運動を見るということ――モーションキャプチャ・アニメーションとジェームズ・キャメロンの「アバター」に関する考察
本稿は、モーションキャプチャ(mocap)アニメーションが運動を映画に対して独特な方法で関連づけると提案する。それは、モーションキャプチャ・アニメーションにおける運動が前映画的(profilmic)性質の一部というより、むしろその運動自体がをそもそも前映画的なものという側面からである。;文章を二つに分けました。pro-filmicという単語が非常に訳しにくいものですが、山形ドキュメンタリー映画祭のある文章で「前映画的」となっており、これを採択できればと思います。モーションキャプチャは、対象そのもののデータというよりも、空間における前映画的な対象の位置の変化のデータから構成されるイメージを記録する。運動と対象との間のそのような臨界的区別を利用しながら、筆者はモーションキャプチャの経験がイメージの本性を変容させ、そうすることでモーションキャプチャは、見る感覚というよりも存在するという特殊な感覚を含むということ、さらにいえば存在するという特殊な感覚そのものでありうるということを主張する。ジェームズ・キャメロンの『アバター』(2009)がモーションキャプチャ・テクノロジーを応用するのみならず、見る行為を主題として取扱うことに因んで、筆者は、モーションキャプチャと「見る/存在する」こととに関する命題を説明するものとして同映画を用いる。この過程において、筆者は、映画を観る際、光を見るという我々の経験を再検討し、モーションキャプチャおよび運動の経験は映画に対する我々の関与をどのように変容させるかを考察する。本議論は、ムーヴィング・イメージに対する我々の理解と相互作用とに関するだけではなく、我々は運動と存在、そして光と暗闇の中に収められている映画の世界における感覚的経験の総体をどのように理解できるかという問いへ向かう。