世代はドラマ作りのための多くのアイデアを生み出し、それは今日の日本におけるアニメーションの多様性につながっている。

東映動画撮影部発達史(吉村次郎氏インタビュー)

日動の元スタッフと、東映本社からの編集・印刷・写真関連の人々によって東映動画に撮影部が確立されて以来、そのスタッフの様々な経歴は撮影技術に反映された。同部は最初にアメリカからのマルチプレーン撮影システムを、精機製作所の技術者との協力の上で改良した。さらに、元々の使い方としては想定されていなかったフィルター作業や透過光効果のためにマルチプレーンカメラを利用したのである。特に、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)の制作の際、様々な特殊効果が試みられた。1960年代頃にはカメラワークのように基本的なスタジオ作業は確立され、その後のスタッフはより一層洗練されたカメラワークと透過光効果などを開発することに集中した。スタイルにおいて厳格な制限を受けないコマーシャルやテレビシリーズを年間200本以上制作することで、新しい技術を試みる機会が与えられた。後にそれらの技術は劇場用長編アニメーション制作の際に用いられ日本アニメーション界の標準として普及した。東映動画は、カメラ/スタジオ技術を開発し普及するだけでなく、アニメーションの現場に優秀なアニメーターたちを供給することによって日本のアニメーション界に大きく貢献したのである。

単一物体運動知覚に寄与する運動情報の因子分析的研究

本研究の目的は、単一物体の運動知覚に寄与する知覚的枠組みを明らかにすることである。そのための刺激として14種の単一物体アニメーションが用いられた。それらは、アリ、チョウ、魚のような生き物の様々な運動と、落下する風船、傾斜板上で転がるビー玉など物体の運動を参考に作られた。セマンティック・デイファレンシャル法を用いながら、女子短期大学からの参加者56名に刺激を21の尺度で評定させた。それぞれの尺度は、反対の意味を表わす形容詞対になっている。因子分析から2因子が抽出され、それぞれ「生物性因子」(寄与率64.0%)「動きの滑らかさと好ましさの因子」(寄与率28.4%)と名づけられた。分析の結果は、「生物性-無生物性」が単一物体における運動知覚の主な枠組みという証拠を提供する。

押井守の長編アニメーションにおける自閉的世界からエンターテイメントへ

押井守はアニメーションの世界的作家として知られている。彼の映像世界は、3つの時期に分けて考えると、彼の心理学的テーマの反映が明らかになる。第1期は、漫画『うる星やつら』を題材にしてファンが喜びそうな作品を作ることで始まる。しかしすぐに自分の好みの世界を前面に出すようになる。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマ-』(1984)では現実よりも夢の世界が重要であると語る。つづく『天使のたまご』(1985)、『トワイライトQ Yol.2迷宮物件 FILE538』 (1987)では、押井の私的生活が、作品の男と女の関係に反映されている。第2期になると、押井は、青年期の頃からの念願であった実写映画を製作する。実写映画の『紅い眼鏡』(1987)と『ケルベロス地獄の番犬』(1991)では、時代に取り残された革命戦士が送る単調な逃亡生活が表現される。学生運動に乗り遅れた押井の私的な姿が投影され、実写映画を作りたかったという過去の願望の成就がある。こうした作品群を経て、第3期におけるアニメーション作品がエンターテイメントに変貌する。すなわち『機動警察パトレイバー』(1989)『機動警察パトレイパ- 2 the Movie』(1993)『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)である。これらの作品では社会不安を解消するようにサスペンスは解決し、世界の観客を魅了することとなった。以上のように、押井ははじめ夢のような自閉的世界を描き、ついで青年期の夢の実現を果たすことで中年危機を乗り越え、世界へエンターテイメントを送り出すようになった。

生態心理学的アプローチによるヒトの歩行、走行運動を特定する性質――バイオメカニクスとセルアニメーションの作成方法を参照して

人間は、自らを取り巻く対象や、環境の中で発生する事象を知覚する。それらの自然事象は、自然科学の領域においては記述が行われる反面、セルアニメーションにおいてはいわゆる表象として創造される。本稿は、バイオメカニクスとセルアニメーションで見られる歩行および走行という行動の特性を生態心理学の文脈から論じる。人間における歩行と走行については、バイオメカニクスのアプローチとそれらの行動を創りだす方法において次のような特性が見出される。つまりそれらの行動には、周期性、上下運動、1周期中の前後・左右の揺れがある。しかし歩行の場合、両脚支持期はあるが、空中に浮いている時期がなく、走行の場合はその逆になっている。さらに走行は、歩行よりもリズミカルで規則性が強い。バイオメカニクスと、アニメーションにおいて行動を創りだす方法という2つのアプローチは、行動の特性を観察・抽出し、自然事象を記述する同様のプロセスを有する。そこから調査された特性は、人間の知覚によって検出される不変項である。

純愛、自己内省、バウンダリー・フリー――押井守の『イノセンス』にみるガイノイド表象――

欧米のSF映画には、女性の外観を持つロボットや人工身体、つまり「ガイノイド」がしばしば登場する。それらは、理想的な女性性と同格化される受動性とセクシュアリティのステレオタイプ表象である。ガイノイドは男性の恐怖の投射でもあり、従ってそれと同時に「アブジェクシオン」として排除される。対照的に、押井守の『イノセンス』における少女型ガイノイドは複雑な隠喩として機能することで、コンベンショナルな女性像だけでなく、無垢や被傷性をも意味する。そうすることで、ガイノイドはバウンダリー・フリーな存在になりえただろう。それらは、鏡として機能することで、男性の主人公の内部に存在する「他者」つまりネガティブなイメージを投射する代わりに、その男性に対し自己内省を促す。さらに押井の映画におけるガイノイドはメッセンジャーの役割を演じることで、真実を主人公に伝える。本稿で筆者が行うのは、欧米映画におけるガイノイド表象との比較分析を通して、『イノセンス』における少女型のガイノイド表象を批判的に考察することである。

ヤン・シュヴァンクマイエル『J.S.バッハ:G線上の幻想』分析――アニメーションと実写の相補関係

ヤン・シュヴァンクマイエルはチェコの映画作家、視覚芸術家であり、特に有名な「アニメーション作家」である。しかしアニメーションとは何か?このような問いからすぐ分かるのは、実際の対象としての「アニメーション」に関する定義が欠いていることである。にもかかわらず、アニメーションは、1895年に「実写」が誕生して以来、以前として重要な枠割を担っている。本稿で筆者は、シュヴァンクマイエルの作品『J.S.バッハ:G線上の幻想』を考察することで、「アニメーション」と実写がどのように相補するのか明らかにする。まず、彼の特徴的な視点ショットは、様々な壁とアニメーション映像で構成される抽象的なイメージへ我々を効果的に導く。次に、暗闇で占められ、主にクロース・アップで構築されている二次元的映画空間は、触覚を感じさせると同時に、印象的なアニメーション映像を創り出す。最後に、反復、スウィッシュ・パン、ズームのような映画手法は、動く壁のイリュージョンを提供する。

アニメーションにおける「歩き」表現の検討

本研究の目的は、アニメーションにおける「歩き」表現の調査である。アニメーションにおいて人間および人間以外の形による「歩き」の印象について20名の被験者が評定を行った。因子分析の結果は、野村・横田(1993)が発見した軽快-鈍重因子と自然-非自然因子を明らかにした。アニメーション化された形と人間は、有効因子得点によって、両因子軸からなる二次元の空間上に布置された。それらは4グループに分類され、動きの特徴によって、人間の動作を含む「トロット(ファスト・ステップ)」、「牛歩」、「ファスト・モーション」、「スロー・モーション」と名づけられた。前者の2グループと後者の2グループは、それぞれ現実に起こりうる歩行動作と起りえない歩行動作の印象を与える。

回転運動の見え方

白と黒の2色のパートからなる扇形は、白黒の面積上割合によって、扇形の回転運動観察する肉眼には色が混ざり灰色のように見える。しかし映画やテレビなどの視覚メディアを経由すると、その回転運動は逆方向の回転もしくは点滅に見えることになる。アニメーターたちは、視覚メディアにおけるそれらの特性を経験から習得してきたのである。運動表象と表象メディアの間には密接な関連性が存在する。本稿は、メディアを経由した運動および映像の創出に焦点を当て、画像刺激の分類、比較を試みる。メディア上の回転運動アニメーションを刺激として提示する際に、一連の静止画像を連続撮影した。それはストップモーション・アニメーションやセル・アニメーションの手法と同様なものである。実際の運動と回転運動との間の印象を比較するためにダイアグラムで記録が行われた。回転運動の画像刺激は、回転の方向、扇形の分割数、地-図の逆回転、以上3つのタイプとして分類、記述された。本稿では、回転運動の観察、記述を行い、画像刺激をどのように定量化し、定性化できるかを目的としている。

視覚像としてのアニメーション

視覚イメージとしてのアニメーションの特性は、絵画、写真、映画の特性と比較することで、次のように議論がなされてきた。1)アニメーションによって創出された運動知覚は、個人の意図によって、さらには単純な幾何学的物体においても、動的・生物学的・社会的生き物の印象を直接に与える。2)西洋画、写真、映画と比較される際アニメーションの重要な特性の一つとして線型遠近法からの自立が指摘された。この点から日本アニメーションはアジア芸術の伝統を受け継いできたのである。3)視覚的注意には心理学的限界があるが故に、フル・アニメーションは必須とは考えられなかった。4)色、形、動きからもたらされる感情的印象の文化横断的な一般性は、アニメーションの国際性における背景の一つとして議論された。

国内キャラクターマーケティングにおけるインターネットメディア活用の事例研究

ローカルなインターネットメディアのインフレーションが顕著になった1990年代末以来、近年、MASHIMARO、PUCCA、MARINEBLUEなど韓国の3つのキャラクターのケース・スタディに注目すると、時と場所にとらわれないインターネットメディアは、幅広い消費者群にキャラクターコンテンツを適時に供給する情報共有の中核的にツールとして、一方からのコンテンツの提供だけでなく、消費者からのフィードバックやアイデアの受取を可能にし、キャラクタービジネスにおけるアクチュアルな進展をもたらした。多様なメディアにおける拡大はインターネット上のキャラクタービジネスの収益構造に増大を可能にし、マーケットのグローバル化も加速化させた。しかしMASHIMARO、PUCCA、MARINEBLUEに関する我々のケース・スタディから、能動的なインターネットメディアを経由した消費者へのコンテンツ供給には限界があることが分かった。換言すると、非能動的な消費者へのアクセスは不可能であった。従って、キャラクターマーケティングを成功させるため潜在的消費者にアクセスするには他のメディアの適切な利用が必要とされる。

乾孝が制作した1930年代の人形アニメーションの発見と評価

心理学者で元法政大学教授の乾孝(1911-1994)は子供の芸術教育の分野で多くの業績を残したが、法政大学入学直後の1930年代、9.5mmフィルムのパテ・ベビーを用いて人形アニメーションを制作していた。この論文の著者のひとり吉村浩一は、乾孝の家族からそれらの作品の存在を教えられた。本論文では、日本アニメーション史初期におけるそれらの作品の価値について考察する。
これまで、第二次世界大戦以前の人形アニメーション作家としては、アマチュアの荻野茂二だけが知られてきたが、乾の作品の発見は、日本における人形アニメーションの初期の達成に重要な光を投げかけるものである。オリジナルのフィルムプリントの存在する可能性はありつつも、我々が発見できたのは、1980年代、乾孝本人がナレーションを付けたうえでオリジナルフィルムから再撮影されたVHSテープのみである。二本のタイトルが確認されている。1931年に作られたと思われる『鏡』と、1932年の『人魚と人間』で、共にH.C. アンデルセン原作の物語を原作としている。乾は作品のために人形を手作りし、さらには、切り絵による影絵アニメーションや、砂アニメーション、そして二重露光といった革新的な技術を用いている。乾はラディスラフ・スタレヴィッチによる人形アニメーション『魔法の時計』、そして数冊の技術本への言及を行ってもいる。乾の作品は、日本アニメーションの歴史的観点からみて、高く評価されるべきものであると結論づけられる。

『風の谷のナウシカ』における宮崎駿と 久石譲の出会い――映画音楽の生成

1984年にリリースされた『風の谷のナウシカ』は、久石譲が作曲を担当した初の宮崎駿作品であり、両者の関係はそれ以来20年以上にわたって続いている。両者が出会ったのはアニメブームの時代、映画、音楽、本を同時に市場に出す販売戦略が流行していた頃である。久石は、宮崎に見せられたイメージ画をもとに「イメージレコード」を作った。このレコードは宮崎の想像力を掻き立てた。彼らにとって、創造を行ううえでの幸福な恊働効果であった。とりわけ、若いナウシカの声と「風の伝説」はこのアニメーション作品の構造を特定するのに役割を果たした。プロデューサー高畑勲は作曲に対して大きく貢献した。音楽に無関心だった宮崎のかわりに、映画全体に完璧にフィットする音楽を選び、デザインしたのだ。

点図形が与える感情効果――左右の動き方向の差異による印象の違い

スクリーン上の運動の主観的効果については、美学者およびアニメーターたちが言及を行ってきた。この研究では、左から右、もしくは右から左へと動く点についての観察者の印象を、SD法(意味差判別法)を用いて経験的に調査し、その結果を統計的に分析する。因子分析は、三つの因子を用いる――活動性、評価、なめらかさ。分散分析は、活動性と評価において運動の方向性が大きな効果を及ぼすことを示唆する。観察者は右から左への運動を、その逆の運動よりも、たとえば両者の運動が同じパターンだったとしても、より活発であると感じる。その結果は、主観的経験に基づく美学者やアニメーターの記述を確かなものとする。

韓国アニメーション地勢図の変化

韓国のアニメーションは、1990年代の後半より文化産業の観点から認知されはじめ、そのことはアニメーションにおける様々な方向への多彩な変化に影響を与えた。政府の支援やポリシー、韓国のアニメーション構造強化するための関連組織の設立、メディアにおける多彩な変化の要求に対応するための産業の制作システムの変化、アニメーション制作における多角的な技術、大学における集中的な教育といったものは、アニメーションのインフラストラクチャーや短編制作を強化した。とりわけここでポイントとなるのは、アニメーションが放映される窓が、DMB放送の開始による画期的な変化を体験しているということである。

オリバー・ツイストの終焉――子供・青年向けアニメーション・テレビシリーズにおける日本文化とヨーロッパの影響

日本の古典的アニメーション・シリーズの多くにおいて、キャラクターたちがドラマティックな状況に置かれるのは何故だろうか? 余談としてディケンズの「ソーシャル・ノベル」からスタートし、ヨーロッパとアメリカにおける最も重要な小説(『家なき子』『赤毛のアン』など)へと横断し、西洋の原作のコンテンツと日本の社会構造で生まれた価値を扱うアニメの戦略(幼年時代と青年時代、独立と成長、日本のドラマの戦略、少女マンガの演劇性)へと辿り着く。ビルドゥンスクロマンにおける日本と西洋の戦略のあいだには多くの類似が見られるが、アニメの分析においては差異はめったに見出されることがない。世代間の葛藤、幼年時代とは何か、子供ができること、子供がすべきことについての異なった理解、家族の概念の違いなどである。1960年代終盤以降の日本社会と文化の変化が扱われる。

Puppets in a Vignette: Edwin S. Porter's Animation Work

「物語映画の父」と称されるエドウイン・ストラトン・ポーターの『テデイ=ベア』(1907年)には、ストップモーション・アニメーション技去によって抽出されたワン・ショットが含まれている。テデイ・ベア人形がアクロパットを繰り広げるこのショットは、トム・ガニングらが提唱する「アトラクションの映画」、すなわち「見世物」としての純粋な視覚的快楽を発動させる初期映画の属性を表明している。その「アトラクシヨン」性を誘引するものとして、(1)ナラティヴの中断もしくは弛緩、(2)画面に施された「ヴィネット・マスク」、すなわち「枠組み」効果、そして、この二つの要因と有機的に絡み合い、統括するものとして、(3)ストップモーション・アニメーションという表現方法によって得られた美的表現機能の3要因が想定される。造形物=人形が、木目模様が施されたヴィネットで閉じられた「造形的空間」で、止められた一瞬一瞬を積み重ねて動きを生成するアニメーション技法で還元的に組成された、説話的流れとは相容れない「造形的時間」を醸し出す。この重層的「造形」構造によって醸し出された視覚的表象性、すなわち「アトラクションの映画」を規定する「タブロー」としての表現機能が「映画史におけるポーターの暖昧なポジション」(ノエル・バーチ)を最も先鋭的な形で露呈させているのである。

川本喜八郎アニメーションの人形に関する心理学的検討

川本喜八郎はアニメーション作家および人形作家の巨匠として世界に知られている。この研究は、彼の人形の顔に現れる相貌的・性格的特徴について、日本の伝統芸能である能と文楽との比較によって調査する評定者は川本の人形の表情を含む15の評定刺激を評価し、能の仮面や文楽の人形の顔を42の項目で評価する。要素分析は相貌的特徴について5つの要因を見せ、性格的分析について3つの要因を見せる。さらなる分析では、川本の人形の顔、能の仮面、文楽の人形の顔の比較をそれぞれの要因において行う。その結果は、共通点と相違点を見せる。それが示すのは、川本の人形は日本の伝統演劇から影響を受けているということであり、川本は、アニメーションと人形劇で人形を分けて作っているということである。

"オバケ"のめぐる知覚心理学的研究法の提案

アニメーションにおいて”オバケ”という技法はキャラクターの動きをスムーズまたは切れ味よく見せるために職人技として活用されてきた。心理学的には、仮現運動との関係で観測しうる。オバケのかたちは動いている対象物の形態とは異なるがゆえに膨大に存在するので、この研究では直線や曲線をオバケを代表するものとして選ぶ。50名の実験参加者はコンピュータで作られ3つの段階で素早く移行する20種類の刺激を観察する。そのうち2段階目がオバケと仮現運動の要素で構成されている。この方法を使って、2種類のおばけのあいだの運動的な傾向を比較した。それによりいくつかの要因が見つかった。(1)観察者は仮現運動よりもオバケの動きを概して好む、(2)オバケは最短距離を通ることが気に入られるとかぎらず、それは仮現運動の特徴とは異なっている。これらの要素が示すのは、オバケの役割は運動の意味に深く関わっていることだ。これらの事実が示すのは、オバケの機能が運動の意味に密接に関わっているということであり、オバケは運動の知覚の文献のなかでの線運動錯視とも関係してくるだろう。

アニメーションの著作権

アニメーションは歴史的に映画の一種としてカテゴライズされてきたゆえに、アニメーションの著作権の問題は基本的に映画の問題として考えねばならない。この観点から、以下の側面で問題を議論する。(1)アニメーションの作家、(2)著作権者、(3)著作権保護期間。議論のはじめには、このトピックに関係するいくつかの大きな問いが議論される。近年、映画およびアニメーションの著作権の問題は日本において大衆の興味を惹きつつある。アニメーションや映画の製作会社がその経済的影響に気付きはじめ、その利益について気付きはじめたからだ。2002年制定の知的財産基本法を根拠として、2004年のコンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律が施行された。マンガや諷刺画、アニメーションの著作権を守り、その実践的な公使の促進を目指すものである。今日、アニメーションはテレビゲームをはじめ多岐にわたる利用がされており、多くのアニメーションのキャラクターが高い利益を生み出している。これらの経済的結果を考えると、アニメーションとその著作権の問題からは目を逸らすべきではない。

この世界をアニメートする――ユーリー・ノルシュテイン『話の話』について

ユーリー・ノルシュテインの『話の話』(1979)は複雑な構造をしているが、監督の言葉によれば、この映画はとても単純な文に要約しうる――「私たちは生きている」

この説明は、「永遠」と名づけられたエピソードの分析によって理解しうる。このエピソードは、ノルシュテインが日常的な環境に生まれた絶対的な感覚の経験をしたとき着想された。彼はこのエピソードをシンプルなグラフィック・スタイルを用いて構成した。彼によるこのスタイルの利用は、あらゆる既存の観念を拒否する世界を描きたいがゆえのものであり、それを覗きみた人間が、その世界を何か新しいものへと変容させたかったゆえのものである。この映画を見ることでそれぞれの観客がその世界に新しい意味を付け加えることができたとき、生の感覚は蘇る。

『話の話』は空想的な世界を作りだす映画ではなく、この世界をアニメートするものなのである。

押井守のアニメーション映画における人間と人形の描写――『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)、『イノセンス』(2004)を中心に

この論文の目的は、押井守のアニメーションにおける人形の描写を論ずることである。押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)と『イノセンス』(2004)を題材として、とりわけ、人間と、マネキンやロボットといった人型の人形とのあいだの差異に注意を払う。

本質的に、アニメーションは生きてはいないものを生きているかのように動かすので、人間と人間型の人形、もしくは有機物と無機物のあいだの違いは、描写におけるリアリズムの程度によって明らかにされる。しかしながら、押井はこの制限を克服し、1989年以降、彼のすべての労力をレイアウトのプロセスに注いでいる。

『うる星やつら2』では、その違いは、描写における特徴の違いやアニメーションされているかどうかで明らかになる。つまり、肌の色がかわったり、髪の毛や口が存在したりしなかったり、関節を表す二重線が入れられることによってである。しかし、『イノセンス』においては、差異はデザインからは不明瞭であり、アニメーターによるデリケートな方向付けによって決まる。押井のアニメーションのオリジナリティが明らかになるのは、そういった部分である。

アニメーションにおける音と動きの表現――『鉄腕アトム』を中心に

日本のアニメーション史を振り返ってみると、日本のアニメーションは2つのタイプに分けることができる。キャラクターが動くものと、動かないものである。後者のほとんどが起源とするのは「鉄腕アトム」のテレビアニメーションシリーズで、1963年に初公開された。このアニメーションの特徴のひとつは、キャラクターのアクションによって動きが作られず、効果的なカメラの働きや編集を通じて生み出されることである。この論文の主な目的は、セリフや音楽、効果音といったもののテレビシリーズにおける要素の考察である。

『ルパン三世』初期エピソードにおける「新しさ」についての考察

テレビアニメーションにおけるシナリオは、大和屋竺の場合、どのようにイメージに変化していくのだろうか?
この研究は、『ルパン三世』の第二話「魔術師と呼ばれた男」のケースにおける、テレビアニメーションの脚本のイメージへの変化の考察である。

このエピソードの脚本家は大和屋竺である。大和屋は『殺しの烙印』(1967)や『処女ゲバゲバ』(1969)の脚本家として知られる。その作品では、「オブジェ」のこだわりに固執し、登場人物のアクションの理由を説明しない。それゆえ、彼の作品はとても奇妙である。そんな彼は、テレビアニメーションの脚本を書くのは難しいのではないか。テレビアニメーションは普通を必要としているがゆえに。

結果として、彼の脚本は部分的に変更され、テレビ向きにされる。脚本に書かれた「オブジェ」のほとんどは消される。しかし、キャラクターのアクションの理由は説明されないままだ。なぜ?

