キーワード一覧
アニメ
- プラトニック・セックス――倒錯と少女アニメ(第1部)
- 不動の断片、そしてシリーズを超える運動――鉄腕アトムとアニメの出現
- プラトニック・セックス――倒錯と少女アニメ(第2部)
- 豚が空を飛ぶ時――アニメ、作家主義、そして宮崎の『紅の豚』
- カートゥーンニストとしてのタランティーノ
- 爆発、駆逐、異常――アニメーション化された身体の次元的過剰
- 「シネマ的」から「アニメ的」へ――アニメにおける運動の諸問題
- 星柄のジブリ――宮崎駿映画のアメリカ版におけるスターの声
- 日本アニメにおける国際化の諸側面
- 「あれはどの人種を表象しているのだろう、私とは何か関係があるだろうか?」アニメのキャラクターにおける人種カテゴリーの知覚
- アーロン・マックグルーダーの『ブーンドックス』と、マンガからアニメーション・シリーズへのその移行
- 押井守『攻殻機動隊』における声と視覚――デカルト的光学を超えて
- サブアニメーション――ヴェリーナ・ファーデルによる出口丈人、山村浩二との対話
- 全体論的な有生性(アニマシー)に向けて――東アジアの思想を反映するデジタルアニメーション現象
- 影のスタッフ――東宝航空教育資料製作所(1939-1945)のアニメーターたち
- 2Dアニメにおける押井守のマルチ・レイヤー空間の制作
- 今敏の『千年女優』――夢のような特質を伴うある女性の旅程
- 『千と千尋の神隠し』――日本の生態学的・環境的言説に関する映画に基づいたケース・ステディーを概念化するということ
- ショット長における宮崎、押井、細田のスタイル――定量分析
- 鳥山明 のドラゴンボールに見られる民話やその他の引用
- アニメ化された魔法のような写実主義の世界:今敏の「千年女優」と「パプリカ」の考察
- 宮崎駿の神話の詩的表現:千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、ポニョの物語風の教訓を体験する
- アニメーションから拡張まで:電脳コイルと複合自己
- メディアミックスの動員: 社会的動員と妖怪ウォッチ
- ロトスコープにおける不気味なもの―「悪の華」と日本のポストモダニティの美学
- 「ジャパニメーションの表情とその内面(Ⅰ)」――キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島のアニメーション』より
- 「ジャパニメーションの表情とその内面(2)」――キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島上のアニメーション』より――
- 声優試論――「アニメブーム」に見る職業声優の転換点――
- 東映動画TVアニメ作画枚数3500枚制限による演出表現に関する一考察(パート1)――作画枚数制限の責任は、アニメーターではなく演出家にある――
- 「ジャパニメーションの表情とその内面(3)」――キム・ジュニアン著『イメージの帝国:日本列島上のアニメーション』より――
- 宮崎駿作品のアメリカにおける浸透過程
- 東映動画TVアニメ作画枚数3500枚制限による演出表現に関する一考察(パート2)――日本のTVアニメに於ける演出法――
- ずれる声ー90年代アニメにおける女性キャラクター表象とフェミニスト批評
- アニメーションと映像をめぐる問い―アニメ、アニメーション、アニメイティング―
アニメーション
- アブ・アイワークスの(マルチ)プレーン・シネマ
- イメージ・フューチャー(映像未来)
- 韓国アニメーションの新しい歴史風景に関する批評
- コミックスとクロノ・フォトグラフィ、もしくは「いつくるのか分からなかったんだ!」
- 大聖堂は生きている――生体模倣技術的な建機をアニメートするということ
- 影の市民からテフロン・スターへ――新しいムーヴィング・イメージ技術の変容する効果の受容
- ディズニー製アニメーション・プロパガンダの消滅――グローバル化という観点から
- カートゥーンニストとしてのタランティーノ
- 不可能なまでにリアル――想像的なものをグリーンベルト化するということ
- コンクレート・アニメーション
- キャラクター・アニメーションと身体化された精神=脳
- 神経性の光の平面
- 幻覚的映像とジェレミー・ブレークの「時間ベースの絵画」における主体の不鮮明化
- 知覚の技術――宮崎駿、その理論と実践
- 精神的-機能的ループ――デジタル時代に再定義されたアニメーション
- 9.11以降におけるソフトボディのダイナミクス
- 『ベオオルフ』——デジタルモンスター映画
