『ルパン三世』初期エピソードにおける「新しさ」についての考察
テレビアニメーションにおけるシナリオは、大和屋竺の場合、どのようにイメージに変化していくのだろうか?
この研究は、『ルパン三世』の第二話「魔術師と呼ばれた男」のケースにおける、テレビアニメーションの脚本のイメージへの変化の考察である。
このエピソードの脚本家は大和屋竺である。大和屋は『殺しの烙印』(1967)や『処女ゲバゲバ』(1969)の脚本家として知られる。その作品では、「オブジェ」のこだわりに固執し、登場人物のアクションの理由を説明しない。それゆえ、彼の作品はとても奇妙である。そんな彼は、テレビアニメーションの脚本を書くのは難しいのではないか。テレビアニメーションは普通を必要としているがゆえに。
結果として、彼の脚本は部分的に変更され、テレビ向きにされる。脚本に書かれた「オブジェ」のほとんどは消される。しかし、キャラクターのアクションの理由は説明されないままだ。なぜ?
ご存知の通り、テレビアニメーションには暗黙の理解が存在する。そのことは、説明の省略を可能にする。山本の特徴のひとつである奇妙さは許容される。彼がテレビアニメーションの脚本を描くのが好きなのは、彼がテレビアニメーションの可能性を見ていたからだ。