ご存知の通り、テレビアニメーションには暗黙の理解が存在する。そのことは、説明の省略を可能にする。山本の特徴のひとつである奇妙さは許容される。彼がテレビアニメーションの脚本を描くのが好きなのは、彼がテレビアニメーションの可能性を見ていたからだ。

運動速度感に対する"オバケ"の形態的属性の影響

仮現運動を導入するようなコマを導入することでスムーズかつダイナミックな動きを表現することはアニメーションにおいてオバケと呼ばれている。それは、仮現運動を導く道となる対象として研究されている。当研究では、オバケの形状(空間周波数と輝度のコントラスト)がスピードの印象に与える影響を調査する。オバケが挿入されるとスピードの印象は増加し、空間周波数がスピードの印象に影響を与える一方、コントラストは与えないことが示される。これらの事実から、仮現運動の運動検出とオバケの形態的情報は独立して進行するものであり、オバケを含む運動の表現が総体として知覚されるとき、オバケの形態処理プロセスはスピードの印象に影響を与える最も重要な要因のひとつとなることを示唆する。

スクリーン上を動く対象物のスピード感の異方性

日本の著名なアニメーション作家富野由悠季は、左方向の運動は右方向の運動よりも速く知覚されると言った。心理学者吉田宏之(2006)は左方向と右方向に対し人は違った運動の印象を抱くことを発見した。この研究では、一対比較法を用いて速度の知覚における方向的差異を捉えようと試みる。水平的な運動に加え、重力がそのスピード知覚に影響を与えると思われる垂直方向についても調査する。実験参加者は二つのグループに振り分けられる。31人の学生は等速運動の、38人の学生は加速運動の比較を行った。互いに区別しづらい3つの異なる(加速)運動を提示した。等速運動の参加者は一定の傾向を示した。左方向の運動を右方向の運動よりも、下向きよりも上向きを速いと認識した。しかしながら、加速運動のケースでは、一定した傾向は見られなかった。

韓国の漫画原作アニメーションについての考察

韓国のアニメーション産業がマンガ原作の作品を作るのが熱心ではないという事実について議論する。韓国のアニメーションでは小説原作と比べてマンガ原作のものが大きな成功を収めているにもかかわらず、マンガの物語とそれをアニメーションのために使う関係性というのは近年に至るまで作り上げられてこなかった。この論文では、韓国アニメーションの簡潔な概要が再考される。そして、マンガや小説を原作とするアニメーション製作の結果が比較される。さらには、映画、テレビドラマ、ゲームといったメディアミックスのマーケットからマンガが得ている成功も再考される。その際、メディアミックス市場のなかでいかにマンガが重要視されうるかという観点から、日本の作品『セーラームーン』を引用する。宮崎駿が主張するように、韓国のコミックアーティストとアニメーション製作者のあいだの相互不信がなくなったとき、その関係性は兄弟のように発展し、互いに発展するだろう。

アニメーション制作に関する日米比較:組織能力のCG技術導入への影響

この論文では、どの種の組織能力が日本およびアメリカのアニメーション・スタジオにおけるコンピュータ・グラフィックの導入に役立つのか、そしてコンテンツの競争力はいかに得られるのかを問うた。2004年から2006年のあいだにかけて6つの日本のアニメーション・スタジオと3つのアメリカのアニメーション・スタジオに聞き取り調査を行い、製造業用にデザインされた調査の枠組みがアニメーション産業にも適用可能であることを発見した。日本のスタジオは、複数の職能をもつ強力なリーダーによって典型化される「擦り合わせ型」の組織的能力を利用する。この種の能力タイプは高度な完全性をもつプロダクトを生み出すのに貢献する。アメリカのスタジオはプランニングおよび製作における全体のプロセスをカバーするデジタル・システムに典型化される「システム支援型」を利用する。この種の能力タイプは世界市場に対して安定的に制作の波を供給するのに貢献する。当議論では、日本のアニメーション・スタジオは3DCG技術を効果的に導入しうるのかを問う。そして、組織的能力と発展的技術の両方をあわせもつための可能性について示唆する。

今敏の作品におけるキャラクターが抱くイメージの描写について――イメージの視覚化から実体化への変化を追って

今敏は才能ある長編監督である。彼は、あるキャラクターは、不安定な主人公の心的イメージを、異なるシチュエーションで現実のもととして見ると述べている。今が用いる可視的な心的イメージは、心的表象を視覚化するアニメーションの特徴に対応するものだと考えられてきた。しかし、今は、可視的な心的イメージの使用から、心的イメージが実体化された世界のドローイングへと表現スタイルを変化させていった。

直交3軸のうち1軸反転が生み出す形・動き知覚の歪み――不可能図形と影絵の回転による検討

M.C.エッシャーによる有名な不可能図形ベルヴェデーレは、左右方向に図形の下部を反転させれば実現可能なものとなる。そのことについては、梶川泰司が発見した。日本のメディア・ディレクター茅原伸幸は三角形の一辺を裏返すこと関係するもう一つの興味深い例を作っている。シルエット錯視と呼ばれるそれは、回転する人間の影でできている。後者の場合、前後の次元は反転によって起こるものの、観察者はそれを違った性質――たとえば回転方向の変化や(と)影絵の人物の仕草の反転――に帰する。これらの現象に基づき、われわれは常に反転を反転として感じるとは限らず、違った次元の反転や他の性質の変化にそれを見出すことがあることを論じる。

北欧および中米の4ヵ国におけるアニメーション事情、および日本のアニメの受容状況

このレポートは、アイスランド、アイルランド、ニカラグア、キューバにおけるアニメーション産業の状況と、これら四カ国における日本のアニメの受容について語る。アイスランドのアニメーション産業は小さいが、短編作品やテレビコマーシャルを作るインディペンデント・アニメーターのスタジオや、30人ほどのスタッフを抱えるスタジオCAOZを訪問することができた。スタジオCAOZは、アイスランド初の長編アニメーションThorの制作の最中だった。アイルランドは二ケタのスタッフを雇用するアニメーション・スタジオがいくつもある。それらのなかで、私はテレビアニメーションに携わるブラウン・バグ・フィルムズを訪問した。ニカラグアにはアニメーションに特化したスタジオはない。しかしながら、いくつかの会社は映像一般の制作に携わっており、いくらかのテレビ用商業アニメーションが作られている。キューバでは国営のICAICスタジオが多くのテレビアニメーション、教育アニメーション、ミュージック・クリップを作っている。キューバはこれまで6本の長編を作っており、スタジオ訪問時には七本目が制作中だった。これら4カ国すべてで、日本のアニメに対する意識や親しみは大きかった。

GISとVRアニメーションを利用した屋上緑化シミュレーションシステムの開発

本研究では、まず、地理情報システム(GIS)を用いて、大分市市街から屋上緑化可能な建物をピックアックした。次に、VRアニメーションで、選別された建物の屋上から、木の種類や視点などを変更、修正できるプレゼンテーションツールを開発した。

<ロボッ卜テコンV>に現われる主調色の作用と象徴性に関する研究――デジタル復元版〈ロボッ卜テコンV>を中心に

この論文は、初期韓国アニメーションであるくロボットテコンV>の2007年復元版の色彩分析を行ったものである。1976に製作された原版は保存状態がよくないので、色彩分析の対象として相応しくないと判断したためである。アニメーションに使われる色彩は製作者の演出であり、特
にキャラクターに使われている色相は性格を含め、多くの情報と象徴的なイメージを伝達する。観客はアニメーションで初めてキャラクターを見る際、色彩のイメージを通じて性格の特性を認知するようになる。さらに、色彩イメージの可変性を認識しない色彩選定は作品の完成度にも影響を与えることになるため、色彩のイメージについての分析は大きな意味を持つと言える。

ドン・ハーツフェルト作品におけるシンプルな描画スタイルの意義について

棒線画を用いてアニメーションを作るドン・ハーツフェルトは、多くのアニメーション作家がするように空想をリテラルなかたちでビジュアル化することにアニメーションの可能性を見出していない。彼は「たまたまアニメートすることになった映画作家」と自称するが、彼が作品において行っていることは、ノーマン・マクラレンやユーリ・ノルシュテインといった伝統的アニメーション作家がアニメーションにおけるシンプルさが理論的に持つ意味について語っていることの実践とみなすことができる。ハーツフェルトのアニメーションのシンプルなスタイルは、観客の想像力を制限しない。そのシンプルさは、視覚的に表象しえない世界の存在を観客に感じとらせるのだ。

押井守『立喰師列伝』試論――「スーパーライヴメーション」を中心に

本研究は、押井守のアニメーション映画『立喰師列伝』を検討する。「スーパーライヴメーション」の技術を取り上げ、それについて論じる。さらに、「スーパーライヴメーション」の技術が『立喰師列伝』で用いられた意図について、『立喰師列伝』の映画版と小説版との比較をすることで分析する。

『シンプソンズ』とアメリカ一一架空の街スプリングフィールドの家族を通して見るアメリカ社会

『シンプソンズ』は、アメリカで20年以上にわたって放送される、テレビアニメーションのシリーズで、世界でもっとも有名なアニメーションの家族の一つである。シンプソン家は、スプリングフィールドという架空の郊外に住む、どこか機能不全に陥った家族として描かれる。このアニメーションは、家族の価値について多くの重要な問題を提起する。アニメーションのキャラクターが現実について問いかけを行うと、じっさいに現実世界での論争を引き起こすこともしばしばだった。家族の意味とその社会における役割は、昔からアメリカでは重要な問題であった。というのも離婚率が上昇し、片方の親がひとりで子供の世話をするようになったためである。同様に、シンプソン一家は家族の価値について意見を述べる。言い換えれば、アメリカにおいて現在の家族がどうあるべきかについての見解を述べるのである。この研究を通じて、私は『シンプソンズ』の作品を分析したいと思っている。とくにこのアニメーションシリーズがいかにアメリカ社会の変化を描いているか、そしてシンプソン一家がいか彼らの観点からアメリカの社会と文化を表象しようとしているかを分析したい。

釘にはね返りなが、ら斜面を転がる球体の動きに対する生物性印象――球体のはね返り係数と重さの効果について

球体が釘を打たれた斜面の上を転がるとき、跳ね返りと転がりは、はね返り係数と球体の重さのによって異なる。本研究は、こうした球体の特性が、それが見られたときの生物性の印象に影響するかを検討する。七つの転がる球体のビデオクリップからつくられた七つのポイント・ライト・ディスプレイ・アニメーションと、同じアニメーションを逆再生することで得られる七つの刺激が、59人の被験者に提示された。彼らはそれぞれの刺激となるアニメーションの生物性に評点をつけるよう求められた。結果は、はね返り係数が低いほど生物性の点が高くなること、球体が重いほど生物性の印象が強くなることを示していた。また、球体の重さは、一つのポイント・ライト・ディスプレイ内でのはね返りの回数と密接な関係があることが明らかになった。つまり球体が重いほどはね返りの回数が少なかった。これらの結果を、Premack とPremack (1995)によって提案された「動きの自動性」と「ゴール志向性」の観点から論じた。これらの観点は動体の知覚された意図を理解するうえで重要なファクターである。

2枚の画像で構成される後戻り感を生まないアニメーション

二つの画像をかわるがわる連続的に見せられると、われわれは通常、二つの画像のあいだの後戻り感、つまり逆行する動きを知覚する。しかしながら、交互の反復にたいして、前進する動きを知覚する場合がある。本研究は、説得力のある事例を提示することで、それらがシークエンスにたいする後退の印象をもたらさない理由を考察することを目的とする。まずは二つのケースを区別する。シーケンシャルな動きと前進的な動き。後者がより重要である。なぜならそれはアニメーション研究に関わる知覚的かつ/あるいは技術的な問題を含んでいるからである。われわれは後者に属する幾つかの事例を提示する。後者とは、表象的慣性に関連する順行の動き(Freyd and Finke, 1984)と、the twostroke apparent motionとして知られる順行の動きである (Mather, 2006). それらの現象に関する議論に基づき、コンテクストと/あるいは経験の役割は比較的限定されたものであると結論する。

製造業としてのアニメーション産業の展望

日本ではアニメーション映画製作は堅固な産業であるとは言い難い。私は、アニメーション映画製作業の発展を製造業という側面から考察する。コストと著作権のため、プレ・プロダクションの機能は、将来、日本のアニメーション製作において一層重要なものとなるだろう。日本のアニメーション産業では、製作会社は自分の負担で製作した場合に著作権を用いることができる。アニメーション映画の製作コストを抱えることのできる製作会社が、アニメーション作りの品質を管理できるというアドバンテージをもつ。製作会社による品質管理は、すべての製作プロセスを受け持つことによって一層可能なものとなる。これは、国内の資源を用いた産物を世界に提供する日本の製造業のモデルとなる可能性を秘めている。

視点が担うメッセージ――『ひぐらしのなく頃に』に見るノベルゲームの物語構成法

本稿では、連続殺人事件を題材としたノベル・ゲーム『ひぐらしのなく頃に』を、その物語内容と構造に着目しつつ分析する。ここでの議論は、ノベル・ゲームが特徴あるメディア形式として機能する過程を明らかにするものである。ノベル・ゲームは、「マルチ・エンディング」のアドヴェンチャー・ゲームの原則に基づく。プレイヤーは主人公に同一化し、「最良のエンディング」をめざしてアクションを選択してゆく。そうしたアドベンチャー・ゲームの構造はユニークな単数一人称を生み出し、こうした特徴は『ひぐらしのなく頃に』でも模倣されている。しかし、このゲームにおいては、主人公の視点からだけでは殺人事件を解決するのは不可能である。各人物の視点を重ね合うことが要求される。ノベル・ゲームにおける単数一人称は解消されねばならない。しかし、こうした解消は、プレイヤーが「ゲーム」としてのストーリーに参加することが要求される。つまり、策日は、そのゲームとしての特性を廃棄すると同時に創造するのである。こうした『ひぐらしのなく頃に』の特徴は、ストーリーテリングのメディアとしての「ゲーム」のオリジナリティーがゲームそのものの構造の一部であることを示している。

観客参加型コンテンツの成立と友情物語――少女向けアニメ『ブリキュア』シリーズにおける観客参加の形式

本稿では、子供向けアニメーションの『プリキュア』の劇場版に焦点を当てることで、アニメーションの現在の状況について分析する。『プリキュア』劇場版の特徴は、観客参加という点にある。キャラクターが直接観客に呼びかけ、観客は劇場スタッフに渡されたペンライトでそれに応える。『プリキュア』劇場版は観客の応援によって完成するのである。応援することで観客は、『プリキュア』のテーマである友情に参加する。観客参加は、友情を物語の外部にまで拡張し、映画は参加するイベント、アトラクションとなる。『プリキュア』は、『プリキュア』ファンたちの祭典なのである。『プリキュア』劇場版のこうした特徴は、ストーリーの重要性が低いという印象を与えるかもしれない。しかし『プリキュア』派生アイテムはテレビシリーズの友情ストーリーに基づいている。テレビシリーズにおける友情は、『プリキュア』ファンの一体感と溶け合う。商業作品において友情が重要なものである理由は、作品と消費者のあいだのポジティヴな関係のためにそれが必要だからである。『プリキュア』劇場版における観客参加は、そうしたポジティヴな関係性の実現なのである。

韓国のフラッシュコンテンツの研究――制作事例を中心に

韓国において、カートゥーン、キャラクター、アニメーション、ゲーム、ウェブデザインなどフラッシュを使用したメディア環境は、多様な文化製品を発展させてきた。韓国のフラッシュコンテンツは、メディアミックス(他のメディアとの接続可能性)、デジタル・コンバージェンス(収斂と変換)の戦略を発展させ、韓国におけるサクセスストーリーとなった。そうしたマルチメディアツールを用いることによるきわめて高い価値の利点、つまりインタラクティブなフラッシュがゲームや教育的な内容の発展に終わりなき可能性を与えるがゆえに与えるものについて示唆する。この論文では、2000年代初頭から今に至るまで、それは7種類のフラッシュ・コンテンツ、メディア、ジャンル分析を、韓国の制作の実践をベースとして用いている。質量ともに発展し多彩でもある創造性のためのフラッシュ・ツールで作られたフラッシュのコンテンツに、それらは基づいている。その本性とカカテゴリーについて論じられるだろう。最終的に、コロアのフラッシュコンテンツの現在の限界と拡張の可能性についても論じる。

争いの種――アニメーション研究に関する考察

学界におけるアニメーシヨンは、依然として相対的に十分研究されていない主題分野である(変化の兆しはあるが)。本論文はアニメーシヨン研究という草創期の分野に対して論争を巻き起こし得る反応である。本論文はアニメーションの周縁化が示している意味合いを探究、正当な学術領域としての同主題の進歩と強化という側面から著しい障害(及び行き止まり) と看倣されているものに立ち向かう。本論文の中で提案される全般的なアプローチは、過去において同分野で容認されてきたものと、そして現在において正統であり、且つ認識論的には生産的であると公言されているものに反目している。

アニメーション研究における実技-理論の関係性に関する幾つかの考え

本論文は、三つの枠組みを通してアニメーション研究における理論と実技(practice=実践)との関係性を調べる。その三つとは、正統的周辺参加、批判的(critical=臨界的)実践、再文脈化である。本論文の包括的な主強は、アニメーション研究が「学際的jな方法で理解されるべきということであり、そしてそうした理解は、類似した或いは関連した境界線で実践(=実技)の異なる複数のコミュニティがどのように作用するのかを評価することを意味する。本論文は、アニメーション研究の分野で働く人々によって使われる言説の地図作りを始める方法として、電子メールによる討論グループのデータに拠っている。ここでは、テクノロジーにおける認知された役割に特定の関心が与えられており、特に、実に批判的なアニメーション研究コミュニティ(つまり同じ程度で理論と実技に注意を払うコミュニティ)の発展を妨げると見られる複数の方法がその関心の的になっている。

学術的アニメーション研究の基盤形成に向けての一試論

日本の大学におけるアニメーション教育の場は、多くがクリエイター養成のための場であり、学術研究の場は未だ整備されていない。この状況下では、後進の研究者を教育し、再生産していくサイクルが形成されない。また学術研究成果の共有による学際的交流、研究コミュニティの構築もできない。既存のジャーナリズムによる研究例は多々ある。しかしアカデミズムにおける学術研究は、ジャーナリズムとは異なり、専門的な議論の本質的な意義をそのまま問うことができる利点を持つ。非クリエイター志望の学生に対する体系的な教育もなされていない。彼あるいは彼女らは、必ずしも研究者志望ではないが、アニメーションに関する関心は高い。その教育のためには、クリエイター養成とは異なる専門家による教育課程が必嬰である。アニメーションの学術的研究が確立するためには、専門的職業人としての「アニメーション研究者」がアカデミズムの中に存在しなくてはならない。

アニメーション研究の方法論を意識する――海外文献研究会とアニメーション研究のマッピング・プロジェク卜の背景にあるもの

日本国内においてアニメーション研究の歴史的達成・世界的動向・状況が見えづらい現状は、新たにアニメーション研究を志す人に対して、研究の方法論の内面化の機会を減らすゆえに障壁となる。それに加え、アニメーション研究に直接的な関わりを持たない研究者・学者・ジャーナリストなどが、根拠もなく自由に言及することを許す雰囲気を生み出してしまうという点において、アニメーション研究を学問分野として成立させようと試みる際の大きな障害ともなってしまい、看過すべき問題ではないといえる。海外文献研究会や、「マンガ・アニメーション分野における国内外の論文/研究者リスト作成について」のプロジェクトは、そういった現状の問題点を解決するためのひとつの試みである。

制限のなさとアニメーション(日英版同時掲載)

この20年間驚異的に増加したアニメーションの学術研究は、最近の過熱化の中で、より異種混合的な研究領域になってしまった。同研究領域は、アイデアのための制限のないプレーグラウンドとしてのアニメーション、特にアニメを利用することに対する幅広い原動力を増強させてきたのだが、勿論それ自体に問題となることは何もない。しかしそのような傾向が明らかに産出している学術的エネルギーは、アニメーションにおける最近の研究成果、そしてその生産的な潜在力が置かれている現在の場に関する一定の考察に結び付けられる必要がある。

第3回メカデミア大会:日本発アニメ・マンガ・メディア理論をめぐって(2012年11月29日~ 12月2目、ソウル・韓国映像資料院および東国大学)

2006年以来、アメリカのミネソタ大学出版局によって発行されてきた年刊雑誌『メカデミア(Mechademia)』を背宗とするメカデミア大会は2012年11月29日~ 12月2日、会議「日本発アニメ・マンガ・メディア理論」というテーマの下で初めて北米でも日本でもない地、つまりソウルで開催された。「日本発」の娯楽メディアやそのファン文化に携わる研究者にとって貴重な交流の場となっていたが、本レポートにおいては問題点をも指摘している。具体的には、主な焦点が「日本発」の一種のアニメーションに制限されること、アニメーション特有の表現力よりもそれを手がかりとした文化論と哲学的な考察が中心に据えられていること、また、表現論・メディア論・社会批評の不均等な三角関係あるいは資料知識と理論構築とのギャップといった3点である。さらに、アジアを拠点とする研究者からの積極的な問題提起がますます求められていくと思われる。

「教育映画」が護ったもの:占領下日本におけるアニメーション映画試論

今回の調査で占領期における検閲の手続きの具体的な内容が一部明らかになった。当時、日本の漫画映画は「教育映画」という狭いカテゴリーにおかれ、多様な作風のものが現れたことも分かった。1947年の『ムクの木の話』は、一定の観客にはぎこちないと受け入れられるような動きで構成されているが、これは後のアニメーション三人の会で言及される表現形式へ継続されるものではなく、東宝の航空教育資料制作所からきた独自の流れであり、特撮というジャンルへ繋がるものであった。占領下日本の漫画映画界は、解放や検閲という目まぐるしい環境の変化に対応しながら、「教育映画」というカテゴリーを結果的に利用して、実験的な作品を生み出した。「教育映画」は一般的な意味での教育の成果をあげるためのものだけではなく、はからずも日本アニメーション映画史における分岐点となるような重要な作品、あるいは主流の作品とは異なる多様な作風のものを育む土壌ともなった。

手塚治虫のリミテッド・アニメーションの技法の分析 ――『ある街角の物語』を中心に

『ある街角の物語』(1962)は手塚治虫(1928-1989)の最初のアニメーション作品である。ここでは、同作品の映像分析を通して、手塚のリミテッド・アニメーションの再評価を試みた。分析の方法としては、オープニングのいくつかのシークエンスを取り上げ、内容ではなく、そこで使われているアニメーションの技法の分析をした。さらに、「アトム誕生」(『鉄腕アトム』第一話、1963)他、手塚が影響を受けた作品、または同時代の作品として、『ピノキオ』(1940)、「宇宙からの訪問者」(『マイティ・マウス』のエピソード、1959)、そして『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)を取り上げ、冒頭に使われている技法を分析、比較した。分析結果は、『ある街角の物語』で使われたリミテッド・アニメーションが単なる経済的な手段にとどまらないことを示している。手塚は様々な表現の可能性を追求し、本作品に美的価値を与えている。

日本の映画館で上映された最初の(海外)アニメーション映画について

1933年、映画批評家の吉山旭光は、1909年の『ニッパールの変形』という映画が、日本の映画館で上映された最初の(欧米の)アニメーション映画であったと主張した。2001年にはアニメーション史家の渡辺泰が、1912年4月15日に東京の浅草帝国館で初演された『ニツパルの変形』という映画を挙げるも、この映画を特定するための詳細が十分ではないと述べていた。そして2012年12月、『ニッパルの変形』がエミール・コールの1911年の映画『LesExploits de Feu Follet (鬼火の冒険)』であり、他国ではrTheNipper’s Transformations (ニツパーの変形)』として上映されていたことを確認できた。本稿では、『ニッパーの変形』が日本の映画館で最初に上映された西欧のアニメーションであることが特定された過程を遡り、さらに「日本の映画館で上映された最初のアニメーション映画」作品として他にありうる候補について考察する。

「ジャパニメーションの表情とその内面(Ⅰ)」――キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島のアニメーション』より

学界では、韓国語で執筆された日本のアニメーションについての研究はこれまでほとんど紹介されてこなかった。本稿は、キム・ジュニアン著『イメージの帝国日本列島上のアニメーション』を日本語訳した一部である。同書は、日本のアニメーションを研究対象として、様々な視角から幅広い対象を取り上げている。日本語訳では2章「ジャパニメーションとその内面」の3節「歌舞伎、絵巻、物語、そして私小説として」を掲載した。日本のアニメーションは、日本の伝統文化である歌舞伎、絵巻、また文学の領域では私小説からの影響を受けている。たとえば、演劇は独自にジャパニメーションに多様な影響を及ぼしており、歌舞伎においては、美少女美少年のような類型のキャラクターがその代表的な事例に該当する。歌舞伎の歴史は、ジャパニメーションにおける美少女美少年を含めた暖昧な性のアイデンテイティと役割を持ったキャラクターが、マスメディア産業による性の商品化以前の日本文化の伝統において存在してきたことを示唆している。

