フォーディズム以後のスラップスティック——『ウォーリー』、自動性、ピクサーの愉快の工場
スラップスティック・コメディは、その歴史や制作や粗筋や身振りにおいて、テイラーリズムの理論とフォーディズムの実践の二つに集約される近代的労働の登場と深い関係を結んでいる。チャップリンやキートンのような実写の俳優から、フェリックスやミッキーといったアニメの動物まで、喜劇の主人公は労働に反抗して労働してきた。合理化へと邁進する産業界を舞台に、過剰な従順と逸脱を面白おかしく繰り返すことで、労働に反抗して働いてきた。デジタル・アニメーション・スタジオのピクサーは、2008年の長編映画『ウォーリー』でスラップスティックに挑戦し、そこにフォーディズムの反響を高らかに響かせた。ただし、ちょっとしたひねりを加えている。完璧なフォーディズムの権化をタイトルロールに用意しながら、それに人間味を加えてみせた。フォーディズムを体現するのは、人間がいなくなり廃墟と化した地球で労働を繰り返すロボットである。ウォーリーは、明らかにチャップリンやキートンやロイドをもとに造形されているが、この作品中における人間たちとは著しい対照を見せている。人間は、自動化のおかげで労働から完全に解放されているのだ。『ウォーリー』は風刺でもって、「労働の終焉」というポスト・フォーディズムの課題と楽しませるばかりのデジタル文化への広汎な批判とをともに考察している作品である。本稿が焦点を当てるのは、この作品が、自動化された労働の未来と労働する身体の変容という、ポスト・フォーディズムに関する近年の議論の文脈の中で、スラップスティックの伝統を甦らせようとしている点である。スラップスティックと近代的労働との関係が、映画制作とそれらの形式を通して愉快に扱われるばかりではなく、ピクサーの企業評価は高い指標を叩きだしている。スラップスティックの主人公とその動きに命を吹き込むデジタル労働との間には複雑な関係があることは、『ピクサー流 創造するちから』が示唆する通りである。また同様に、デジタルによって映像を作り出すという面と商品を産出するという二面において、ピクサーが誇る技術も論じられる。これら二つの側面は、スラップスティックの二律背反を喚起するノスタルジックなアニメーションと、ピクサーが筆頭であるポスト・フォーディズム的生産を否定することをそれぞれ示唆している。