- コミック・ブックの世界における可視的なるものの発狂
- 純粋感覚?抽象映画からデジタル・イメージへ
- ピクトリアル・コラージュからインターメディア・アッサンブラージュへ――『バリエーションズV』(1965)とヴァンダービークの拡張映画のケージ的起源
- 物語世界上の短絡――アニメーションにおけるメタレプシス(転喩)
- 影響下でのスケッチ?マンガと映画のあいだの美学的収束についての問いとウィンザー・マッケイ
- アーロン・マックグルーダーの『ブーンドックス』と、マンガからアニメーション・シリーズへのその移行
- ディズニーのアリス・コメディ——イリュージョンの生命と生命のイリュージョン
- アニメーションと映画の隠された系譜学
- ブローブック、マジックショー、初期アニメーション――生ける屍を仲介するということ
- 初期アニメーション映画におけるモデルとしてのエンターテインメントと教育――フランスにおけるフィルムメーキングへの新しい観点
- 不在、過剰、認識論的拡張——ドキュメンタリー・アニメーション研究への枠組みに向けて
- ドキュメンタリー・アニメーションにおける経験——不安な境界、推論的メディア
- カリグラフィーのアニメーション――不可視なものをドキュメントする
- 「僕を閉じ込めないで」——『ウェイキング・ライフ』と『スキャナー・ダークリー』における曖昧な線
- ロト‐シンクレシス――ロトショップ・アニメーションにおける身体と声の関係
- インディペンデント・アニメーション、ロトショップ、実践のコミュニティ――『スキャナー・ダークリー』から見えてくるもの
- ジョイスをアニメートする――ティム・ブースの『ユリーズ』
- 立体映像的な国民の創生――ハリウッドとデジタル帝国、そしてサイバー・アトラクション
- ウィンザー・マッケイ作『恐竜ガーティ』(1914)のメーキングとリメーキング
- マイブリッジの幻灯
- 今敏の『千年女優』――夢のような特質を伴うある女性の旅程
- 『千と千尋の神隠し』――日本の生態学的・環境的言説に関する映画に基づいたケース・ステディーを概念化するということ
- モレル_モロー_モレラ――(再)アニメーションの宇宙におけるアドルフォ・ビオイ=カサーレスの発明のメタモルフォシス
- 都市をアニメートするということ――ストリート・アート、Blu、そして視覚的遭遇の政治学
- 映画的な収集――オスカー・フィッシンガーの『ミュンヘンからベルリンまでの散歩』における静止フレームの連続的な不連続性
- 境界の宇宙――ヤン・シュヴァンクマイエルの『フード』におけるピクシレーション化されたパフォーマンス
- 「レミーのおいしいレストラン」における音響的主観性と聴覚的遠近法
- 認知アニメーション理論:プロセスをもとにしたアニメーションの読解と人間の認識
- どうしてもサイズがぴったりしない:CG映画におけるデジタルスケーリング
- 手抜きティルト・シフト:ミニチュアビュー、グローバルな景観
- 再生可能なウイルス:科学と大衆文化におけるHIV分子審美性
- ズビグニュー・リプチンスキーの「タンゴ」の枠物語ウェンディ・ティルビィーとアマンダ・フォービスの「ある一日のはじまり」、ユーリー・ノルシュテインの「話の話」における枠物語とは「何か」について
- 画面全体の変容および仮想カメラ(アニメーションにおける透視画法のムーブメントに関するメモ)
- アニメーションを定義する基準:デジタル動画の到来に伴うアニメーションの定義の見直し
- 音楽ビデオのパフォーミング・ボディ:ジェスチャーアニメーターおよび操り人形師としてのFloria Sigismondi(フローリア・シジスモンディ)
- アニメーションから拡張まで:電脳コイルと複合自己
- 「私は本物の男の子ではない、私は人形だ」:コンピュータアニメ映画と擬人主義
- カロル・イルジコフスキとフェリクス・クチコフスキ:純粋なムーブメントの映画としてのアニメーション(理論)
- 表現型アニモーフの開発
- 見せかけのアニメ映画のデジタル人間の特徴付け:オンラインソースを用いた定性的調査
- 穏やかな平和の海へ:平和と反暴力のアニメーションの探究
- アニメーションおよび可塑性の力
- 挿入および結合:実写ドキュメンタリーにおけるアニメーション部分の重要な潜在能力
- ランゴ、倫理およびアニメーション
- カリフォルニア・ダウンおよびアナログーデジタル動画像の上昇
- 「白雪姫」、「シンデレラ」と「眠れる森の美女」―ディズニー初期の手作業による長編アニメーション映画における衣装デザインの諸要素
- ヤン・シュヴァンクマイエルの「ドン・ファン」(1970年)-親密なオブジェとしての操り人形