アニメーションの本を書くということ――『『話の話』の話 アニメーターの旅』と『ブリティッシュ・アニメーション チャンネル4ファクター』(学会主催講演録)

本稿は、2012年11月15日、東京・渋谷の桑沢デザイン研究所にて開催された、クレア・キッソン氏の講演会の講演原稿を翻訳のうえ採録したものである。この講演会は、東京重芸術大学大学院映像研究科の招聴で来日したキッソン氏に時間を割いて頂き、訳者(土居伸彰)のコーディネートのもと、日本アニメーション学会主催、東京造形大学共催で開催された。キッソン氏は、先鋭的なアニメーション表現によって世界的に有名なイギリスのチャンネル4で長年アニメーション製作の現場に関わり、退職後はアニメーションに関する著作を出版するなど研究者としての業績も多い。本講演は、キッソン氏が二冊の著作の出版に至る経緯やその際に直面した困難、本自体の意義について語って頂いたものである。講演では、出版社採しなど、本を書いた「後」の問題についても触れられるなど、大きなトピックをカバーする有益なものとなった。なお、氏が直面した、「学術的研究者であること」と「在野の研究者であること」の聞に位置することの葛藤は、アニメーション・スタディーズの受容・勃興期にある日本の同様の現状においても示唆の大きいものであるといえよう。なお、今回の講演会は、東京萎術大学大学院映像研究科の皆様、特に山村浩二教授のサポートなくしては成立しなかった。改めて御礼申し上げたい。(抄録作成:土居伸彰)

よこにらみのアニメーション――映画研究との接点――

本稿は、日本アニメーション学会の2013年度全国大会における筆者の基調講演に基づいている。ここでは、その後半を中心に5つの主題を持ってまとめておきたい。第一は、映画とアニメーションの両者に共通する特徴があるにもかかわらず、なぜ映画評論・研究はアニメーションを正面から論じてこなかったのか、その原因にふれた。第二に、アニメーションにおける重力の問題。1932年、寺田寅彦は「映画には質量がない」と言ったことがある。彼の映画論はアニメーションの特質にも当てはまると思われる。第三に、もう一つの絵巻論。1934年、寺田寅彦は絵巻物と映画との類似点を挙げながら、享受者の二重性を指摘した。この点もアニメーションに応用できたと思われる。第四に、静止と運動。クラカウアーはアニメーションを美術の領域に委ねた。彼は、映画カメラが物的世界をとらえて露わにする、そこに映画の本質が存在すると考えたからである。最後に、アメリカニズム・速度・奥行と側面移動。日本アニメーション(アニメ)を念頭に分析・組み立てられていくラマールの理論は普遍化をめざしており、文化の固有性論は退けられるが、経済・社会構造と文化創造は切り離せないのではないだろうか。

「ザ・シンプソンズ」考――現代アメリカ社会への問いかけ――

「ザ・シンプソンズ」は24年もの長期にわたり放映されてきたアニメーションである。この作品はシンプソン家の人々の日常生活をとおして、現代アメリカ社会の重要な問題を提起している。どのエピソードにおいても、シンプソン家の人々やスプリングフィールドの街の人々は、家族や社会、政府、環境に関して問題意識を投げかける。本論文において、「ザ・シンプソンズ」は家族と共同体との役割をどのように描きだしているか、また現代アメリカ社会が直面している問題をどのように映し出しているかということを検討する。家族の価値や主人公であるホーマーの共同体への関わり方は、この作品における重要なテーマとなっている。ホーマーは18世紀のタウンファーザーの伝統の影響を受け、またベトナム戦争批判、国家批判、体制批判、環境への問題意識、女性解放というような1960年代の精神を受け継いでいる。視聴者はホーマーの共同体への積極的な関わり方の中に、無意識に自身の身代わりとして理想とする共同体との関係を重ね合わせるのではないか。

映画「ドラえもん」シリーズに見る子どものイメージ――オリジナル版とリメイク版の比較から――

本論では、日本のアニメーション映画において最長の歴史を持つ子ども向け作品「ドラえもん」シリーズに焦点を合わせ、子どもの表象の変化を読み取ろうと試みたものである。オリジナル版とそのリメイク版を比較し、どのように異なっているのかをストーリーテリングやキャラクターに着目した作品分析を行っている。そうすることによって、オリジナル版には存在しなかった新しい登場人物が増え、物語がより複雑化していること、それに加え、フラッシュバックやツーショットが多用されることによってメロドラマ的要素が強調されていることがわかった。またリメイク版では、オリジナル版にも登場しているキャラクターに新たに「萌え」要素が付け加えられていること、そして、社会的・文化的変化から母性と父性が表象されていることを明らかにした。映画「ドラえもん」シリーズは、30年の歴史を経て、子どもがもはや“なにも知らない純粋無垢な存在”として看做されなくなったことを示している。

「ジャパニメーションの表情とその内面(2)」――キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島上のアニメーション』より――

本稿は、キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島上のアニメーション』を日本語訳した一部である。『アニメーション研究』(第15巻第1号A)に掲載した前稿では、第二章「ジャパニメーションの表情とその内面」3節において、日本のアニメーションが伝統文化である歌舞伎および絵巻、また文学の領域では私小説からの影響を受けていることを論じた部分を訳出した。本稿では引き続き、同章の4節、5節を採り上げる。4節「「無国籍的」ということについて」ではジャパニメーションが無国籍的であると称される言説自体の考察となっている。後期産業資本主義の帝国的意志が無国籍性を拡大再生産し、また日本の文化的雑種性が無国籍性を構築してきた源泉と捉える。5節「髪の色の無国籍論争」では、ジャパニメーションに見られる登場人物の多様な髪の色に着目し、無国籍性の問題をより具体的に問い直す。日本人を表現する際に黒色以外の髪の色にするのは、アニメーションならではの自由な表現によるものではなく、日本人自らの再現に対する無意識的な抑圧がもたらしたものであり得るのだと指摘する。

ヨーロッパにおけるハイブリッド・アニメーション

2000年代のヨーロッパにおいて長編アニメーション映画は大人層の心をつかんだ。それはアニメーションにシリアスなテーマ、いわゆる社会的トピックスという新しい傾向をもたらすことになった。さらにメディアや技法の新しさが加わり、「ハイブリッド・アニメーション」という大人向け映画が増えつつある。私は2012年に日本で「はちみつ色のユン」を公開した。本作は、アニメーション+実写、そして国際養子という、技法およテーマにおけるハイブリッド性を備えている。配給者の視点から、フランスの商業アニメーションとスウェーデンのインディペンデント短編アニメーションを例示しながら、ヨーロッパのハイブリッド・アニメーション動向を紹介する。ここで紹介する傾向は、「アニメーション・ドキュメンタリー」より広い視座として「ハイブリッド・アニメーション」と捉えると、2000年代の変化を整理しやすく、ハイブリッド化がアニメーション外にいた作り手側の要望や期待など、多方面から起こっていることが分かる。ハイブリッド・アニメーションはアニメーション分析の一助となるのではないだろうか。

片隅から世界を眺める――「遠い」現実を「近い」ものとするアニメーションについて――

アニメーション・ドキュメンタリー隆盛の背景には、アニメーションそのものが捉えうる現実感覚の変容がある。ユーリー・ノルシュテインやキャロライン・リーフをはじめ、アニメーションに、個人が抱えるパーソナルなリアリティを映像化するメディアとしての適正を見いだす非ドキュメンタリー作家たちが、パーソナルな観点で捉えられた世界をアニメーション化するとき、その世界観が包括する範囲のあまりの「近さ」「狭さ」は、逆説的に、その彼らの世界に属さない(ときには彼らの世界を脅かし疎外する)「遠い」現実世界の存在をほのめかす。それらの作品における世界を片隅から眺めるような描写は、たとえば、アニメーション・ドキュメンタリーが、マイノリティをはじめとする他者と共有しえないリアリティを捉えようとするとき、共通点をもつようになる。

「動く」幻灯、「動かす」幻灯――「運動」の場としての幻灯会――

日本語の「幻灯」は静止画像をスクリーンに拡大映写する視覚的メディアを意味する。幻灯はまず19世紀の日本で反映した後、昭和期に復活し、戦時期から1960年代まで利用された。とりわけ1950年代、幻灯は労働争議、反基地闘争、原水禁運動、セツルメント運動などの社会運動において、草の根の教育宣伝メディアとして盛んに活用された。
 本論文は、フィルム式幻灯の「運動性」に注目する。戦後日本の幻灯には、スクリーンに映写される静止画像に「運動」の印象をもたらすための工夫を試みたいくつかの作品が創作されており、幻灯機を手持ちで動かすことによっても、「運動」の印相をつくり出すことが可能だった。また、上映者やオーディエンスが上映会場で行う、合唱、手拍子足拍子、シュプレヒコールといったライブ・パフォーマンスによっても、スクリーン上の幻灯の映像に「運動」の印象を付加することができた。幻灯上映に際してのライブ・パフォーマンスに参加するオーディエンスは、自身の声や身体の運動によって、画面内のイメージを「動かす」感覚を体験すると共に、幻灯が記録もしくは表象する現実の社会運動に向かって「動かされる」感覚をともどもに体験しえていた。

声優試論――「アニメブーム」に見る職業声優の転換点――

近年声優という職業への注目が集まっている。しかし、声優に関する個別の研究論文は存在するものの、体系的な研究が行われるには至っていない。それは声優との親和性に優れた日本アニメーションの研究においても同様である。本論ではアニメへの声の吹き込みを主に担うようになった声優を「アニメ声優」と定義し、ラジオドラマや吹替映画の担い手として活動してきた従来の声優との歴史的な比較分析を行う。また、「アニメ声優」の起源を「宇宙戦艦ヤマト」に端を発するアニメブームに求め、同作でヒロインを演じた声優の麻上洋子について考察を行う。彼女と近しい年齢の「アニメ世代」が声優を志すことで、従来の声優像とは異なる「アニメ声優」が誕生し、現在の声優イメージが形成された可能性について分析する。

マルチプレーン・カメラの立体感がもたらしたもの

1940年代、セルゲイ・M・エイゼンシュタインはディズニーのアニメーションを批判しているが、その理由として挙げたのがキャラクターと背景の描写の違いに対する違和感である。この違和感を生み出した原因の一つは、当時のディズニーがマルチプレーン・カメラを使用していたことにあったと思われる。本論文では、1930~40年代を中心とした、マルチプレーン・カメラとして同定できる使用例を取り上げる。それらは構造上、セル・アニメーションだけでなく、ミニチュア・セットを撮影することも可能であった。さらに、従来のアニメーション撮影とは異なる技術が求められることから、ミニチュア・セットや実写の撮影経験を持ったスタッフが必要とされた。マルチプレーン・カメラのミニチュア・セットや実写との接点が、アニメーションに立体感だけではなく、違和感をも、もたらしてしまったと考えられる。

東映動画TVアニメ作画枚数3500枚制限による演出表現に関する一考察(パート1)――作画枚数制限の責任は、アニメーターではなく演出家にある――

1984年、東映動画株式会社は、テレビアニメーションシリーズに於ける動画の作画使用枚数を一話に付き3500枚に制限することを開始した。コストを低減するために、他のスタジオ、例えばタツノコプロ株式会社およびサンライズ社は同様の措置を制定した。これらの制限は予想外の結果として、視覚的な表現に於いて日本アニメーションの特徴的なスタイルになって現れた。当時の資料や演出、アニメーターの経験に基づき、本稿では、如何に作画枚数を節約するかという課題が、日本のアニメーションのアート的な発展に及ぼした影響について述べる。

「ジャパニメーションの表情とその内面(3)」――キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島上のアニメーション』より――

本稿は、キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島上のアニメーション』の一部を日本語訳したものである。『アニメーション研究』(第15巻第1号A)および、(第15巻第2号)では、第二章3、4、5節を掲載した。前稿では、第二章「ジャパニメーションの表情とその内面」の第3節において、日本のアニメーションが伝統文化である歌舞伎および絵巻、また文学の領域では私小説からの影響を受けていることを論じた部分、第4節「「無国籍的」ということについて」ではジャパニメーションが無国籍的であると称される言説自体の考察、第5節「髪の色の無国籍論争」では、ジャパニメーションに見られる登場人物の多様な髪の色に着目し、無国籍性の問題をより具体的に問い直した箇所を訳出した。本稿では引き続き、同章の冒頭部分および、1節、2節を取り上げる。第1節「アニメーションにおいて漫画とは何か」では、コミックスとコミックスを原作にしたアニメーション作品の関係は、「話」のみならず言説の次元においても関連があることを明らかにし、アニメーションにおける漫画の役割について議論している。第2節「リミテッド・アニメーションの芸術と技術」では、ジャパニメーションにおけるテクノロジーの意味や価値について、芸術との歴史的関連の中で再検討する。その上で『鉄腕アトム』のアニメーション・テクニックが、「話」と同様に優れていたという結論を導き出している。

宮崎駿作品のアメリカにおける浸透過程

本稿は、アニメーション界の巨匠として世界的に認められている宮崎駿のアニメーション映画がアメリカでいかなる受容のプロセスを経て現在の地位を獲得するに至ったのかを考察する。従来、作品と無関係なものとして扱われてきたビデオソフトのパッケージ・デザインを比較分析しアメリカにおける販売戦略を読み取る。また作品の内容がアメリカ社会に受け入れられやすいようにするためどのように変更されたかを分析する。宮崎駿の映画は、異なった文化環境で検閲、編集、現地化などの壁を乗り越えアメリカの映画界に影響を及ぼす存在にまでなっている。このプロセスの中では配給会社、ファン、評論家がそれぞれ大きな役割を果たしている。本論文は、英語圏において宮崎の作品世界への認知が広がりながら、宮崎が映画作家としての地位を確立していくと同時に、日本の伝統的な価値観の一部がアメリカのポピュラーカルチャーに影響を与えていることを提案する。

実写映像理解のモデルはアニメーション理解に応用できるか

本論文におけるアニメーションとは、主に物語性をもったアニメーションを対象とする。アニメーション映像をもちいた心理学の研究は行われているが、アニメーションの理解過程について、映像理解の理論をもちいた研究はまだあまり行われていない。そこで本論文では映像という点でアニメーションと共通している実写映像での理解過程の理論である「イベントインデックスモデル」と「イベント分割化理論」についての研究を比較検討した。結論として、イベント分割化理論では、映像や文章を細かなユニットと大まかなユニットで視聴者が分割していることを示している。しかし、これらのユニットの分割はイベントインデックスモデルの場面という概念に包摂されることがわかった。また、イベントインデックスモデルは視聴者の自然な視聴の理解プロセスを対象としている。したがって、本論文では、イベントインデックスモデルを視聴者のアニメーション理解過程の枠組みとして援用することを提案する。アニメーション視聴者の理解プロセスを明らかにすることによって、アニメーション制作現場にも寄与する成果が期待できるだろう。

東映動画TVアニメ作画枚数3500枚制限による演出表現に関する一考察(パート2)――日本のTVアニメに於ける演出法――

1984年、東映動画株式会社は、動画の作画使用枚数をTVアニメ1話に付き3500枚に制限することを開始した。コストを低減するために、他のスタジオ、例えばタツノコプロ株式会社およびサンライズ社も同様の措置を制定した。これらの制限は予想外の結果として、視覚的な表現に於いて日本独自のアニメスタイルになって現れた。当時の資料や演出、アニメーターの経験に基づき、本稿では、作画枚数を節約することが日本のアニメーションのアート的な発展に及ぼした影響について述べる。

アニメ女性キャラクターに見る「ジェンダー・トラブル」

本稿では、日本のテレビで人気のある女性キャラクターたちを取り上げる。彼女たちは、古いジェンダー・ステレオタイプを撹乱させるさまざまな要素を体現しているがゆえに魅力的に見える。本稿ではこのポジティヴな撹乱的要素を、(A)近代家族におけるジェンダーとセクシュアリティ、(B)文化多様性とジェンダー問題との緊張関係、(C)市民、統治、戦闘とジェンダー、(D)主体と客体の位地、といった観点から考察する。また、アニメーションは真理的に抑圧された状況にあるものに対して、肯定的な自己イメージを回復させるための「想像の場」を提供できるという理論的・実践的可能性も模索したい。

ずれる声ー90年代アニメにおける女性キャラクター表象とフェミニスト批評

1990年代、日本のアニメはキャラクター造形のための「視覚的データベース」と「声のデータベース」を洗練させた。通常これら二つのデータベースは、相互補完的に作動し、キャラクターを構築するが、両者がずれる可能性は常に存在し、新しいキャラクター類型を生み出すこともある。「美少女戦士セーラームーン」(1992-97) の天王はるかはその最たるものである。彼女を構成する視聴覚的側面はデータベースから逸脱し続け、彼女にジェンダーの境界を何度も越境させる。東浩紀が指摘する「データベース消費」の傍らで、当時のフェミニスト批評は、動かされ声を与えられるキャラクターの自由を発揮するはるかに鋭く反応し、ジェンダーとセクシュアリティの多様性と可能性を示す身体として受容していた。

リトルマザーとビックマザー ーアニメーション映画の中でのジェンダー表象

白雪姫に始まるディズニーのヒロインたちは、美貌を備え、従順で王子様に救済されるのを待ち続け、運命を自ら切り開こうとしないという意味で、常に受動的な存在であり、また、家事をよくこなす良妻賢母予備軍であり、旧来の家父長制野枠内に都合よく収まるヒロインたちであった。翻って今日の日本の劇場用長へ何目であるジブリ作品を見てみると、際立つのはヒロインの能動性であるが、それは必ずしも単純に日本の現代の作家が女性の自立を肯定しているということにはつながらない。詳細に検討していくと、特に宮崎駿監督作品では、能動的な少女と、他母神的な「Big Mother」との両面が異なるキャラクターとして登場し、二者の間に大きな断層があるように見られるなど、作者のジェンダー観に捻じれがあるように感じられ極めて興味深い。本論では、ディズニーのジェンダー観の検討から出発して、主に宮崎駿監督作品に見られるジェンダー観について検討し、今日のアニメーしょねいがにおけるジェンダーのあり方についての考察を試みる。

”彼の声”と二人の天使:正義批判論としての『009 RE: CYBORG』

数多くの映画がしばしば、正義という概念への懐疑と共に、正義にヒーローを描いている。『009 RE: CYBORG』(神山健治、2012)はそのジャンルに属しながらも、少々奇抜な方法によって非常に明快な映像と音響を介しながら、正義についての別の考えを示す。本稿は、「暴力批判論」(ベンヤミン)や『法の力』(デリダ)を参照することで、その映画ないの奇抜さを、暴力の表象を問うているものとして、考察する。この暴力の表象はまた、隠蔽という作用と一体になることで、”正義”という概念を成り立たせる中枢的条件となっている。暴力の表象への問いは、この作品内で、次に二つの主要な映画的表現方法により展開される。1つ目は、”彼の声”についての音響的表現方法である。それは、聞いた者を暴力的な正義の実行へと強制する。2つ目は、天使に関する視覚的構成である。それは、主人公”ジョー”を、正義の単なる表象から逃しながら”彼の声”との新しい関係を作り出す場所へと、連れてゆく。このような分析に基づいて、この論文は次のように結論付ける。即ち、このアニメーションが描くヒーローの表象は、正義の現前を掲げながらそれを実行することに抵抗する自身の力を獲得している。

今 敏のつながり合う創造的世界:自己探求の連鎖

本研究の目的は、今 敏のライフストーリーの観点から、今 敏監督の人間像、今 敏監督の創造過程、そして、今 敏監督と今 敏監督作品との連関について明らかにすることである。本研究では、アニメーション作品、絵コンテ、 日記、ブログ、ウェブサイト、エッセイ、音声解説、記事などの資料調査に基づく質的研究の方法論を採用した。その結果、今 敏は、仕事と仲間とともに、アニメーション監督という職業を通して、アイデンティティを確立させながら、自らを表現しようとしていることが明らかにされた。今 敏監督は、絵を描くことによって、想像力を拡張し、創造性に富んだ新しいアニメーションの表現に挑戦し続けた。彼のアイディアは、現実と対峙し、予期しない出来事や偶然の出会いが源泉となっている。特に平沢進の音楽と筒井康隆の小説の影響を受けており、これらの世界観は、今 敏監督のアニメーション作品に活かされている。さらに、今 敏監督は、日女王生活の中での想像力を作品に反映している。本研究の結論として、今 敏は、自らの人生の意味を探求しながら、アニメーション作品の中に、彼自身の人生のテーマを表現し続けたことが明らかにされた。

日本市場における CG アニメーションの現状ーー『楽園追放 Expelled from Paradise』を中心にーー

これまで日本市場では、国産の CG アニメーションはヒット作に恵まれなかった。しかし、2014年は、映画の『楽園追放 Expelled from Paradise』や『Stand by Me ドラえもん』、 TV シリーズでの『シドニアの騎士』や『山賊の娘ローニャ』と話題作が公開・オンエアされた。これまでのように国産の CG アニメーションが単発で作品をリリースしていた時代と異なり、作品群が立て続けにリリースされ、 CG アニメーションを観る機会と見慣れる環境が集中的に出来上がった。また、 CG アニメーターの力量の向上により質の高い CG アニメーションが制作され、日本市場にフィットした作品群が登場したと言える。本稿では、日本の CG アニメーション市場の動向を『楽園追放 Expelled from Paradise』を中心に分析する。

アニメーション映画監督、イージー・ブルデツカ

1960〜70年代には世界アニメーションの巨匠として見なされていたイージー・ブルデズカは、作品が見られないという事情でこれまで30年間忘れ去られていたチェコの監督である。本稿では、アニメーション界のエルンスト・ルビッチとも見なされ得ただろうどう監督を長い忘却から救い出し、彼のインスピレーション、スタイル、そして時代を議論したい。

アニメーションと映像をめぐる問い―アニメ、アニメーション、アニメイティング―

日本のアニメにおいてはしばしば、『アキラ』や『となりのトトロ』にみられるように、人物と背景の区分けが溶解するかのごとく、画面一体となった運動の形態ないし形態の運動が呈示される。こうした物質化されたイメージを可能にした仕組みを明らかにするには、日本の視覚文化が写真等の西洋近代の光学装置をどのように受け入れたのかを考える必要がある。江戸末期には、歌舞伎の身体所作、浮世絵の身体イメージ、覗きからくり、戯作本、写真装置が濃密に応接し絡み合っているトランスメディア環境が存在し、言語とイメージが交差し合いながら、演じる行為と観る行為、読む行為と発話する行為に生命を吹き込み、情動や感情を触発させていた。まさしくそれはアニメイトするイメージ実践である。こうしたアニメイトする映像の系譜こそがアニメの土壌の一つであり、またアニメーションと映像を考察するに必要なものなのである。

フライシャー兄弟のロトスコープに関する試論―抑圧される黒人身体―

フライシャー兄弟の短編アニメーション、「ベティ・ブープ」シリーズのいくつかでは、同時代において最も有名なジャズ・パフォーマーの一人であったキャブ・キャロウェイが呼び物となっている。これらの映画では、興味深いことにキャロウェイ自身は決してスクリーンに姿を見せないにもかかわらず、彼と類似しないアニメーションのキャラクターが、彼の身体の動きと歌声を代わりに引き受けている。しかし、彼の特徴的な身体の動きと声のリアリスティックな再現が正確に現れるために、観客はこの虚構のキャラクターの背後にキャロウェイの存在を容易に認識できるのだ。本稿は、この映画におけるキャロウェイの奇妙な表現について、それを生産するロトスコープという装置に注目し考察する。ロトスコープの生み出す動きがしばしば結びつけられてきた、その不気味な性質から考えることで、この考察は二重のものとなる。この考察はまず、ロトスコープ映像の動きにおける不気味さがどこから来るのかを位置づけ、さらに、フライシャーがなぜキャロウェイをそれらの映画において取り上げたのかについて問うことを企図する。フロイトの「不気味なもの」の概念を参照することで、本稿はロトスコープという装置に通底する抑圧の構造と、それによって生じるキャロウェイの黒人身体の専有性を検討する。

