立体映像的な国民の創生――ハリウッドとデジタル帝国、そしてサイバー・アトラクション
本稿は、『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009)は立体映像技術、映画、アニメーションの発展における重要な契機であると主張する。『アバター』は、美学的/形式的レベルにおいても、ナラティブの見地からも、ヴィクトリア期の立体視覚技術、アメリカの映画制作、それらに伴って巻き起こった民俗誌学および環境破壊に関する人種主義的な言説へと語りかけ直す。D.W.グリフィスの映画『國民の創生』と並んで、「先住民」に関する19世紀の立体写真と、その先住民たちの資源豊かな環境をエコーとして響かせているが、『アバター』は過去の残虐行為を克服しつつ、そのような行為を我々の時代に関連づけることも試みる。そのような克服は、より微妙な存在論的レベル上でも発生する。一種の「サイバー帝国」の内部に起源するヴィクトリア期的な立体写真イメージの工程は、サイバーシステム時代における文化の産物としての『アバター』の、現代における位置を明らかにする。立体視覚の形式は視覚のプロセスにおいて身体の役割を強調することにより近代の視覚的体制を破裂させるがゆえに、評判では平面写真におけるイメージの工程が人気の面でそれに取って代ったという主張がなされてきた。『アバター』のCG合成形式が巧みに回避するのは、そのような方程式である。つまり写真は、鑑賞者が指標的な形式を眺める過程の中で自分の身体を意識することを最小化させようと追求したのかもしれないが、そのような考え方は捏造されたCG合成物の時代においては有効性に疑問が残る。立体写真の諸起源が写真に先行したとするならば、そして立体写真の基礎になるイメージが手描きだったとするならば、立体写真史においては技術的な脚注でしかなかったものが、いま、『アバター』と新しい「近代のサイバー体制」の理解において、核心的なファクターになる。