- ウォルト・ディズニー・トレジャーズ、またはミッキーマウスのDVD? アニメーション愛好、ノスタルジア、そしてホームビデオにおける劇場向け短編カートゥーンの競合する表象
- 「トイ・ストーリー」シリーズにおけるアニメーション化されたイメージとアニメーション化された物体:再帰的・間テクスト的な逸脱的ミメーシス
- 動きのダイアグラム―ヤン・シュヴァンクマイエルとブラザーズ・クエイの短編映画に見る、動的な彫刻の形式としてのストップモーション・アニメーション
- アニメーションはどのようにしてライトニング・スケッチに勝利したか―「愉快な百面相」再考
- ロトスコープにおける不気味なもの―「悪の華」と日本のポストモダニティの美学
- アニメーション記号論:仮想性とドゥルーズ派の「生命を吹き込む魔法」
- 少女の形成:アニメーション化された女性身体の体形分析
- ロッコーの魔法資本主義:『ロッコーのモダンライフ』の魔術的現実主義における物神崇拝
- レッティング・ゴー:再現と提示とディズニーのアニメーション芸術
- 点運動映像が与える感情効果
- 四年制美術・デザイン系大学におけるアニメーションの専門教育課程設置に関する試案
- ヤン・シュヴァンクマイエル『J.S.バッハ:G線上の幻想』分析――アニメーションと実写の相補関係
- 回転運動の見え方
- 視覚像としてのアニメーション
- 乾孝が制作した1930年代の人形アニメーションの発見と評価
- 『風の谷のナウシカ』における宮崎駿と 久石譲の出会い――映画音楽の生成
- "オバケ"のめぐる知覚心理学的研究法の提案
- 押井守のアニメーション映画における人間と人形の描写――『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)、『イノセンス』(2004)を中心に
- 運動速度感に対する"オバケ"の形態的属性の影響
- アニメーション制作に関する日米比較:組織能力のCG技術導入への影響
- 『シンプソンズ』とアメリカ一一架空の街スプリングフィールドの家族を通して見るアメリカ社会
- アニメーションの概念とその特性
- 製造業としてのアニメーション産業の展望
- 大学におけるアニメーション教育の胎動
- 学術的アニメーション研究の基盤形成に向けての一試論
- よこにらみのアニメーション――映画研究との接点――
- 「ザ・シンプソンズ」考――現代アメリカ社会への問いかけ――
- 映画「ドラえもん」シリーズに見る子どものイメージ――オリジナル版とリメイク版の比較から――
- 実写映像理解のモデルはアニメーション理解に応用できるか
- リトルマザーとビックマザー ーアニメーション映画の中でのジェンダー表象
ウォルト・ディズニー
- アブ・アイワークスの(マルチ)プレーン・シネマ
- アニメーションの変容する空間――1940年代ディズニーのハイブリッド映画
- ディズニーのアリス・コメディ——イリュージョンの生命と生命のイリュージョン
- アニメの国のアリス:初期のディズニーアニメーションにおける小児期、ジェンダー、空想の世界
- 「白雪姫」、「シンデレラ」と「眠れる森の美女」―ディズニー初期の手作業による長編アニメーション映画における衣装デザインの諸要素
- 未来の国における不在の家父長と説得力ある執行者:ウォルト・ディズニーの『ピノキオ』『ダンボ』『バンビ』からアメリカの戦時期の父親たちを当時の状況に即して読解する
- リトルマザーとビックマザー ーアニメーション映画の中でのジェンダー表象
ディズニー
- ディズニー製アニメーション・プロパガンダの消滅――グローバル化という観点から
- 星柄のジブリ――宮崎駿映画のアメリカ版におけるスターの声
- キーフレーム・アニメーションの美学――労働、初期の発展、そしてピーター・フォルデス
- 戦時のウォルト・ディズニー :アニメーション、変容、教化:ディズニーの架空動物兵士の画像
- 「アンチ・ディズニー」制作のビジョン・アニメーション、ブランディング、エトス:ディズニー映画批評をとおしての宮崎駿監督作品と登場人物
- 映画からテレビにいたるまでのジェンダーとカートゥーン―初期カートゥーンに対するフェミニズム批評
- ウォルト・ディズニー・トレジャーズ、またはミッキーマウスのDVD? アニメーション愛好、ノスタルジア、そしてホームビデオにおける劇場向け短編カートゥーンの競合する表象
- アメリカのアニメーションサウンドデザインにおける一般的美学
- 少女の形成:アニメーション化された女性身体の体形分析
- レッティング・ゴー:再現と提示とディズニーのアニメーション芸術