『アニメ・マシーン』におけるキャラクター身体論と、その非オタク的活用方法

本稿は、2009年に出版された『アニメ・マシーン』(トーマス・ラマール)を対象とし、それが提示したキャラクター身体論を再考するものである。本書内の多くの議論は、オタク論に基づいているが、とりわけ、本書のキャラクター身体論にはそうした議論が強力に集約されている。しかしその身体論には、他の魅力的な幾つもの議論も集合している。それ故その身体論は、オタク的作品分析に留まらずに進展していく可能性を、持っているはずである。その可能性を実現させる方法として、本稿は “ 時間イメージ(ジル・ドゥルーズ『シネマ』より)” という概念に着目する。『アニメ・マシーン』は第2部で、この概念をオタク性と共に、キャラクター身体と一致させている。そして第3部の考察は、極度にオタク論の影響を受 けながら進展していく。逆に本稿は、時間イメージが本書に及ぼす効果を、重要なものとして価値づけることで、本書のキャラクター身体論を解釈し直す。この再考を通じて本稿は、時間イメージと対応するキャラクター身体論が、どのようにオタク論と異なるものであり得るのかを示し、また、その身体論をオタク的でないアニメ作品の論に活かすにはどうしたらよいのかを、示したい。

トーキー黎明期におけるアフレコ

音声の収録においてアフレコが用いられることは、日本のアニ メーションの特性と考えられてきた。そのため、アフレコについては様々な議論が展開されている。そこでは、主に次のことが前提とされてきた。それは、(1)アフレコの対義語はプレスコであること、(2)日本のアニメーションではアフレコが一般的に用いられていること、(3)アフレコは台詞の収録のみを指し、音楽や効果音の収録は含まれないこと、の3つである。しかし、これらの前提は歴史的に構築されたものに過ぎず、普遍性を持ち得るものではない。本稿では、そのことをアニメーションに音声が用いられるようになった、1930年代の映画雑誌の言説を参照して検証した。まず、アフレコという言葉は、 実写映画の業界で誕生し、もともとは同時録音の対義語であった(1)。また、村田安司、中野孝夫、政岡憲三といったアニメーターの言説において、アフレコは批判的に論じられる傾向にあったため、一般的に用いられることはなかった(2)。さらに、当時のアフレコを含む音声収録は、音楽を軸に制作が行われ、それに合わせて台詞や効果音が形作られていた。よって、 台詞の収録だけを指してアフレコと呼ばれることはなかったのである(3)。

持永只仁の人形アニメーションにおけるミュージカル表現

「日本の人形アニメーションの父」として知られる持永只仁は、彼が戦後にスタートさせた人形アニメーション映画の中に歌や舞踊、ミュージカルなどの身体表現を積極的に取り込んでいくことを試みていた。さらに持永はアメリカとの合作において本格的ミュージカル・アニメーションの制作手法を獲得する。本研究は持永只仁の人形アニメーション映画における身体表現の活用について分析し評価を行おうとするものである。

アニメの「行為者」―アニメーションにおける体現的/修辞的パフォーマンスによる「自己」

アニメーションは命を持たない「モノ」(物理的客体)を動かし、その「モノ」に行為をさせる力が注目されてきた。人間や動物、そしてモノの「体」がどのようにアニメートされるかによって、行為者としての成り立ちが変わってくる。アニメーションにおいて、動きの形式は、特定の行為者性あるいは「自己性」を伴う。ドナルド・クラフトンはアニメーションを分析するためにアニメーションのパフォーマンスを、体現的パフォーマンスと修辞的パフォーマンスに分類して概念化している。本稿では、これらの概念をより詳細に把握し日本のテレビアニメの研究に活用することを目的とする。体現的演技という概念は、キャラクターの表現は、個別化された動きによって生み出され、内部と外部をもつ個人として成り立たせる。他方、修辞的演技は様々な仕草や記号化された表現を通して演技が行われるのである。そして、記号化・コード化された表現に頼るパフォーマンスとしては既存の表現を基にしており、それを異なる文脈で繰り返し採用するのである。これら2つの形式は、それぞれの両端において、「自己」についての異なる概念を制定する。体現的演技は、動きを示す「モノ」に近代的な個人主義の概念を演じさせるのに対し、修辞的演技は「個人主義的な自己」よりも、既存のコードを引用することによる複合構成的なものとしての「自己」を中心に据えるのである。

中国最初のアニメーションと言われる『大閙画室』の再検証

中国アニメーションは既に100年近い歴史を辿ってきたがその「起点」については未だに完全に統一された通説がない。本論文は、入手困難な一次資料の調査と比較分析に基づき、中国最初のアニメーションと言われる『大閙画室』についての再検を行い、事実に適合する中国初期アニメーション史を究明する。

メディア変革期における「メディアミックス」の新展開―『妖怪ウォッチ』を事例に―

2000年以降、アニメーション作品の人気は『ポケットモンスター』、『ドラえもん』、『名探偵コナン』などの作品に固定化していた。しかし、ゲーム主導のコンテンツである『妖怪ウォッチ』が TV アニメーション化され、2014年1月から放映されると、ゲーム、映画、漫画、玩具などを連携させたメディアミックスを一挙に進めることで、人気コンテンツの仲間入りを果たした。
 日本のコンテンツ産業における「メディアミックス」については、マーク ・スタインバーグらの研究によって国内外に周知されているところだが、本稿では、『妖怪ウォッチ』を取り上げて、近年の進化に注目する。日本のメディアミックスは、アメリカのトランスメディア・ストーリーテリングとは異なり、 キャラクター中心のフランチャイズであることは指摘され、議論されている。本稿では、レベルファイブによる『妖怪ウォッチ』のメディアミックスはこれを踏襲しつつも、近年のメディア変革を受けた1970年代半ば以降の角川春樹によるメディアミックスのアップデート・バージョンであると提案する。同じゲーム主導の『ポケットモンスター』と比較し、また角川春樹の戦略との類縁性も再確認しつつ、『妖怪ウォッチ』における新たなメディアミックスの展開を、ハードウェア、ソフトウェア、そして市場面から分析し、考察する。

実写動画像とアニメーションの動きの円滑さに関する分析法の提案

映画やアニメーションは連続した静止画から構成されており、そこに我々はスムーズで首尾一貫した動きを見ることができる。本研究ではスムーズに見える動きを評価する方法として、コマとコマの間を時空間周波数領域で分析する手法を提案する。アニメーションが実写動画像よりも少ない枚数で動きを表現できる仕組みについて、これまで客観的な説明がなされていなかった。本研究では時空間周波数領域における動き周波数成分を分析する方法として2次元フーリエ解析を採用した。これにより動きの時空間周波数成分を可視化することが出来、動きにおける物理的な差分を定量的に比較することが可能となる。本研究では、実写動画とアニメーションにおける動きの円滑さを左右する物理的要因について検討するとともに、リミテッドアニメーションの技法における滑らかな動きの知覚について考察する。

アニメの制作プロセスとビジネス構造を変化させる3D技術――『蒼き鋼のアルペジオ - アルス・ノヴァ -』『正解するカド』『けものフレンズ』が示した3つの方向性

日本の商業アニメーションの世界でCG作品が存在感を増している。2013年10月に放送された『蒼き鋼のアルぺジオ-アルス・ノウァ-』がその起点となり、2017年現在も1月より放送された『けものフレンズ』と、4月より放送されている『正解するカド』が話題となっている。これらに共通するのが、3DCCを作品制作に用いている点となる。3DCGがアニメーションに及ぼす影響は、単に制作手法に留まらず、アニメーションのビジネスひいては産業構造にも至る。本論文では、各作品のプロデューサーらへのヒアリングと先行研究を用いて、その考察を行いたい。

小学校の図画工作教科書でアニメーション題材はどのように扱われてきたか

日本の初等教育におけるアニメーション教育に関する歴史的知見の蓄積を目的として、小学校の図画工作の教科書の中でアニメーション題材がどのように扱われてきたかを調査した。計677冊の教科書から25の題材を抽出し、4つの時期に区分してその変遷を俯瞰した。本稿の通時的視点からの分析を通じ、図面工作教科書におけるアニメーション題材の発祥と、その後の変遷が明らかになった。またそれらの題材に通底するアニメーションの教育的意義には「ヴィジュアルコミュニケーション教育」としての側面と「経験主義教育」としての側面があることを示した。

政岡憲三のリップシンクとその表象

『くもとちゅうりっぷ』(1943)と『桃太郎 海の神兵』(1945)は、アジア・太平洋戦争期の傑作として扱われてきた。そして、両作に関する研究が盛んになるにつれ、その政治的含意がさまざまな形で指摘されている。その一方で、これらに特徴的にみられるリップシンクについては議論されてこなかった。そこで本稿では、両作の制作に携わった政岡憲三に着目し、2つの問いを検討する。1つは、リップシンクがどのようにして取り入れられるようになったかである。この点については、フライシャーなどアメリカのアニメーションからの影響があった。もう1つは、『くもとちゅうりっぷ』と『海の神兵』におけるリップシンクが何を表象していたのかであるが、これは「大東亜共栄圏」の建設など政治性が強く関係していた。この2つの問いを考察することによって、戦前の政岡がアメリカの制作手法を模倣しつつ、輸入されたアメリカのアニメーションに対抗しようとしていたことを論じる。さらに、アメリカの作品の上映が禁止されたアジア・太平洋戦争期において、政岡は芸術性の高いアニメーションを制作することでアメリカに対抗しようとしていた。このような彼の思想と『海の神兵』の監督である瀬尾光世の思想とが、どのように異なっているかについても分析を行う。

ゲームにおけるアニメーションの原点と進化

1980年代初頭コンピュー夕ゲームの黎明期、2D中心のゲーム映像は日本のアニメーション技法を取り入れながら進化をスタートさせた。21世紀からは3DCGの技術を取り入れハードソフトとも進化し、今日、VR(ヴァーチャルリアリティー)やMR(ミックスドリアリティー)の時代に入った。その過程で常にクリエイ夕ーに突きつけられてきた課題がアニメーション表現である。ハードウエアの厳しい制約の中で、いかに美的な動きを提供できるか問われ続けてきたゲームのアニメーション。その原点を考察する。次にゲームの原点である「遊び」の要素とアニメーションとの密接な関わりを論じる。最後にゲーム特有のアニメーションについて述べる。

複数映像の並置提示による教育効果の検証~「動きの探求教育」に向けて~

アニメーション教育を「動きの探求教育」として捉え、その具体的な具体的方法の一つとして、複数のアニメーション映像を画面上に並置して見比べる比較鑑賞教育の可能性を検討する。2本のアニメーション映像を順次再生条件のみで視聴した場合と、並置再生条件も加えて視聴した場合とを比較し、後者の条件において同一映像を2回目に視聴した時の評価に伸びが生じるかを検証した。その結果、特定の刺激映像の動きの「自然さ」の評定尺度において両群の有意差が見られ、並置映像視聴条件における得点の伸びのほうが大きかった。この評定尺度は、Osgood&Suci(1995) の3つの主要因子のうち「評価性因子」に対応するものと考えられ、並置映像視聴による効果が表れやすいのは同因子に関連した評価である可能性が示唆された。

『桃太郎 海の神兵』論―国策アニメーションの映像実験

『桃太郎 海の神兵』(1945)の映像実験について検証する。 おもに影絵アニメーション、ミュージカル映画、ドキュメンタリー映画、プレスコと透過光の採用に着目して映像テクスト分析を行う。同時に、物語映画の話法が適宜用いられることによって、多様なイメージが拡散することなくストーリー(日本の勝利)へ収束され、観客を吸引しうる作品となるさまを分析する。そして、日本のアニメーションでは描かれてこなかった本格的な「死」の表象が、『海の神兵』に現れている可能性について論じる。そのうえで、『海の神兵』がプロパガンダ映画であるとともに、殺人を正当化する戦争の根本的な矛盾を問いかけるような両義的な作品である可能性を示す。本論文では、 瀬尾光世がプロキノ時代から培ってきた宣伝力と、たしかな演出力にもとづく映像実験によって、『海の神兵』が映像史上において稀有であり、かつ今日的な意義を有する作品であることを明らかにする。

広島の原爆投下を語る戦争アニメにおける変化

本稿は、日本国民の第二次世界大戦についての集合的記憶における広島への原爆投下の役割から出発し、原爆投下を扱った「戦争アニメ」を取り上げる。
戦争アニメのナラティブの方向を確認するために用意した分析モデルを利用し、主な論点は作品の時空間的な舞台によるのフレーミングに起きた変化である。さらに、各作品のそれ以外の特徴も簡潔に考察する。後者の特徴には例えば各作品の間に起きた「主人公」のキャラクターの変化と物語の中に起きる主人公の成長といった点が含まれている。
また、有名ではない作品が広島への原爆投下のメディア的なイメージに与えた影響に対しての学術的な観察の欠如を本稿では批判的に焦点を当てる。
最終的には、対象作品の特徴の社会的な背景も触れながら論じる。

歩行の動作表現にみる行為と行動

人の歩行動作は身体の各部位間に生じる協応的運動関係から成り立つことから、実写映像とアニメーション映像のそれぞれについて歩行を表現する身体運動間の相関関係を調べてみた。歩行者の踵と他方の肩の運動を測って両者のプロットグラフが描く協応図を作成してみると、歩行者8名の実写映像から得た協応図は、リング状の複雑な形態を表し各人各様の細かな行為的表現を示す。一方歩行者3名のアニメーション映像から得た協応図は、三角型の単純な形態を表し相関的な結びつきの少ない各歩行者に共通する行動的表現を示した。いずれの映像にあっても意図伝達の手段として歩行動作は表現されるが、実写ではそれが複雑多様な運動形態をとりアニメーションでは単純で画一的な運動形態をとる。この違いは両者を理解するうえで重要と思われる。アニメーション映像では、実写映像に似せてより精度を高めた完成した形での動作表現が求められるのではなく、綿密に仕組まれた「未完成」が求められるからである。たとえ実写映像に比べて協応図に大きな違いがあったとしても、アニメーション映像から受ける歩行動作の印象はそれを表す実写映像と比べて大きな違いは認められない。その理由は精巧に仕上げられたアニメーション映像の「不完全」表現にあると考えられる。ここでの不完全は決して完全を欠いたものを意味するのではなく、それを受け入れた観客は心の中でより高度に完成された「完全」を認識できるよう綿密に準備された表現を意味する。アニメーション映像が実写映像と本質的異なる点は、心の働きを通して見る人に大きな感動と深い感銘を与えることができるような「不完全」表現を備えているからである。

中学校の美術教科書でアニメーション題材はどのように扱われてきたか

日本の初等・中等教育におけるアニメーション教育はどのような教育的意図をもって行われてきたのか。その歴史的経緯を明らかにすることを目的として、中学校の美術科に焦点をあて、同科目の教科書で扱われてきたアニメーション題材について調査を行った。計309冊の教科書から49の題材を抽出し、4つの時期に区分してその変遷を通時的に分析した。中学校美術教科書における最初のアニメーション題材は1955年に構成教育に力点をおいた教科書に掲載され、その題材は構成教育、メディア教育、創造性教育という3つのねらいを含むものであった。その後1970年代には新たに視覚的コミュニケーション教育の側面が加わり、2010年代以降に協調的コミュニケーション教育という方向性が生まれた。中学校美術のアニメーション題材は時代とともにその教育のねらいが多様化しており、現在は5つのねらいが多面的に含まれている。

研究史料の翻刻と解題:東京都労働委員会 高畑勲証言速記録より

本稿では、東京都労働委員会での審問記録を翻刻し、その意義について解説を加えている。これは東映動画における労使紛争の一側面を示す史料である。この史料には高畑勲や、後に東映動画社長となる登石雋一の思考過程、そして東映動画の労働慣行や職員の意識など、多くのトピックが表れている。こうした史料の分析は、過去の作家や作品の分析に拠ってきたアニメーション史研究の視点と方法論の刷新をもたらすだろう。

『じゃりン子チエ(劇場版)』に見る高畑勲の映画構築術

この論文は高畑勲によるアニメーション映画「じゃりン子チエ」を分析した。原作は大衆に人気があり、広く知られる漫画である。高畑は作家性を抑制し、原作に忠実であろうと努力した。その結果、論じられる機会の乏しい作品となっている。しかし、漫画と映画は、表現の点で大きく異なっている。そのギャップを埋めるための高畑の方法を、具体的な映像に基づいて検証した。映画では時間と空間に関する意識が重要である。高畑勲が映画をどのようなものと把握し、構築しようとしていたか、その一端を検証考察する試みだ。

『火垂るの墓』における地域表象

本稿は、高畑勲のアニメーション作品『火垂るの墓』について、具体的な地域表象を検討するとともに、関係地を訪問する行動について、その意味づけを考察するものである。『火垂るの墓』は、強く情動を喚起する作品である。一例として、主人公兄妹の母親の死の舞台となる学校のシークエンスをとりあげる。画面内の事物の配置を現実の地理空間に置くと、あるべき鉄道の高架が画面に現れていない。この不在は、兄妹の孤立感を強調している。また、本作品の関係地訪問の事例を検討すると、アニメ聖地巡礼としてではなく、戦跡など事実に基づく土地への観光であるダークツーリズムに類するといえる。虚構作品の関係地は現実と必ずしも対応するものではなく、また作品が喚起する情動の側面も無視できない。これらについては、さらなる考察が必要である。

多摩丘陵のニュータウン化──『平成狸合戦ぽんぽこ』における狸が意味するもの──

『平成狸合戦ぽんぽこ』はスタジオジブリによって制作されたアニメーション映画で、 1994年 7月公開されている。原作・監督・脚本を高畑勲が務めている。
本論では、日本におけるニュータウン開発が作品の中でどのように描かれているのか、またそのために高畑をはじめとするスタッフたちは、多摩ニュータウンを中心とした多摩丘陵の歴史を、どのような体験を交えながらアニメーション制作に取り込んでいったのか。多摩ニュータウンの成立過程と、それが本作にどう反映されているのかという視点から『平成狸合戦ぽんぽこ』という作品を分析していく。

高畑勲が『なめとこ山の熊』を映像化していたら──アニミズムの新しい視点から──

本稿は、高畑勲が、映像化したいと考えていた宮沢賢治の童話についてその映像的表現や特色について考察するものである。その際、アニミズム論の新しい視点を導入する。ポストヒューマンが予想される現在、アニミズム論も新たな展開をみせているためである。本章の手順は以下の通りである。
1章では、高畑勲が宮沢賢治作品について映像化したいと述べていた発言を再考し、「非人間」との「共生」「共存」という主題を確認する。2章では、宮沢賢治『雪渡り』と『鹿踊りのはじまり』を取り上げ、後者において視覚表現と聴覚表現が交替で立ち現れる入れ子構造に着目し、重層化される「アニメーション映画」となっている様相を検討する。3章では、アニミズムの新しい観点から、『なめとこ山の熊』を取り上げ、人間と「非人間」(熊)との関係に同質性や魂の分有がある点について考察する。高畑が着目した宮沢賢治の童話は、一見郷土色豊かな土着的な話にみえるものの、〈アニメーション映画〉としてみるとき、その背後にはテクノロジーの眼が摘出されることを指摘したい。

高畑勲におけるユートピア表現とディストピア表象の意義──「ヒルダ」と「かぐや」、二人の少女にみるヒロイン像の相克

高畑勲の初演出作品『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)から、その最終作品『かぐや姫の物語』(2013)に至る 45年間において、その少女像はいかに変化したのか。本論は両作品の世界観に通底するヒロイン像を比較することにより、現代社会における人間の生きる意味とその価値を問うものである。それはまた、高畑勲作品に見いだされるユートピア表現とディストピア表象を、物語世界の 2人の少女(ヒルダとかぐや)の生き方に読み込むものとなる。さらに「かぐや姫」と宮崎駿の「ナウシカ」との比較をおこなうが、これは高畑作品が示す現代社会との葛藤をより明示するためにある。この試みを通して芸術労働と産業労働の矛盾を乗り越えようとするアニメーション作品制作の営みは現実矛盾を色濃く物語りはじめる。それは、自分たちの生きる場を見つめ直し、再構成するために、一筋の光を後生に残す「希望の原理」を内包している事実を見つけ出すことになる。

『かぐや姫の物語』の臨床心理学的分析

高畑勲監督の遺作『かぐや姫の物語』は思春期の少女の心を描いており、初潮を迎えた姫が心なく迫る大人たちの行動を心理的な障壁と感じ、行動を抑制してしまった結果、生きる意欲を失った物語と見ることができる。 5人の貴公子の姫への求婚も御門の姫を攫いに来たことのいずれも、姫の心を無視した振る舞いであり、姫に耐えがたい恐怖をもたらした。そのため、姫は月に帰りたいと念じてしまった。しかし姫は、月に帰る直前に、自我に目覚め、地球に生を受け、自然を喜ぶ前向き行動力が発揮されないことが罪と悟る。

日本の戦後のアニメーションにおける卓越した存在と精神──高畑勲──

本稿は、私が以前書いたブログ記事『高畑勲(1935〜2018年)戦後アニメーションにおける卓越した存在感』(「アニメーションスタディーズ 2.0」2018年5月7日)を発展させたものである。このブログはアニメーションスタディーズ協会に属している。同協会のメンバーが編集者であるためである。ブログは、学者、アーティスト、ファンが自らの現在の考えを簡潔かつ迅速に発表できるインターネット空間となっている。そのため、関連する主題について深く洞察するには詳細に取り組むスペースは限られている。この機会を用いてアニメーションメディアとストーリーテリングの世界に対する高畑監督の貢献に対する私の認識をさらに深めたい。高畑監督のアニメーション映画に立ち戻り、戦後史における監督の経歴を再検討するが、その際、逸話でつづった記憶と彼の創造的な精神についての私の研究と理解を含んでいる。

食欲よりも思考を刺激する──高畑勲のアニメーション美学について──

本論文は、何度も繰り返される主題や、キャラクターに観客を同一化させる固有の視覚的特徴を持たないがゆえに、十全に論じられてはいない高畑作品の美的資質に着目し、彼の作品におけるキャラクターと世界の構築方法を明らかにする。高畑作品の意味は、作品関連グッズ販売やファン活動から派生していない。それはアニメーション自体に内在している。高畑は、お手軽なジャンルの枠組みのなかに留まらずに、幸せで、感情的に満足できる結末には至らない叙述を生み出し、アニメーションの大衆的な魅力とその消費に異を唱えた。本論文は、『アルプスの少女ハイジ』(1974)、『かぐや姫の物語』(2013)、『火垂るの墓』(1988)、『おもひでぽろぽろ』(1991)のシークェンスを詳細に検討し、アニメの構造と美学に関する規範に対する高畑の挑戦が、彼の制作過程の一部であり、彼の作品を際立つものにしていたことを明らかにする。

「この景色、見たことある」──『かぐや姫の物語』における記憶・亡命・抵抗──

本稿は、高畑勲の画期的な傑作である『かぐや姫の物語』を記憶、亡命、抵抗の役割の描出における観点から考察する。主として高畑の映画に焦点をあてる一方で、現代日本文学、日本のアニメーション、ディズニー映画の近年作『アナと雪の女王』の事例を取り上げ、記憶と亡命が近年の様々な文化形態においてどのように問題化されているかを示している。本稿の主要部分では、高畑が十世紀の原作の物語—故郷から仮の亡命における月の王女の物語—のほろ苦く諦めの境地を乗り越えて、真に革新的な芸術作品を創造しているのかを示す。原作に忠実であると同時に、高畑の映画はフェミニズムや環境破壊といった現代的な関心をはっきりと包含する情熱的な抵抗の核を含んでいる。高畑は、二つのオリジナルなシーンを追加することでこれを実現している。一つは、主人公が、父親の宮殿から脱出した自分の姿を幻想的に詳細に想像するときで、あからさまなフェミニストの抵抗である。第二の例では、高畑は、別の抵抗のビジョンを挿入する。この場合は音楽や子供そして歌詞を使用し、生命のビジョンや原作の物語の末尾にある運命的な諦念に感情的に挑む変更を提供している。

