童話の人間には物語は不可能である——『人狼 JIN-ROH』について
本稿は、日本の長編アニメーション『人狼 JIN-ROH』における形式とアイデンティティが相互に関連した問題を論じるものである。この作品は童話「赤ずきん」を換骨奪胎したもので、第二次世界大戦後にナチ・ドイツに占領された、もう一つの日本を舞台にしている。主人公は特殊警察の部隊に加入した若き新人で、名前を伏一貴という。彼は爆弾を持った少女を殺すことができなかったために、上官より再訓練を命じられるが、彼の失敗は警察内部での勢力争いを浮き彫りにしてしまう。警察本部では特殊部隊の解体が画策されていたのである。物語は、トラウマに苦しむ若き巡査が我が身と自分の特殊部隊を守るために暴力を行使することができるようになるかどうかをめぐって展開していく。伏一貴は強欲な狼なのか。冷酷な暴力を行使できるのか。それともトラウマを抱えた哀れな被害者なのか。こういった問題は、映画というメディウムに対するこの作品の地位の問題に収斂する。なぜなら『人狼』は政治スリラーであり、1つのシーンを除いて、実写映画と同じように撮られているからである。本稿は、アニメーション研究者トマス・ラマールによるアニメーション的イメージと映画的イメージの区別を取り上げ、この作品が映画であるかいなかという問いは、物語がいかに主人公の内面の問題を解決するかという点に関してのみ扱われうることを解き明かそうとする。実写にしがたいのは一つのシーンに限られ、そのシーンは主人公の不可解な行動を理解するための手掛かりを提供している。伏一貴は武装した男たちから自分を守り、特殊部隊の消滅を図る陰謀に打ち勝てることを証明してみせるが、一方でトラウマを抱えた個人でありつづける。彼の能力の開花は、自身の心理的不安が増していくのと軌を一にしているのである。