- ディズニー最後のオムニバス映画:『イカボードとトード氏』(1949年)の制作とマーケティング
デジタルアニメーション
- 「偽物でもかまわない」――サイバーシネマトグラフィと『シモーヌ』におけるヴァーチャル俳優の幽霊
- 全体論的な有生性(アニマシー)に向けて――東アジアの思想を反映するデジタルアニメーション現象
- (デジタル的に)先住民になるということ
- どうしてもサイズがぴったりしない:CG映画におけるデジタルスケーリング
- 多局的な自己:パフォーマンスキャプチャー、遠隔手術、永続的な物質性
- 手を入れて何かに触る:仮想空間における戦略的な感触の再現
- プロテウスとデジタル:海洋アニメーションでの海水の実質性のスカラー変換
- 挿入および結合:実写ドキュメンタリーにおけるアニメーション部分の重要な潜在能力
- 推論アニメーション: 都市部の過去および未来のデジタル予測
- デジタルの不合理性 :ジョーダン・ウルフソンの「邪悪なユダヤ人」
ドキュメンタリー
- ドライデン・グッドウィンとの対話
- 「絵ごとに、動きごとに」――メルボルン=クーパーとシリャーエフ、そして象徴的身体
- 不在、過剰、認識論的拡張——ドキュメンタリー・アニメーション研究への枠組みに向けて
- ドキュメンタリー・アニメーションにおける経験——不安な境界、推論的メディア
- カリグラフィーのアニメーション――不可視なものをドキュメントする
- 写真の痕跡をアニメートし、ファントムとファンタスムを交差させる――コンテンポラリー・メディア・アート、デジタル・ムーヴィング・ピクチャー、そしてドキュメンタリーの「拡張した領域」
- ボブ・サビストンとポール・ワードとの対話
- (デジタル的に)先住民になるということ
- スケールを変えた旅のドキュメンタリー:身体と生命の限界のアニメーション化
- 挿入および結合:実写ドキュメンタリーにおけるアニメーション部分の重要な潜在能力
リアリズム
- アブ・アイワークスの(マルチ)プレーン・シネマ
- 不可能なまでにリアル――想像的なものをグリーンベルト化するということ
- アニメーションの変容する空間――1940年代ディズニーのハイブリッド映画
- アニメーション化された表現——3Dコンピュータ・グラフィックによる物語アニメーションの表現的スタイル
- ディズニーのアリス・コメディ——イリュージョンの生命と生命のイリュージョン
- 不在、過剰、認識論的拡張——ドキュメンタリー・アニメーション研究への枠組みに向けて
- 不気味な指標――ドキュメンタリーとしてのロトショップ・インタビュー
- ボブ・サビストンとポール・ワードとの対話
- フランク・グライムズの敵:シンプソンズの不安定労働とリアリズム
- 挿入および結合:実写ドキュメンタリーにおけるアニメーション部分の重要な潜在能力
宮崎駿
- 豚が空を飛ぶ時――アニメ、作家主義、そして宮崎の『紅の豚』
- ショット長における宮崎、押井、細田のスタイル――定量分析
- 宮崎駿の神話の詩的表現:千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、ポニョの物語風の教訓を体験する
- 「アンチ・ディズニー」制作のビジョン・アニメーション、ブランディング、エトス:ディズニー映画批評をとおしての宮崎駿監督作品と登場人物
- 『風の谷のナウシカ』における宮崎駿と 久石譲の出会い――映画音楽の生成
- 押井守のアニメーション映画における人間と人形の描写――『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)、『イノセンス』(2004)を中心に
- 宮崎駿作品のアメリカにおける浸透過程
- リトルマザーとビックマザー ーアニメーション映画の中でのジェンダー表象
運動
- 「シネマ的」から「アニメ的」へ――アニメにおける運動の諸問題
- コミック・ブックの世界における可視的なるものの発狂
- 地上最速の男――現代スーパーヒーロー・コミックスの停止状態と速度
- 運動内の運動――アニメーションとコミック・ブックにおいて線を追いかけるということ
- 運動を見るということ――モーションキャプチャ・アニメーションとジェームズ・キャメロンの「アバター」に関する考察
- 認知アニメーション理論:プロセスをもとにしたアニメーションの読解と人間の認識
- アニメーションにおける音と動きの表現――『鉄腕アトム』を中心に
- 「動く」幻灯、「動かす」幻灯――「運動」の場としての幻灯会――
- アニメーションと映像をめぐる問い―アニメ、アニメーション、アニメイティング―