アニメーションにおける通称「オバケ」に関する一考察~数学的・物理学的理論の観点から~

アニメーションにおける通称「オバケ」は、作者がアニメーション制作において用いる、仮現運動や動きの錯覚を励起する意味の無い絵として緩やかに定義されてきた。しかし、その定義は生態心理学、数学、物理学の観点からも検証されるべきである。本論文では「オバケ」を以下のように分析し定義し直す。それらは錯覚や仮現運動を作るための意味の無い道具ではなく、「動きを同定するための知覚情報」そのものであり、十分な意味と内容を有しているものである。
アニメーションの制作とは、動きを特定する情報を変換する作業であると考えられる。すなわち、制作される動きの情報はそれぞれの動きを時間によって微分した結果もたらされるものであり、それらは時間の矢に沿って並べられたいくつかのフレームにより、映像において再構築されるよう作られたものであると言えよう。そこに錯覚が入り込む余地はないだろう。たとえ一目見ただけでは何が描かれているか分からなくても、それらは制作者が発見した動きを構成するために必要不可欠な情報だと推測される。それは「生命の錯覚(The Illusion of Life)」ではなかろう。

セル画に関する現象学的・高分子化学的研究を目指して:視覚経験とその物質的リアリティー

本研究は、アニメ業界で1970年代から1990年代まで、演出・原画などの仕事に携わり活動した渡部英雄氏が、現役時代から保管していた絵コンテなど膨大な中間素材(以下、渡部コレクション)を本研究者らの所属大学に一任したことから始まる。我々は、アーカイブ化された渡部コレクションのなかで、損傷の危機に瀕しているセル画に注目し領域横断的研究に着手した。それぞれ材料化学とアニメーション研究を専門にする二人の著者は、セル画の保存・管理の意義、プラスティック素材であるセルロイドの開発と変遷の歴史、アニメーションにおける同素材の導入史を考察しつつ、渡部コレクションからのセル画2点に対する物理化学的分析を行った。本稿ではその研究成果を報告し、さらにセルというメディウムに基づいて産業化されたアニメーションを通して人間の視覚はどのように形成され変容されてきたのかという問題を提出し考察する。始まったばかりの研究ではあるが、ある種の文化資源として考えられるセル画の保存・管理に関する知見をアニメ業界をはじめ社会に提供し、同素材の遂行行為者的機能を物質的リアリティーという側面から理論化することを目指す。

アニメ視聴による心理学的体験の構造化

本研究では、アニメーション療法の基礎研究として、アニメ視聴によって視聴者に生じた心理学的体験とその影響を実証的に分析、分類することを目的とし、アニメ視聴による心理学的体験と影響の構造化を行った。その結果、アニメ視聴による心理学的体験は【気持ちの高揚】、【気晴らし】、【共感的反応】、【現実への還元・関連】、【作品の構成要素に対して抱く魅力】、影響は【ポジティブな気持ちへの自己変容】、【自身のあり方の模索、変化】、【作品への関与と作品を越えた活動】で構成された。本研究によりアニメの心理学的体験はさまざまなポジティブな体験で構成されることが明らかとなった。またアニメの心理学的体験からその影響に至る体験過程についての示唆が得られた。

“Teaching Anime and Manga in Canada: LGBTQ Challenges”

なぜカナダの学生は日本の漫画やアニメの研究を望むのでしょうか。アニメ映画が英語に相当するものがない日本語を使っていたり、北米文化には存在しない概念の文化的な言及を含んでいたりする場合、教員にとってどのような課題があるでしょうか。この論文は、著者がカナダの大学で日本のポップカルチャーを教えてきた15年間の経験をもとに、異文化コミュニケーションにおいて最も難しい分野の一つである、漫画やアニメのLGBTQのキャラクターに関する語彙、概念、談話を探究するものである。日本とカナダにおけるジェンダー・性・セクシュアリティの概念における不一致は、両文化の暗黙の仮定を考察する機会を提供するものであることを論じている。

映画学 その基本的問題点

映画とは何か」という問題を,具体的に映画の歴史を通して考察した「映画学」の提唱。映画史を,映画が「映画的感性」を獲得していく過程として捉える,つまり外界の模写から外界の所有へ,という過程として捉える視点,さらには,映像を空間的には絵画と比較し,時間的には音楽と比較して分析しようとする切り口など,知的刺激にみちた「映画の哲学」である。

ラウル・セルヴェ:オステンドの魔法使い

ベルギーの革新的なアニメーターであり映画製作者でもあるラウル・セルヴェの80回目の誕生日を記念して、この歴史的かつ自伝的な書では、彼の人生や作品の主なテーマを調査している。セルヴェ自身への徹底したインタビューも含み、この豊かに描かれた本は3か国語(英語、フランス語、オランダ語)に翻訳されており、セルヴェの作品に関する新鮮な洞察やこのたぐいまれな芸術家について知りたいと思う新たな刺激が得られる。魅力にあふれ得るところの多い本書は、既に芸術家として活躍している人のみならず芸術家を目指す生徒の興味も引くと確信している。

世界アニメーション映画史

「月刊アニメージュ(徳間書店)」創刊号(1978年7月号)から81年8月号まで連載された「アニメーションの歴史」およびアニドウのFILM1/24などの連載を基に大幅に加筆して単行本としました。豊富な図版で世界各国のアニメーション史を眺望した日本初の書籍として大変好評を得て、現在では映画史研究の基本図書として各公立・私立図書館などに多く収蔵されています。

マウス・アンド・マジック アメリカアニメーション全史

この『マウス・アンド・マジック』の改訂済み最新版では、レオナルド・モルティンは、ハリウッドがまだ静かだった頃から黄金時代を通し、スピルバーグ作品の『アメリカ物語』に至るまでのこの輝かしい時代すべてを再現するだけではなく、アニメーションの芸術の進化を追跡し、クリエイティブで才能に長けた中心的人物とそのスタジオを鮮やかに描いている。アメリカのアニメーションのこの明確な歴史はまた、モルティンの多くのファンを現代のウォルト・ディズニーやワーナー・ブラザーズのスタジオで今日行われている作品づくりや、アニメーションの世界でのその他の発展に引き寄せている。
アメリカのカトゥーン業界の多数のトップに生き生きとしたインタビューを行うモルティンは、逸話や映画史の金鉱を見つけ出した。当時の背景には、ウォルト・ディズニー、チャック・ジョーンズ、テックス・アヴェリー、メル・ブランク、その他多数の天才アニメーターや興行主の存在があった。モルティンはアメリカに関する資料の普遍的に愛されるセグメントを見事にまとめている。これまでに編集されたカートゥーンやビデオレンタルのソースなど、最も広範囲なフィルモグラフィが含まれている。

実験的アニメーション:新しい芸術の起源

今世紀初頭に製作された初期の抽象的アニメーション映画から技術志向の映画の最新作まで、映画界のアニメーションの包括的なアンソロジーがここに詰まっている。ここでは、50件以上のインタビューと、38名の革新的なアーティストや映画製作者の作品の詳述を含めた初の人物レポートがまとめられている。アレクサンダー・アレクセイエフ&クレア・パーカー、ハンス・リヒター、ヴィキング・エッゲリング、オスカー・フィッシンガーといったパイオニアたちが、最近のアバンギャルドのロバート・ブリアー、ハリー・スミス、スタン・バンダービーク、ピーター・フォルデス、エド・エムシュウィラーと並んでいる。約300枚のイラスト、フィルモグラフィ、専門用語集、配給業者のリストも掲載された本書は、新生の芸術のための初の重要史料集となっている。

虫プロ興亡記―安仁明太の青春

漫画の神様・手塚治虫のもとに集まった若きアニメーターたち。国産初のTVアニメなんて、ホントにやれるのか?「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」など、数々の名作アニメで人々を魅了した虫プロの興亡を、渦中にいたアニメ演出の第1人者が自ら描く、七転八倒の青春記。貴重な図版資料を多数収録。

エミール・コール、漫画、映画

これは、アニメーション化されたカートゥーンの技術で最も重要なパイオニアの1人であり、伝統的な漫画から現代のコマ割り漫画に移行して危機に瀕していた大衆のグラフィックユーモアの革新的な貢献者であったエミール・コール(1857~1938年)の最も信頼のおけるバイオグラフィである。図解が豊富な本書は、コールの人生についての多くの情報だけではなく、フランスおよび米国の両国でのアニメーション映画の発展に対する彼の貢献の分析も示し、新しいジャンルを「原始的」な映画から「古典的」な映画への歴史的なシフトにいかにしてフィットさせたかという点の解釈も示す。

フィリックス:世界で最も有名なネコのひねくれたお話

150枚以上の写真とフルカラーの挿入記事で見事に図解されたフィリックスは、サイレント時代の最も人気の高いすばらしい仕上げで収益性の高いカートゥーンの作成とマーケティングを背景に、興味深いスタイリッシュな報告となっている。『Sammy Johnsin』(サンボ漫画)とチャールズ・チャップリンの組合せを基に、『フィリックス・ザ・キャット』は、ミッキー・マウスよりも10年早く、映画の中で「個性」を示した初のカートゥーンキャラクターであった。1919年から1933年まで、フィリックスは国際的に絶賛され、チャップリンやバスター・キートンに並ぶ人気であった。フィリックスのプロデューサーのパット・サリバンは熟練工のアーティストであり、慢性アルコール依存患者であり、強姦で有罪となったが、フィリックスの製作と発展に対する名誉を求めた。しかし、ジョン・ケインメーカーが発見したとおり、実は、フィリックスが最高の人気を得た期間に200本以上のフィリックス映画を考案し、アニメーション化し、監督したのは、サリバンの才能ある、ただし控えめな製作マネージャーのOtto Messmerであった。そしてケインメーカーはMessmerの驚異的な業績に重点を置くことにより、ウォルト・ディズニーよりも数年前のフィルムアニメーションの世界全体に光を当てている。

生命を吹き込む魔法

ニメーションに関するエッセイ
・「この本は、見過ごされてきたアニメという大衆向け芸術に取り組むために、文化理論とアニメ映画の橋渡しをしており、映画理論と哲学を強調している点で称えられている」。「選択」。「生命を吹き込む魔法:アニメーションに関するエッセイ」はアニメーションを理論化する最初の本である。12のエッセイでは、ポスト構造主義者とポストモダニストのアプローチを用いてアニメ映画の性質に光を当て、アニメーションの考え方の理論化に貢献している。表現とシミュレーションに対するアニメーションの関係の検討において、貢献者は我々の文化における芸術やメディアのもっとも重要で最新の問題に関与している。

ミッキー登場以前:アニメ映画1898~1928年

このウィットに富んだ魅力的な研究は我々にディズニー以前にアニメーションが存在していたことを思い出させる。それは、「Girdie the Dinosaur(邦題:恐竜ガーティ)」と「Felix the Cat(邦題:フィリックス・ザ・キャット)」というたぐいまれな作品として開花した約30年間の創造力および実験である。ミッキーが登場する前に、アニメーションにとって最初で唯一の詳細な歴史(1898~1928年)として、創意工夫された機械、マーケティング、芸術などさまざまな出来事が起こった。Crafton(クラフトン)はスケッチおよびカメラワーク技術の説明、Winsor McCay(ウィンザー・マッケイ)やLadislas Starevitch(ラディスラフ・スタレヴィッチ)などのパイオニア的アニメーターの特徴的なスタイルの想起、社会的及び経済的背景への作品の組み込み、ある特定の漫画の審美的影響の解明に等しく長けている。

アニメーションの文化:安定した時代のハリウッドカートゥーン

視聴者や人気のメディアには長い間、「子どもの娯楽」とみなされてきたハリウッドアニメーションは、ちょっとした注目を浴びることとなった。Eric Smoodinの『Animating Culture』は、アニメーションのショートフィルムを初めて徹底的に分析した唯一の書籍である。
通常は7~8分程度上映されるカートゥーンは、MGM、ワーナー・ブラザーズ、ディズニーといったハリウッドのメジャーなスタジオ で製作され、ニュース映画や長編映画とともに映画館で上映された。Smoodinは、それらを大量生産したアニメーションの短さとシステムについて探究した。劇場で公開されたカートゥーンはどのようなものであったか?ストーリーはどのように語られたか?それらは誰に向けて語られたか?人種、階層、性別についてはどのように言及したか?カートゥーンを夜の同時上映の長編映画とどのように関連づけたか?ドナルド・ダッグやミニー・マウスのようなカートゥーン界のスターの社会的機能は何だったか?
Smoodinは、カートゥーンが子どもだけにとどまらず、幅広い層の視聴者にアピールする力があり、政治的な事項についての公の論議にも実際に関与していたと主張する。彼は、アニメーション映画を考察する際に無視されることが多い問題を検討している。たとえばそれは米軍の"Private Snafu"(スナフ二等兵)という作品中での社会的規制であったり、ベティ・ブープの身体の「部位」やカートゥーンのハーレムでのセクシャリティや人種などである。さまざまなカートゥーン作品に組み込まれた多数の論説に対するSmoodinの分析は、アニメーションは階層関係、労力、帝国主義、検閲制度を扱った複雑で時に矛盾のある方法であることを明らかにしている。米国政府と密接な関係にあるディズニーやディズニースタジオについての彼の考察は、政治的で文化的な生活の中でのカートゥーンの位置するところを我々に再考させるものである。Smoodinは、カートゥーンとハリウッドのスタジオシステムとの、またカートゥーンとその視聴者との間の複雑な関係を明らかにしている。

セブンミニッツ:アメリカのアニメーションカートゥーンの生と死

『Seven Minutes』は、初めて話をしたミッキーから、1960年のワーナーおよびMGMの劇場作品の終焉に至るまで、カートゥーンの「統制されたアナーキー」の社会と美学の歴史を取り上げた書籍である。Norman M. Kleinは、フライシャーのベティ・ブープのスクランブルグラフィックスや上下逆さになるバレエ、ポパイ、Tex AveryによるWolfieカートゥーンのスーパーマン、Bugs and Daffy、トゥウィーティー、ロードランナーなどのワーナー作品、ディズニーのフルアニメーション、"whiteness of Snow White"、ミッキー・マウスがロゴになるまでなどを追った。また、各時代のグラフィックス、スクリプト、マーケティングを概説して、カートゥーンと実写映画、新聞、人気のイラスト、ディズニーランドの娯楽施設の秘密とのつながりを見い出していく。Kleinは、カートゥーンが予期に反する曲芸であったこと、経済的および政治的な圧力によって常に侵略されたこと、音声についてはマーケティングによったこと、キャラクターの失墜を食い止めるためにライセンス制を導入したこと、禁止令や大恐慌、第二次世界大戦、そしてテレビの第一波が押し寄せてきたことなどを明らかにした。

カートゥーン:アニメーション100年史

「この百科事典的スタイルは、そのテーマに関心のあるすべての人のライブラリーで見つかる」。Kirkus Reviews「この刺激的で情報に富んだ百科事典は…価値が高く、世界的なカートゥーンのライブラリーに新たに加えられました…こんなに素晴らしい解説は、コーヒーテーブルにも学者の棚にも1冊ずつ置きたい」。Journal of Popular Culture「この貴重な努力...近い将来、このテーマの基本的な参考文献になることは間違いない」。Booklist「魅力的なストーリーとしても、また映画という芸術の学者や熱狂的ファンのための驚くべき参照資料としても強く推奨したい」。Choice「しかし、何よりも見事なのは、著者の予想以上に優れた洞察である」。Los Angeles Timesブックレビュー「商業的および芸術的なアニメーションに関するこの百科事典的な調査は、見事に図解され、国際的に豊富に取り上げられている。アニメーションに関するほとんど新刊は、この重要な書籍に匹敵するほど多数の資料を掲載していない」。Wilson Library Bulletin「待望久しい世界アニメーションの英語版の古典研究。『Cartoons』は、世界的な映画アニメーションの初の包括的で詳細な歴史と批評を詳述したものである。この図解が豊富な信頼すべき百科事典的報告書には、70カ国以上、2,000人のアニメーターと3,000本の映画が収められている」。

おもちゃが生命を持ったら:アニメーション、変身、開発の物語

18世紀以来、欧州やアメリカの子供や大人向けにかかれた物語(多くの場合、秘密や官能的に関するものであったり彼ら自身のカーニバルのような暮らしについてだったりする)でおもちゃは重要な位置を占めている。この草分け的な功績において、Lois Rostow Kuznets は、「Pinocchio(邦題:ピノキオ)」や「Winnie the Pooh(邦題:くまのプーさん)」、「The Velveteen Rabbit(邦題:ヴェルヴェティーン・ラビット)」のような古典的な古い作品から「The Mouse and His Child(邦題:親子ねずみの不思議な旅)」のような現代的な作品や「Calvin and Hobbes(邦題:カルビンとホッブス)」のような人気のあるコミック作品、ロボットやサイボーグが登場する最新のサイエンスフィクション作品まで、その中で描かれるおもちゃのキャラクターの役割を研究している。
フェミニズム論、新フロイト派のWinnicott(ウィニコット)の遊戯分析、構造主義、新マルクス主義を含むさまざまな間テクスト的アプローチを用いて、Kuznetsは、子どもたちの遊びのようにキャラクターが人類の深い需要、欲望、恐れとどのように関連するかに焦点を当てる。Kuznetsの分析の多くの文章には「リアル」になってしまう心配—客観というよりは自立的な主観—があふれている。おもちゃのファンタジーは実存主義的問題も提起する。それは、より力強くあることに影響するあるいは影響を受けることを意味し、おもちゃを生き物に変身する過程に危険が待ち受けているかもしれない—それは創造性を掻き立てる挑戦を示す人間の創造性という行為である。Kuznetsは、これらの文章の多くは個々のレベルでの調和を妨害するものの、家父長制度的社会の潜在的価値や階層を支えるロマンティックな懐古の情を喚起しがちであると締めくくっている。

魔法をかけられた描画:アニメーションの歴史

フルカラーおよび白黒のイラストと写真を多数掲載し、幻灯機を使用したショーから、ウォルト・ディズニーの技術やマンガキャラクターの成長を通して、Beavis and Butthead(ビーバス&バットヘッド)に至るまでのアニメーションの最も信頼のおける歴史年代記となっている。

生命を吹き込む魔法

ディズニー所属の2大アニメーターであるThomas(トーマス)とJohnston(ジョンストン)は、スタジオが世界を魅了してきた作品をどのように作製したかについての内部事情を話してくれる。LJのレビュアーによると、「本書は意欲的だ」(LJ 12/15/81)。「著者らは同時にディズニーのアニメーションの歴史を示し、関連するプロセスを簡潔に、専門用語を使わずに説明する」。優れた本書は多数のカラーおよび白黒写真やイラストで作られている。「優れた巻」は依然として「フィルムコレクションに不可欠でほとんどの閲覧者にとって満足」である。
著作権1996リードビジネスインフォメーション株式会社

アニメーション研究読本

アニメーション研究読本は、小児向けのマンガよりも幅広い映画に及ぶメディアとしてのアニメーションへの高まりつつある関心について熟考している。アニメーションは、「アニメーション」というタイトルに該当する多種多様な映画の成人視聴者数が伸びている観点から、また重大でアカデミックな分析や研究に値する作品のコーパスを提供する観点から、社会的に取り残された状態から抜け出した。
大衆文化の重大な研究は、批評的コメントの洗練された形式の発展に格好の材料を提供する。マンガは、古典的なハリウッド時代から、またより現代的な長編特作映画やテレビシリーズから、豊かなフィールドを詳細な研究分析に提供している。欧米の日本製アニメへの渇望が高まることにより、さらに一層の豊かさが与えられる。同時に、アニメーションは映画、テレビ、メディア研究、芸術史と批評、およびジェンダー研究など、さまざまな分野の伝統的かつ学理的な関与から、広範囲にわたる分析図に刺激を与えた。これらすべてのフィールドと分析のモードは『A Reader in Animation Studies』の中で考察される、さまざまな重大な反応を促すアート・アニメーションの長い伝統に、特に東ヨーロッパや西ヨーロッパでよくなじむ。また、『A Reader in Animation Studies』はコンピュータ技術の使用の発展が近年かなり目覚ましいアニメーションの詳しい定義に関し、魅力の問題とも関わってくる。
メディアエンターテイメントのこの非常に人気の高い分野の一般的な読者に分かりやすい魅力を提供するとともに、映画、テレビ、アート、文化研究の学者、研究者、学生にとって不可欠なツールである。

アニメーションを理解する

ポール・ウェルズ著のジャンルおよび形式としてのアニメーション入門の新板が学術的議論の発展や映画・テレビ・ビデオゲームにおける最近の隆盛に対応して更新された。考察される長編映画の例には「ミスター・インクレディブル」、「ベルヴィル・ランデヴー」、「千と千尋の神隠し」などが含まれる。短編映画には「岸辺のふたり」、「ウルフマン」、「頭山」、「ダッチ・シュルツ:最期のことば」が含まれる。

Hans Richter(ハンス・リヒター): 行動主義、モダニズム、前衛芸術

ハンス・リヒターほど完全に20世紀初頭の芸術のムーブメントを広めた芸術家は少ない。リヒターは表現主義の発展、ダダ、デ・ステイルの構成主義、超現実主義、に強い影響力を持ち、Viking Eggeling(ヴィキング・エッゲリング)とともに、中小映画のクリエイターである。Theo van Doesburg(テオ・ファン・ドゥースブルフ)、László Moholy-Nagy(モホリ=ナジ・ラースロー)、El Lissitzky(エル・リシツキー)や他の数名とともに、彼は、第一次世界大戦後の再建期の芸術の役割を理解するのに不可欠な芸術家の一人である。
アメリカの学者の多くはこれまでリヒターの映画作品に焦点を当て、芸術と政治を区別する厳密な形式主義者的アプローチを好んできた。本書のために貢献してくれた人々はリヒターの歴史を書き直して、20世紀初頭の前衛芸術の発展における彼の極めて重要な役割と彼の政治的能動主義について加える。リヒターの作品、特に欧州での初期の作品を歴史的かつ政治的側面から見直す場合、彼は社会的、政治的、文化的構造の変革のために芸術の力を用いて尽力した芸術家として浮上する。

聖地の想像力―なぜ人は聖地をめざすのか

聖地とは何か?エルサレムやメッカ、古代の神殿、奈良、サンティアゴ巡礼等の考察を経て明らかになる、聖地という特別な空間の全貌。宗教や文明が盛衰する中で、聖地は古来より不動のまま、無数の人々から巡礼の対象とされてきた。エルサレムは現在も複数の宗教の聖地であり、メッカはイスラム教成立以前から聖地として機能していた。なぜ聖地は動かないのだろうか。その深層には何があるのか。サンティアゴ・デ・コンポステラ、日本の奈良、ギリシャの神殿をはじめ、関連する様々な事象を考察しつつ、聖地という空間がどのような存在なのかを明らかにする。

プラモデル進化論 ゼロ戦からPGガンダムまで

1958年12月、国産プラモデル第1号『原子力潜水艦ノーチラス』がマルサン商会から発売された。それから40年、日本のプラモデルはなぜここまで独自の進化をとげてきたのだろうか?男の子なら誰もが一度は手に取ったオモチャ、「プラモデル」の歴史を膨大な資料をもとに徹底検証。いま明かされる日本模型史。

