知覚の技術――宮崎駿、その理論と実践
近年の西洋において日本のアニメーションに対する熱狂があることは、文化生産におけるデジタルの経験が、自己を主題化することについて新たな理解の道筋を開くことと関連づけて考えることができる。インタラクティブでヴァーチャルな環境においてイメージへと関わっていくこと、その視覚化は、個というものが、人間および非人間両者のユニークな関係パターンを通じて現れてくるものであるという考えを放棄させる。この現実は、東洋の哲学的概念における相互関係性や前反省的思考、マーシャル・マクルーハンが言うところの「包括的意識」によって説明しうる。日本のアニメーション作家宮崎駿は、禅‐神道の宗教的想像によって、自己を放棄する能力を個に対して与える。ポストモダン時代の道徳的混乱に対するオルタナティブな政治学としての宮崎の実践は、ヴァルター・ベンヤミンが映画に対して賭けていたものが機能しているということの例証である。