アニメーションの政治と政治のアニメーション
本稿は、政治をめぐる探求がいかにしてアニメーション研究を導くかを示すものである。映画研究とメディア研究において、アニメーションが低い地位に貶められていることを論じ、次いでアニメーションの定義とその概念的関連には広がりがあることを検討していく。こういった広がりには哲学的含意が孕まれているが、本稿ではジェフ・マルパスとブルーノ・ラトゥールの著作を通してこの哲学的含意について探求する。本稿は、この二人の哲学者がアニメーションや動きを与えられた(animated)もの——とりわけ人形——についていかなる議論を立てているかを詳しく辿るが、そうした手続きを経て、統御や幻想を表現するものとしてではなく、変容を、異質なものからなる行動を、分散した作用を表現するものとしてアニメーションを考えるような転換を示すことになる。こうした考え方の転換によって、哲学が修辞学や詩学や科学技術と対立するという考え方に疑問を呈し、また同様に、自然と文化、科学と政治、現実と人工物、事実と呪物といった近代特有の二項対立にも異議を唱える。そして、世界とは動きの与えられた(animated)ものであることを提示する。筆者は、このような考え方がアニメーションや映画と呼ばれる動画を生み出す様々なテクノロジーを必ずしも不明瞭にせしめるわけではないと主張する。そうではなく、カートゥーン・アニメを筆頭にするいくつかのテクノロジーこそが、近代的二項対立がアニメーションをめぐって引き起こした混乱に直接的に関わっているのである。ここでは、複数の方法や視点を通してアニメーションを研究することが提案される。というのも、実在論的で有力な調査方法が不確実性と多元論を抑制するのを妨げるためには、複数の視点が必要だからである。政治的表現にあたってアニメーションの能力の中心にあるのは、不確実性と多元論なのである。