紅一点論 : アニメ・特撮・伝記のヒロイン像

「男の中に女がひとり」は、テレビやアニメで非常に見慣れた光景である。その数少ない座を射止めた「紅一点」のヒロイン像とは。「魔法少女は父親にとっての理想の娘である」「(紅一点の)紅の戦士は"職場の花"である」「結婚しないセクシーな大人の女は悪の女王である」など見事なフレ-ズでメディアにあふれる紅一点のヒロインとそれを取り巻く世界を看破する評論。
「BOOKデータベース」より

ディズニー・アニメーション 生命を吹き込む魔法

生き生きとまるで生命(いのち)を吹き込まれているかのようにキャラクターが動くディズニーアニメーション。その表現の技法を1000点以上の図版や写真とともに丁寧に解説した大著。アニメーション映画を「漫画」から「芸術」にまで高めたウォルト・ディズニーの情熱と、その熱意のもとスタッフたちが映画作りに取り組んだ姿が描かれています。
 著者は、『白雪姫』『ピノキオ』『バンビ』『ダンボ』『ピーター・パン』など数多くのディズニー映画に携わり、ディズニー映画の全盛期を築いた「ナイン・オールド・メン」と呼ばれるアニメーターの二人。
 アニメーション関係者必読の書、ついに待望の日本語版です!
 監修には著者の講義を受けたこともあり、先達としても敬愛している高畑勲、大塚康生両氏と『Frank&Ollie』のプロデューサー邦子・大久保・トーマスさんにお願いしました。

ニューメディアの言語

本書では、Lev Manovichがニューメディアの初の系統的で厳密な理論を提案している。彼は、過去数世紀のビジュアルおよびメディアカルチャーの歴史の中にニューメディアを位置づけている。彼はレクタンギュラーフレームやモバイルカメラといった新たなメディアの昔のメディアの慣習に対する依存について検討し、ニューメディアによる作品がいかにして現実のイリュージョンを生み出し、ビューアに対応し、空間を表現しているかという点を明らかにする。また、インターフェースやデータベースといったニューメディアに独特のカテゴリーとフォームについても分析している。
Manovichは映画論、芸術史、文学論、コンピュータサイエンスのコンセプトを利用し、文化的インターフェース、空間モンタージュ、シネマトグラフィなどの新たな理論上のコンストラクトも考案している。映画の理論と歴史は、本書において特に重要な役割を担っている。その他のテーマとして、Manovichは、映画やニューメディアの歴史にみる類似点や、デジタル映画、映画やニューメディアのスクリーンやモンタージュ、前衛的映画とニューメディア間の歴史的な関係などについても論じている。

イエロー・サブマリン航海記:ビートルズアニメーション全記録

これは、「ペパーランド」の心優しい市民と、色と音楽を奪うと脅した嫌われ者「ブルー・ミーニー」の間の対立に興味があるすべての人にとって究極で独占的な資料である。これまでに、ビートルズの活動の中で忘れられないこの実績に関する研究は実に少ない。この本は、映画にかかわったほとんどすべての人に会った人物から映画について無数の事実を引き出している。それには、舞台裏の人々のスナップ写真や映画のシーンやキャラクターを写した写真が含まれている。映画からのオリジナル芸術を取り上げて、Sir George Martin (サー・ジョージ・マーティン、ビートルズのプロデューサー)による紹介とErich Segal(エリック・シーガル、この映画のシナリオライター)による序文が加わり、この素晴らしい本はビートルズや映画、アニメーションのすべてのファンに向けられている。

ハラス & バチェラー・カートゥーンズ:アニメーションの歴史

この豊かにイラストが描かれた作品は、1940年から1995年の間、イギリスで最も影響力のある主要アニメーション制作会社「ハラス & バチェラー・カートゥーンズ」スタジオの歴史と評論、またその記念の記録です。この贅沢な研究は、「ハラス & バチェラー」コレクションのアーカイブを取り上げ、「動物農場」、伝説的ピーター・セラーズを起用したイギリス初のノーカット・アニメーションフィルム「ホフナング物語」、ビートルズのイラストレーターであるアラン・オルドリッジ氏の作品を特徴としたカルト・クラシック「Butterfly Ball」、さらにクラフトワークによる音楽が収録された「アウトバーン」など、スタジオの主要作品に注目します。本書には、アニメーション博士ポール・ウェルズ氏の貴重な見識のほか、同社創立者の娘ビビアン・ハラス氏による自伝的解説も盛り込まれています。世界のアニメーションは、ジョン・ハラス氏とジョイ・バチェラー氏が生み出した傑出した作品に恩恵を受けています。本書は彼らが残した影響について検討します。

タツノコプロインサイダーズ

本書は、創立40周年を迎えたタツノコプロの、特に草創期に視点を定め、"吉田竜夫とタツノコプロ"とクレジットされた時期を中心に編纂を試みた。漫画工房であったタツノコプロが、なぜアニメを制作することになったのか。多くの才能あるクリエイターが、いかにしてタツノコプロに集い、アニメ作りに情熱を注ぎ込むようになったのか。創立から、吉田竜夫氏が逝去される昭和52年頃までの、第一次黄金期と呼ばれる時期にタツノコプロに関わられたクリエイターの証言から、それらを感じてもらえるはずである。

アメリカで日本のアニメは,どう見られてきたか?

1958年の長編アニメ映画『白蛇伝』に始まり、2003年に『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞を受賞するまで、日本のアニメの多くが海を渡りましたが、日本製アニメはどのように輸出され、どのように扱われてきたのでしょうか? 「アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?」は、20年来この分野の研究を続けている著者が、その知られざるエピソードを様々な資料を使い、出来る限り克明に記録した、米国の和製アニメの歴史書です。巻末には一目で見ることの出来る「米国の和製アニメ年譜(折込)」付きで、読み物としてだけでなく資料性も高い本です。

パペットの秘密の暮らし

これまでに見たことがないのではなく、気づかぬうちに日々目にしている世界を見せてくれる、稀少な1冊。ヴィクトリア・ネルソンが奥深くも隠れた魅力にあふれた超自然的な世界を照らし出します。その世界は、超越的なアンダーグラウンドの世界へと連れ出して驚異と畏怖の念を根拠、実利主義、科学の力に確実に変える現世のメインストリームの文化に向けて今なお守られています。
終わりに近づくにつれ、現代を見つめる『The Secret Life of Puppets』には、芸術と宗教の役割の中での不思議な逆転現象が描かれています。つまり、芸術と文学はかつて宗教からその内容を取り入れており、人々はひそかに芸術と娯楽を通してますます宗教を求めるようになったのでした。一度に刺激と興奮を与える西洋文化の過程では、ネルソンは、霊歌が高等な芸術というよりは、パぺット、ホラーファンタジー文学、サイボーグなどのひときわ大衆文化の中で再び現れるという変形した形式で、クライスト、ポー、ムージル、ラヴクラフトの作品からフィリップ・K・ディックの作品やバーチャルリアリティシミュレーションまで見せてくれます。ミレニアムの終わりには、300年耐えた悪魔化された怪奇な人物のしきたりを捨て、古代の晩年に形作られたデミウルゴスの意識は、人間をアーティストとして再神聖視するために新たに登場したものであり、ラース・フォン・トリアーやウィル・セルフといったアーティストが宗教改革前の古代の世界になじむ形で表現主義を徹底的に練り直しています。ここでは、これまでになかったものとして、全面的に、ただし無意識のうちに行っている見方や、空想的な芸術形式を活用し、自分自身を信じることができるようになります。

お姫様とジェンダー:アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門

コレット・ダウリングの『シンデレラ・コンプレックス』が刊行され、話題をよんだのは一九八二年。すでに二十年以上になるが、その間、「白雪姫」「シンデレラ」「眠り姫」などのプリンセス・ストーリーは、ますます大量に生産され、消費されている。大量に消費されるからその影響力も絶大である。本書では、ディズニーのアニメを題材に、昔話にはどんな意味が隠されているかを読み解く。いつの間にか思い込まされている「男らしさ」「女らしさ」の呪縛から、男も女も自由になり、真の男女共同参画社会を目ざす。
「BOOKデータベース」より

視覚的な詩:オスカー・フィッシンガーの人生と作品

視覚的な詩は、画家であり実験的な映画製作者であるオスカー・フィッシンガーの最初の重要な伝記である。ドイツでの前衛芸術における活動を経て、2つの世界大戦の間にフィッシンガーと彼の家族はナチスによる退廃芸術の弾劾が始まる直前にロサンゼルスへと亡命した。フィッシンガーの視覚的な音楽やグラフィックアートの融合における先駆的な実験、抽象的なデザイン、そして音楽はアニメーションを芸術や映画の形に仕上げるうえで役立ち、アニメーターが美学的可能性を追求するためのインスピレーションを与えた。熟達した具象描写のアニメーターとして結果的に不本意ながらも契約に基づいてパラマウントやMGM、ディズニーと仕事をし、フィッシンガーは生涯にわたって多数の抽象的アニメ映画を製作するとともに、「Wax Machine(邦題:ワックス・マシン)」や「Lumigraph(邦題:ルミグラフ)」などの機械を開発し映像を作り上げ、熟達し、大きな影響を持つ画家となった。本書の著者であるWilliam Moritz(ウィリアム・モリッツ)の奉仕的な活動と数十年にわたる研究の産物であるこの視覚的な詩には、豊富な映画関連の文献やフィッシンガーを知る人や影響を受けた人からの証言も含まれる。

ハリウッド・フラットランズ : アニメーション、批評理論、アヴァンギャルド

アニメーション、アヴァンギャルドなアート、モダニストの評論の関連性を明らかにします。
『ハリウッド・フラットランズ』はデッサン、カラー、風刺漫画について熟考を重ね、おとぎ話や、言葉を話す動物、ロボット人間などの政治的な意味合いについて、アニメーション、アヴァンギャルドなアート、モダニストの評論の関連性を明らかにしていきます。両大戦間の審美眼のある政治的な革命家たちの活躍に焦点を合わせ、エスター・レスリーは、商品としてのアニメーションがシネマ界のモダニティにたどり着くまでどのように研究されるかという点を明らかにしています。彼女は、ヴァルター・ベンヤミンと映画的な抽象概念とのつながりなど、新たにソヴィエト構成主義とバウハウスとのつながりにも目を向けます。また、アニメーションに関するジークフリート・クラカウアーの著述ついて彼女の新たな解釈を示すとともに、セオドア・ アドルノやマックス・ホルクハイマーの映画に対する見解が当時の知的発展にどのように影響を与えたかを明らかにし、1930年のディズニーのハイペリオンスタジオでのミッキーマウスとセルゲイ・エイゼンシュテインの有名な握手についても再考します。

デーヴィット・アーリッヒ:世界人

デーヴィット・アーリッヒは独立したアニメーターで、ニューハンプシャー州ハノーバーのダートマス大学の映画/テレビ学部で教鞭をとっている。ハバナやカラチで子供たちのためにアニメーションワークショップを開いていようと、ユーゴスラビアのザグレブで開かれた第1回アニメホノグラムシンポジウムで話題を集めていようと、彼の領域では他に類を見ない。これまでの20年で、彼は主に独立した抽象的なアニメ映画を作り続け、世界の映画業界から称賛や認知を得てきた。この二か国語でつづられた本は、次の4部で構成されている。簡潔で愉快なアーリッヒの伝記、映画関連の文献やスタイルの深い分析、アーリッヒと著者の対話、世界中の他の監督やアニメーターからの逸話と解説。この本には16ページにわたるフルカラーイラストと多数の白黒イラストが掲載されている。これらの映像はアーリッヒが受賞したアニメーションや個人所蔵の家族の写真から集められた。

禁断のアニメーション:アメリカにおける検閲された漫画とブラックリストに載せられたアニメーション製作者

トゥイーティー・バードが黄色に色付けられたのは、原本のピンク色は裸に見えるという検閲の判断によるものでした。ベティちゃんのドレスの丈はガーターが見えないように調整されました。また最近では、マイティ・マウスが実際に嗅いでいたのは花びらでなくコカインだったとの抗議団体の主張を受け、そのひとコマがカットされました。これらの修正、またその他の同様な修正は、アニメーションが劇場やテレビで公開される前に公認検閲または組織集団により要求されています。一部の無声アニメーションのわずかにわいせつじみたギャグが、発声映画時代に厳格な基準によって置き換えられたことは、アニメーション業界におけるこの検閲歴史の中で取り上げられた最初の不運な出来事です。多くの初期アニメーションにおける人種的固定観念の永続化、それと同時にそういったアニメーション製作の中止を試みるスタジオの取り組みについて考察します。次に、レニー・ブルース氏の「サンキュー・マスクマン」やラルフ・バクシ氏の「フリッツ・ザ・キャット」など、数多くの無検閲のアニメーションに目を向けます。続いて、テレビで放送された劇場公開版への修正をはじめ、テレビ向けアニメーションに適用する種々の基準まで、テレビ放送用アニメーションの検閲制度を取り上げます。最終章では、1950年代に共産党同調者の疑惑でアニメーション業界からブラックリストに載せられた多くのアニメーション製作者について検討します。

ユーリー・ノルシュテインの仕事

ハリネズミを包んだ霧。狼くんが食べるジャガイモの熱さ。アカーキェヴィッチの豊かな表情。ノルシュテイン・アニメの不思議で美しい映像はいかにして生まれたのか。デッサン、絵コンテ、エスキース、実際の撮影に使われた素材など誰も見たことがないノルシュテインアニメの制作工程を豪華カラーヴィジュアルで紹介!  特別収録の講義録では、ハリネズミを包んだ霧の秘密も明かされる!

〈美少女〉の現代史 「萌え」とキャラクター

宮崎 駿、吾妻ひでおから ときメモ、プランツ・ドールまで なぜ萌えるのか まんが・アニメに溢れる美少女像はいつ生まれてどう変化したのか? 「萌え」行動の起源とは? 70年代末から今日までの歴史を辿る。●なぜ宮崎 駿は、あんなに少女ばかりを主人公にしてアニメを作るんだろうか?●最近よく聞く「萌え」っていう言葉は、結局のところ何なんだ?●小説はあまり読まないが、村上春樹はなんとなく読んでしまうのは、なぜだろう。●最近のまんが、アニメや小説では、なぜあんなに「妹」がもてはやされるんだろうか。●『少女民俗学』を書いた大塚英志も、『制服少女たちの選択』を書いた宮台真司も、なぜあんなに少女のことばかり気にするんだろうか。――おたく文化を鮮やかに論じる!

アニメーション学入門

アニメの魅力って何だろう? その技法と理論、歴史と現状、そして国内外の主な作品・作家をくまなく紹介。日本を代表する大衆文化「アニメーションとは何か」がこの一冊でわかります。 いまや日本を代表する大衆文化であり、国内外で熱い注目を集めるアニメーションについて、
あなたはどれだけ知っていますか。アニメーションとは何を指すのか、どんな種類があるのか。いつ、どこで、誰がどんな作品を創ったのか。
映画や美術や文学との関わりは、そしてアニメビジネスとは?
アニメーションのすべてが体系的にわかる、画期的な「アニメーション学」テキスト!

漫画映画論

(「BOOK」データベースより)
名著の復刻。1941年、長編アニメーションを見られなかった時代に映画作品としてアニメーションを積極的に評価し、いずれ映画の主流を担うと予感した映画評論家・今村太平。その独創に満ちた代表作。

ロシア・アニメ:アヴァンギャルドからノルシュテインまで

(「BOOK」データベースより)
ロシア・ソ連のアニメ史を重要人物・作品を中心に年代を追って記述。革命やロシア・アヴァンギャルドとの関わり、日本の著名作家に与えた影響、リバイバルで日本でもブームとなった「チェブラーシカ」シリーズの背景などにも触れた。

ウィンザー・マッケイ:その人生と芸術

ジョン・ケインメーカーはマッケイの印刷物や映画を見直して彼の業績を徹底的に分析し、彼の生涯、家族、アメリカ文化や時代の価値観に関して、彼の作品を検討した。マッケイのあらゆる努力から生まれたオリジナルの芸術と珍しい個人写真の数々は、ケインメーカーの魅力的な文章に対する視覚的なカウンターパートとなっている。1870年頃、ミシガン州でのパイオニア時代のマッケイの幼児期が始まり、彼のバイオグラフィが動き出す。彼の最も初期の試みは、シカゴで芸術的な声を見出すことであった。シンシナティで世紀の変わり目を体験する頃、サーカスのポスターに彼の作品が登場。すばやくスケッチできる新聞記者として、ヴォードビルにおいて主役級で講義を行うアーティストとして、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの錚々たるメンバーが揃った新聞漫画家たちのクラウンジュエルとして、また、初期のアニメーターで最も偉大な人物としての彼の功績を紹介する。マッケイの傑作は叙事詩『リトル・ニモ』(1905年Little Nemo)である。それは、素晴らしいアールヌーヴォーのラインと控えめながらも大胆な色づかいで描かれる美しくシュールなファンタジーであり、映画のストリーテリングの技術を予測させるレイアウトでデザインされた。マッケイのアニメーション映画10作品のうち、『How a Mosquito Operates』(1912年)や『Gertie the Dinosaur』(1914年、邦題:恐竜ガーティ)などは、今なおこの芸術の歴史のランドマークであり、ウォルト・ディズニーの成熟した映画が20年後に登場するまで、キャラクターたちの流れるような動きと個性はほかに類を見ないものであった。
「Nielsen BookData」より

「Akira」から「ハウルの動く城」にわたるアニメ:現代の日本アニメを知る

この画期的な人気の新版書は、アニメの定着したファンだけでなく新しいファンにとってなくてはならない一品です。2002年アカデミー賞が授与された宮崎駿氏の「千と千尋の神隠し」以来、日本のアニメーションの人気は高まる一方です。この現象は、大抵の場合、アニメは社会や文化を中心とした有意義なテーマを描く、子供向けの漫画以上な存在であることを裏付けています。「千と千尋の神隠し」の新たな章、さらに日本で既に記録を更新している宮崎氏の最新ヒット作「ハウルの動く城」など、その他の最新リリースを満載したこの新版書は、詳細を知りたい視聴者の急成長市場向けに信頼すべき情報源となるでしょう。

動画の「世界」

『Animated "Worlds" 』は、2003年に英国のファーナム・キャッスルで開催されたAnimated 'Worlds' 会議で発表された論文の編集物である。映画について検討する際に「アニメーション」という用語が意味するところは何か?それは技術なのか?-スタイルなのか?-自分自身が生きてきた「世界」の経験にほとんど関係のない「世界」を見たり経験したりする方法なのか?『Animated "Worlds" 』の作品集は、英国で開催された2003年のAnimated 'Worlds' 会議から厳選したテーマを示している。エッセイの範囲は、現象学的で認知的なアプローチ、傍観、パフォーマンス、文献論、デジタル美学にまで及び、アニメーションが突き付けてくる、驚くほど多様な「世界」を披露している。

イエロー・サブマリン航海記 ビートルズ・アニメーション全記録

(「BOOK」データベースより)
ビートルズ解散から30年以上が過ぎた。メンバー4人が少しでもかかわったことについては書き尽くされ、分析、解釈、賞賛、批判が繰り返されてきた。しかし、1999年秋にリニューアル完全版として再公開されるまで全体像が明らかになっていなかった作品がある。それが1968年7月17日にイギリスで公開された(アメリカ公開は同年11月13日)長編アニメーション映画『イエロー・サブマリン』である。同時代のアニメーターやアーティスト、広告クリエーターのスタイルに刺激を与え、今なお手本とされる作品の全貌が、遂に本書で明らかになる。

映画とテレビのアニメーターたち

ウォルト・ディズニーの言葉に、「人間の心に思い浮かべられることはすべてアニメーション化できる」という語がある。部分伝記、部分史、部分的芸術解説である本書は、アニメーションの分野における重要人物数名に目を向け、アニメーションの技術に彼らがいかにして貢献し、業界の発展にどれほどの影響を与えたかという点を考察する。多くの場合、全体として大衆文化に関して直接的な影響力があった。

アニメへの変容 原作とアニメとの微妙な関係

マンガや児童文学を原作とする作品がアニメ化される際、どのように作り替えられアニメ的変容が見られるのか。その変容を調べることにより、アニメならでの体質や表現が見えてくる。この作業を通して、アニメーションという現代メディアの特質を明らかする。

アニメーション日中交流記 持永忠仁自伝

アニメーション映画製作の基礎を築いた作家、持永只仁(1919-1999)。長春と佐賀で過ごした幼少年時代から、戦時下日本でのアニメーション製作、終戦前後の満洲映画協会(満映)、内戦下中国のスタジオでの人形アニメへの挑戦、そして文化大革命後、中国アニメーションの日本への紹介と北京での後進の育成まで、多くの人々の交流をまじえながら語る、日本と中国の架け橋となった芸術家(アーティスト)の自伝。

エストニアのアニメーション:天才と完全無学の狭間

「エストニアのアニメーションにはなぜ非常に多くのニンジンが主役になるのか、あるいはなぜウシがピラミッドを作るのか、という疑問がこれまであった。だが、いずれの疑問にも、Chris Robinsonの新作著書『A Story of Estonian Animation』(エストニアのアニメーションの物語)では答えられていない。Robinsonのフランクで、ユーモラスかつ研究しつくされた著作は、1930年代初期の実験的な段階からソビエト時代のパペット(Nukufilm)とセル(Joonisfilm)アニメーションスタジオの制作、そしてまさにポストソビエト時代のエストニアの驚くべき国際成功に至るまで、エストニアの絶賛されたアニメーションシーンの歴史をたどるものである。また、Robinsonの著書には、本書が刊行されるまでエストニアの歴史家にも国際アニメーションの歴史家にも知られていなかった、1960年代のアニメーションの4人のパイオニアが手がけた映画の発見についても記載されている。」

ジャパナメリカ

『ガッチャマン』『ポケモン』『トトロ』から『ハルキ・ムラカミ』まで-日本のポップ・カルチャーはクールだ!なぜ、今、マンガとアニメがアメリカで受けるのか?浮世絵、禅に続く、日本文化偏愛の「第三の波」を、日米の最前線からリポート。
「BOOKデータベース」より

ジャパメリカ:ジャパニーズポップカルチャーはいかにして米国に侵入したか

アニメやマンガ(日本のアニメーションや漫画雑誌)といった現代の日本のポップカルチャーは、アジアでのハリー・ポッター現象に匹敵するもので、まさに嵐の勢いてアメリカをとらえる海外輸出です。ハリウッドが映画館の空席を埋めるべく闘っている一方で、日本のアニメのリリース、数字上はアメリカ映画をますます追い越しており、さらに重要な点は、作品がファンに与える影響が大きく、夢中にさせてしまうことにあります。ただし、ハリー・ポッターが「普遍的」であると同時にまさにイギリス的であったように、アニメはどこまでも日本的ですが、まったく予想外なことに、米国で人気を高めています。
『Japanamerica』は、日本のポップ現象に接したアメリカ人の経験をダイレクトに取り上げた初の書籍で、宮崎駿の大作から、ヘンタイ、すなわち過激なポルノ的アニメとして急成長している世界、そのほかカトゥーンネットワークで毎日放映されている実績があるパフィーの亜美と由美、小説家の村上春樹などまで、すべて網羅しています。本書は、両国のアーティスト、批評家、読者、ファンの洞察を紹介するとともに、最先端をいく文献として、アメリカと日本のポップカルチャーが今にも劇的に衝突しそうなほど互いに抱えている葛藤に注目しています。

日本初のアニメーション作家 北山清太郎

大正6年、日本で最初にアニメーションを作った人物の一人、北山清太郎。
初期は美術界に身を置き、美術雑誌を発行するなどして、岸田劉生ら若手画家の活動を支援していたが、やがて、当時海外から輸入されるようになったばかりのアニメーションに心を奪われ、教本も何もない中、手探りでアニメ制作に乗り出す。
その試行錯誤の様子と彼が残した功績を、本人の回想録や関係者・遺族の証言に基づいて検証。
これまでほとんど研究されてこなかった、日本アニメの先駆者・北山清太郎の生涯と、多岐にわたる業績の全貌を明らかにする!

