日本の初期アニメーション作家3人の業績に関する研究
日本アニメーションにおいては下川凹天(1892-1973、沖縄県出身)、幸内純一(1886-1970、岡山県出身)、北山清太郎(1888-1945、和歌山県出身)がその創始者とされており、3人は1917年ほぼ同じ時期に作品を公開した。下川と幸内は元々漫画家だったが、映画会社からの委託でアニメーションを作ることになった。下川は自らのマンガ「芋川椋三」をアニメーション化したが、それは第5作目で終わった。幸内は、時代劇アニメーション『塙凹内 名刀の巻』(1917)と政治宣伝映画を含む全15作くらいを制作した。一方、北山は元々画家であり雑誌の編集者だった。彼は、映画館で観たフランスとアメリカのアニメーションに対する興味を発展させ、自らの作品を独自に映画会社に販売した。下川、幸内らとは違って、彼の作品は『猿蟹合戦』(1917)、『桃太郎』(1918)のような日本の昔話、『財金の勤(すすめ)』(1917)のような政府の保険・郵政に関する広報映画、『口腔衛生』(1922)のように口腔衛生の普及のための科学映画、『円』(1937)のような科学・数学の教育映画など、幅広い範囲をカバーしていた。彼がアニメーションは総じて30編以上を制作した。さらに北山には、山本善次郎(早苗)、金井喜一郎ほか、多くの弟子がいた。彼は日本初のアニメーション専門の制作スタジオ「北山映画製作所」を設立した。以上のような点から、北山清太郎の業績は、日本アニメーション映画における3人の創始者の中で最も大きいといえるだろう。ただし3人におけるアニメーション手法は洗練されておらず、主に切り紙やペーパー・アニメーションで、セルが使われることはほとんどなかった。