純愛、自己内省、バウンダリー・フリー――押井守の『イノセンス』にみるガイノイド表象――
欧米のSF映画には、女性の外観を持つロボットや人工身体、つまり「ガイノイド」がしばしば登場する。それらは、理想的な女性性と同格化される受動性とセクシュアリティのステレオタイプ表象である。ガイノイドは男性の恐怖の投射でもあり、従ってそれと同時に「アブジェクシオン」として排除される。対照的に、押井守の『イノセンス』における少女型ガイノイドは複雑な隠喩として機能することで、コンベンショナルな女性像だけでなく、無垢や被傷性をも意味する。そうすることで、ガイノイドはバウンダリー・フリーな存在になりえただろう。それらは、鏡として機能することで、男性の主人公の内部に存在する「他者」つまりネガティブなイメージを投射する代わりに、その男性に対し自己内省を促す。さらに押井の映画におけるガイノイドはメッセンジャーの役割を演じることで、真実を主人公に伝える。本稿で筆者が行うのは、欧米映画におけるガイノイド表象との比較分析を通して、『イノセンス』における少女型のガイノイド表象を批判的に考察することである。