生命を吹き込む魔法2

生命を吹き込む魔法2では、「生命を吹き込む魔法:アニメーションに関するエッセイ」から始まったアニメーションの理論における先駆的な活動を続け、広げている。これにより、アニメーションの研究や映画の研究だけでなく領域を超えて多くの理解、アプローチ、補正、学者への呼びかけが得られる。それは、アニメーションは、次第に注目を集めるコンピューターアニメーションおよびアニメのおかげで、理論的に大きな注目を集めるという推定に基づいて進行する。
16編のエッセイは広範囲なアニメーション分野に加えて日本やアメリカの第二次世界大戦後の映画アニメーションに関わるコレクションから成り、これには以下のものを含む。ライブアクションとアニメーションの関係、ビデオおよびコンピューターゲーム、電子機器、デジタルアニメ化されたメディアスケープ、市街地、フライト・シミュレーション、軍隊および戦争、エンターテイメント業界におけるアニメーション。さらに、アニメーションおよびその理論化の発展についての充実した内容の紹介だけではなく、アニメーションに関するより一般的な理論的特性のエッセイを含んでいる。

動いているアート:アニメーションの美学

「Art in Motion: Animation Aesthetics(動いているアート:アニメーションの美学)」は多様な形式のアニメーションの美学を包括的に検討した初めての本 である。本書は、アニメーション研究とメディア研究の関係を広い範囲で概観し、平面アニメーションと立体アニメーション、フルアニメーションとリミテッドアニメーション、そして新技術に関する具体的な審美的問題に焦点を当てている。抽象アニメーション、視聴者、表現、規制当局に関する一連の研究が含まれる。
「Art in Motion: Animation Aesthetics(動いているアート:アニメーションの美学)」は前半でアニメーション研究とメディア研究の関係を広い範囲で概観したのち、平面アニメーションと立体アニメーション、フルアニメーションとリミテッドアニメーション、そして新技術に関する具体的な審美的問題に焦点を当てている。後半では、抽象アニメーション、視聴者、表現、規制当局を含む特定のテーマに関する一連の研究が含まれている。デジタルメディアに関する最新情報など、最近のアニメーションの例がこの改訂版には含まれている。
「Art in Motion」はアニメーション、メディア研究、映画・テレビ研究、美術教育のすべての学生に必須の教科書である。著者によって改訂され、この有用な本は、さらにアニメーション研究の学生に関連したものになっている。

英国のアニメーション:Channel 4 Factor、Parliament Hill Publishing

Clare kitsonは、英国のChannel 4の創始者であり、アカデミー賞のアニメーション部門で3回受賞している、放送アニメーション界で最もクリエイティブな一人を取り上げている。1980年代と1990年代には、Channel 4はテレビ放送されたアニメーションの世界チャンピオンとして全盛期にあった。チャンネルは英国版と国際版をどちらもレギュラー放映し、英国芸術協会とアニメーションのイニシアティブを取り、British Film InstituteのMuseum of the Moving Imageが主催したアニメーター・イン・レジデンス・プログラムを後退させた。これは、ブラザーズ・クエイやルース・リングフォードといったアーティストが手がける革新的でチャレンジングな革新派のショートフィルムの制作依頼につながった。1989年から1999年までChannel 4のコミッショニングエディターを務めたkitsonは、放送局としてのチャンネルの発展における名声を高めることに貢献した。英国のアニメーション界で、彼女はこの類まれな時代を愛情を込めて振り返っている。

アニメーションの再構築:動画の変化

本書は、「アニメーションの再構築(Re-imagining Animation)」を通した、創造、教育、技術面での重要な課題について考察します。動画フレームの表示と共に、幅広い事例研究を取り上げ、初期選択とクリエイティブな刺激の選定から、考察と判断を通して作業の美学上かつ技術上の円滑化について伝えながら、最終結果に至るまでの製作プロセスに目を向けます。次に、これらの意図、目的、効果について、また動画文化へのより広範な関与の一環として考察されます。これらの事例研究は、「脚本から画面」へと推移するにつれ、実験研究の詳細評価を示すと同時に、アニメーション、フィルム、グラフィックデザイン、アート製作一般間のインターフェースに注意を向けます。そして、ここにまさしく、単に最前線を走る先進的なコンテポラリー作品だけでなく、教育学と製作に向けた革新的アプローチを強調した、本質的に「上級」レベルの書の性質があります。本書は、アニメーションの学習者や著名な熟練アニメーション製作者に限らず、アニメーションに関心を持つあらゆる人に適しています。
「Nielsen BookData」より

シュヴァンクマイエルとチェコ・アート

チェコ・シュルレアリスムの中心人物、
映像の魔術師シュヴァンクマイエル――

ブルトン『シュルレアリスム宣言』から10年――表現主義、キュビスム、ダダなどの影響のもと、タイゲ、トワイヤン、ネズヴァル、シュティルスキーらは独自のアヴァンギャルド《ポエティズム》を推進し、その後発展的解消を経てシュルレアリスムを宣言する。社会主義体制下では地下活動を余儀なくされるが、幾度もの世代交代を経てチェコ・シュルレアリスムは、現在進行形である。

アニメーションの錬金術師シュヴァンクマイエル、チェコスロヴァキアの《ヌーヴェル・ヴァーグ》、ゼマンやトルンカの《チェコ・アニメーション》、ルドルフ2世からアヴァンギャルド……。
本邦のシュヴァンクマイエル紹介に大きく寄与する気鋭の論客による待望の評論集!

コマ撮りアニメーションの秘密―オスカー獲得13作品の制作現場と舞台裏

本書ではアカデミー短編アニメ映画賞を受賞した珠玉のアニメーション13作品、「隣人」、「フランク・フィルム」、「砂の城」、「ハエ」、「アンナ&ベラ」、「木を植えた男」、「バランス」、「マニピュレーション」、「階段を降りるモナリザ」、「クエスト」、「老人と海」、「岸辺のふたり」、「ハーヴィ・クランペット」に着目。著者が、各作品の監督と制作に携わった関係者へのインタビューを通じ、各作品の制作舞台裏を明らかにし、これら作品に使われたハイレベルな制作技術を独自の視点で紹介しています。アート・アニメーションの世界を知るための待望の一冊。
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オタク学入門

1980年代に発生し、今や世界中の若者に浸透した「オタク」文化。本書は、第一人者がその本質を明らかにした、教養としての「オタク学」の金字塔である。「うる星やつら」「スター・ウォーズ」などを教材にした生態研究から見えてくるのは、ジャンルを超えることを恐れず、努力を厭わない、知的冒険者の姿である。「ガンダム」総監督・富野由悠季氏との対談「『ガンダム』は何を教えてくれるのか」収録。

東大オタク学講座

あの頃「オタク」は熱かった。'96年から'97年にかけて著者が東大で行った伝説の講義=オタク文化論傑作選。
東大生の前で語った内容は10年余の時を経てなお読み応え十分である。ユニークなゲストとの対談は貴重にして希少で必読の部分。

アニメ寓話集:動物、漫画、そして文化

今日の視聴者はバッグス・バニーがオペラを歌い、ミッキー・マウスがペット犬のプルートを散歩させている場面を観て当然と思えるほど、長年にわたり、漫画家やアニメーション製作者は動物に人間的特性を与えてきています。「アニメ寓話集(The Animated Bestiary)」は、漫画、またより一般的にアニメーションにおける動物の描写を厳密に評価します。アーティストは動物を活用して、政治、宗教、社会上のタブーという理由で直接注意を寄せることが難しい課題に取り組むのだ、とポール・ウェルズ氏は論じます。その結果、アニメーションは動物を生かして、主に擬人化を通し、性別、性行動や性的関心、人種や民族性の演技を展開しながら、固有性(アイデンティティー)を変化させ、私たちの自己認識を呼び起こすことが多くあります。ウェルズ氏は、オリジナルのキング・コングからニック・パークによるチキン・ラン、そしてターザン、ジャングル・ブック、ブラザー・ベアーなどのディズニー・アニメーションに至る広範な例題を取り上げ、漫画やフィルムに登場する動物に対する人々の反応に目を向けることで、世の中の人々について思索します。

コンピュータ・グラフィックスの歴史 3DCGというイマジネーション

「それまでまったく存在していない技術」はいかにして巨大産業に発展したのか? 
コンピュータ・グラフィックスという巨大なイマジネーションをカタチにしたパイオニアたちの努力の物語。貴重な図版と用語解説、キーパーソンの解説を付した、CG史の決定的入門書です。CG、映像技術、VFX、IT技術、グラフィック・デザイン、モーション・グラフィックス、アニメーション、立体3D映像に興味のあるすべての学生、ファン、プロフェッショナル必見!

「人々はそれを奇跡と思った」パペットアニメーションのパイオニア、アーサー・メルボルン・クーパー(1874~1961年)

「最初である」ことに取りつかれた世界で、DVDが付属したこの魅力的な書籍では、英国のパイオニア的映画製作者でありおそらく初めてのアニメーション『MATCHES APPEAL』の製作者であったアーサー・メルボルン・クーパーによって製作されたストップモーション映画が分析されている。さかのぼること1899年、当時アニメーション化されたマッチ棒で黒板に書いて英国の視聴者に、南アフリカでのボーア戦争で戦っている軍隊への発送品の助成金を寄付するよう訴えていた。この映画の日付が正しい場合、これは、初期のアニメーションと知られていた時期より数年前に、またウォルト・ディズニーが生まれるはるか前に映画館で上映された初めてのアニメーションフィルムといえるだろう。豊かなアーカイブ資料に描かれていたのは、メルボルン・クーパーと彼の家族のインタビュー、および付録とともに、フレーム×フレーム解析であり、本書は、この初期の『MATCHES APPEAL』の年代に納得のいく論を示し、初期の映画の歴史に極めて重要な貢献をしていた、アニメーションの初期の頃の忘れられないポートレートをスケッチする。メルボルン・クーパーが製作した6枚の現存するアニメーション映画のDVDでは、初期に映画館に通った視聴者が見て驚嘆した素晴らしい世界を披露する。
「Nielsen BookData」より

ハイパーアニメーション:デジタル画像と仮想世界

ハイパーアニメーションにより、進化したデジタル技術を用いて新鮮で革新的なアート作品を作り出す新しくかつ拡大されたアニメーションの形式について重要な概観が得られる。学術的な文章や大衆向けの調査とは異なり、ハイパーアニメーションはアーチスト自身のインタビューからできている—アーチストとは、実際に新しい方向性を具現化し、彼ら自身の言葉で言えば、同時期の技術文化への洞察と同時に彼らの作品についての詳細な情報を提供しているクリエイティブな人のことである。理解しやすい個人的視点のコレクションには歴史的な背景、伝記風の人物紹介、豊富なイラストが付随しており、この稿では、対話式インストールや仮想環境からデジタルシアターやテレマティックス画像まで広範囲で革新的なアニメーションプロジェクトを調査している。これには、Paul Kaiser(ポール・カイザー)、Karl Sims(カール・シムズ)、Char Davies(カール・デービス)、Dan Sandin(ダニエル・サンディン)、Jeffrey Shaw(ジェフリー・ショー)、Rebecca Allen(レベッカ・アレン)、Miroslaw Rogala(ミロスロー・ロガラ)、Roy Ascott(ロイ・アスコット)、Paul Glabicki(ポールグラビッキー)などこの分野の先駆者のインタビューを含み、彼らの重要な作品はアニメーションアートの形を著しく変化させてきた。

ライアン・ラーキン やせっぽちのバラード

25歳、「ウォーキング」でアカデミー賞ノミネート。28歳、アニメーション史上に残る傑作「ストリート・ミュージック」完成。若くして栄光を手にしたライアン・ラーキンは、一転、成功と創作のプレッシャーに追いつめられ、すべてを捨ててホームレスとして生きることを選んだ。  1965年から72年にかけて4本の短編作品を残し、2007年にこの世を去った伝説のアニメーション作家の希有な人生を、アニメーション映画界の名物ディレクターが追った、魂のノンフィクション。

アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題

2003年4月7日、アトムが生まれた。そしてその日、世界は戦時下にあった…。記号的表現として決して傷つかないまんがキャラクターを、手塚治虫が実際に血を流す存在として描いた時、戦後まんがは始まった。手塚はなぜまんがの登場人物に、リアルな身体と心を与えたのか、なぜアトムは大人になるのを拒んだのか。戦後から現在に至るまで、まんがに流れる「アトムの命題」を解き明かした画期的な評論。
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「萌え」の起源 : 時代小説家が読み解くマンガ・アニメの本質

『リボンの騎士』のサファイア、『バンパイヤ』の狼女・ルリ子、『火の鳥2772』の万能アンドロイド・オルガなど、手塚治虫の「変身するヒロイン」をキーワードに、日本のマンガ・アニメが世界制覇した原動力の「萌え」、それを生んだ日本文化の核心を探る。ルパン三世と木枯し紋次郎の共通点は? シュワルツェネッガーvs長谷川一夫の軍配は? なぜアトムは太陽へ飛びこんだのか? 日本人による日本人のための作品が、世界中の人々の心をつかんだ最大の理由は何か!? 時代小説家による画期的なサブカルチャー論。

おたくの起源

趣味・嗜好を表す言葉から、文化までをも規定する時代の言葉となった「おたく」。SFファンやマンガファンが育て、現在へと結実する過程。1970年代にみるその萌芽を振り返り、現代視覚文化の根源を示す。

ル・オタク : フランスおたく物語

一〇年ほど前、世界は「おたく」を求めていた。パリを中心に、欧米で巻き起こった二〇世紀末のジャポニズム、それに関わった者たちの姿をレポートする。フランスだけでなく、日本のアニメ産業の現状や、問題点も鋭く分析。文庫化にあたり再取材を敢行し、今日の「おたくカルチャー」のすべてがわかる決定版。
「BOOKデータベース」より

日韓アニメーションの心理分析: 出会い・交わり・閉じこもり

日本のアニメは「閉じこもり」!?
アニメーションに描かれた人間関係の3つの要素「出会い」「交わり」「閉じこもり」に着目し、日韓の作品を比較分析。韓国のものと比べて、一見自閉的傾向を示す日本のアニメーションが、世界で受けているのはなぜか? 統合失調症患者の描画療法から得られた知見も交え、日本人の心的特性を浮き彫りにする。臨床心理士の著者による刺激的なアニメーション研究。

アニメーションの映画学

ミッキー・マウスは一秒間に何回表情を変えるのか?アニメーションにおける流動的な動きのもつ意味は?
ディズニー・アニメから鉄腕アトム、エヴァンゲリオンに至るまで、古今のアニメーション作品に触れながら、
その特有の表現方法や物語構造の分析を通してアニメーションの面白さの秘密に迫る意欲作。

メイキング・オブ・ピクサー―創造力をつくった人々

『トイ・ストーリー』や『ニモ』など驚異のCGアニメーションで映画業界の寵児となったピクサーは、いかに苦難の日々を抜けて卓越した創造の場となったのか。アップルを追われたジョブズ、ディズニーをクビになったラセターなど異才・天才たちが織りなす物語

マウス・アンド・マジック――アメリカアニメーション全史(上)

(上)最良の通史、待望の邦訳。
ミッキー・マウス、ポパイ、トムとジェリー……アニメ史上のスターたちは、誰によって、どのように創られたのか? 膨大な調査とインタビューによって創造の現場を再現・活写する、アメリカ・アニメ通史の定本、初邦訳。

マウス・アンド・マジック――アメリカアニメーション全史(下)

(下)映画史の空白を埋める、画期的著作。
サイレント時代から現代に至るまでのアメリカ・アニメ史を、知られざるエピソードを交えて活き活きと、余すところなく描く。一次調査に基づく、映画・アニメファン必読の1冊。図版270点収録。総索引/邦訳版独自の解説・資料付。

クロアティアのアニメーション――人々の歴史と心の映し絵

アート・アニメーションの新たな世界を切り開いたクロアティアの「ザグレブ派」アニメーションに、大国に翻弄されてきた西バルカンの小国クロアティアに生きる人々の歴史認識や心性を探る社会史の新たな試み。

付録DVD収録の『ザグレブ・フィルム40年40分史』では、ザグレブ・フィルムの歴史とその特徴をコンパクトに通覧でき、主な作品のハイライトも楽しめます。また、代表作家4人の4作品もまるごと収録! けして古びず、新しささえも感じさせるアート・アニメーションの数々は必見です。

動くアート:レン・ライの作品

「キネティックアートは、有史以来、アートの初の新しいカテゴリーである」とニュージーランド出身で海外に移住したアーティストのレン・ライは、1964年刊行のエッセイで大胆にもそう主張しています。ロジャー・ホラックスが執筆しベストセラーとなったライの伝記『Art that Moves: The Work of Len Lye』では、ライがこの言葉で語りたかったことや、彫刻や映画に登場する彼の作品がそれをどのように裏づけているかという点が掘り下げられています。

クエイ兄弟:形而上学の遊戯室へ

この作品は、クエイ兄弟のクリエイティブな全作品を網羅した最初の徹底的な解析である。彼らの作品はパペットやミニチュア、ストップモーション技術を駆使した短編アニメで知られ、著者の魅力的な解説およびクエイ兄弟の芸術や独立したパペットアニメーション芸術に対する刺激的な洞察の対象として、彼らの批判的で特異的な映画は想像力に富んだ領域である。本書の美学的研究は、アニメーションのみならずライブアクション、舞台デザイン、イラストに及ぶクエイ兄弟の芸術的な活動や作品への幅広いアクセスに端を発する。それは記録的資料だけではなく、彼らとの長い付き合いや、彼らの作品には欠かせない共同制作者のインタビューも活用している。彼らの映画の文学的な起源、空間、パペット、モンタージュ、そして見落とされがちなアニメの音や音楽に関する考察は表現の政界に新たな光を発する。その表現の政界では、クエイ兄弟は自分たちの素材を用いて映画を作製し詩的な魔法を生み出している。

チャンネルはいつもアニメ――ゼロ年代アニメ時評

年間300本もの新作が放映されるアニメ。本書は2000年代の10年間に、著者が観尽くして、語り尽くした時評集だ。視聴者の立場から、作り手のしかけや自分の心がどう動くのかを発見しながら、ワンランク上のアニメの楽しみ方に読者を誘う。

音楽の魅力:アニメ映画の音楽と音

アニメ映画は世界中で製作されており、多くの観客を魅了し批評家からの称賛を集めている。子供向け映画や広報映画などの社会の主流から取り残されたジャンルではもはやなく、研究の主題として学術的に取り上げられることが増えている。同時に、関心は市場へのアピールだけではなく心理面の影響や物語風の動きのいずれにも貢献する映画の音楽にも向けられるようになった。この新しい稿では2つの分野の橋渡しをし、映画産業や音楽産業と関連してアニメ映画の音楽の位置付けも行う。Paul Wells(ポール・ウェルス)やDaniel Goldmark(ダニエウ・)ゴールドマークのようなアニメーションの専門家やPhilip Hayward(フィリップ・ヘイワード)やIan Inglis(イアン・イングリス)、Janet Halfyard(ジャネット・ハーフヤード)のような映画音楽の権威により、アニメ映画の音楽や音の歴史や美学に関する国際的な視野が得られる。
「音楽の魅力」は第二次世界大戦後に米国、英国、日本、フランスのプロデューサーから公開され、広く配給された長編映画に焦点を当てている–「Animal Farm(邦題:動物農場)」(1954)から「Happy Feet(邦題:ハッピーフィート)」(2006)、「Yellow Submarine(邦題:イエロー・サブマリン)」(1968)から「Curse of the Were-Rabbit(邦題:ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!)」(2005)、「Spirited Away(邦題:千と千尋の神隠し)」(2001)や「Les Triplettes de Belleville(邦題:ベルヴィル・ランデブー)」(2003)まで

アニメーションの空間:ミッキーからウォーリーまで

アニメーション製作者は、芸術上困難な判断が求められる厳密に定義された限定空間の領域内で作業を行います。空白のフレームは全アニメーション製作者にジレンマをもたらし、その空間に何を取り入れ、何を省くかという判断は、芸術性、著述業、また文化的影響に関する重要な課題を提起します。「アニメーションの空間:ミッキーからウォーリーまで(Animating Space: From Mickey to Wall-E)」では、著名学者J. P. テロッテ氏により、空白テンプレートへのアニメーションの取り組み方、またその取り組みへの対応が変化してきた様子が探られます。アメリカのアニメーションに焦点を絞り、テロッテ氏は空間に対する文化的態度の変化に沿って、アニメーションの開発を追跡し、芸術手段を目新しいものから完全に現実化された芸術スタイルへと高めたイノベーションについて分析します。ウィンザー・マッケイ、フライシャー兄弟をはじめ、ウォルト・ディズニー・カンパニー、 ワーナー・ブラザーズ・エンターテイメント社、ピクサー・スタジオにわたり、「アニメーションの空間(Animating Space)」は、アニメーションを発明した人物、さらに洗練した人物、そして今日のデジタル時代においてアニメーションを生かして、シネマの真の可能性を再定義している人物がもたらす貢献について検討します。

菊とポケモンーグローバル化する日本の文化力

今や「日本的」であることが「かっこいい」。米国ではアメリカ人が日本風アニメやマンガを作って売るご時勢だ。そんな超現象のさきがけとなったゴジラ、鉄腕アトム、パワーレンジャー、セーラームーン、たまごっちにポケットモンスター。気鋭の文化人類学者がその波瀾の航跡をたどる。『菊と刀』を凌駕する、新世紀日本論。

プリキュア シンドローム! 〈プリキュア5〉を生んだ25人

2004年から続く女児向けアニメーション、プリキュアシリーズ。関連のおもちゃは年間100億円を売り上げ、年2本の映画、コンサート、ショーの動員もケタはずれ。プリキュアは子どもたちからの圧倒的な支持のみならず、親、そして大人を巻き込んで、さらに拡大を続けています。 本書は、プリキュアによって人生を変えられた著者が、シリーズの転換点となった〈プリキュア5〉の製作陣のふところ深く飛び込んで話を聞いたインタビュー集。女児向けアニメに、どれほど現場の大人たちが真剣に、情熱を最大限にかけて取り組んでいるのか……もの作りを支える魂は圧倒的。そしてその情熱は、駆け出し青二才ライターを少しずつ強く、たくましくしていきます。

増補 アニメーターズ・サバイバルキット

アカデミー賞をトリプル受賞した映画『ロジャー・ラビット』のアニメーション監督が自ら解説する、実用的なアニメーション制作マニュアルの決定版。アメリカおよびヨーロッパ各国で、ウォルト・ディズニー社、PIXAR社、DreamWorks社、Blue Sky社、Warner Bros社のアニメーターたちが参加した「アニメーション・マスタークラス」に基づく内容。ウィリアムズは、初心者からエキスパートまで、あるいは古典的な手描きアニメーターからCGアニメの名手まで、すべてのアニメーターが必要とするアニメーションの基本原則を提供してくれる。読者に、「独創的で、しかも信じるに足るものをつくる」ことを説きつつ、彼は無数のドローイングで重要ポイントを図解し、アニメーションマスターたちの極意をすくい取って実用的な制作システムをまとめ上げた。

世界アニメーション歴史事典

『世界アニメーション歴史事典』は豊富な図解と百科事典的な目的のもと、ヨーロッパ、北米、アジアを中心に、世界中から集めたこのジャンルの100年にわたるストーリーが収められています。アニメーションはその誕生当初から複数のイテレーションを開発し、無数の動的スタイル、革新的技術、アイコン的キャラクター、心に残るストーリーを生み出してきました。ステファン・キャバリエの包括的な説明は年代順にまとめられており、草分け期から始まり、主要映画作品、テレビ番組、デジタル映画、ゲーム、インディペンデント映画、ウェブまで網羅しています。また、映画や技術革新を余すところなく取り上げたタイムラインは、物語風のバックボーンとなり、あらすじや、人物およびスタジオの詳細なバイオグラフィとともに必見の映画作品がリストアップされています。本書では、ロトスコープからセル技術、ダイレクト・フィルム、クレイメーション、およびその他の高度な技術まで、アニメーション技術の進化が説明されています。真のグローバルな概論といえる『世界アニメーション歴史事典』を手に取ると、エキサイティングでインスピレーションに富んだ世界が広がります。そこには、大規模で今なお発展し続けているアニメーションの世界を通し、人間の想像力と同じく果てしなく広がる広大な空間が待っています。

フランスのアニメーション史

『French Animation History』は、フランスがその歴史の中で維持してきた特別な場所に光を当てた、アニメーションの歴史に関心のある人にとって必読の書である。
2011年度のアカデミックな傑作タイトルに選ぶべき本書は、フランスのアニメーション史のみを取り上げた初の書籍である。フランス人アニメーターたちがが明確な自国のスタイルを造るために独自のビジュアルスタイル、ナレーティブモード、技術革新を創り出した方法を探り、ハリウッドの商業的なカートゥーンの陳腐なテーマやしきたりにはあえてページを割かなかった。初期のサイレントアニメーションから最近の国際的に有名な『Persepolis』まで、ほとんどの影響力のある映画には80色を超えるカラーと、白黒の画像が含まれている。フランス映画の研究に関心のある人には必読の書である。
「Nielsen BookData」より

ウィリアム・ケントリッジ

ウィリアム・ケントリッジ(1955年生まれ)の白黒アニメ映画により今日の南アフリカに関する象徴的かつ前例のない洞察が得られ、それは真実和解委員会の審理からヨハネスブルグ周辺地域におけるアパルトヘイトの暴力の痕跡に及ぶ。本書は、生まれ故郷の南アフリカを離れて20数年間無名のまま過ごしたのち、1997年に国際的な芸術シーンに爆発的な勢いで登場したこのたぐいまれな芸術家の仕事を記録した初めての本である。ケントリッジの映画は、個々の人たちの苦悩を通して政治情勢を描いている。それらは多数の描画で根気よく構成されており、線や形を足すだけではなく消すことで作られていることが多い。1週間を費やして仕上げた描画がアニメーションの中ではたったの40秒にしかならないこともある。アパルトヘイトやホロコーストのような社会政治的トラウマは、彼の哀愁や苦しみに満ちた映像を通して謎めいた言い方で物語られている。秀でた製作者の技術に依存するMax Backman(マックス・ベックマン)やKathe Kollwitz(ケーテ・コルヴィッツ)のような一部の表現派の芸術家のように、ケントリッジはヒトの描写を通して政治に関与する芸術を表している。このかけがえのない本は彼の仕事について広範囲に及ぶ初めてのモノグラフである。米国のキュレーターであり評論家であるDan Cameron(ダン・キャメロン)は政治色の強い芸術という側面からケントリッジの仕事を調査する一方、彼のアニメーション技術の組織的な革新を分析する。欧州の芸術評論家でありキュレーターであるCarolyn Christov-Bakargiev(キャロライン・クリストフ=バカルギエフ)は彼の描画との関係における政治的および哲学的側面について芸術家と考察する。ブッカー賞を受賞した南アフリカの小説家J. M. Coetzee(ジョン・マックスウェル・クッツェー)は、ケントリッジのもっとも有名なキャラクターであるSoho Eckstein(ソーホー・エクスタイン)とFelix Teitlebaum(フェリックス・タイテルバウム)の開発の重要なポイントとして、アニメ作品「History of the Main Complaint(邦題:重大な傷/病の歴史について)」(1996年)に焦点を当てている。「The Artist's Choice」選集はItalo Svevo(イタロ・ズヴェーヴォ)による「Confessions of Zeno(邦題:ゼーノの苦悶)(1923年)」からの抜粋であり、芸術家の仕事について自伝体で描かれている。ケントリッジの著作物は描写プロセスについての熟考、南アフリカの政治の現状、Goya(ゴヤ)やHogarth(ホガース)からベックマンやエイゼンシュテインなど彼が描いてきた描写の伝統に及ぶ。
「Nielsen BookData」より

漫画:ハリウッドスタジオ時代におけるアニメーションとコメディ

このエッセイ集は、映画産業の初期から20世紀を通してスタジオ時代の漫画におけるコメディとアニメーションのつながりを調査している。アニメーションの権威で構成される会により書かれた本書は、漫画によりアニメーションはなぜそれほど早期にそれほど刻み込まれるようにコメディと結びつくようになったのかについての視点の刺激的な領域が広がり、漫画はアニメーションとユーモアがモーションピクチャー業界発展の最終段階で一体となるかを示している。コメディと漫画についての主な前提のいくつかを検討し、融合を促進する主な要因を探索するために、この本では、アニメのコメディの良い例となるスタジオ時代からの多くの映画作品を解析している。漫画は、この不可欠なアメリカのエンターテイメントの伝統が「The Simpsons(邦題:ザ・シンプソンズ)」からピクサーの作品までどのように今でも力強く繁栄するかを示すために先のことも考えている。

これでおしまい?:エコクリティカルな視座から読むアメリカの長編アニメ映画

1970年代の環境保護運動をその子供向けテレビ番組や映画への強い影響からその後のエコ関係の映画への道を開いたと考える人も多いが、「これでおしまい?」が明らかにするように、アニメ映画の環境的表現の歴史はアメリカの歴史をさらに遡る。現代の環境保護運動—およびその影響を受けた漫画—は1960年代に活気づいたとする見解とは相反して、Robin L. Murray(ロビン・L・マレー)とJoseph K. Heumann(ジョセフ・K・ホイマン)が1930年代、1940年代、1950年代にどのように環境保護主義がアニメ映画においてどのように関心を高めたかを明らかにする。「Felix the Cat(邦題:フィリックス・ザ・キャット)」やディズニー映画でもっとも愛されている「Bambi(邦題:バンビ)」からピクサーの「Wall-E(邦題:ウォーリー)」やJames Cameron(ジェームズ・キャメロン)の「Avatar(邦題:アバター9)」まで、この稿では、環境的テーマを掲げた長編アニメ映画がさまざまなレベルでどのように資金を生み出すかを示している—特に、広範囲にわたる家族向けの娯楽および消費財の伝達者として。暴力、暗黒世界、都市環境を描写したRalph Bakshi(ラルフ・バクシ)のX指定となった「フィリックス・ザ・キャット」およびR指定の「Heavy Traffic」および「Coonskin(邦題:ストリートファイター)」のみが環境を意識しない消費者市場においてこのブームに浸かることを避けている。
環境漫画を文化的および歴史的背景の中で見せながら、この本は、ヒトと環境の関係についての認識の変化や環境映画およびアニメ映画新しい解釈への新鮮な洞察をもたらしてくれる。

アニメとプロパガンダ : 第二次大戦期の映画と政治

第二次大戦期に開花した総合芸術であるアニメーション映画は、枢軸国/連合国を問わず、世界各国で戦時動員の手段となった。日独伊および米英仏ソ中を中心に、一九三〇〜四〇年代に制作されたおびただしい数の宣伝映画作品を歴史の忘却から掘り起こし、草創期アニメ界の群像を活写するとともに、そのイデオロギーと詩学を読み解く稀少な研究。刊行後好評を博す原本に多数の図版を加えた日本語増補版。

無意識をアニメ化する:欲望、性、アニメーション

主な関心は独特な方法で大きくなり、その中で、芸術アニメーションは主観的体験–特に欲望、性、性別の社会的構造、告白のモード 、ファンタジー、アニメ化されたドキュメントに関して–を探索し描写する。本稿では、現代の主な映画製作者の制作プロセスと実践の詳細な解析を行う一方、アニメーションの特異度についてより一般的な問題を提起する。評論をインタビュー素材や製作プロセスのビジュアルマッピング、音の使用が従来のライブアクションとどのように異なるかについてのなおざりにされた問題の考察、および他の映画製作者の作品に対する批評と合わせて、この独特なコレクションは、洞察力に富んだ多角的なアプローチを通してそれらを前面に出し明らかにすることを目的にしている。

アニメーターの救急箱-改定版:クラシカル、コンピュータ、ゲーム、ストップモーション、インターネットアニメーターのための方法、原則、手法を定めたマニュアル

アニメーションは、今日、映画製作で最も熱く最もクリエイティブな分野の一つである。Richard Williamsは業界に40年以上身を置き、真のイノベータ―の1人として、手作業によるアニメーションの黄金時代と新しいコンピュータアニメーションの成功との間をつなぐ役目を果たしている。本書でWilliamsは、米国および欧州全域で彼の完売となったAnimation Masterclass に基づき、まさしくアニメーターが ― 初心者から専門家に、古典的なアニメーターからコンピュータアニメーションの天才となるために必要とされるアニメーションの基本的原則を示している。Williamsは数百ものデッサンを使用し、専門家、学生、ファンのためにアニメーションのすべてのフォームのスタンダード作品となった書籍を作成するため、ワーキングシステムに熟練の技の秘密を抽出した。この新たな拡張版では、洗練されたアニメーションを例に、動物の動作、新案、リアリズムに関してさまざまなことが盛り込まれている。

眠りの国の韻律学:アニメーション化された精神とアニメーションにする精神

『The Poetics of Slumberland』では、Scott Bukatmanはカートゥーン、コミック、映画の再生、プラズマティックの可能性、画像の寿命などを取り上げた。Bukatmanは『Slumberland』をWinsor McCayの『リトル・ニモ』から始め、コミックとカートゥーンという新生のメディアが、遊び心あふれる、双曲線の感情、肉体主義、想像力によって特徴づけられる反逆心のあるエネルギッシュなキャラクターたちを生き生きととらえた方法とその理由を探る。本書は、ジャクソン・ポロック、パブロ・ピカソ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ミュージカル『マイフェアレディ』や私『フランケンシュタイン』のストーリー、ジェリー・ルイスのドタバタコメディについて、一見異種のメディアと映画という中に類似の「アニメーション」化の考察を広げていく。

世界アニメーション歴史事典

ディズニー主要作品も網羅した本格的な初のアニメファン必備書!! 最適なレファレンス図書

約100年にわたるアニメーションの歴史を一冊で鳥瞰する本格的な事典
ディズニー作品をはじめ、世界の国々で子どもから大人まで楽しまれ、夢を与え続けてきた「アニメーション」の世界。その「アニメーション」の作品はどのように制作され、どのように進化してきたのか…。世界中の代表的作品を年代順に取り上げその歴史を辿りながら、内容・ストーリー、アニメーター・制作者、手法、技術等あらゆる情報を満載する初のアニメーション百科事典。

アニメチャンネル:現代のスイスアニメ映画における展望と多様性

現代のマルチメディアの可能性についての参考文献
スイスのアニメ映画は現在もっとも生産性が高く意欲的で成功を収めている歴史的な段階にある。これまでにこのように多くの映画が製作されたことはなく、カバーモチーフが使用されている「Baka!!」のように国際的な成功を収めた映画も少ない。この稿では過去20年にわたるスイスのアニメ映画の発展を調査し、最新の傾向を検討し、これから起こることに目を向けている。
「アニメチャンネル」の中心は、スイスのアニメ映画を代表する様々で独特な20名の映画製作者との会話である–それらの作品は、芸術や商業的作品は言うまでもなく、短編自主製作映画から子供向け作品まで、また、テレビシリーズからフィーチャー映画作品までである。作品だけでなく、映画製作者や彼らの芸術は注目を集めている。証言、意見、態度、哲学、提起された質問の対立は、アニメ映画製作の魅力的な世界への啓発的で有益な洞察を可能にする。2つのエッセイはインタビューとポートレートを総合的な背景に置き換えている。

動画のリアリズム:アニメーション化されたドキュメンタリージャンルの舞台裏の様子

アニメーションのツールや技術の発展や利用しやすさの向上により、映画製作者の間では、ドキュメンタリー映画製作とアニメーションの境界が曖昧になりつつある。アニメーション化のフォームに対する深い理解、不完全さ、魅力は、ストーリーを語り、事象を人間化し、安易に実写メディア向けに採用したのではない情報を伝える独自の方法を実写映画やアニメーションの監督に与えている。『Animated Realism』は、受賞作のアニメーション化されたドキュメンタリーのインスピレーションを与える舞台裏の様子を伝えるとともに、ドキュメンタリージャンルに適用されるアニメーション技術も示している。アニメーターやドキュメンタリー映画製作者は、アニメーションでビジュアルスタイルを発展させ、グラフィック小説をドキュメンタリーに変換し、ストリーテリングツールとして3Dアニメーションを使用する方法を、すべてアニメーション化されたドキュメンタリーの制作のコンテクストの中で学んでいく。『Animated Realism』には、自己洞察とインスピレーションとともに、『The Moon and the Son』でオスカーを受賞した監督ジョン・ケインメーカーのような業界の先駆者から、オスカーにノミネートされた『Waltz with Bashir and Chris Landreth』のアニメーション監督ヨニ・グッドマン、『Ryan』でオスカー賞を受賞したクリエーターのクリス・ランドレスまで、さまざまな人のインタビューも収載されている。美しくためになるイラストと未発表の素材(ストーリーボード、写真、手描きスケッチを含む)が満載で、インタビュー記事も散りばめられており、本書はアニメーター、学生、ファンにとって、インスピレーションと知識の類まれな宝庫である。アニメーション化されたドキュメンタリーの主要な作品から短編にフィーチャーしたウェブサイトも付録として付いており、アニメーター、学生、ドキュメンタリー映画製作者は、オスカー受賞作のアニメーション技術を分析して自身の作品に応用できるだろう。

デジタル・エンカウンター

「デジタル・エンカウンター(Digital Encounters)」は、アニメーション、シネマ、ゲーム、インスターレーション・アートにおけるデジタル動画のクロスメディア調査です。急速に発展しているテクノロジーを背景とした世界では、これらのストーリーが繰り広げられる世界、ゲーム空間、アート作品への私たちの対応と理解の仕方に目を向けることにより、私たちが日々受け取る膨大な視覚資料がどのようにまとめられ、解読されているかという側面が明らかにされます。「Mr. インクレディブル」、「マトリックス」、「トゥームレイダー・レジェンド」、「Bill Viola's Five Angels for the Millennium」、「アイリッシュ・ウッド」を例として取り上げ、デジタル効果、シネマ、デジタルゲーム、また時間ベースのインスターレーションの多様なインターフェイスに対して、視聴者はどのように相互作用しているかという点を踏まえた上で、テクノロジーは人間関与の性質を変え、画像や物体のネットワーク全域にわたり私たちの注意を広げていると論じています。
「Nielsen BookData」より

マウスの影:アニメーションにおけるパフォーマンス、信念、世界制作

アニメーションはさまざまに楽しませ、魅了し、怒らせるものの、映画がどのようにそうさせるのかについて説得力のある説明はされてこなかった。マウスの影はパフォーマンスを基本的な構造、実行、漫画の受け入れに関する原則の理解における一般的な試金石だと提案している。Donald Crafton(ドナルド・クラフトン)の学際的方法は映画や映画館の研究、芸術の歴史、美学、文化の研究、パフォーマンスの研究を利用してアニメ映画に関する個人的見解を概説し、それは信念や世界制作のシステムに光を当てる。彼は皮肉な調子で以下のように尋ねている。「アニメのキャラクターは俳優やスターなのだろうか?私たちは描かれたものだと知っているのに、なぜ彼らのパフォーマンスは生きているように、また存在しているように見えるのだろう?なぜアニメーションは目いっぱい体に苦痛を与えるのだろう?なぜカリフォルニア地域のアーチストやスタニスラフスキーはディズニーに影響力があるのだろう?なぜアニメーションの歴史や舞台のパフォーマンスは切っても切り離せないのだろう?具現化された芝居に適用できるようにどのように絵に描いた空間を作製したのだろう?漫画のパフォーマンスは観客を肯定的にまたは否定的に刺激するだろうか?なぜ実に多くの飲食行動があるのだろう?見た目には取るに足りない影が極めて重要なのだろう?」。「The Three Little Pigs(邦題:3匹の子ブタ)」のような古典からŠvankmajer(シュヴァンクマイエル)やPlympton(プリンプトン)による現代的な作品まで、これらのエッセイは、アニメーションのパフォーマンスそのものの主題と同じように、読者の創造力を掻き立てる。

UN-GO 會川昇脚本集 : 坂口安吾原案 明治開化 安吾捕物帖

文豪のミステリを題材に、濃厚なストーリーと企みに満ちた展開が話題を呼んだ『UN-GO』。「UN-GO會川昇脚本集」は、その『UN-GO』のクリエイティブの中核ともいうべき、會川昇によるシリーズすべてのシナリオ決定稿(TV全11話+劇場公開作『UN-GO episode:0 因果論』)を収録。さらに資料編には、企画メモやプロット等、これが初出となる資料を多数収載した。また解説編として、原案である坂口安吾作品との関係等を詳述した全話解説、ならびに水島精二監督へのインタビューを掲載。ファン必携の一冊である。

少女と魔法—ガールヒーローはいかに受容されたのか

なぜ女の子たちは「魔法少女」に魅了されるのか?少女が魔法を駆使して大活躍する「魔法少女」アニメというジャンルが日本では40年以上続いている。本書は、それらのアニメを女性性やジェンダーイメージの観点からとらえ、日本の女の子たちがどのように理解し、共鳴し、消費し、利用してきたのかを、社会文化的文脈をふまえた詳細な作品分析と視聴者へのインタビューにより明らかにする。

Oskar Fischinger 1900-1967

The German-American filmmaker Oskar Fischinger is one of the main protagonists in the history of animation and abstract cinema. From the 1920s onward, this pioneer of visual music coupled abstract images with music and rhythms, long before the arrival of the music video. Fischinger was a true virtuoso who created complex animated patterns that develop dynamic rhythms, harmonies, and counterpoints. He played an important and influential role in the development of early abstraction in film during the interwar period, amid artistic movements such as Orphism (Kupka, Delaunay), Neo-Plasticism (Mondrian, Van Doesburg), Suprematism (Melevich), and Futurism (Marinetti, Boccioni). In 1926 he began working with multiple-projector performances, creating some of the earliest cinematic immersive environments. The book examines his animation and painting, his use of music, his experiences in Hollywood, and his influence on today’s filmmakers, artists, and animators, and features previously unpublished documents including essays by Fischinger himself.

グローバル化した日本のマンガとアニメ

国際関係論・日本文化論・文化人類学・若者論・メディア論といった各学術領域を架橋する、稀有な日本ポピュラーカルチャー論!戦後日本で独特の発展を遂げたマンガとアニメが、言語・文化・社会・政治の境界線を越え、世界中の若者たちに発見され、愛され、広がっていく過程を追ってきた筆者の調査報告をまとめたアンソロジー。20年間にわたり、劇的に変化する世界の中で、各地のマンガ・アニメファンと対話し、ファンダムの祭典に参加し、情報ネットワークを共有することによって見えてきたのは、活発に文化の断片を創造し、収集し、選別し、意味づけをし、係争し、あるいは共有している若者たちの姿であった。

映画・ゲームビジネスの著作権(第2版)

映画・ゲームビジネスの現場に携わるクリエーター・スタッフ必読!初版から12項目を新たに追加し、アップデート。著作権と契約の知識がこの一冊で!映画・ゲーム業界で活躍するクリエーターに必要な著作権の知識、著作権実務に携わるビジネスマンが知っておくべき制作現場の知識をエンタメ・ロイヤーが初歩から実践までわかりやすく解説します。

アニメ研究入門—アニメを究める9つのツボ 増補版

「メディア芸術」として経産省も海外戦略を行うほどになった日本の「アニメ」。その“アニメ学”研究への道筋をつけるため、アニメ文化とともに育った気鋭の若手研究者9人が、自らの専門分野を駆使し、映像・音声・歴史・芸術・流通・視聴者・ジェンダーなど様々な視点から「アニメ」を読み解く方法を指南する。本書で取り上げている作品は『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』『時をかける少女』……など多数!!

アニメCGの現場 2015

アニメ制作の「現在」を知る! 3DCG&映像制作の専門誌「CGWORLD」に掲載されたアニメーション作品のグラフィックス制作メイキング集 昨今のアニメ制作では3DCGの活用が当たり前になり、その周辺技術の進歩によって作画による職人技的なアニメと見分けがつかないほどの見映えと、3DCGならではのリッチな表現が両立できるようになりました。これらを支えている各制作会社の多種多様なノウハウを結集し、1冊にまとめたのが本書です。今年度版では、本誌で特集的に大きく扱った『蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−』、『シドニアの騎士』、『STAND BY ME ドラえもん』、『聖闘士星矢 LEGEND of SANCTUARY』などの注目作を取り揃え、ふんだんにページ数を割いて掲載します。表紙は、2014年冬の話題作『楽園追放 -Expelled from Paradise-』、新規絵の描き下ろしです。一般誌ではほとんど見ることのできないメイキング素材を多数収録しており、アニメ制作関係者はもちろん、アニメファンも楽しめる内容になっています。進化し続けるアニメ制作の「現在」を、ぜひ体感してください。

アニメを仕事に!

制作進行を知れば、アニメがわかる!50年の歴史を積重ね、週に50本以上の作品が放送されるまでになった、世界一のアニメ大国日本。作品評価やビジネス的価値についての議論は数あれど、その制作工程について詳しく説明がされる機会はありません。本書は、アニメがどのようにして作られているかを、作品制作の全工程に関わる唯一の役職「制作進行」の視点からお伝えします。お届け元は、『キルラキル』、『リトルウィッチアカデミア』等を制作し、アニメファンの気持ちを鷲摑みにしている制作会社TRIGGER。事例に不足はありません。アニメを見るのはもちろん楽しいけど、作るのはもっともっともっと楽しい!(そしてしんどい!)

このアニメ映画はおもしろい

あのアニメ映画のおもしろさを徹底解明!「いわゆる大作」の魅力を掘り下げながら、「これこそは」という隠れた名作や小作品も紹介。脚本家やクリエーター、マンガ家などの創作の担い手から見たアニメ映画の魅力にも迫る! いま見るべきアニメはこれだ!

日本はなぜ<メディアミックス>する国なのか

いまや世界中で日常化するキャラクタービジネスの転換点と未来を探る!今日のコンテンツビジネスへと繋がる「メディアミックス」とは何なのか――。気鋭の研究者である著者が、その出発点であるアトムやキャラクターの玩具化、角川の戦略を軸に、斬新な視点で分析した画期的メディア論。

聖地巡礼:世界遺産からアニメの舞台まで

非日常的な空間である聖地――。観光地として名高い聖地には、信仰心とは無縁の人々が数多く足を運んでいる。さらに近年では、宗教と直接関係のない場も聖地と呼ばれ、関心を集めている。人は何を求めて、そこへ向かうのか?それは、どのような意味を持つのか? サンティアゴ巡礼や四国遍路、B級観光地、パワースポット、アニメの舞台など、多様な事例から21世紀の新たな宗教観や信仰のあり方が見えてくる。

政岡憲三とその時代 「日本アニメーションの父」の戦前と戦後

戦前の日本で本格的なトーキー漫画映画を手がけ、セル画という手法を導入し、戦時下の1943年に傑作『くもとちゅうりっぷ』を監督として作り上げた政岡憲三が歩んだ道から、「手塚治虫以前/以後」という枠組みには収まらない日本アニメーション史を照らす。

デジタルが変えるアニメビジネス

アニメビジネスの未来はどうなる? 2006年をピークに売上が減少していった日本のアニメは、2013年以降は再び売上増の成長期に入った。そして2016年は空前の制作本数が予定されている。日米のテレビ文化・劇場文化や、技術やプロダクションを比較し、ネット配信など新たなメディアも考察して、日本のアニメのさらなる可能性を探る。2017年に100周年を迎える日本のアニメが次の100年に向かう「未来産業」としてのあり方を提示する。